GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第二十三話:諸刃の剣のオサレドレス(深夜用)
 
 
 
 
 
 ネルフは建前非公開組織だが、実際には結構あちこちで洩れている。機密保持の第一人者たるパイロットからして、キラ経由でシンジに色々と洩れているのだから、その網の粗雑さは推して知るべしだろう。
 大体が、本来なら超法規組織の本部で、しかも通常兵器が通用しない物騒な兵器を四機も抱えているこの本部は、日本が世界を我が手に収めるべく使役するのが本来であって、政府首脳陣が有能ならば、今頃世界の頭上には日本の日の丸が翩翻とはためいているところだ。
 がしかし、総理以下揃いも揃って無能なものだから、使いこなすどころかネルフにでかい顔はさせんぞと、目下敵対心に燃料を投下しているところだ。そんな政府が協力的な――義務的な協力はともかく――筈はなく、内部情報などちょっとその気になれば、結構な所まで入手出来る。
 そしてここにも、苦もなく入手された情報が届いていた。
 椅子にふんぞり返って書類を眺めている、金髪の男が居る。どかっと机の上に足を乗せているが、室内の作りは重厚で、その辺の飯場などとは造りが違う。
 こんな所でこういう行儀の悪い奴は、二通りに分類される。
 一つは育ちが悪く、常識とか礼儀とか、人間として最低限の物も身に付かなかった低脳で、頭脳不要で肉体のみ要求される仕事にして就いてこなかったタイプだ。大きな声を出せば我が意が通ると思っており、人間としては底辺に属している。
 もう一つは――幼い頃から不自由という単語を知らずに育ち、自分の前に誰が引いた道をてくてく歩いてきたタイプだ。
 頭脳は切れるが、世界は自分のモンとか思っているタイプが多い。
 そしてこの男は、後者であった。
 ムルタ・アズラエル――日本重化学工業共同体の監査役、と言う事になっているが、その本籍はそこにはない。
「碇シンジ?あのヒゲの人に息子がいたなんて、初耳ですがねえ」
 無論、アスラン・ザラ以下、ネルフ所有する機体にそれぞれ専属パイロットがいる事も、そして彼らのデータもほぼ掴んでいた。
 但し、クルーゼとは違い、緒戦の戦闘が既存のパイロットによるものではない、と言う結論は出していなかった。
 一時的に力を発揮させる仕組みなら、こちらにも心当たりはあるのだ。
 だからネルフ本部が抱える三人組のどれかだと思っていたのだが、違うという。おまけに、ゲンドウの息子と来た。
 ゲンドウが、一度も接触していない事は掴んでいるが、そんな事はどうでもいい。あの碇ゲンドウが、息子に愛情を向ける姿など、想像しただけでも不気味だ。
 問題は、シンジの経歴に関する報告であった。
 過去十年間、その経歴は白紙となっており、どこで何をしていたのか皆目分からないという。
 このアズラエル、頭脳は確かに優秀だが、その代わり不明な因子は嫌う。まして先だっての使徒戦を見れば、初号機のパイロットがかなりの力量を持っている事はほぼ間違いない――前半、妙にボカスカやられていたのが気にはなったが。
 少なくとも、不明ですかそうですか、と放置しておける事ではない。
「不明、と言うのは困りますねえ」
 あまり困ってもいなさそうな口調で呟いたアズラエルの視線が、ある一点で止まる。
「ナタル・バジルール少尉と同居中」
 の箇所であった。
「へえ、これはこれは」
 数秒後、その口許に怪しい笑みが浮かぶ。
 少なくとも――夜道ではあまり遭遇したくない笑みであった。
 
 
 
 
 
「ヤダヤダ、こんないい加減な店はヤダー!」
「シンジ、男のくせに諦めが悪…いい加減な店?」
 ナタルとシンジの身長は20センチ以上あり、ナタルの力でも羽交い締めにすればシンジは逃げられない。
 シンジを羽交い締めにしたナタルが、その台詞を聞きとがめた。
「今、いい加減と言ったのか?」
「日本語聞こえなかったの」
「…聞こえている。いい加減とはなんだ」
「看板見れ」
「ん?」
 <アークエンジェル>と描かれた文字の左右を小さな天使が飾っており、別におかしな所はない。
「デザイン的におかしいとか?」
「…ナタル、アークエンジェルって知ってるの?」
「天使じゃないのか?だからエンジェルだろう」
「固有名詞?それとも総称?」
「…え?」
 無論天使の知識など、ナタルが持っているはずはない。
(固有名詞か総称かだと?そんな事…)
「どっち?」
 シンジの顔がずいっと近づいてくる。
「こ…固有名詞か?」
「ペッ!」
「なっ、何だその反応は!」
「アークエンジェルも知らないくせによく買い物来れるよ。ナタルって信じらんない」
「……」
(何でそうなる)
 買い物先の店名など、普通は気にしない。余程変わった名前だったり、或いはいかがわしかったり、犯罪性の名前だったりすれば別だが。
 例えばそう――地球市民、とか。そんな名前であれば、即座に公安へ通報した上、おかなし行動を取れば即座に全員捕縛する必要がある。
 が、そんな類ではない。
 アークエンジェルが少々色っぽい名前だとしても、別に気にするほどではない筈だ。
「私の無知は認めるとして、アークエンジェルの呼称がいい加減だというのは?」
「アークエンジェルは大天使を指す。第八艦隊、じゃなかった第八階級の天使達の総称で、構成員はそれぞれ固有名詞を持ってる。ミカエル・ラファエル・ガブリエル、そしてウリエル。役割も性格も異なるのに、全部ひとまとめだなんて失礼な話だよ」
(この少年は…)
 ナタルは内心で呟いた。
(以前は一体何処にいたのだ?)
 ミカエルの名前位は、ナタルも知っている。ガブリエルはたしか、マリアに受胎告知をしたとかしないとか、何かの本で読んだ記憶がある。
 しかしそれは朧気な知識であって、ラファエルだのウリエルだのがいて、しかも同一階級とやらにいるなどとは、知る由もない。しかも――どう考えても日常生活には必要ないレベルの話だ。
 シンジが人外の存在に補助されている事は分かっている。そして、通常では見えない物を見せる能力を持っている事も。
 本部内で、地から生えた手が足に絡みつくという、二度としたくない体験により、いやでも信じざるを得なくなったところだ。
 それだけでも十分なのに、天使などと言う不可視の生き物について、妙にこだわる。
 元の居場所も推測範囲もかなり狭められる気もしたが、ナタルは首を振った。目下の最優先事項は、シンジの元居た場所を知る事ではなく、店内に引っ張り込む事だ。
「どうしても嫌だというなら店を変えてもいいが――」
「ん?」
「別の女性専門の下着店になるだけだが?」
「あの…僕の立場は?」
「選んでくれる、と約束した時、店としか言っていない。シンジから特に指定はなかったと記憶しているが?それに」
 シンジの耳元に口を寄せて、
「既に言った通り、私は白以外選んだ事がない。私に何が似合うのかは分からないがその…色々と種類のあった方が、シンジも選んでくれやすいのかと思うのだが…」
 さすがに、耳朶に歯を立てたりはしないが、ふぅっと吐息を掛けるのは忘れない。
 この辺りは急成長の証か、或いは本能か。
「あーもう、分かりましたよ。じゃあいいよここで。もう…ナタルって煽るの上手いんだから」
 一応、第二、第三の針も用意してあったのだが、案外簡単に釣れてくれた。
「そうか?」
 ふ、と笑ったナタルが、
「納得してくれたようで何よりだ。気が変わらないうちにさっさと行くとしよう」
 シンジの手を取って、すたすたと歩き出す。
 もう抗いはしなかったが、
「せめて固有名詞にしようよ。URIELとか結構良いと思うのに」
 看板を見上げて呟いた。
 地天使と呼ばれ、罪人達の断罪を司るとされる天使に思う所でもあったものか。
 店内に入った二人を、若い女の店員が出迎えた。
「いらっしゃい…ませ」
 語尾の方に、一瞬空白があったのは気のせいではあるまい。
 片方は二十代だから普通だとしても、連れの少年はどう見ても十代で、しかも二十代の方も軍服姿なのだ。
 怪しむまでは行かずとも、妙だと思わない方がどうかしている。
 ただし、それ以上何か訊いてくる事はなかった。
 軍服の襟章を見た為か、客のプライバシーに口を出さないように教育された成果なのか――関わらない方が無難だと思ったか、そのいずれかは分からない。
 が、店の奥に引っ込んだ所を見ると、三番目の可能性が高い――と思ったのはシンジだけで、ナタルは違う事を考えていた。
 まず第一に、いつもと店番が違う。普段は中年の女店長で、ナタルとも知り合いなのだが、この店員は見た事がない。
 おそらく同年代だろうが、何となくやりづらい。奥に引っ込んでくれて、少しほっとしていたナタルなのだ。
「さてと」
「ん?」
「シンジは何を選んでくれるのだ?」
「ナタルは何がいい?」
 シンジは逆に聞き返した。
「何って…分からないからシンジに訊いているのだ。シンジは、下着に関して造詣が深いのだ…痛」
「そう言う事普通にゆーな!僕の人格が疑われるでしょ!だいたい僕は、そんなモンに造詣なんて深くナイ!」
「す、すまない」
 謝ったナタルの両頬は、左右におもいきりむにょっと伸びている。シンジが引っ張っているのは、言うまでもない。
「まったくもう…それで、何処のにするの?」
「どこ?」
「普段は軍服だし、どうせ中は白一色でしょ?」
「それはそうだが…」
 女性の場合、自分で太ってるというのと、人に言われるのとではまったく違うといわれる。その数値、ざっと三十五倍以上。
 それもあるが、どうせ扱いはちょっとひどい。
 場所を考えれば、もう少し言い方もあろう。
 ナタルの表情からそれを読んだのか、
「職務に相応しい色と機能、でしょ?分かってる」
「あ、ああ」
 頷いたナタルの表情が少し緩んだ。
「まあ、昼間はナタルが決める事だから今日は夜用を。僕が買っておくから」
「ちょ、ちょっと待て。買うってそれは副司令に送られた引っ越し用の資金だろう。シンジが自由に使って良いわけではあるまい」
「…ねーえナタル。賭けしようか」
 毒を隠した甘い声で、シンジが呼んだ。
「賭け?」
「今からフユゲツさんに電話するの。でもって、もらったお金適当に使っちゃって良いって訊くの」
「それで副司令が拒否したら私の負け、か?賭けにもならんな」
「ナタル、ちょっとは空気読もうって気ないの?僕がそんな事言うと思って?」
「違うのか?」
「違うっての。フユゲツさんが、好きにしたらいいって言ったらナタルの勝ち」
「随分楽な条件だが、シンジの方は?」
「蛸か蟋蟀って言ったら僕の勝ち」
「蛸か蟋蟀とは、本物のそれか?」
「勿論」
 ふむ、とナタルは考え込んだ。シンジが何を考えたかは知らないが、蛸だの蟋蟀だのと、コウゾウが言い出すはずはない。
 多分シンジの事だから、わざと負ける事で何かの条件を作る気なのだろう。
 と、そこまでの読みは間違ってはいない――シンジとコウゾウがナタルの知る関係止まりであれば、だ。
 
 人類最後の砦の少年と、上層部で唯一まともな老人の妙な相性をナタルは知らない。
 
「分かった、その賭け乗った。で、私が電話するのか?」
「ナタルが電話したら独房に放り込まれると思うよ。いやマジで」
「……」
 この時、ナタルは何となく嫌な予感がした。シンジがやけに自信たっぷりなのだ。
 まるで絶対の確信でもあるかのように。
 ナタルから携帯を受け取ったシンジが、ふとその手を止めた。
「言っとくけど、別にフユゲツさんと組んではいないからね?」
「そ、そんな事は分かっている」
 電話を掛けると、相手はすぐに出た。
「冬月だ」
「僕ですが」
「ああ、シンジ君かね」
 シンジと分かった途端、明らかに口調が変わった。ブレーキペダルではなく、エンジンブレーキでの減速に近い。
「少尉に逃げられた、訳ではあるまい。何事かね?」
「さっきナタルさんの口座に入っていたのって、僕が適当に使っちゃっていいんですか?」
「バジルール少尉は何と言ったのかね」
 電話機の向こうから伝わる声は、全てを見通した人生経験豊富な老人の物であった。
「イクナイ、と」
「ほう」
 コウゾウの声が、一オクターブ低くなったような気がした。
「鰐か蟋蟀だ。君が選びたまえ」
「ワニ?蟋蟀!?」
「そうだ。決まったら連絡するように」
 電話は向こうから切られた。
「……」
 電話機を見つめて、暫し立ち竦んでいたシンジが、
「き、聞こえた?」
「あ、ああ…」
「賭けは僕の勝ち。それはそれとして…またナタルの命乞いか。まったくもう」
「い、命乞い?」
「ワニが乱舞する縦穴で、僕に鰐皮のベルトをプレゼントしてくれるスキルがあるなら止めないけれど?」
 反射的に、ナタルはふるふると首を振った。
「ほ、本物のワニ…なのか?」
「もう少し上司の事は知っておいた方がいいと思うよ。シャレであんなもの造る人じゃないし、まして縫いぐるみのワニなんか入れたりしない」
「……」
「構造は分からないけど、色々使える。あんな物を造らせるあたりは、結構資質があるのかもね」
(何の資質だ?)
 疑問には思ったが、口には出さなかった。
「それでシンジ…賭けはシンジの勝ちだ。私に何をしろと?」
「後で教える。とりあえず、試着室に行って服脱いで待ってて」
「ぬ、脱ぐのか!?」
 額に押し上げた眼鏡に気付かず、メガネメガネと探す中年を見るような視線を向けてから、
「下着姿で上から当てるだけでしょ。だいたい、その為にあるんだから。何を期待してるの?」
「ききっ、期待などしていないっ。なっ、何を言い出すっ」
「じゃ、問題ないよね。行ってらっしゃい」
 期待していない、と言うより必要ない時のピュアな反応は、時として邪魔になる。赤くなったナタルを試着室へ押しやってから、シンジは少し首を傾げた。
 コウゾウの部屋にある縦穴は、一見すれば変な老人が造った変なトラップだが、少し考えれば、えらい代物だとすぐ分かる。
 仔細はまだ分からないが、おそらくかなりの広範囲から落とせるのだろう。一つは侵入者に対する防御だし、縦しんば敵わぬ時には、とっととずらかる事も出来る。どの穴に何があるかは、管理者側で選択出来るはずだ。
 少なくとも、平凡な好々爺に出来る芸当ではない。
 ただ、本部に詰めている者の内、九割以上はそれを知るまい。
 あるとすれば、
「青葉さん位か…」
 シンジは呟いた。
 一見するとただのロン毛だが、隠しても隠しきれないものが――修羅場をくぐって来た者だけが漂わせる匂いが、シゲルにはあるとシンジは気付いていた。
 それは、シンジをずっと見守ってきた凄烈な武人と、似たものだったから。
「まあ、ナタルが知ってどうなるものでもないんだけどね」
 ろくでもない事を口にしてから、シンジは店内をウロウロし始める。数分後、シンジが手にしたのは、ガーターとショーツのセットであった。色は黒で、ガーターにはレースで縁取りがされている。
 そこまでは良かったが、
「網タイツ」
 と呟いたのは、一体どういう了見なのか。
「それとブラも、と」
 とりあえず、三点セットを担いで試着室へ向かう。
「開けるよ?」
「あ、ああ」
 カーテンを開けると、下着姿のナタルが恥ずかしそうに待っていた。ちゃんと服は脱いである。
「ガーターベルトは持ってるでしょ?白で」
「持ってるが…いつ見た?」
「見てないよ。ナタルでも、それ位は持ってるだろうと思って訊いてあげ…痛」
「訊いてあげたとはどういう意味だ!私だってそれ位持ってる!」
「じゃあ問題ないね。はい」
 受け取ったナタルが、
「く、黒か?」
「ん。どうしても嫌なら無理強いはしないけど」
「べ、別に…に、似合うと思って選んでくれたのだろう?」
「多分ね」
「多分?」
「だってつけてみないと分からないっしょ。着けてみたら問題有り過ぎだったら困るっしょ。ほら、当ててみて」
「うん」
 無論、直接着てみる事は出来ないが、下着の上からでもある程度は分かる。
 ナタルの細身の肢体には、黒色がよく映えている。
「ど、どうだ」
「んー、もう少しエロでもいいかも」
「エロ?」
「えっちなやつ」
 それを聞いたナタルがかーっと赤くなり、
「わ、私はいいっ、く、黒だけで十分だ」
「そう?」
 ナタルの表情を見たからいいや、と思ったかは不明だが、それ以上深追いはせず、
「ショーツあててみて?」
「ん」
 言われてショーツを手にしたナタルの眉が寄った。
「何だこれは」
「何って…ショーツじゃないの?」
「そんな事は分かってる。この後ろの部分の面積の少なさはなんだ!」
「Tバックだから少ないに決まってるでしょ。Tバックがお尻をすっぽり覆ってたら困るっしょ?」
「だ、誰が困るか馬鹿者!だいたいシンジは下着の役目をなんだと…ひゃぅっ!?」
 不意にナタルがつま先立ちになった。シンジが、ナタルの穿いているショーツの後ろをきゅっと絞ったのだ。
 嫌でも食い込んでくる下着に、ナタルの口から可愛い喘ぎが洩れる。
「Tバックはこんな感じ。あ、ナタルのお尻に食い込んでる」
「なっ、な、何をするかー!」
 
 
「いったいどういう関係なのかしらねえ?」
 店員が見ている画面には、さして広くない試着室内で取っ組み合いを――彼女から見ればじゃれ合いにしか見えない――繰り広げているシンジとナタルの姿があった。
 言うまでもなく、女性用の下着というのは、丸めればかなり小さくなる。試着室に持ち込んでタグを切り、そのまま失敬する輩を防ぐ為にカメラが付いているのだ。
 無論、直接肌に着けるのは禁止だから、普通に考えれば裸になる客がいる筈はなく、あくまでも防犯の範疇に留まっているから、客からクレームが来た事はない。
 がしかし。
 問題は、今日の客が普通でないと言う事にあった。
 
 
「ちょっと待って」
 私服の少年と下着姿の女性が、やや危険な体勢で絡み合ったところで、ふとシンジが止めた。
「なんだ」
「……」
 シンジの顔が、ゆっくりと動いて上を見る。
「どうかしたのか?」
「気配がする、と思ったらやっぱりカメラがあった。あ、別にナタルは見ないでいいから」
「あ、ああ」
 別に盗撮用だとは思っていないから、ナタルは狼狽えたりしなかったが、シンジの反応は違っていた。
「インプ、殺れ」
「え?」
 聞き慣れぬ名前にナタルがシンジを見やった直後、肩の辺りで何か気配がしたような気がした。
 
(こんな楽しい仕事はナーイ)(仕事はナーイ!)
 物騒な小生物達の仕事ぶりは、無論シンジだけが分かっている。
 
 十秒後、
「消えた、もういい。さ、続き続き」
 シンジはナタルに向き直り、事務所では突如真っ黒になった画面に、何事かと慌てているのは無論女子店員だ。
 少年は気付いたようだが、別に何かした気配はない。それなのに、いきなり何も写らなくなったのだ。
 どう考えても怪しいと、ガタッと立ち上がろうとした直後、
「いーから寝てろや」
 ボカッと鉄棒の一撃がその後頭部を直撃し、店員は昏倒した。
「ま、これ位ならしても怒らないだろ。な、シンジ卿?」
 ニヤッと笑ったコボルトが、鉄棒を担いでずぶずぶと地面に沈んでいく。
 そんな事は露知らぬナタルが、
「シンジ、あの…」
「ん?」
「その、どうして止めたのだ?おそらく万引き防止用のカメラだと思うのだが」
「僕からも一つ訊いていい?」
「何だ?」
「どうしてそんな事を訊くの?しかもちょっと顔赤くして」
「う、う…」
 言葉に詰まったナタルが、
「う、うるさいっ、さ、先に訊いたのは私だっ」
「訊いてもいいって言ったじゃない」
「き、気が変わった。シンジが先に答えろ!」
「やだ」
 じたばたと、まだ暴れ出した二人だが、ふっとその動きが同時に止まった。
「き、訊くまでもない事だな」
「うん」
 両方とも、相手が何を考えているかは分かっている。ただ、ナタルは聞いてみたかったのだ――シンジの口から直に。
「気が変わった…訳でもないが、もう少しその…着てみてもいいぞ」
 ランクアップしてもいい、と言外に言っており、それ位はシンジにも分かる。
「じゃ、ちょっと待っててね」
 乱れた服を直してシンジが出て行く。
 間もなく戻ってきたシンジが差し出したのは、前後が分かれているショーツであった。端にひもがついている。
「これは?」
「ひもを結んで穿くやつ。いわゆるひもパン」
 危険物でも触るように手に取ったナタルが、
「結んだ部分が出っ張ったりはしないのか?」
「するだろうね。だからパジャマ用」
 ん、と内心で頷いた。
 満足した。
 着けた事はないのだが、普通に考えれば、そんなに出っ張る事はない筈だ。ナタルが訊いた意図は別にある。
「私は穿いた事がないのだが…その、誰かに結んでもらった方がいいかとおも…んぐ?」
 すっと伸びた指が、ナタルの唇に触れた。
「シンジしか見ないのだから責任持ってちゃんと結んでもらうぞ」
「…え?」
「って言ってくれた方が萌えるのに」
「そっ、そんな事を私の口からっ…」
 言えるわけ無いだろうと言いかけて、
「それもそうだな。シンジ、ちゃんと着付けの責任はとってもらうからな」
「はーい」
 あっさり方針転換したようだ。
 結構いいコンビなのかもしれない。
「あとは全身物と、赤ちゃん人形ね」
「ちょっと待て、いくらなんでもそんなサイズは入らないぞ」
「入らない?」
「今人形と言わなかったか?」
「ネタとしてはつまらない。三十点」
 くるりと背を向けて、シンジがさっさと歩き出す。
「なっ、なんだと私は真面目にっ!」
 シンジが理解しているかどうかはともかく、ナタルが本気で言っていたのは事実だ。
 人形サイズかと、真に受けたのである。
 それをネタ扱いされて、ムカッと来たナタルが試着室から一歩出て、慌てて引っ込んだ――自分の格好を忘れていたらしい。
 数分経って帰ってきたシンジが、
「今度はこれ…ん?」
 ナタルはプイッとそっぽを向いた。なお、格好は下着姿のままだ。
「どうかした?」
「私は冗談など言っていないのに」
 ぷうっと口を尖らせて、拗ねモードに入っているナタルに、シンジはうっすらと笑った。
「あ、ごめんね。英語にしてくれる」
「…英語で言えと?」
「違うってば。さっきのやつ」
「赤ちゃん人形か?と…ベビードール?」
「そうこれ。とりあえず赤にしてみましたよ」
「赤?」
 ベビーとか言ってるし、別に派手なものではあるまいと思っていたナタルの顔が、受け取った瞬間かーっと赤くなった。
「ま、前が開いているぞっ」
 ある意味分かり易い、ナタルらしいせりふではあった。
「ベビードールっていうのは、腰より上の位置から裾が拡がってるオサレドレスの事言うの。だからひらひらは当然なんだけど」
「…透けているのは?」
「おっぱいに自信がある人専用。無い人が着ると、見た目もオサレじゃなくなる諸刃の剣。そんな人にはお勧め出来ない。じゃ、返してくるね」
 ナタルの手から下着を取って、シンジが歩き出そうとした途端、その肩ががしっと掴まれた。
「じゃ、とはどういう意味だ、シンジ?」
 声は妙に低くなっており、危険な雰囲気が漂っている。
 ただし、修羅場も潜っていない人間の小娘に凄まれて困るほど、シンジは安穏とした生活は送ってきていない。
「僕は似合うと思って持ってきたけど、ナタルがなんか嫌みたいだったから」
「だ、誰がそんな事を言った!これ位なんともない!」
「そう?じゃあこれも」
 ついっとシンジが差し出したのは、もう胸元から大きく開いたタイプであった。色は薄いピンクで派手さはないが、乳房と股間の部分はきっちり透けており、どう見ても夜専用だ。
 ナタルの脳裏が、これを着た自分を瞬時にイメージする。
(す、透けている…ん?)
 ちょっと前を抑え気味にして立っている自分の前に、もう一人の像が浮かんだ。
(これは?…そうか、そう言う事か)
 ナタルを見ていたシンジは、大丈夫かなと内心で呟いた。赤くなってから、何やら得心したようにうんと頷いたのだ。
 何を納得したのか、非常に気になる。ナタルの反応が、時折通常の斜め上を行くことに、シンジは気付いていた。
「いいよ」
 だから、ナタルの声を聞いた時、ちょっとほっとした――正直、何を言われるかと勝手にシュミレーション中だったのだ。
「あ…いいの?」
「シンジが選んでくれた、のではなかったのか?」
「う、うん」
 ナタルの声は妙に落ち着いている。さっき迄とはまるで別人のようだ。赤くなって狼狽えちゃったりするナタルも…と、ぼんやり浮かんでいた考えを、シンジは首を振って振り払った。
 結局、二人してあれこれ選んだ結果は、買い物かご六つに満タンであった。二人掛かりでよいしょと運んでいったレジで、その足が止まった。
「これ…お持ち帰りしていいってこと?」
 二人の目に映ったのは、言うまでもなくコボルトの一撃で昏倒した女店員の姿であった。
「そうもいくまい。見え透いた罠、に見えない事もないがな。しかし…」
「うん?」
「寝ているようには見えん。気絶してないか?」
「気絶?なんでまた気絶を…あ」
「どうした?」
「ううん、何でもない」
(コボルトだな)
 すぐにピンと来た。
 と言うよりも、それしか考えられない。病の気配はなかったのだ。
「心当たりがあるのか?」
 怪訝な顔で訊いたナタルに、
「ナタルのせい」
「…は?」
 言ってから、先に次の台詞を考えてからにすべきと後悔したがもう遅い。それにいくらシンジでも――目に見えぬ知り合いが鉄棒で殴ったに違いないとは、言えなかったのだ。
「さっき試着室で暴れたでしょ。あの時にちょっとおっぱいが見えたから」
「そ・れ・で?」
 にゅう、とシンジの首に手が伸びてきそうな雰囲気だったが、次の瞬間一転した。
「綺麗な胸だったので鼻血を出して卒倒を」
「そ、そんな訳ないだろうっ!またそんなことをっ」
 眉をつり上げて怒ってはいるが、その顔はどこか赤い。
 十秒ほど経ってから、
「ほ、本当にそう思う…か?」
 蚊の鳴くような声で訊いた。
「ん」
「そう、か」
 頷いたシンジと、ナタルが顔を見合わせてうっすらと微笑った。
「ナタル、この子起こして払っておくから、先に外で待ってて?」
 シンジはだいたいの金額を分かっているが、ナタルは知らない。ポコポコと、大半を放り込んだのはシンジなのだ。
「でも…」
「大丈夫、人手は足りてるから。ね?」
「シンジがそう言うのなら…」
 ナタルが出て行った後、
「フロスト、この愉快な生き物起こして。凍傷にならない程度に」
 告げた口調はがらりと変わっている。
「合点だオヤビン」
 ふっと宙に現出したフロストが、
「で、本当に使って良いのかい?」
「フユゲツさん?何か企んでるのは知ってるよ」
「オヤビン?」
 てっきり丸投げしているものと思い、少々不安になっていた仲魔達だが、オヤビンの思考は違ったらしい。
「フユゲツさんは優秀だよ。その観点で見れば、色々と見えてくる事もあるのさ。さ、この生き物起こしてくれる?」
「了解!」
 
 
 
 結局、二人が家に帰ってきた時、時計の針はもう八時を回っていた。
 ベッドを初めとした家具や衣服、さらには細々したものまで買っていると、あっという間に時間は過ぎた。
 なお、買い物自体はスムーズに進んだのだが、ベッドを買いに行った店では、ダブルベッドを前にして赤くなっているどう見ても怪しい二人が、もう少しで通報される所であった。
 突如現れた火の玉を見て店員が失神しなかったら、今頃は店舗ごと氷の下に沈められていた事は間違いない。
 夕食を軽く済ませてから、ベッドの組み立てに取りかかる。そんなに重い材質は使っていないし、二人がかりだったから十分ほどで出来上がった。
「やっと…終わったね」
「そうだな…」
 結構疲労の溜まっている二人が、ベッドの上で仰向けに寝転がる。伸ばした手と手が触れ合い、ぴくっと反応した。
「……」
「……」
「そ、そう言えばシンジ」
「なに?」
「さっき買った私の下着は、半分位は見ていないのだが」
 確かに払ったのはシンジだが、着るのは無論ナタルだ。帰ったら見せてあげるから、と本末転倒な台詞に押し切られ、半分以上は知らされていない。
 なおナタルは知らないが、店での支払金額はおよそ60万円程である。
「帰ったら見せるって言ったよね。ちょっと着てみる?」
「うん」
 シンジが箱を担いできて、ドサッと床に置いた。
「ストッキングから穿いてみる?」
「ストッキング?」
 ナタルが怪訝な顔で首を傾げる。確かに下着と分類されない事もないが、ストッキングならいつも使う物だし、ちょっと気恥ずかしい感じもする。
 が、はいこれと渡されたのは、妙に大きな代物であった。そもそも、足だけを覆う物には到底見えない。
「これ…がか?」
「そ。穿いてみて。その前に裸になってからね」
「裸!?」
「裸じゃないと意味無いでしょ。じゃ、僕は表で待ってるから」
 さっさと出て行ったシンジの背後で、唖然とした表情のナタルが、妙に大きなストッキングを広げた。
「全身…物?」
 外に出たシンジが、
「そう言えば買い忘れてた」
 と月を見上げて呟いた時、にゃあと声がした。
「なんだネコか…ケットシー!?」
「もう、気付くのが遅いわよ」
 くるっと一回転すると、ネコは少女へと姿を変えた。一見すると普通の少女だが、耳はネコミミのままだ。
 こちらはナタルと違い、本物である。
「困ってるのに私を呼んでくれないなんて、ひどいんじゃなーい?」
 柔らかい肉球で、ぷにぷにとシンジの頬を叩く。
「別に呼んでは…あ。気配伝わった?」
「シンジ卿、私の事バカにしてるでしょ」
 すうっとケットシーの眼が細くなる。この猫妖精、結構プライドが高いのだ。
「ごめんね」
 シンジはあっさりと謝った。これが対人なら、火あぶりにしておくところだが、相手はシンジの友人なのだ。
「まあいいわ。それで、何を探していたの」
「えーとその…避妊具を…」
 下級とはいえ、妖精に嘘は通用しない。
「二錠で三日は絶対保証。感度は上がって絶対妊娠しない、程度の物なら持ってるけど?」 
 
 
 
 
  
(つづく)

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