GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第二十九話:一時的接触を極端に避けますか?
 
 
 
 
 
 ヒキコモリ達の淫らで爛れた生活は、二日目まではシンジの方が積極的であった。
 と言うよりも、ナタルにまだ理性が残っていたと言った方が正しい。
「シ、シンジだって学校があるんだからほら…」
「だめ」
 ベッドから出ようとするナタルを捕まえ、毛布の中へと引っ張り込む。妖しい手つきで乳房を揉まれ、ふっと力が抜けてしまうが、本気になればシンジなど簡単にふりほどける。
「な、何がだめだ…あぁっ、い、いい加減に…んっ」
 後ろから尻肉を両手で割り開かれ、むき出しになった秘所を膝でこすられ、身体をぶるっと震わせたナタルに、
「ナタルのここ、濡れてなかったら離してあげる…あれ〜?」
 自分の膝を指でこすったシンジが、その指先をしげしげと眺めて首を傾げる。
「ーっ!!」
 背中を向けているナタルが、首筋まで真っ赤に染めている事は百も承知の上で、
「ふうん…なるほど…そっかー」
 ふんふんと頷いたシンジを、
「じゃあナタル、もう起きよ…ハウ!」
「うるさい、シンジなんか…こうしてやる!」
 赤い顔のナタルが組み敷いて押さえつける。
「こっ、股間をあんな事されたらっ、か、感じるに決まってるだろう!」
 シンジを押さえつけたまま、むぢゅーっとその唇を奪う。嫌だと言いながら、いつの間にかナタルの方からシンジの身体を開いていく形だったが、三日目になると立場が入れ替わった。
 朝、シンジよりも必ずほんの少し早く目覚め、揺り起こす代わりにその股間に顔を埋め、ペニスを口に含み、亀頭を妖しく刺激して起こすのだ。
 本人の意識とは別に勝手に勃起するそれを、シンジの目が覚める寸前まで舐めしゃぶり、目が覚める寸前騎乗位で膣内に挿れる。いくらシンジでも、起きた瞬間に湧き上がる射精感を制御できるはずもなく、文字通り起き抜けの膣出しを強いられる事になる。
 望んだ快感ではないから、寝ぼけ眼でナタルを睨むのだが、
「おはよう」
 膣内射精の快楽に目許を染め、うっすらと微笑うナタルの顔を見ると、何も言えなくなってしまうのだ。
 元より、ケットシーに贈られたものがあるから、二人とも避妊の事など全く気にしていない。
 生活を本能によって構成している二人だが、列記すると次のようになる。
 大体八時頃に起床。
 いちゃいちゃべたべた、及び食事。
 食後は風呂に入る。
 無論混浴である。風呂で色々と体液を流してから、身体を軽く拭いてベッドへ寝転がる。
 何となくその気になって、また抱き合う。
 昼食後、消化運動と称してベッドの中でごろごろ。
 食事は三度取るが、他はトイレ以外殆ど一緒で――風呂でもそれ以外でもほぼ裸である――文字通り爛れきった生活であった。
 シンジとナタルの抱き合った回数は、二日目までに十五度、その後の五日間は実に一日十回を超えていた。
 妖精の秘薬とシンジの若さを合算し、そこに初めて性の快楽を覚えたナタルのどん欲さを掛け合わせるとこうなる。
 一週間ぶっ通しで、しかもお互いの身体だけをひたすら貪り合っただけにも関わらず、二人を見る限りおよそ飽きという文字は見あたらない。
 これだけヒキコモリが続くと、アスランもキラも心配して見に来ても良さそうなものだが、ここに来る前から行方不明は長かったし、何よりもメールだけは帰ってくるので、
「で、シンジ君は生きているのかね?」
 とコウゾウに訊かれた時も、
「元気みたいです」
「結構だ」
 至極あっさりと片付けられていた。
 コウゾウもキラも、シンジのことをよく分かっている証である。
 なお学校の方へは、コウゾウが直々に通達してあり、公欠扱いとなっている。元々、勉強に関しては人間界におらずとも何ら問題はないし、妖精騎士がその気になれば、大卒程度の知識を植え込むのは容易いことで、勉学の面で不利はない。
 極端に言えば、出席日数を満たすためだけに、顔を出しているようなものである。
 ナタルの方はそう単純な話でもないのだが、コウゾウから許可が出ているから職場放棄でもないし、何よりも最初に身体の関係から入った上に、妖猫から贈られた薬の影響もあって、すっかり開発されてしまった。一年前、と言うより一ヶ月前の自分なら決してあり得ない――朝から男の股間に顔を埋める――淫らな姿でも、進んでやってのけるのはケットシーの影響もあるが、ナタルに元来その素質がなければ、いくら媚薬成分を含んだ薬を飲んだとて、出来ることではない。
 平たく言えば、ナタルの本性の一部と言う事になる。
 そんな二人は、今日も今日とてまた淫らで爛れた一日を過ごし、夜の部の入浴中であった。
 無論、混浴である。
 ナタルは脚を伸ばして入っており、その上にシンジを乗せている。
「シンジ」
「なに?」
「…あ、いや…ううん、なんでもない」
「そ」
 ちょうど今日は満月で、性能の良い天体望遠鏡で見れば、因幡の白ウサギが鏡餅を作っているのが見えるが、ここに天体望遠鏡はなく、二人して白い月を見上げている。
 二人の間に会話はないが、妙に心地の良い沈黙であった。
 そのまま数分が経った時、不意にシンジがナタルを呼んだ。
「あ、そう言えばナタル」
「ん?」
「なんでもない」
 勿論さっきの仕返しだ。
「こらっ」
 手を伸ばしてシンジをくすぐろうとした瞬間、
「甘い」
「ひゃ!?」
 一瞬早く伸びた指が、ナタルの乳首をきゅっと摘んだのだ。
「シ、シンジ、よくもやったなっ!」
「ナタルだって僕をくすぐろうとしたくせに」
 二人で入るには十分な広さだが、無論リングになっているわけはなく、シンジを捕まえてくすぐろうとするナタルと、ナタルの乳房から脇腹を揉んだりつついたりして攻撃しようとするシンジが、浴槽内でじたばたと揉み合った。
 五分後――。
 息を弾ませて肩を上下させているナタルは、何故かシンジに抱きかかえられている。さっきと場所が入れ替わったのだ。
「腋とかおなかとか弱いし、おっぱいの下なんか一番の弱点なんだから、僕に勝とうとすること自体が間違ってる」
「う、うるさいっ」
 ぷいっとそっぽを向いたナタルだが、下乳を揉まれながら脇腹を攻められてあっさりと勝負はついてしまったのだ。
 ただし、赤くなった顔を背けている割に、別段拘束してもいないシンジの上から降りようとする気配はない。
「すぐムキになるんだから」
 そう言って、シンジの指がナタルの髪を軽くかき回す。どっちが年上だか分からないが、こんな風にされるのは初めてではないし、ナタルももう慣れた。
 或いは、ベッドの中でされる事が多かったせいもあるのかもしれない。
 しばらくナタルの髪を弄っていたシンジだが、やがてその手が止まった。二人の視線が外に向き、真っ白な光を放つ月を見上げる。
「シンジ」
「ん?」
「多分…一度もないと思っていた…」
「……」
 何が?とは訊かず、シンジは黙って空を見上げていた。
「誰かと一緒に入るなど、おそらく一生無縁と思っていたのに…一人でないのが何故か心地よくなる」
(ふうん…って、一生独身のつもりだったのかな?)
 無粋なツッコミは差し控え、
「人数が多ければいいってものでもないけどね」
 ぴくっ。
「……」
(あれ?)
 身体が密着しているからよく分かるが、明らかにナタルの肩が硬直したのだ。それも、間違いなくシンジの言葉に反応している。
 内心で首を傾げたシンジに、
「シンジは…ず、随分と混浴の経験があるのだな」
「ハン?」
「どうせ私はシンジと会うまで男どころか、混浴まで知らなかった堅物の…ハウ!?」
 ナタルの脇腹と腋へシンジの手がにゅうと伸び、こちょこちょとくすぐり始める。
「ふっ、ふひゃっ!?ちょ、ちょっと待っ、シ、シンジ止めてぇっ!」
 反撃どころではなく、何とか抜け出そうとするナタルだが、既にその弱いところをシンジに知り尽くされており、しかも全裸のため防ぐことも出来ない。漸くシンジが手を離したとき、その顔は真っ赤になっていた。
「い、いきなりひどい…いたっ!?」
 ぽかっ。
「ナタルが間抜けなことを言うからだ」
「わ、私が間抜け?」
「何が混浴の経験豊富だ。何なら、カボチャや猫や蛇女と一緒に温泉に入ってみる?」
「そ、それは嫌…じゃあ、その…女とか…じゃなくて?」
「僕はナタルが二人目だよ」
「ふ、ふうん…」
 自分以外に女を知っている、と言い切られるのもちょっと微妙だが、ストレートに言われた方がナタルとしてはいい。どのみち、シンジが女を知っていることは分かっていたのだから。
 ただし、蛇女というのが全身蛇で、顔だけ人間の女なのかは分からないが。
「で、何で顔が緩んでるの?」
「きっ、気のせいっ」
「そう?」
 シンジは深追いせず、
「一人より二人がっていうのは」
「え?」
「ナタルが普通の人と言う事。一人でも生きていけるのは五億人に一人、とは誰が言ったかな」
「……」
 ぴく、とナタルが反応した事にシンジは気付いていない。
「…それで、シンジはどちら側の人間?」
「僕?勿論一人でも生きていけ――んむー!?」
 
 吸われた。
 
 むぎゅっとシンジを抱きしめ、唇を合わせて思い切り吸い上げてくる。キスと言うより吸引作業である。
「むーむー!んんっ、んう…んー!」
 じたばたともがくが、何せ不意打ちの上に両手でがっしりと捕獲されており、逃げる場所もない。
 シンジの顔色が、赤と紫の丁度いい頃合いになった頃、ようやくナタルはシンジを離した。それでも、慌てて空気を求めるような事はせずに胸をおさえ、丹田に神経を集中させてゆっくりと深呼吸する。
 失敗。
「ガハゲヘゴホっ…何すんのさ」
 激しく咳き込んだシンジに、
「お仕置き」
 甘い口調で囁いたナタルだが、その目は笑っていない。
「何で僕がお仕置きを…ひててて」
 今度は頬が左右にむにっと引っ張られた。
「まだ言うか、シンジ?」
 ナタルの指を引き離そうとした手が止まった。
「……」
 頬を引っ張っている指をそっと離し、ナタルの頬を軽くつついた。
「ごめん」
「!」
 思わぬ反応に、今度はナタルの頬が赤くなった。明らかに狼狽えている。
「わっ、分かれば…わ、わかればいいんだ。うん…な、何を笑っている!」
 くすくすと笑ったシンジが、その顔を崩さぬまま、
「内緒」
「むー」
 ナタルが何に反応したのか、シンジは気付いたのだ。本来ならここは、さらっと流すのが賢明なのだが、それを出来ないのがナタルである。
「ところでナタル」
「ん?」
 数度に及ぶ局地戦の結果、シンジとナタルは横に並んで座っている。
「そろそろ、下界に出てみよっか?」
「もう…飽きた?」
 言ってからナタルは驚いた。
 自分の口からこんな台詞が――と言うよりも、自分が切り出すべき事ではなかったか。シンジとの、本能だけに支配された生活にすっかり染まっていたのだ。
「いや、なんでもな…もぐ?」
 シンジが二本指でナタルの唇を軽く挟み、
「分かってる。ていうか、僕は正直出なくてもいいんだけどね。勉強なら何時でも追いつけるし、追い越すのも可能だし。でも、ナタルはそろそろ危険域な気がする」
「危険域?」
「使徒の襲来時が読めないから。中途半端な金髪してるホームラン級のお馬鹿さんが、まともな装備を揃えられたとは思えない。ていうか無理。開発面で直接携わっていないにしても、エヴァの運用・維持に全く無関係じゃないでしょ?」
「シンジ…」
「正直に言えば、ナタルの指揮には結構不安がある。でも、ナタルがバックアップにいてくれた方が僕としてもやりやす…うぷ!」
 この一週間、散々シンジに揉まれ、甘噛みされた成果なのか、ナタルの乳房は少し大きくなった。ついでに丸みも出てきており、まるで性徴を迎えた小娘だ。
 そのサイズアップした乳房にシンジを挟み込み、
「もう…はっきりと言ってくれちゃって」
 耳元へ吐息と共に囁いた。
「違うの?」
「別にそんな事は言ってないさ」
 シンジを解放したナタルが、全身から湯を滴らせて立ち上がった。
「先に出るよ?」
 とことこと出口へ向かったその足が止まり、
「で、どの辺が不安?」
「ナタルの――」
「私の?」
 すうっと軍人の顔へ戻ったナタルに、
「ナタルのおっぱいが、僕の手から余るようになったら教えてあげる」
 顔面にスポンジが直撃したシンジを残し、風呂場の戸は閉められた。
 その晩二人は久しぶりに――実に一週間ぶりにパジャマを着て眠りについた。
 精も消費せずキスもしない、極めて大人しい就寝であったが――やっぱり身体は寄せ合っていた。
 翌朝、先に目覚めたのはシンジであった。
 正確に言えば起こされたのだ。
 ゆっくりと起きあがったシンジが、ナタルの寝顔を見て、
「久しぶり」
 と呟いた。
 奇妙な台詞だが、何か久しぶりなのか知ったら、マリューは顔を真っ赤にして怒るに違いない。
 やや遅れてナタルが目覚めた時、もうシンジの姿はなかった。
「先に行きます。食事は作っておきました」
 と書かれたメモとサンドイッチを、ナタルはじっと見ていた。無論、毒入りを疑ったわけではなく、避けられたのかと思ったのだが、仲魔達からの要請だった事をナタルは知るよしもない。
 
 
 
「そうか、今日から出てくるのか」
「うん。でも迎えはいいから来るなって。歩いてくるって言ってた」
 シンジとナタルが引き籠もっている間、キラは毎日メールを送ってきた。シンジもそれには返していたから、キラは唯一シンジの動向が分かっていた。今日は学校へ行くと言ってきたから自分が迎えに――気が変わらないうちに――行くと言ったのだが、あっさりと断ってきたのだ。
「まあ、シンジ君の事だから気が変わりはしないだろ。それに、身の安全なら間違いし大丈夫だよキラ」
「うん…だといいんだけど」
 ハンドルを握りながら、シンジの事が気になって仕方がない様子のキラを、アスランは少々複雑な面持ちで眺めていた。
 無論、二人が従兄弟同士だからというのは分かっている。
 が、キラは余人に対してこんな反応をしない――ドイツにいる許嫁に対してさえも、だ。
 従兄弟以上のものはない、と分かっていても何となく引っ掛かる。
 なおそれが嫉妬というろくでもない感情である事を、アスランは必死に否定している。 
 
 
 
 その心配されている従兄弟はと言うと――。
「あのさ、これ…ちょっとやりすぎじゃない?」
 道の真ん中で、困ったような顔で首を傾げて立っており、その前には警官隊の屍が散乱している。
 とは言っても死んではいないのだが、氷漬けにされたりウェルダンに焼かれたりで、いわゆる三途の川の畔に立っている状態である。
 フロストに渡された煙管を吹かしながら――制服姿で――歩いていたら、当然のように警官に呼び止められた。
 勿論シンジに喫煙の悪癖はなく、先端から出ている煙状の物体はエクトプラズムだが、あいにく警官にそんな知識はなく、
「オヤビン、無視して」
 と、ランタンに言われて歩き続けたものだから、あっという間に自転車に乗った警官四名と、パトカー七台に取り囲まれてしまったのだ。中学生に馬鹿にされたと、警察のプライドがいたく傷ついたらしい。
 降りてきてシンジを取り囲んだ所を、いきなり最大出力の火柱と吹雪に襲われて、結果この有様だ。
 単なる憂さ晴らしだが、別にシンジの鬱憤が溜まっていたわけではない。徒歩での登校から煙管まで、全て仲魔達の指示である。シンジは妖精界の女王から片想いされており、当然その配下としてはシンジとナタルの甘く乱れた生活を、結界も無しに公開するわけにはいかず、本来なら無用な結界を張る羽目になったのだ。
 シンジのためなら構わないが、ナタルに対しては好意どころか低評価しか持っていない為、いやでもフラストレーションは蓄積していくというものだ。
「『シンジ卿、何か?』」
「う、ううん、何でもない」
 ふるふると首を振ったシンジは、さっさと退散することにした。
(あの、ごめんなさ…でも勝手に釣れたのはそっちだし、まあいいか)
 結構いい関係の主従らしい。
「少しは気が晴れた?」
「『まあまあ』」
「十分だ。じゃ、さっさと学校行くよ。機動隊にでも囲まれたら一大事だ」
「『合点だ』」
 
 
 
 ヒキコモリーズの片割れは、元よりコウゾウの配慮もあり、休んでも何ら問題になることなく、普通に登校したのだが、もう片方はそうもいかなかった。
「私が許可した」
 と、実質ナンバー1の地位にあるコウゾウの一言で、マリューもミサトも抗議の断念を余儀なくされたから、
「お、お早うございます…」
 さすがにちょっと後ろめたいナタルが出てきても、
「おはよう」「久しぶりね」
 微妙にトゲを含んだ台詞で出迎えはしたが、責めるような言葉を口にはしなかった。
 楽しい時は矢の如く、苦痛の時は大河の本流のようにゆっくりと流れていく。快楽の狭間で自らの職務の事も――使徒の事すら、忘却の彼方に追いやっていたナタルを、一瞬で現実へと引き戻したのは自室へ入った時であった。
 マリューやミサトは、無能ではないがなかなかエンジンがかからない性格で、当然それに伴って、いつもナタルの机上には書類が山積している。
 だがナタルが見たのは、山積どころかただの一枚も書類の乗っていない机であった。
「そんな…」
 足のある幽霊でも見たような顔で呟いたナタルの背後で、
「書類なら、全部こちらで処理してあるから心配要らないわ」
「ラミアス少佐…」
 ぎこちなく振り返ったナタルの前にいたのは、書類を抱えたマリューであった。
「無期限で有給中のあなたに、書類を押しつけるわけにいかないでしょう。使徒が白旗をあげてくれれば話は別だけれど」
 平静を装ってはいるが、マリューの胸中では激情の炎が燃えている。ただでさえシンジと同居で、あまつさえ二人して引き籠もり、二人きりの甘い生活を過ごしていたというのは、ネルフや使徒に関係なく本来は看過できぬところだが、
「何も言っちゃ駄目よ――あの二人を永遠に結びつけたくなければ、ね」
 とミサトに言われているから、これでも相当抑えているのだ。
「わ、私はその…」
 ナタルの答えを待たず、マリューはさっさと歩き去ってしまい、ナタルは一人呆然と取り残された。マリュー達が、ここまで完全にやってのけるとは思ってもいなかったのだ。
 と、そこへ、
「バジルール少尉」
 控えめに呼びかけられ、振り向くとシゲルが立っていた。
「何か」
「ちょっといいっすか?」
「……」
 普段なら、何だその言葉遣いは!と即座に指弾するところだが、今のナタルにそんな気力はない。ナタルは黙って、シゲルを部屋へ迎え入れた。
「実は、赤木博士が入院してるんですよ」
「何?」
 反射的に聞き返してから、ナタルは内心でごめんとシンジに謝った。夜にそっと抜け出して、リツコを氷柱に閉じこめるシンジの姿が一瞬で浮かんだのである。
「この間氷柱から解凍された時、シンジ君が完全にしなくていいとか言ってたんですが、あれがマジだったみたいで、体調を崩して入院してます」
 それを聞いてナタルが思ったのは、レイがさぞかし喜んでいるに違いない、と言う事だったが、そのレイもまたさして遠からず後を追う事になるとは想像もしていなかった。
 レイはゲンドウを貶められたとシンジを叩き、そしてシンジは告げたのだ――次はないよ、と。
 シンジのリツコに対する印象と評価が底辺なのは、ナタルも知っている。本人から聞いたからだ。
 但し、リツコがまったく役に立たない訳ではないし、エヴァの装備開発に関してもその頭脳は無用どころか必須とも言える。そのリツコが入院したと聞き、ナタルはシゲルの言わんとする事がほぼ読めた。
 リツコが入院してナタルもいない。ゲンドウもまだ完治してないだろうが、あちらは元々雑務にはあまり関係ない。つまり、実質マリューとミサトの双肩にほぼすべてがのし掛かってきていたであろう事は、容易に想像できるのだ。
「私からお二人にはお詫びしておこう。ありがとう、よく知らせてくれた」
「余計な事かと思ったんですがね、何せ葛城少佐もラミアス少佐も、毎晩ここを出るのは一時を回ってましたから」
「そうか…で、君はその後に?」
「いやあ」
 シゲルはにっと笑って、
「タイムカードを見たんすよ。じゃ、俺はこれで」
「うむ」
 シゲルが出て行ってから、しばらくナタルは立ちつくしていた。自分が愛欲に溺れた生活を送っている間、マリューもミサトも毎晩午前過ぎまで仕事をしていたという。普段はナタルが二人の肩代わりをしている、と言えばそれまでだが、二人の場合は別に男と引き籠もっているわけではない。
 ナタルが胸をおさえたのは、キリッとそこが痛んだからだ。自分がいない間にそんな事があったと聞くと、さすがにナタルも冷静では居られなかった。
 ただその一方で、今の自分を冷徹に眺める女の部分がある事も、ナタルは気付いていた。
 自ら進んであんな淫乱女になっていたくせに、一旦現実に帰るとそれを侮蔑するのか、と。ケットシーの渡した薬に、媚薬成分が混ざっていたとは言え、ナタルが本心から嫌がっている事をさせられる筈もない。
 正確に言えば――そう言う薬は別にあるのだが。
 とまれ、ふと自分の立ち位置を見失い、立ちつくしていたナタルは、ネルフがタイムカードなど導入していない事を思い出しもしなかった。
 何よりも、シゲルは遅くとも八時前には帰途についており――マリューとミサトの帰宅時間について、本人達が口にした事は一度も無かったのだ。
 
 
 
 ネルフで何かあったらしい、と言う事にシンジが気付いたのは、ナタルが帰宅した直後であった。
 結局、マヤから受け取った書類に目を通しただけで、後はすべき事が見あたらないという生まれて初めての経験をしたナタルは、この時間まで数時間をぼんやりと宙を見上げて過ごしたのだ。
 することがないのが初めてなら、ただ何かを思考する事もなく宙を見上げ、しかも数時間を浪費するなど文字通り生まれて初めての経験である。
 無論シンジはそんな事など知るよしもなく、
「ナタル、食事とお風呂どちらにする?」
 と訊いたのだ。
「風呂を…あ、一人で入るから」
「……」
 台詞として間違ってはいない。昨日までは一週間毎日混浴だったが、さすがに生理中ともなれば入浴はしないし、シャワーにしても一人の方が良かろう。
 ただ問題は、シンジの現況とその精神構造にあった。
 妖精界きっての武人であるクーフー・リンとタム・リンを友人に持ち、何よりも女王メイヴから想いを向けられている身のシンジだが、最初からこんなに恵まれていたわけではない。当初、妖精界へ拉致された時は、文字通り低級妖精達のおやつにされかけた事も、決して少なくはなかったのだ。
 その後、環境が改善されたおかげでぐれる迄には至らずに済んだが、元より感覚の鋭敏な妖精達の中で育った為、人の感情の波を見抜くという点で、シンジは常人よりかなり鋭い。その気になれば、心を読む事もある程度は出来たりもする。
 そしてそのシンジは、現在仕込みの最中であった。
 ナタルがキッチンを一目見れば、シンジが手の放せぬ状況である事は分かったろうし、縦しんば単身で入浴するにしても、シンジがその意志を示してから何らかの理由を付けて断れたろう。
 シンジは表情を変える事無く、
「分かった。もう沸いてるから」
 と、それだけ告げてまた野菜の裁断に取りかかった。
 この時点ではまた確定していなかったのだが、シンジがそれを確信したのは、二人の手が触れた時であった。たまたま二人が、ソースの入れ物へ同時に手を伸ばした為、手と手が触れ合ったのだが、その瞬間ナタルがさっと引っ込めたのだ。
 今日から同居を開始した二人ならいざ知らず、少なくとも一週間飽きもせずにお互いを貪り合った間柄の者が見せる反応ではない。
「僕の手、多分雑菌は付いていないよ?」
「ご、ごめん…わ、分かってる…」
 
(まさかとは思うが、オレ達のせいとか思ってないだろうな)
(そこまでシンジ卿も単純じゃないっしょ。大丈夫よ)
 
 胸にぶら下がる仲間達が、ヒソヒソと内緒話をしている事は知らなかったが、ナタルがネルフで何かを、それも相当きつく言われたのだろうとシンジは踏んだ。
 まさか、マリューもミサトもほとんど何も言わず、ただナタルが己の空虚に立ち尽くしたのだと言う事は、考えつかなかった。ある程度自らを研ぎ澄ませないと、他人の心中までは見切れないし、それはシンジが好む事ではない。
 ただネルフで何を言われたにせよ、決めるのはナタルである。そのナタルが、一時的接触をこうまで拒んでいるのに無理押しする気はない。
「ナタル、片づけは僕がしておくから」
「う、うん…ありがとう…」
 立ち上がり、どこかぎこちない動作で部屋に入るナタルを、シンジは黙って見送った。
「何か言いかけた感じがする。ランタン」
「なに、シンジ卿?」
「一 今晩は一人で寝る。二 今晩は独り寝がいい。三 もうシンジと一緒には寝たくない。さて、どれだと思う?」
「シンジ卿…」
 宙に浮いたフロストとランタンが言葉を失う。
 シンジは――微笑っていたのだ。
 ただ、その心がまだ空虚でない事に仲魔達は安堵していた。
 少なくとも――空っぽにはなっていない。
「振られちゃったかな」
 ふうっと、軽く息を吐き出し、シンジはカップの紅茶を一気に飲み干した。
「でもランタン」
「はい?」
「フユゲツさんは最初から有り得ないけど…」
「……」
「マリューさんやミサトさんが、僕とくっつくなとかナタルを捕まえて小一時間、延々言うと思う?」
「分かっている答えに同意を求めたい時は、もう少しアクセントを変えるものよオヤビン。結論だけ言えば、まず有り得ないわね。そんな性格じゃないし、もし思っていてもそれを直接言うのはプライドが許さないでしょ」
「じゃ、ネチネチと嫌がらせを?」
「…すると思う?」
「思わない」
 一週間ぶりに出勤したネルフで何かあったらしい、というのはほぼ確定したのだが、では何があったのか。
 ナタルにあれこれと、言える立場の人間自体が少ないし、ゲンドウだのリツコだのはそもそも関わろうとはしない筈だ。マリューやミサトは、そんな事を言わないだろうと仲魔との間で意見が一致した。
「もしかして…単に飽きちゃっただけ?」
 無論、フロストもランタンも、ナタルに何があったのかは分かっている。シンジも、彼らに訊けばすぐ答えが出ると知っているが、訊こうとはしない。
 訊かれもしない事を勝手に言う程、差し出がましい仲魔達ではないのだ。
 シンジの呟きが、空になったカップに吸い込まれていく。
 
 
 
 それから数日間、シンジはナタルに避けられる日々を送っていた。避ける、と言っても口を利かないとか、そんな事はなく会話は普通にする。
 ただ、一時的接触を極端に避けるのだ。手と手が触れ合う事すら避けようとする姿は、とても口腔性交で目覚めを促した女と同一人物とは思えない。
 この時、もしもナタルが約束を守っていたら――何を考えているのか隠さず、シンジに告げていたらもっと事態は変わっていただろう。ナタル自身は、シンジを避けたいと思っていたわけではないのだ。
 ネルフではもう通常業務に戻っていたし、マリューもミサトもナタルに小言を言う事は一度もなかった――マリューの方は、早朝シンジに二度ばかり捕獲されたのが大きかったが。
 ただ、一度でもシンジに触れてしまえば、あの時の快楽だけを追い求めていた自分に戻ってしまいそうな気がしていたのだ。かと言って、無論シンジを嫌いになったわけではなく、自分でもどうしたらいいのか分からないまま、時は流れていた。
 ナタルは以前シンジに約束した。
 思ったことは出来るだけ話すようにする、と。
 もしナタルが、自分の心境を全て打ち明けていればシンジはどうしたか。
 笑ったか?
 否。
 怒ったか?
 断じて否、である。
 育ちが育ちだから、同い年の少年と比べると精神年齢は十歳近く高い部分がある。そのシンジがナタルの懊悩を聞いた時、話してくれてありがとうとは言っても、笑ったりすることは決してなかったろう。
 とまれ、自ら約束しておきながら思いを口に出来ないナタルの心は、二人の間に小さいながらも確実に溝を作っていった。
 特に、ナタルの心が分からないシンジにとって、ナタルの態度は時が経つにつれて、シンジの心に小さなトゲをいくつも植え付ける事となり、それはある晩――不意に一線を越えてしまった。
 仲魔達は、シンジの心の状態をよく知っていたのだが、それでもシンジに何かを言ったりすることはなかった――深夜、シンジの枕元に立ってその寝顔を見つめていたナタルが、双眸を潤ませていたりする事を知っていても、だ。
 言ったところで、じゃあどうしてナタルは僕に言ってくれないのと、シンジの悩みが深くなるだけである。
 それでも自分なりにあれこれ考えたシンジの出した結論は、このままではやっぱり良くないから、一度きちんと話をしたいという事であった。
 その日は朝から小雨が降っており、
「今日は早く帰れるの?」
「そうだな、七時までには帰れると思う」
「じゃ、僕が食事を作っておくから。待ってる」
「ん」
 早めに出かけたナタルを見送ったシンジは、いつも通りてくてく歩いて学校へと向かった。足を使わない登校方法はいくらでもあるのだが――人間界で普通に生きて行くには向かない方法の為、シンジは使っていない。
 学校の帰りに食材を買い込み、裏道を通って帰る。
 なおその際、重たげな袋が宙に浮かんでおり、その周囲を小さな雪の玉が囲んでいる事くらいは許されるだろう。
 帰宅後食事の用意に取りかかり、きっかり六時四十五分に出来上がった。
 だが、七時を過ぎてもナタルは帰らず、電話もなかった。
「むう」
 ちらっと時計を見たシンジだが、それ以上何も言わず、椅子に座って湯気の立っている料理を眺めていた。
 携帯に連絡を取ることはしない。
 二十分…三十分…そして一時間が過ぎた時、一度は携帯を手にしたのだが、結局掛けることはなかった。
 時計の針が九時を回り、手間暇かけた料理がすっかり冷め切った頃、シンジは初めて携帯から電話を掛けたが、呼び出し音が空しく聞こえてくるばかりであった。
「まさか…事故?」
 二時間経って初めてそれを呟いたのは、ナタルの身に何か起きていれば、知る手段はあるからだ。シンジは感知出来ずとも、地霊達がそれを伝えてくれよう。
 だが、地霊達がひょこっと顔を出すことも、玄関先から人の気配が伝わってくることもないままに、とうとう時計の針は十時を回った。
「シンジ卿…」
 フロストが、ひっそりとシンジを呼んだのは十時半の事であった。
 約束の時間から、実に三時間半後の事である。
 
 
 
  
 
(つづく)

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