GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第二十七話:腐女子を撃退したオヤビンが、非地球人の女教師に出会う事
 
 
 
 
 
 端末の前に、ナタルがぼんやりと座っている。今からお勉強の時間だが、何をどうしていいか皆目分からない勉強など、実に久しぶりだ。
 えっちなお勉強を、とシンジは言い残して出かけた。その事もあるが、自分がそっちの方はほぼ知識ゼロに近く、このままでは良くないと思い直した部分が大きい。
 かといって教材があるわけもなく、手っ取り早く検索する事にしたのだ。
「……」
 少し考えてから、夜のお勉強と打ち込んだ。
「えーと?受験生の為のお夜食?眠らない必勝法…誰が受験生か!」
 
 失敗。
 
 次に選んだキーワードは、ラブラブ、であった。時々ナタルの思考は奇妙なものになる。
「ん?倦怠期から新婚当時の気持ちに戻る為の十の法則?誰が…け、倦怠期だ!」
 
 失敗。
 
 次の単語は、甘いキスだったが、検索結果が出る前に閉じてしまった。しかもその顔は何故か赤くなっている。
 試行錯誤すること一時間、これだけやって望み通りの結果が出ないというのもある意味大したものだが、ナタルは飽きる様子もなくキーを叩き続けている。
「うん?」
 少し疲れかけていたナタルの視線が、ある一点で止まった。
「……」
 三十秒後、画像を眺めていたその口許に満足げな笑みが浮かぶ。
 イイモノを見つけたらしい。
「ふむ、使えそうだ」
 
 
 
 
 
 一瞬教室が静まりかえり、数秒一斉にブーイングがわき起こる。ただし、騒いでいるのは数名のみだ。
「変態はカエレってそれどういう事よ!差別よ!」
「差別と区別は別物だ。その位先生から習わなかったの?」
 くすっと笑ったシンジだが、そこに結構な侮蔑が載せてあることを、キーホルダーにぶら下がっている仲魔達は分かっている。
「なにが区別よ、変態扱いしてる時点で十分差別じゃない!」
「そう?一応訊いておこっか。名前は?」
「…アサギ・コードウェルよ」
「アサギさんに訊くけど、どうして変態扱いしちゃまずいの?」
「当たり前でしょ。誰がどういう趣味を持とうと自由じゃないの。そんな事も分からないの?」
「そうだね。ところで僕はアイドル好きなんだけど」
「は?」
「アイドルはトイレも行かないしむだ毛もないし、勿論処女で男性経験もない。そうだよね?」
「馬鹿みたい。女を馬鹿にしてるの?女に気持ち悪い幻想持っちゃって、あなた病気なんじゃないの…な、何がおかしいのよ」
「それが聞きたかったんだ、アサギさん。男が女に幻想持つのは病気扱いするけど、自分が初対面の相手に、従兄弟をホモ扱いした質問するのは当然なんだ?」
 シンジの笑みが深くなる。獲物を見つけた豹の目だ。アサギを射抜いてはいないが、確実に射程内に収めている。
「そっ、それは…」
「前にいた学校にも変態がいて、無理に見せられた事があるんだ。男にはあり得ぬ器官を植え付けて、奇怪な行為に耽るのだと聞いたよ。無論――嬉々としてそれを妄想する女の子の脳内だけでね。妄想が過ぎて脳内が腐敗を起こしかけた女の子の事を、腐女子と呼ぶらしい。知っていた?」
 強い口調でもなく、罵倒の単語を使う訳でもなく、それでいて周囲からじわじわと追いつめてくる。
「しっ、知らないわよそんな単語は!言うならせいぜいやおい女とかにしなさいよ!」
「山が無くオチが無く意味もない、を集めた呼称だね。手紙でも文章でも、そんなろくでもない代物だったら誰も読みたいとは思わないよね?無意味な上にまとまりがないなんて、読むだけ時間の無駄だと思わない?」
「……っ」
 アサギは顔を真っ赤にして、手をぶるぶると震わせている。
 
 アサギ・コードウェル…轟沈。
 
「ああ、それと」
 クラス中が静まりかえって声も出ない中で、シンジが思い出したように口を開いた。
「僕は別にアイドルなんて好きじゃないから。分厚く化粧して醜く着飾り、特殊なファン層に媚びを売る為に存在する人種は、好みじゃないの」
 
 ――追い打ち――
 
 沈みかかった戦艦に更なる爆弾を投下する少年――碇シンジ。
 かつて日本海軍が作り上げた戦艦大和は、造られた事自体が誤っていた、と言うろくでもない点を別にすれば、性能だけを見る限り世界でも屈指の戦艦であった。
 だが無謀にも程がある特攻作戦に臨んだ時、左舷のみを集中攻撃され、日本の技術の粋を尽くした排水システムも限界を超え、無意味に沈没するに至った。
 決して正面からはぶつからず、あくまでも側面からじりじりと締め上げる。強い相手に対しては非常に効果的な手である。
 シンジが正面から罵倒するような単語を使っていれば、アサギも反撃したし、防衛システムも動作しただろう。
 だが、あくまでも穏やかに、そして事実のみを突いてくるシンジには、対空砲も沈黙せざるを得なかった。この劣勢をひっくり返し、そして逆転しうるだけの武器は、アサギにも主戦論者達にも無かったのである。
「風見先生」
 ホモ好き部隊を圧勝で退けたシンジが、みずほを振り返った。
「挨拶終わりました」
「え、えーと…そ、そうね、席を決めないとね。あなたの席は…」
 みずほがクラス内を見回す。
 さすがに、正面切ってシンジを睨んでいる者はいないが、アサギと親しい者の側には配さないのが賢明だろう。
 と、みずほの目に外を眺めている少女の姿が映った。
「碇シンジ君、あなたの席はあそこ、窓際の一番後ろにします。マーガレットさん」
「……」
「マーガレットさん!」
 みずほが少し強めに呼ぶと、やっとこっちの世界に帰ってきた。
「はい?」
「碇シンジ君に、教科書を見せてあげて。よろしくね」
「分かりました」
 ぽわーんとした感じの声が返ってくる。そういう性格らしい。
「じゃあ、碇シンジ君いいかしら」
「はい」
 とことこと歩いていったシンジが、言われた席に腰を下ろす。その前に、どさっと教科書の山が積まれた。
「あ、あの?」
「私はマーガレット。この学校は、教科書と端末と両方使いながら授業をしているの。それ、貸してあげるから使って」
「えーと、マーガレットさんのは?」
「私はいいわ。帰ってからエリノアに教えてもらうから」
 それだけ言うと、また外に視線を戻した。
 だが、ぼんやりと眺めているように見える視線が、実は結構強い事にシンジは気付いた。
 無論、授業がつまらないというのもあるだろう。
 しかしそれだけではなく、向けた視線の先に自分の居場所があるような、そんな視線であった――そこに何があるのかは分からないが。
「さ、左様で」
 ぱらぱらと教科書をめくると、すぐにページが戻る。折り跡が全くないのだ。
 とは言え、これで成績も最下層ならば教師が黙っていないだろう。少なくとも、ある程度の成績は収めているはずだ。
 教科書を読んだ形跡すらないのに、一応の及第点を取るとは余程優秀なのか、或いは家庭教師が優れているのか。
(家庭教師、か)
 ふと、シンジの脳裏に妖精騎士の姿が浮かんだ。
 シンジ殿はやれば出来るのだから、とそう言われて問題に取りかかると、何故か出来てしまうのがいつも不思議だった。
(今頃何してるだろ)
 脳裏に浮かんだ姿を、頭を振って振り払った。今は人間界で、普通の学校に在籍しているのだ。
 端末の電源をいれると、かすかな機械音がして端末が立ち上がる。
「仙台(あっち)ではこんなの使ってなかったのに…ん?」
 メッセージプログラムがある。どうやら、クラス全員にそれぞれ送れるようになっているらしい。
「ふむ」
 見ると、アサギ・コードウェル行きもちゃんと入っている。少し考えてから、メッセージ画面を立ち上げた。
 シンジがどういうメッセージを送ったのかは分からない。ただ、突っ伏したままだったアサギが、顔だけ動かして画面を見た後不意に起きあがり、驚いたようにシンジの方を振り返った事だけは事実である。
 HRが終わった後、シンジはみずほと一緒に教室を出た。
「碇シンジ君、その…どうかしら?」
「どう?」
「いえ、うちのクラスはどんな印象だったかと思って。上手く…やっていけそうかしら?」
「悪くないですよ」
「ほんとに?」
 みずほの足が止まってシンジを見た。気を遣って言っていると思ったのだろう。
「この間、久しぶりに会った従兄弟とそのツレが変態になっていたので、氷漬けにしておきました」
「は、はあ」
「と言っても性癖は治しようがないし、仕方のないところでしょ。まったく、人間界の生き物ってのは不可解な事を考えるものです」
「そうよね、私も最初は驚いたわ。地球人って、本当に色々な趣味を持っているんですもの」
 シンジは長らく、妖精に囲まれて暮らしていた。その意味では別におかしくない台詞だが、風見みずほは普通の人間の筈だ。
「…今なんて?」
「え?」
「地球人がって言わなかった?」
「あっ、そ…そのっ、気のせいよっ」
「録音してありますが」
「嘘っ!?」
 ぎくっと全身を強張らせたみずほに、
「嘘です」
「だ、騙したのねっ」
「心当たりが無ければそんなに狼狽えたりはしないでしょう」
「で、で、でもっ…」
「でも?」
「き、君だって人間界とか言ったじゃない。あなたこそどこから来たの」
 反攻の糸口を見いだしたかに見えたみずほだが、
「一時的に人間界以外にいましたが、普通の人間ですよ。別にM80星雲から来たとかじゃありませんが」
 実にあっさりと切り返された。
「ーっ!」
「それはそれとして、恋人とは上手く行ってるんですか?」
「こ、恋人っ?」
「ええ、いるでしょう」
 さも当然のように言ったシンジに、
「わ、分かるの?」
「見れば。で、どうなんです?」
「どうってその…」
「ラブラブ?」
「ら、らぶらぶだなんてそんな…桂君の事は大好きだけど…やだもうっ」
 みずほは結構スタイルがいい。その女教師が、生徒の言葉で顔を真っ赤にしてもじもじしている有様は、どう見ても怪しすぎる。
「桂君て言うんですね、恋人の名前」
「ど、どうしてそれをっ!?」
「今、自分で言ったじゃないですか」
 みずほの顔がすうっと青ざめる。結構墓穴を掘りやすいタイプらしい。
「一つ訊きますが、その彼は地球人ですか?」
「も、勿論よ」
「ならいいです」
「え?」
「アンドロメダ星雲からやって来た人の事を、詮索するほど物好きじゃないんです。その代わり、一つ言っておきます。あなたが何をしに来たのかは知りませんが、この地球(テラ)に余計な干渉はしないで下さい。進化とその先にある退廃を繰り返そうと、それは人類が勝手に選んだ道です。放っておけばまだ星の再生力で復活します。他の星の住人に干渉される事じゃない。それだけは忘れないで」
(別にアンドロメダ星雲じゃないんだけど…)
「…いいわ。ただし、私の正体の事は絶対に他言しないでね。約束よ」
「分かってます。でも」
「でも?」
「僕は最初から、先生を異星人だなんて全く思っていませんでした。勝手に尻尾を出したのは先生の方ですよ。放っておいても勝手に墓穴を掘りそうな気がするんですけど」
「そ、そんな事はないわ!」
 と、みずは胸を張ったが、根拠は分からない。
「あれはその…たまたま、そうたまたまなのよ」
「夕べ恋人といちゃいちゃし過ぎて頭がぼんやりしてた、とそう言う事?」
「それもちょっとはあるかもね。昨夜は桂君が随分はげし…!?」
 みずほの顔が、しゅうしゅうと音を立てて赤くなっていく。
 ナタルとどっちが釣りやすいかと、ふとシンジはろくでもない事を考えた。
「……」
「……」
 ぽむ、とシンジがみずほの肩を軽く叩いた。
「ね?ま、この話はそれ位にして、僕の事は聞いてますか?」
 シンジの言葉に、やっとみずほの顔色が戻った。
「ネ、ネルフ関係の事ね?ええ、通達は受けています。早退、欠席いずれも一切通知票には記載しないよう、要請を受けています。アスランさんやキラ君と一緒でしょ?」
「ええ」
 頷いたシンジが、
「ところで誰の名前で来てました?」
「確か…」
 みずほは小首を傾げて、
「冬月…さんだったと思うけど…」
「いい出来」
「え?」
 シンジはうっすらと笑った。
 満足したらしい。
「風見先生、一つ訊いてもいいですか?」
「何かしら?」
「年下の彼氏って今何歳ですか?」
「…なんで年下って分かるの」
「言葉にしなくても分かる事の方が、分野によっては多かったりするっていう事です」
「ふうん…」
 あまり得心していないようだったが、
「高校生よ」
「この街に?」
「第二東京だけど…どうして?」
「いえ、何となくです。じゃ、僕はこれで」
「ええ…」
 背中にみずほの視線を受けながら歩き出したシンジに、
「自分と引き離しておいて侵略する、とか考えた?」
「フロスト、勝手に僕の思考読むな。まあ、その通りだけどさ。それで?」
「別に問題はない。思考を走査(スキャン)したが、今すぐにどうこうって事はなさそうだよ」
「今すぐには?」
「何処の所属か知らんが、惑星の駐在監視員とかいうやつらしいな。今のうちに殺(や)っておくか?」
「……」
 少し考え込んでいたが、
「いい。必要になったら処理してもらうから」
「ねえオヤビン」
「ん?」
「監視員殺っちゃって、その後やってくる本隊も始末して本拠地に乗り込んで征服しようとか、一瞬思ったでしょ」
「企業秘密。にしても、宇宙は広いね。この地球を監視しようなんて三億年早いんだ」
(オヤビンてばやっぱりやる気)
 仲魔達の意見は合致したが、口にはしなかった。
 教室へ戻り、椅子に座ったシンジの元へ、アサギがやってきた。無論、他の生徒達はアサギがさっき轟沈したのを知っているから、どうする気かと興味が七割心配が三割の顔で見守っている。
「碇シンジ君…」
「はい?」
「さっきはその…ごめんなさい」
「うん」
「それと…」
 シンジの耳元に口を寄せ、
「ちょっと嬉しかった。ありがと」
 囁くと、シンジの反応を待たずに早足で自席へ戻っていく。その姿を、他の生徒達が呆気に取られて見ていた。
 勿論、言われた方は変貌に心当たりがあるし、口元に小さな笑みを浮かべると、教科書の検閲に取りかかった。
 
 
 
 
 
「……」
「……」
 車中にて一頻り闘った後、マリューとミサトは一つの――単純だが当たり前の疑問に行き着いていた。
 もーちょっとお礼を、と言ったら頬にキスされた。ラッキーではあったが、昨日までのシンジからすれば考えられない。ご機嫌なのか大胆になったのかは分からないが、いずれにしても引っかかる事がある。
 何が原因で、少年は一晩でそんなに変貌したのだ?
「『もしかして…ナタル?』」
 もしかしなくても、それしか原因は思い浮かばないのだが、二人にしてみれば大問題である。
 直ちにネルフへ連絡を入れ、ナタルが欠勤する事を確認すると、近くのケーキ屋へ飛び込んだ。いくらなんでも、手ぶらで行って様子をうかがうほど、二人とも厚顔無恥ではない。
 がしかし。
 妙な気配に、玄関のドアを開けたナタルが見たのは、二人仲良くぶっ倒れているマリューとミサトの姿であった。
「葛城…少佐?ラミアス少佐まで…一体?」
 左に一回、右に二回首を傾げてから、ともかく中へ運び入れようとした時、
「構わないわ。玄関に転がしておきなさい」
「え…!?」
 ナタルが仰天したのもむべなるかな、ナタルに命じたのは人に非ず猫だったのだ。しかも、廊下の手すりの上に二本足で立った猫が、腰に手を当てているではないか。
 常識の二文字が、再度ガラガラと音を立てて壊れていくような気がした。
「あ、あの…あなたは?」
「少しシンジ卿に気に入られたからと言って調子に乗らないことね。人間風情が私の名前を訊けると思っているのかしら」
「い、いえ…」
 完全に気圧されていたナタルだが、猫が喋ったからではない。姿はただの雑種猫でも、そこから放たれる威圧感は尋常なものではなかったのだ。
「なら、余計な事は訊かないことね。さっさと、ひっくり返して玄関に転がしなさい」
「で、ですが…」
「不満でもあるの」
「い、いいえ。ただ転がしておくだけというのはさす…痛っ」
 言い終わらぬ内に、足に刺すような痛みを感じた。毛が針となって襲ったのだが、そこまでは分からない。
「二度言わせるつもり」
 先に身体が動いていた。言われるまま、二人を仰向けにして玄関に運び入れる。二人を横たえてから、ナタルはある事に気付いた。
「紙?」
 何やら、見た事のない文字が書いてある。ゴミかと思い、剥がそうとした途端腕に感じた痛みは、さっきの三倍になっていた。
「首を落とされないと分からないのかしら」
 冷ややかな言葉に、ナタルの全身が一瞬で硬直した。ただ、これ以上追いつめるとシンジにばれた場合危険、と思ったかはどうかは不明だが、
「人間、ヤカンに湯を沸かして持ってきなさい」
 命じた声は、幾分穏やかになっていた。
「わ、分かりました」
 言われるままに従ったナタルが激しく後悔したのは、ヤカンを渡した時であった。鍋掴みを使わないと持てない位熱いそれを、猫が簡単に持った時点で常識範疇を遙かに超える事象だったが、猫はそれをいきなりマリューとミサトに掛けたのだ。
 思わずナタルの口から小さな悲鳴が洩れたが、二人にまったく異常はない。即死という可能性ならあるかも知れないが、外見にも全然変化はなかったのだ。
(あれ?)
「熱湯消毒しようなどとは思っていないわ。こうなる事を想定すらしていなかったというの」
 氷雪のような声で問われた時、ナタルは自分が何も考えていなかった事に気が付いた。
「まあいいわ。所詮その程度なのは分かっている事だし」
 ギャフンと言わされる、と言うのはこういう状態を指すのかも知れない。
 最悪な状況の中で、ナタルの常識に最後の爆弾が投下された。
 猫がすっと手を挙げた直後、マリューとミサトがむくっと起きあがったのである。
「あ…あ…」
 もう声も出ないナタルを尻目に、二人がぎこちなく歩き出す。
「殺しはしないわ。面倒だし、何よりもシンジ卿に怒られちゃうから。マンションを出たら我に返るわよ」
「わ、分かりました。あの…」
「何」
「その…何故葛城少佐達を…?」
「さて、ね」
 用は済んだ、とばかりに猫はさっさと背を向けた。手を触れても居ないのに扉が勝手に閉じられる。
(……)
 一陣の突風に吹き付けられたような顔で、ナタルはしばらく立ちつくしていた。シンジと出会って、常識の再構築をやむなくされたナタルだが、こんな事態は無論解析不能だ。
 ナタルが我に返るまで、十分近くかかったが、何とか自分を取り戻してからふと思いだした。
「そう言えば、シンジの足を忘れていたな。朝はタクシーでも使ったのだろうが…帰りの手配はしなくてはならないな」
 電話を取り上げて、何処かにかけ始めた。
「私だ。迎えを頼みたい。そうだ、最重要人物だ。名前は――」
 電話を置いた時、その顔は既に少尉のものへと戻っていた。
 
 
 
 
 
 仙台にいた時は、校内に食堂があったのだが、ここにはない。その辺の店で何か買ってくるかと、外に出ようとしたシンジを待っていたのはコボルトであった。
「シンジ卿」
「ん?あ!」
 あっという間に身体を横抱きにされ、シンジは連行された。縛られはしなかったが、連れて行かれた先は地中で、ドワーフ達が待っていた。
「粗食だがな。ちゃんと食事は摂らないと大きくなれないぞ、シンジ卿」
 今から食事に行く所だった、と突っ込むのも面倒なので、ここはありがたく頂く事にした。
 なお、粗食と言って出てきたそれは、三十品目が全部入っている代物であった。そんな栄養価が高く、しかもボリュームのある食事の後は、睡魔の一個師団が大挙して襲来する事は言うまでもなく、午後の授業はほとんど防戦に追われていた。
 それでも、何とか居眠りする事はなく、無事に授業を乗り切ったシンジ。
「さーて、終わった終わった」
 ふわー、と伸びをして下駄箱から靴を取り出す。初日なので、また上履きはない。学校から借りたスリッパを使っている。
「フロスト、地図を探してきてくれる?上履き買いに行かないと」
「合点だ」
 雪だるまがふうっと抜け出した直後、
「あの…」
 背後から声がして、振り返るとアサギが立っていた。
「何?」
「その、今日はごめんなさい。それと…お願いがあって…」
「お願い?僕に?」
「ええ…。その、厚かましいとは思うけどアスランさんとキラさんには…」
「いきなり気持ち悪い事を訊いてくる、脳内に変なお花畑を造っている腐女子を撃退した事は黙っていて欲しいって?」
「…え、ええ…」
 アサギが一瞬驚いたような顔を見せたのは、シンジの反応が予想外だったからだ。シンジから来たメッセージを見た限りでは、大丈夫だろうと判断していたのだ。
「別にいいよ。水に落ちた猫の頭を蹴飛ばす趣味はないしね。ま、仲良くやりましょう」
「え…あ、うん…ありがとう…」
(この人…敵に回さない方がいいカモ…)
 アサギの中で、シンジが第一級危険人物としてインプットされたのは言うまでもない。
 校舎から出たシンジの眼に、何やら厚い本を大事そうに抱えて歩く少女が映った。
「マーガレットさん」
「あ、えーと…碇シンジ君、だよね?」
「うん。今日はありがとう。おかげで助かりました」
「助かった…?」
 鸚鵡返しに呟いてから、
「ああ、いいの。どうせ要らなかったし、教科書はまだ買ってないんでしょう?あれ、あなたにあげるわ」
「…へ?だ、だ、駄目ー!」
「どうして?」
 おかしな事を言うのね、とマーガレットの視線が言っている。
「あの、そのご厚意は嬉しいんだけど、ご両親が知ったら絶対に怒ると思うんだ」
「いないわ」
「え?」
「両親はもういないわ。それに、エリノアは怒ったりしないもの。私は持っていてもどうせ見ないからあげようかと思ったんだけど…」
「え、えーと…」
 普通ならネタなのだが、どうやらこの少女は真性らしいとシンジは気付いていた。本気というのは、時にひどく厄介なのだ。
「ありがとう。でもやっぱり大丈夫。資料が全然ないのはやっぱりまずいと思うから。折角言ってくれたのにごめんね」
「そう。あなたがそう言うのなら別にいいけど」
 別段気を悪くした様子はなかったが、やはり微妙に気まずい。
「あの、ちょっと教えてほしいんだけど…」
 空気を無視して話しかけると、
「なあに?」
 口調は普通であった。
「ここから一番近いバス停って何処にあるのか、教えてもらえる?ちょっと帰りの足が未定なの」
「じゃ、乗せていってあげるわ」
「はい?」
「いつもヴァネッサが迎えにくるの。車だから一人増えても別に困らないし、過疎地のバスを待つより効果的でしょ?」
「う、うん…でもその人に訊かなくてもいいの?」
「私の方が偉いから大丈夫」
 マーガレットがくすっと笑った時、シンジは彼女が今日初めて相好を崩したと知った。
(むう…)
 厚意はありがたいが、やはり世界が一個乃至は二個分くらいずれているらしい。
(どうしようかな)
 受けるべきかと内心で首を傾げながら、並んで歩くうちに校門を出た。
「じゃあ今日はおね――」
 言いかけた所に、大型のバイクが滑り込んできた。真っ白な車体で、見るからにあちこち改造してありそうだが、エンジン音は極めて静かである。
「ん?」
 シンジとマーガレットの前でバイクは止まり、ライダーがゆっくりとヘルメットを取る。中から現れたのは女の顔であった。
(女の人なのにこんな大きいの運転してるんだ)
 シンジが感心するのと、
「ヴァネッサはどうしたの?今日はもう一人いるのに」
 マーガレットが口を開くのが同時であった。
「ヴァネッサはじきに来るわ。さっき追い抜いたから。今日はマーガレットじゃないの」
 マーガレットの頭を撫でてふふっと笑った時、シンジはその娘が、そんなに年齢が行っていない事に気付いた。まだ二十歳にはなっていないだろう。
「碇シンジ君ね」
「え、僕?」
「ええ、あなたよ」
「えーとそうですけど…」
「私はマドラックス。ナタルさんに頼まれて迎えに来たの。さ、乗って?」
 数秒経ってから、はあとシンジは頷いた。
 
 
  
 
 
(つづく)

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