GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第二十二話:口には口を以て消毒を
 
 
 
 
 
「こういうのを本末転倒と言うんだ」
「うん?」
「要するにミートソースでしょ?ボンゴレとカルボナーラまでにするべきだと思う」
 シンジがぶつぶつ言っているのは、メニューの話だ。お腹も空いた事だしと、イタリア料理の店に入った二人だが、パスタ一つ取っても種類が多すぎるという。
 しかしその辺のファミレスとは違うのだから、ミートソースかナポリタン位しかない訳はなく、そう言う店にあまり行かなかったシンジが悪い。
 傾げた首の角度が段々狭まっていくのを見かねたナタルが、
「米と麺とどちらがいいの?」
 と訊いた。メニューを全部理解した上の優柔不断も困るが、シンジの場合はそれ以前のレベルで、こっちはもっと困る。
「麺にする」
「魚系?それとも肉系?」
「じゃ、肉」
 結局ナタルはペスカトーレ、シンジにはボロネーゼを頼んだ。
 で、冒頭の台詞に戻る。
「要するに、じゃなくてボロネーゼが本来だ。イタリアはボローニャ地方から生まれたもので、挽肉を使った所からミートソースになった、と言うのが本当の所だ。それぐらいは知っておいておいた方がいいぞ」
「ナタルのくせに生意気な。大体知らなくても困るもんじゃないでしょ」
「困らなかったか?」
 追い打ちを掛けられて、ふいっと横を向いたシンジだが、すぐにその顔は戻ってきた。何やら思いついたらしい。
「あそこのテーブルに、フォークでくるくる巻いて食べてる人が居る」
「ああ。それがどうかしたか?」
「あれって、最初はどう食べてた?」
「どうって…昔か?」
「そう」
「フォークが無い時代は手づかみだと思うが…」
「そんな事は分かってる。小学生の答えじゃないんだから」
「そんな事を私が知っている訳ないだろう。それこそ無駄な知識だぞ」
「そうだね、別に知っていてもどうって事はない」
 頷いてから、
「でも思考能力レベルは分かる。箸がある訳はないし、フォークが無かったから手づかみだなんて、小学生でも出来る消去法だよね?ナタルって可愛い」
(ムカッ)
 最初から知っているならいざ知らず、知らなければ消去法で答えを出すのはある意味当たり前の事で、どうして小学生レベルとまで扱き下ろされねばならないのだ。
「……」
「……」
 雰囲気はやや殺伐としているが睨んではいないので、端から見れば見つめ合っているように見えるかも知れない。
 数秒で、二人の口許に同時に笑みが浮かんだ。
「止めとこ、食事時だし」
「そう、だな」
(……)
 その場はそれで収まったが、ナタルは内心で首を捻っていた。シンジに対して、こんな事を言うつもりはなかったのだ。
(ましてこんな…喧嘩を売るような事を…何故私は…)
 シンジを相手にした場合だけ、余計な事を口走る癖が出来た訳でもあるまいと、とりあえずその事は振り払って、
「シンジにその…言っておく事があって…」
「ん、なに?」
「そのけ…」
 言いかけたところへウェイトレスがフォークを運んできた為、ナタルの台詞は強制的に中断された。
(へっ、変な所で区切らせてっ)
 無論、ウェイトレスには何の罪もない。彼女はあくまでも職務を果たしたに過ぎないのだが、その肩がぴくっと震えた。
 殺気にも似たナタルの気を感知したらしい。
(ナタルって結構我が儘)
 ナタルの顔を眺めていれば、事情は大体分かるが、シンジは何も言わなかった。
 ウェイトレスがカサカサと退散した後、
「こらそこの軍人」
 シンジが手を伸ばして、ナタルの手の甲を軽くつついた。
「何」
「大丈夫、分かってるから」
「え?」
「今朝の事って言おうとしたんでしょ?空気読まずに誤解したりしないから、そんなにピリピリしないで?」
「べ、別に私は…」
「ごめんね、違った?」
「いや…違わない」
 ナタルの手をつついて、まだその側をうろうろしているシンジの手に、自らの手を重ねた。
「その、何というか…」
「うん?」
 謝ってもらったからもういいよ、などと勝手に言い出さない位には、シンジも空気は読める。
 伊達に人外魔境へ拉致されていたわけではないのだ。
「その…済まなかった。あ、その、単にシンジを傷つけてしまったとかそう言う事ではなくて…自分で言い出したのに…」
「……」
「シンジが家に来た時、失礼しますではなくてただ今と言ってもらったのは…も、勿論他人だが、出来るだけ色々話して欲しいと思ったからだ。それなのに、自分が正反対の事をしていれば世話はないな…」
 自嘲気味に笑ったが、すぐに表情を引き締め、
「これからは、思っている事は出来るだけ話すようにするから…」
「分かった」
 頷いたシンジが、
「約束だよ?」
 小指を差し出した。
(小指…を?どうするのだ)
 指切り、などというお呪いは、ナタルの知識範囲内にはない。とりあえず手を同じ形にして、シンジの小指にくっつけてみた。
「……」
「ち、ちがうの…痛っ」
 違うのかと言いかけたら、頬をむにっと引っ張られた。
「くっつけてどうする!誰がそんな事してって言ったのさ」
「す、済まないその…こういう事には疎くて…」
(そう言う次元じゃないぞこれ…)
 ちょっと脳内を覗いてみたい誘惑に駆られたシンジだが、そんな事をやってる場合ではないと、ナタルの小指に自分の小指を絡めた。
「あ、あの何を」
「破らない約束を交わす時はこう言うんだ、指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます、とね」
「は、針千本を!?」
「約束破らなきゃいいんでしょうが」
「あ…そ、そうか」
(んまったくもう)
 本人は絡まった小指を、これは文字通り初体験だったと見えて、物珍しそうに眺めているが、周囲のカップルからはくすくす笑われているのに気付いていない。
 何せこのナタル・バジルール、軍服のままなのだ。シンジの方は私服だが、かなり異色の組み合わせである事に間違いはない。
 
(今意味不明な事言ったわね)
(どうした?ランタン)
(オヤビンを傷つけた、ですって?オヤビンが自分の言葉で傷つくと思ってるなんて、おめでたいにも程があるわよ。ちょっと燃やしてやろうかしら)
(オヤビンの前でか?跡形もなく消されたくなかったら止めておけ。オヤビンが人間になど、心を許していない事くらい俺もお前も分かっているだろうが。わざわざ好き好んでオヤビンの逆鱗に触れる事もないだろ)
(…分かってるわよ)
 ランタンがついっと姿を消した後、南瓜は暫く二人を見つめていたが、ふと首を傾げた。
(この娘、オヤビンを挑発したかったようには見えなかったが…)
 
「それでシンジ」
「ん?」
「この儀式の事を何と言うのだ?」
「指切り」
「そうか指切りか…なるほどな…」
 何を感心しているのかとシンジでさえ首を傾げたくなった位だが、本人はいたって真面目である。きっと、そんな精神的なお呪いなどには無縁の境遇で育ってきたのに違いない。
 とそこへ、
「お、お客様…」
 ウェイトレスが済まなそうに声を掛けた。妙に雰囲気が濃いので、声を掛けていいものか迷ったらしい。
 なお、さっきフォークを持ってきたのとは別の娘である。
 運ばれてきた皿を見て、
「これって結構ボリュームが…あれ?」
 違う――明らかにナタルのとは、量が違うのだ。シンジのは、パスタの量だけでも二倍位ある。
(?…?)
 周囲のテーブルを見回しても、シンジのよりは少ないし、そもそも皿の大きさからして違うではないか。
「どうかしたのか?」
「ううん、なんでも」
 大振りの皿に大盛のボロネーゼ。
 まったく手を付けぬままメニューに手を伸ばした姿は、一見すると胃下垂の大食家にでも見えるかも知れない。
 或いは過食症か。
 飲み物はもう、オレンジジュースが来ているのだ。
 シンジの目が、砂粒から砂金を探す金山衆みたいになって、メニューをじっと見る。
 あった。
 オプションで大盛というのがあったのだ。無論、シンジは頼んでいない。
「ナ〜タ〜ル〜」
「なにか?」
「取っ替えて」
 何を思ったのか、ナタルはふふっと笑った。
 最初からその予定だったのかと思った直後、ずいっと顔を寄せてきて、
「絶対にやだ」
 と囁いた。
「あーもう、やな奴!」
「そう怒らずとも良かろう。交換はお断りだけど、手伝わないとは言ってない。ちゃんと私も手伝うから」
「ほんとに?」
「嘘はつかない」
「まあそれならいいけど」
 と、ここまでを傍から聞いていれば、ちょっと弟をからかってみたくなった姉の図、に見えるかも知れない。
 が、ここにミサトが居たらこう言ったに違いない――ナタルずるっ子だ、と。
 ナタルの性格上、物事に対しては常に成果を最優先とし、その次に効率がくる。今まではずっとそうだった。
 シンジに遭ってしまって、少々その辺にずれが生じているが、今は修正した。
 即ち、同居人としてシンジとの親密度は一定度まで上げておくべきで、その為の機会は、無尽蔵と迄行かずともかなりあるという、当たり前の事に気付いたのだ。
 それならば、殊更に何かを強調することもないし、シンジをさり気なく操縦すればいい。
 パスタをフォークで絡め取って口に入れたシンジに、
「味は?」
 と訊いた。
「いいんじゃない。悪くないと思うよ。食べたことはないの?」
「いや、それはない。私がオーダーするのは、いつも野菜とか海鮮類だから」
「じゃ、食べてみれ」
 シンジがフォークに巻き付けて、ナタルの口元に持ってきた。
「ん」
 咀嚼して飲み込んでから、
「そうだな、悪くない」
 頷いたナタルの眼が一瞬光った事に、無論シンジは気付いていない。そのまま三口程食べた、までは良かったがその後がいけない。
「もういいや、後は自分で食べる」
 と、シンジは自力消化に専念してしまったのだ。
(むぅ…)
 じゃこれも少し、と差し出す予定だったが、完全にタイミングを失った。今差し出せば、どう見ても嫌がらせになる。
 どうしたものかと策を練っているところへ、ふっとシンジが顔を上げた。
「な、なに?」
 不意を突かれ、一瞬狼狽えるナタル。シンジにそんな気はないのだが、突発的な何かには弱いらしい。
「あ、ごめん考え事中だったね。後でいいよ」
「いや、大丈夫だ。大した事じゃないから」
「そう?僕も大した事じゃなかったんだけどね、この間の事がちょっと気になって」
「うん?」
「この街ってさ、重要度の割に人工少ないよね」
「ああ、そうだな」
「でも、勿論全住民が軍人の訳はないし、一般人はいるでしょ?扱いはどうなってるのなって思って」
「民間人の避難のことか?」
「うん」
「それなら心配ない。この街は元々、ジオフロントと連動した要塞都市になっている。対使徒迎撃用のな」
「全国にその要塞都市が幾つ?」
「いや、ここだけだ」
「それって、あの変な奴が最初からここを目指してるって事?」
「そうだ。奴の目的はジオフロントの地下にある」
「ふうん」
 軽く頷いて、シンジはグラスに手を伸ばした。ストローでオレンジジュースを吸い上げながら、
(まだ、下っ端扱いかな)
 と内心で呟いた。
 使徒がここへ来ることを分かっている、シンジと口にした時、コウゾウは妙な反応を見せた。少なくとも、どうでもいい情報という感じにはほど遠い。
 が、ナタルの言葉にそんな響きはなかった。相手がシンジだから気を許した、と言う訳でもあるまい。だとすると考えられるのはただ一つ――ナタルが知らぬ何かがジオフロントにはある、と言う事だ。
 おそらく、マリューやミサトも知らされていないのだろう。
(謎の組織って言えば聞こえはいいけど、実際には隠匿だらけって気がする)
「気になるか?」
「え?」
「今、民間人の事を訊いたろう?言った通り、この街は基本的にネルフの関係者しか居住していない。居住者が皆無に近い高層マンションが、幾つも建ち並んでいるのはそのせいだ」
「?」
「ろくでもない役人共が、この街を建設する時勝手にマンション群の建築許可を出したからな。造ったまではいいが、居住許可の下りる人間など決まっている。無論、業者は廃業に追い込まれた。もっとも、許可を取るのに多額の賄を送っているからな、自業自得だと思っているが。それはともかく、この街の居住者は限られている。そして、現住民は無論のこと、今より三倍に増えたとしても収容できる地下シェルターは造ってある。でなければ、心優しいパイロットが色々気になって戦闘に集中できないだろう?」
「…それ嫌味?」
「本気だ」
 ナタルは真顔で首を振った。
「私がシンジの立場なら、故意でない限り人的被害など無視している。この街に住むというのは、それなりのリスクも伴うと言うことだ。と言うよりも――」
 シンジの手を軽く包み込み、
「何処かからクレームが付くまで、そんな事は考えもしないだろうな。自分が生き残るだけで精一杯だし、縦しんば乗る前は気にしていても、乗った瞬間にそんな平常心など吹っ飛んでいる。間違いない」
「ナタル…」
 ちょっと甘い雰囲気になった二人だが、
「ん?ちょっと待って」
「どうした?」
「でもそれ位は気にしないとまずいんじゃないの?」
「シンジ以外なら、な」
「僕以外?」
「乗る予定どころか、見たことすらない機体に乗せられて、しかも人類の危機だなどと言われてなお、平静さを保って周囲のことまで考えられる十四才がいたら、お目に掛かりたいものだ――ここ以外に」
 手の甲を指でさわさわと擽られて、シンジがぴくっと反応する。
「でも、誤解はしないでもらいたい。我々とて、民間人がどうなろうと構わないなどと、思ってはいないのだ。ただ、例え核の直撃に耐えられる仕様にしたからと言って、使徒の一撃に耐えるかは分からない。そもそも切り札であるエヴァンゲリオンからして、まだ全てを理解してはいない。どうしたって見切り発車になる部分があるのは…分かって欲しい」
「分かってるよ。別に人道主義を標榜するほどいかれてはいないしね。今、エヴァの事はよく分かってないって言ったよね。毒を以て毒を制すって言うでしょ。ふたを開けたら、案外使徒もエヴァも同じだったりしてね」
「そんなことはないだろう」
「だよね」
 二人して笑ったものの、それはどこか寒いものであった。
「ま、まあそれはともかく、大人になってからも成果しか見ない主義じゃ困るけどね」
「シンジそれは…私に対する当て付け?」
「ナタルってそういう人なの?」
「べ、別にそんな事はないが…」
「じゃ、いいじゃない。それに、ナタルはまだ女の子だと思うけど?」
「ほう」
 ナタルの指三本から、すうっと力が抜けた。邀撃部隊になったのだ。
 シンジの台詞次第では、爆撃に出てくることは間違いない。
「耳貸して」
「……」
 ちょっときつい表情のまま顔を寄せたナタルの耳元に、
「ベッドの中では可愛いし」
 次の瞬間、ナタルの顔が火を噴いた。文字通り、一瞬で首筋まで真っ赤に染めて辺りを見回す。
 無論シンジは大きな声など出しておらず、どちらが怪しいかは一目瞭然なのだが、そんな事を考える余裕も失われたらしい。
「な、なな、何を言い出すっ!」
「可愛いって褒めたのに」
「う、うっ、うるさいっ」
 急に顔を赤くして大きな声を出したナタルに、近くのテーブルにいたカップルが反応した。
「おい、あれやばいんじゃないのか?」
 小声で囁いた男の手を、連れの娘がぺちっと叩いた。
「女心の分からない男は黙ってなさい。あれ、照れてるのよ」
「そうか〜?」
 どう見ても怒っているように見えるが、同性の目は誤魔化せなかったらしい。
「じゃ、回遊魚の方がいい?」
「な、何だその回遊魚というのは」
「マグロ」
「マグロ?」
「あ、知らないならいいんだ。うん」
 こちらが知らないと知り、勝手に引き上げられるのは結構しゃくに障ることがあり、今はその時であった。
「そこまで引っ張っておいて勝手に納得するな!意地の悪い事言ってないで教えろ」
「…やだ」
 あっさりと振られ、教えてもらう方が強気過ぎたと気付いたか、
「あ、いやその…教えて欲しい」
「どうしても?」
「どうしてもだ」
「しようがないな。じゃ、耳貸して」
「う、うん」
 耳元に囁いたのは、
「魚河岸市場のマグロ」
 であった。
 ナタルの顔に、?マークが三つ浮かぶ。さっぱり分からない。
「それがヒントか?」
「違う、答えそのまま」
 シンジの顔を見る限り、意地悪している様子はない――表情だけでは判別できない事も、ままあったりするのだが。
 ふむ、と考え込んだナタルがシンジから手を離し、
「ではマグロ女と言うしゅぞ…モゴ!?」
 本人は真面目だが、呟きかけた途端、シンジに口をふさがれた。
(ナタル、女の人がそれ言っちゃだめ)
(別にマグ…!?)
 
 ヒソヒソ。ヒソヒソ。
 
 問題あるまいと言おうとして、周囲の反応に気付いた。
 静かな店内に、『マグロ女』の単語が妙に響いてしまったらしく、其処彼処で囁き合っている。
 ナタルの口元をおさえていた手を離し、
「ナタル、後で二人になった時教えるから。さっさと食べて出た方がいいみたい」
「そ、そうだな。あ、待て」
「何?」
「パスタが冷えた。シ、シンジにも手伝ってもらうぞ」
「別にいいけど?」
 ナタルが拍子抜けしたほど、シンジはあっさり頷いた。この分なら小細工は不要、もっと早く言っておけば良かったかと、ちょっと後悔したナタルの前で、
「あーん」
 餌を待つひな鳥よろしく、シンジが小さく口を開けた。
「…え?」
「食べさせてくれるんでしょ?」
 読まれていたのか?とか考えるよりも前に、ナタルは懸命に自分を抑えていた。
(か、可愛い…)
 性別を考えれば逆のような気もするが、シンジはまだ十四歳、線の細さを残している上に元から中性的な所も持っており、別段ナタルが異常という訳ではない。
 何よりも、アスランやキラの時には反応しなかったのだから。
 唇に触れたくなるのを我慢して――夜にいっぱい出来る――フォークにくるくるとパスタを巻き付け、シンジの口元へ運んだ。
 がしかし。
 同じ食べさせるのでも、さっきシンジがしたのとは決定的な違いがある。シンジの視界を占めていたのは仕組まれた量であって、ナタルの艶やかな唇ではない。
 一方ナタルはと言うと、ややもすればシンジの口元に視線を奪われがちだった訳で、そこが決定的な差を生んだ。
 即ち――手元が狂ったのである。
「痛っ!?」
 シンジが声を上げた時にはもう、フォークの先端が僅かながらシンジの口腔内に刺さっていた。
 
(オヤビンっ!)
 さすがに、突然姿を現すような事はしないが、仲魔達が瞬時に殺気立った。
「えーと…」
 自分の頬をぷにぷにとつついたシンジが、
「ん、大丈夫みたい。だからそこの南瓜達は落ち着け」
 シンジが制さなかったら、妖精の大群がこの店に襲来したかもしれない。そんな事をすればシンジの逆鱗に触れる訳だが、その辺はやはり妖精である。
「口の中から生えたらどうしようかと…あれ?」
 シンジの目に映ったのは、蒼白になったナタルの表情であった。
 
 
 
 十五分後、車へ戻ってきたシンジは、ナタルを落ち着かせるのに腐心中であった。
 実際大した事はなく、少し血が出た程度だったのだが、ナタルがすっかり狼狽えてしまい、普段の冷静沈着ぶりなど遙か彼方に吹き飛んでいる。
「ナタル、もう大丈夫だから気にしないで。ほんとに大した事はないんだから。ね?」
「で、でも…でもあたしのせいで…」
 確かに突発的な地震ならいざ知らず、シンジの赤い唇に見とれていて手元が狂ったなど、ナタルの性格からすれば自分を許せまい。
(ナタルでもあたしって言うんだ)
 と、妙な所で感心していたシンジだが、このままでは埒があかない。さっきから、ずっとこの繰り返しなのだ。
 ただ問題は、心配している原因にある。初号機専属パイロットだから、なのか或いは碇シンジだからなのか。
(軍人に訊くだけヤボだよね、はーあ)
 ナタルがどう思っているかはともかく、シンジの中ではパイロット故だからという事で固定されてしまっているのだが、二人の付き合いを考えればやむを得まい。
 会って未だ数日なのだ。
「分かった、じゃあこうしよう。ナタルがそこまで言うのなら消毒してもらうから。ちゃんと責任取ってね」
「分かっている…消毒?」
 消毒なら既にしてある。緊急時の怪我に対応するキットなら、いつも持ち歩いているナタルだ。
「そ。ちゃんと身体で責任取ってよね」
(かっ、身体って…)
 身体で弁償、とか言われれば分かるが、消毒と来た。
「わ、私の身体で消毒を…するのか?」
「うん」
 訝しげなナタルと、シンジの視線が出会って絡まった次の瞬間、ナタルの脳裏で何かが点灯した。
 閃きとは、或いはこういう事を指すのかも知れない。
「こ、これより消毒を開始する。ざ、座席を倒して」
 口調はいつものナタルだが、その頬は何故か赤らんでいる。
「了解」
 歯医者で治療台に固定された患者みたいに、シンジが口を開ける。
「ここが…傷口だな?」
 頬の外側から軽く振れたナタルに、シンジが頷いた。
「しょ、消毒をするから…す、少し我慢して」
 幸い、傷口の場所は浅い所にある。そっと這わせたナタルの舌が、傷口に触れた。
(どう?)
(血は止まっている。ただ…も、もう少し消毒が必要だろう)
(ん)
 ナタルの柔い舌が、傷口を丹念に舌でなぞっていく。最初はぎこちなかった動きも、徐々に滑らかになってきた。
 一分近く経ってから、ナタルが顔を上げた。
 妖しい手つきで口元に触れ、
「消毒は済んだ。もう大丈夫だ」
「そ。ありがと、先生」
「うむ。た、ただその…」
「なに?」
「だ、大丈夫だとは思うが、その、一応口の中も全部検査した方が…い、いいだろう」
「うんっ」
(ま、またそんな顔をっ)
 さっきのだって、シンジのこんな顔が原因なのだ。とはいえ、短期間に二度も繰り返すほど、間抜けでも物好きでもない。
 この辺り、アスランに押し倒されるキラの表情(かお)と似ている訳だが、そこは従兄弟故の共通点だろう。
 ゆっくりと顔を近づけようとした途端、にゅっとシンジの手が伸びてきた。両手でナタルの顔を挟み、そのまま引き寄せる。
 やわらかい唇同士が重なり、二人は少しの間動かなかった。お互いの手は相手の頬に添えられている。やがて唇を啄むような口づけから、淫らな音を立てて舌が絡み合うキスへと移行していく。
 舌の表裏も歯茎の裏も、口腔内をあます所無く舌が刺激する。シンジの舌をナタルが引き込み、今度はシンジがナタルの舌を絡め取る。
 濃厚なキスに、車内の空気もみるみる密度が増していく。
 お互いの口腔をたっぷり堪能してから、二人の唇は離れた。
 その間を繋ぐ唾液の糸を拭わぬまま、
「ナタル、レベル上がったね」
「レベル?」
「キス、上手になってきてる」
「きょ、教師がいいからな…」
「そう?じゃ、も一回テスト」
「お、お手柔らかに頼む」
 そう言いながら、先にシンジの唇を求めたのはナタルであった。
 今度もまた、耳を塞ぎたくなるような甘い喘ぎと水音を立てながら、二人が唾液を交換していく。
 やっと二人が離れた時、最初の消毒から五分以上が経過していた。
「も、もう…これですっかり綺麗になった筈だ」
 確かに唾液には殺菌作用があるが、濃密なキスによる筋肉の酷使は、傷口にとって吉と出るか凶と出るか。
 白い指でシンジの口元を拭ってから、ナタルはふと気付いた。
 周囲に車がないのだ――妖しいキスに没頭していたのは、駐車場の真ん中だったのである。しかも周囲に停まっていた筈の車は、いつの間にか一台もいなくなっている。
(み、見られていた!?)
 今頃になって赤くなったナタルに、
「どうしたの?」
「そ、その…しゅ、周囲に車が停まっていなかったか?」
「いたよ」
 ナタルはシンジの口調に、単なる事実認定以上の物を感じ取った。
「出て行くところは見た?」
「見たよ。でも僕たちには興味ないし、こっちなんか見ていないよ」
「…どういう意味?」
「僕に舌をなぞられてる時、ナタルの顔ってすっごく可愛いの知ってた?もうね、ぎゅっとしたくなる位に」
「じっ、自分の顔なんて…みっ、見ていないしっ」
「でね、そんな顔を不特定多数に見せるなんて勿体ないもの」
 シンジの言葉に、目許を染めていたナタルの表情が戻ってきた。
「車窓に何か細工を?」
「夜魔が二匹、窓に落書きを。ガラスの目しか持たない人間には、車内は無人にしか見えないよ」
 ガラスの目、とシンジは言った。この車が視界に入った者全ての目を、ガラス細工に変えた訳ではあるまい。
 手を伸ばせば届く所にシンジはいる。それなのに、その距離はひどく遠くなったような気がナタルには、した。
 その距離を縮めたのは、シンジであった。
「僕のお口もきれいになった。さ、買い物に行こ?」
 軽く頬に触れて促したシンジに、
「あ、ああそうだな…」
 頷いてエンジンを始動させようとしたナタルだが、次の瞬間その表情が硬直した。
「!?」
 窓の外に何も見えないのだ。空は快晴だし、窓も曇っていない。
 それなのに何も見えないのだ。
「ナタルどうかした?」
「窓の外がまるで空間みたいに…シンジには見えるのか?」
「見えない?」
 怪訝な顔で聞き返したシンジが、
「僕には何も…あ、そっか」
 ぽむっと手を打って、
「ナタル、飴持ってる?持ってるよね」
 持っているに違いない、と最初から断定系で来た。
「…持っているが…」
「いくつかくれる?」
「ああ」
 よく分からぬまま、苺味の飴をシンジの手に載せた。
 と、ここまではどうという事でもなかったが、その直後ナタルは信じられない後継を目にする事になった。
 窓を開けたシンジが、手の平に飴を載せたまま手を外に出した瞬間、手の平から飴は消滅したのだ。
「きっ、消えた…?」
 物理法則を無視するにも程があると、目をごしごし擦ってからもう一度見たが、やはり手の平に飴は載っていない。
 自分が載せ、そしてシンジが手を窓の外に出すまで、飴は確かにそこにあったのだ。
 では、飴は何処へ行ったのだ!?
「ん?」
 挙動不審なナタルに気付いたシンジが振り向いた。
「もう大丈夫だよ、車出して」
「でも窓の…!?」
 ナタルの視界に映ったのは、何ら変わらぬ外の景色――さっきまでは、あるべきものが見えない空間だったのだ。
 ふう、と大きくため息をついたナタルが、
「シンジ…」
 少し疲れたような声で呼んだ。
「なに?」
「一気に疲れた気がする。シンジのせいだ。気付け薬を要求する」
 意味不明な論法に小首を傾げたシンジだが、すぐに気付いてうっすらと笑った。
「いいよ、処方してあげる。でもちゃんとおねだりして」
「お、おねだり?」
「うん。それとも強奪する?」
「そ、そんな事はしない」
 ちょっと顔を赤くして――慎ましげに突き出された赤い唇に、躊躇うことなく自分の唇を重ねてから、シンジは内心で呟いた。
(インプ、ありがと。お礼しなくてごめんね)
 と。
 巣にカエレ!と強制的に追い払うことも出来た。
 だがシンジの好む方法ではないし、そんな性格だったら妖精達から慕われなどしなかったろう。
 十五分後、車が止まったのはランジェリーショップであった。
 シンジの寝具とどちらを優先するか、と言う話になり、シンジが押し切ったのだ。
「だってナタル、時間がないからやっぱりいいとか言いかねないでしょ?」
「そ、そんな事はない」
 否定したが、実は図星であった。シンジに選んでもらうぞ、とは言ったものの、いざその時になると急に恥ずかしくなってきたのだ。
 それでもここへ来たのは、シンジが強く押したと言うことに加えて、
『シンジは自分にどんな下着が似合うと思っているのか』
 と言うことに、少し興味があったという事もある。
「ほらナタル行くよ」
 車を降りて店の前まではシンジが先導だったが、そこでシンジの足が止まった。
「あの…いちおう訊くんだけどね」
「ん?」
「ここって女性専門…って事はないよね?ちゃんと男物もあるよね」
「この<アークエンジェル>は、女性専門のランジェリーショップだが。これが男女兼用の下着店に見えるか?」
「カエル!」
 くるりと回れ右したシンジの手を、今度はナタルが掴んだ。
「逃がしてあげる、と思ったか?」
 耳元で吐息と共に囁かれた時、シンジは自分が蜘蛛の巣に掛かった事を知った。
 それも――鳥すら捕獲しうるような強力な糸で出来たやつらしい。
 
 
 
 
(つづく)

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