GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第二十一話:えらい人のアイテムその壱:有能な秘書
 
 
 
 
 
「従兄弟殿からのお手紙かな?」
「そ」
 厚い手紙を一心に読んでいる少年を、妖精界きっての武人は穏やかな視線で見た。
 来る手紙と比して、返信はあまりにも薄いというか短いが、この手紙を読んでいる時は、シンジが一番幸せそうに見える事に、クーフー・リンは気付いていた。
 と言うよりも、穏やかな雰囲気に戻るのだ。
 自分やタム・リンが付いてはいるが、最初に会った時から、女王に気に入られてしまった人間の少年が、上級妖精や天使達から嫉妬の混ざった敵意を向けられている事は分かっている。
 無論、自分達が付いている以上、正面から手を出してくる者などいないし、身の安全は確保されているのだが、多感な少年には分かりすぎるほど分かっていよう。
 中級妖精以下、シンジを慕う者が多いのはせめてもの救いであった。
 戻すと言ってもメイヴが絶対に許さないし、そもそも戻した所で居場所がない事は、既に調べがついていた。
 親が無く――養育係になるべき者達に取って、シンジは金蔓にしか過ぎないという事も。
 シンジが手紙を読み終わるのを待ってから、
「ところでシンジ殿」
「何?」
 このクーフー・リン、年下――とも単に呼べぬほど年齢が離れているシンジの事を、一度たりとも呼び捨てにした事はない。
「その従兄弟殿の状況は存じていないが、シンジ殿さえ良ければ、地霊達を秘かに付けておこうか?日常生活とはいえども、危険が全く存在しない訳ではないだろう?」
「いいよ、アスランとキラならそんなボンクラじゃない。それに――」
 シンジは顔を上げて、
「戻ったら僕が二人を守るから」
「そうだな、シンジ殿なら出来るだろう」
(やはり、戻る意志は固めているか…)
 無論シンジは、再開早々二人を氷漬けにする羽目になるなどと、思っていなかった事は言うまでもない。
 
 
 
 
 
 自室に戻ったコウゾウは、引き出しから胃薬を取り出した。
 数錠まとめて放り込み、ぬるくなった茶で流し込む。
「……」
 ドカッと椅子に腰を下ろしてから、長い溜息を吐いた。
 世話を焼かせるのは、マリューとミサトだけで十分だ。つまらない意地を張り合って三号機と四号機を破壊してくれた時は、人類終末の日を歓迎する気かと思ったが、今度はネルフ本部壊滅の日へ、まっしぐらに突き進みたがる連中が出てきた。
 どうしてこうも、自分の前にせっせとストレスを積み重ねてくれるのか。
「上層部一番と三番がボンクラなので、二番の人は健康に気をつけて」
 などと、シンジから言われる始末だ。
 この分だと、使徒退治よりも前に内部からのストレスでぶっ倒れそうな悪寒さえしてくる。
「まったく…」
 呟いた時、インターホンが鳴った。
「副司令、エザリアです」
 鈴を振るような声に、コウゾウの表情が少し戻った。
「戻ったか。入りたまえ」
 ドアが開いて姿を見せたのは、銀髪の綺麗な女性であった。
 エザリア・ジュール、コウゾウ直属の秘書で、その能力はコウゾウから全幅の信頼を置かれている。
 かなりの美人だが、これでも子持ちだ。
「少しはゆっくり出来たかね?」
「私の帰省中に使徒が出現したと聞きました。大事に休暇など頂き、申し訳ありません」
「いや、構わんよ。こちらの戦闘は安心して見ていられた。特に問題はない」
「それならよろしいのですけれど…やはり総司令のご子息が?」
「そうだ」
 と頷いてから、
「今日も来ているが、今日は気分がそれどころではないだろうから、会った時に挨拶しておきたまえ。但し、碇の息子という事は決して口にするな」
「ご事情がおありなのですね」
「入ってきた時、ジオフロントが前衛的なデザインに変わっていたろう。あれが答えだよ」
「かしこまりました。ただ、娘に聞いた限りでは、以前にいた学校で異形の力を使った事はないとの事でしたが」
「シンジ君自身は、普通の少年だ。君の娘が言ったのは間違いではないよ」
 エザリアの娘イザークは母によく似ており、透き通るような白い肌の持ち主だ。
 可愛らしい外見とは裏腹に、性格は強烈な所がある。
 なお彼氏付きで、そちらはシンジの数少ない友人だ。
「それよりエザリア君」
「はい」
「今回君に与えたのは休暇であって、娘のネットワークからシンジ君の事を調べるように、とは言っていない筈だ。子供と過ごす時間はゆっくり取れたのかね」
「お気遣いに感謝します。でも大丈夫ですわ。時間は取れましたし、それにあの子には恋人がいます。十分、あの子の支えになってくれる子です」
「ならばいいが…」
 能力値はまったく問題ないが、仕事をまず最優先に考える性格で、ここ数ヶ月まったく娘に会っていなかったから無理に休暇を取らせたのだが、どうやらシンジの事を探ってきたらしい。
(らしいと言うか何というか…)
 内心で苦笑したコウゾウに、
「副司令」
「ん、何かな」
「戦闘時のデータは後ほど目を通した上で、報告書は提出しておきます。総し…いえ碇シンジさんの現況、及び性格等について教えて頂けますか?」
「住居はバジルール少尉との同居が決まった」
「それは、副司令が決定されたのですか?」
「違う。私は事後承諾で許可しただけだ。シンジ君も、バジルール少尉とはかなり気が合ったようだよ」
「バジルール少尉と…」
 エザリアはおうむ返しに呟いた。コウゾウの口調からして、事前の指示はなかったと見える。だとすれば、ナタルが初対面の少年と意気投合した、と言う事になるのだが、エザリアの脳裏ではどうしてもその光景が思い浮かばない。
「了解しました。お預かりいたします」
 同居するように告げられ、刹那驚いたような表情を見せてから敬礼して受諾する姿なら、即座に思い浮かぶのだが。
 普段のナタルを知れば知るほどそれは当然の事で――騎乗位で喘ぐナタルが想像出来ない限り、無理な話だ。
 ナタルをあっさりと陥落させた少年に、エザリアは少しだけ興味が湧いたが、そんな内心を見透かしたかのように、
「どうせ分かる事だから言っておくが、碇は火あぶりにされ、赤木博士は生きたまま氷柱の中に閉じこめられた。その一方で、葛城・ラミアスの両少佐の事はそれなりに評しているようだ。なおシンジ君は、自分は親無しという認識だ。墓穴には、くれぐれも気をつけてくれたまえ」
「はっ」
 部屋を退出したエザリアは、
「火あぶりと氷柱…ね」
 と呟いた。
 微妙な表情であった。
 
 
 
 
 
「お願いだからその…聞いてほしい…」
 後ろからシンジの肩を抱くような格好になっているナタルだが、その手にこめられている力は、あまりに弱々しい。
「聞くって何を?誰に何て言われたか知らないけど、ナタルさんには命令が絶対なんでしょ。もういいじゃないですか」
「違うっ!」
 思わず大きな声をあげてしまい、慌てて、
「め、命令などではないのだ。命令などでは…」
「……」
 シンジからの反応はない。
 これはもう誤魔化せるものではないと覚悟を決めて、
「私が勝手に見た夢でその…すまなかった…」
「夢?」
 これだから人間は意味不明な生き物だと、内心で呟きかけてから気付いた。
 ナタル・バジルールという女性は――人としては、ひどく純粋なのだろう。兵士を駒として使う知識は持ち合わせていても、生きた人間と普通に接するのは得意ではないと見える。
 それも――自分より一回り近く年下の少年すら、あしらえない程度に。
(ま…しようがないのかな)
 少し表情を緩めたシンジが、
「夢ってどんな夢を?話してくれるよね?」
「そ、それは…」
「嘘なの?」
「う、嘘など言わない。た、ただ…」
「ただ?」
 
(オヤビンてさ、こうさりげなく追いつめるのって結構上手よね)
(うむ。これならこの小娘も断れんからな。ランタン、勝手に暴走するなよ)
(分かってるわよ)
 
 くるりと振り向いたシンジが、ナタルの顔をじっと見た。この時まで、背を向けたままだったのだ。
 逃がさないよ?イヒッ、とその視線は言っており、ナタルはまたも追いつめられた。
「わ、笑ったり…怒ったりしないか?」
「約束はしない。でも話してもらう」
(くっ…!)
 いよいよ崖っぷちに追いつめられた。ちょっとシンジは戻ってきた感じだが、ここで言わなければ、身を翻して去って行きかねない。
(ど、どうにでもなれ)
 半ば自棄になったナタルが、シンジの耳に口を寄せた。
「ふんふん…ふうん…」
 ナタルに耳打ちされたシンジは、すぐには反応しなかった。
 表情を変えぬまま首を傾げているシンジに、ナタルが不安になった次の瞬間、
 
 アヒャヒャヒャヒャ!
 
 シャワールーム内に、シンジと仲魔達の笑い声が響き渡る。
 しかもシンジに至っては、文字通り腹を抱えて笑っているではないか。
(わ、笑ったりしないと言っ…てはいないか)
 ご丁寧に、約束しないと予め断っていたのだ。
 やっと笑い発作の治まったシンジが、
「ナタルだしね」
 よく分からない納得のされ方だったが、シンジの呼称が戻った事に気付き、ナタルはちょっとだけ安堵した。
「それにしても…元ネタって何?」
「元ネタ、とは?」
「聞いたまま、元のネタって意味だよ。夢は心にある物から来ると言われるけど、無い袖は振れないんだ。ナタル、幽霊見た事無いでしょう?」
「な、ないっ」
 やや早口になったのは、シンジの台詞に一瞬焦ったからだ。
 夢は心にある物から、とシンジは言った。
 では――自分の心にはあんな光景への憧憬があるという事になるではないか!?
「そっ、それで幽霊とどう繋がりがっ?」
「あの〜」
 ナタルの顔を見たシンジが、ちょっと言いにくそうに、
「トイレ行くなら言ってくれば?僕は待ってるから」
「ト、トイレ?」
「だって急に顔赤くなったりなんかもじもじしてるみたいだし…」
「ち、違う。トイレではない。そ、そうだその…シ、シンジの機嫌が直ったみたいだから、少し安堵しただけだ」
 端から聞けばトイレを我慢している方がよほどましで、せっせとスコップで墓穴を掘っているような台詞なのだが、本人は気付いていない。
「そう?」
 
(ほんっと誤魔化し方を知らないって言うか嘘が下手って言うか…)
(人間的にはこう言うのだ――単細胞、とな。まあ、オヤビンの機嫌も直った事だし、後は放っておいても良かろう。さてランタン行くぞ)
(そうね)
 
 信じたのか、或いは追求するのは面倒だと思ったのか、
「話戻すけど、普通の人は幽霊を見た事がない。せいぜいその手の図鑑で見た事がある位。それでね、例えば昼間に怖い怪談話を聞かされて、そのインパクトが強かったとするでしょ。でも知識が無いから、もし見たとしても夢に出てくる幽霊像は、図鑑で見たそれ以上になる事はない。ナタルに訊いたのはそう言う事なんだけど、やっぱりドラマからとか?」
「ドラマ…」
 首を傾げたが、すぐに振った。
 テレビ番組など、ニュースか料理系以外興味ないし、そもそも必要ない。
「違う。そんなシーンを見た記憶はないし、そもそもドラマなどわざわざチャンネルを合わせる事もない」
「そうなんだ」
「うん」
 と、ここまでは普通の会話だが――既におさかなは針に掛かっている。
 よし釣れた、とシンジが内心で呟いたかどうかは定かでないが、
「じゃ、憧憬から来たって事?」
「憧憬って…あ、憧れっ!?」
「うん」
 確かに、記憶にない事なら憧憬から生まれた夢、と考えるのが自然だが、さらりとシンジに指摘され、
「そ、そそっ、そんな事はっ」
 顔を赤く染めたナタルが横を向く。
 そこへ、
「何故赤くなるの?」
 シンジが意地悪にも、追い打ちを掛けてきた。
「何故ってそれはその…っ」
「女の人なら、大抵はそういう生活とか憧れたりするものでしょ?ナタルもそうかなと思って訊いたんだけど…」
「!?」
 シンジ云々の絡みではなく、単なる一般論として訊いたらしい。となると、自分だけが空回りしていた事になる。
 勝手に墓穴を掘ったらしいと、羞恥で首筋まで染めたナタルが、ハッと何かに気付いたようにシンジを見た。
「なあに?」
(笑っている!?)
「もしかして…私は釣られたのか?」
「食い付きの良いおさかなさんだと釣る方も楽」
「くっ!」
 羞恥と怒りの混ざった視線でシンジを睨んだナタルだが、不意にシンジが微笑った。
「シンジ?」
「気が済んだ。許してあげる」
 うっすらと笑ったシンジが、細い指でナタルの頬に触れた。
「あ…」
 十秒近く掛かったが、
「うん」
 頷いたナタルの口許は、少しだけ緩んでいた。
「あ、そうだ一つ忘れてた」
「え…む!?」
 シンジが何かを思い出したように手を打って、すっとナタルに近づく。
 てっきり素通りだと思った次の瞬間に顔は捉えられ、その唇は奪われていた。
 
 
 
 五分後、ナタルを肩に担いだシンジが、飄然とシャワールームから姿を見せた。
 ナタルは完全に陥ちており――と言うより失神済だ。
「これ位はしておかないとね。釣りだけじゃちょっと物足りない…あれ?」
 おやっと首を傾げた。
 仲魔達が姿を消している事に気付いたのだ。
「ナタルって結構重いんだけどな…」
 相手が失神しているからとはいえ、ろくでもない台詞にも程がある。
 と、そこへ、
「シンジ卿、聞かれたら忌まれるぞ?」
 にゅう、と床から湧いてきたのは狼――いや、直立歩行しているから狼男だろう。
「コボルト?どうしてここに?」
「フロストに頼まれた。シンジ卿が重い荷物を抱えて、ふらふらしながら出てくる筈だから手伝ってやってくれとな。お邪魔だったかい?」
「……」
 ちらっとナタルを見やり、
「いや、いいや。担いでいって」
 ぽい、と放り出すように渡された女体を、コボルトは軽々と受け止め、これまた肩に担いで歩き出した。
 やや粗雑な扱いだったが問題は――シンジのそれが照れ隠しには見えなかった事だ。
「コボルト、それ車まで運んでいってくれる?僕はもう少しぶらぶらしてから行くから」
 おまけに、『それ』扱いときた。
「あいよ。寝かせておくんだな?」
「うん」
 危機に際した場合、シンジの助けとなるのはフロストとランタンしかいない。女王メイヴから厳命が下っているからだ。
 正確に言えば、
「僕が側にいられなくてウズウズしてるのに、況やおまえ達なんかが!」
 と言う、かなり我が儘なところから来ているが、それでも日常生活で下級妖精が助けに来る分には別に咎めたりはしない。
 フロストやランタンは、防御や攻撃にはかなり適しているが、力仕事には向いておらず、シンジ自身は普通の少年の為、こう言う時に肉体系の妖精がきてくれるとかなり助かる。
 ナタルを担いだコボルトが、ずぶずぶと地面に姿を消すのを見送ってから、
「コーヒーでも飲もっかな」
 呟いて角を曲がった直後、
「あの」
 後ろから声がかかった。
 周囲には誰もいない。
 多分自分だろうと、
「はい?」
 振り向いた瞬間、シンジの眼が丸く見開かれた。
「え…」
 初対面の相手の顔を見た途端、立ちつくすというのはあまり礼儀正しい事ではない。
「私の顔に何かついていますか?」
 婉然と微笑まれて、漸くシンジが我に返る。
「あ…ご、ごめんなさい」
(似すぎ。ていうか誰!?)
 決して口には出せぬ事を内心で呟いた。
「私はエザリア、エザリア・ジュールです。冬月副司令の秘書です」
(ジュール!?)
「さっき、私の顔を見て驚かれたようですが、以前に何処かでお会いしましたか?」
「い、いえ…ちょっと知り合いに似ていたもので…すみません」
 謝ってから、
「あの、僕が来た時からおられました?」
「いいえ?」
 くすっと笑ったエザリアが、
「副司令がどうしても休暇を取るようにと言われたので、娘と会ってきました――イザーク・ジュールと」
「あーっ、やっぱり!」
 ビシッと指を差してから、
「ごめんなさい」
 慌てて謝った。
 何の関係もない初対面の人間に、会ってから数分もせぬうちに三度も謝るなど、シンジの人生でも初めての経験だ。
「いいのよ。あの子は私に似ているから、驚いたでしょう?」
「え、ええ…でもイザークは…」
 言いかけてから気付いた。
 別に本人がパイロットでもないし、両親の話などした事はなかったのだ。別に言おうと言うまいと、本人の勝手である。
「今、お時間は空いてるかしら?」
「あ、いいですよ。大丈夫です」
「じゃあ、ちょっと付き合って頂いていいかしら」
「はい」
 エザリアの後に付いて歩きながら、
(何だろう…どこかマリューさんに似てるような感じがする…全然タイプは違うのに)
 ぼんやり考えていたせいで、自分の足に蹴躓くと言う器用な芸をする事になった。
 エザリアがシンジを連れて行ったのは、食堂であった。
「ジュースか紅茶かコーヒーか、何がいいかしら?」
「じゃ、紅茶で」
 分かったわ、と頷いたエザリアは、自分にはブラックとシンジにはミルクティを持ってきた。
 ストレートともミルクとも、何とも言っていない。
 自分の前に置かれたカップを見て、シンジは頷いた。ちょっと満足したらしい。
「碇シンジ君」
「あ、はい」
「イザークの事、母親がいないと思っていたの?」
「え?あ、いえそうじゃなくて、そう言う話とかした事なかったから…」
「あの子にとっては、誇る事でもないものね」
「あ、そんな事無いです」
 家庭の事情は知らないくせに、シンジの台詞は妙に自信ありげで、エザリアはどうして?と言う視線を向けた。
「イザークは結構いい性格してますから。ママがロクデナシだと、ああはならないでしょう」
「い、碇シンジ君…」
 一瞬驚いたような表情を見せたエザリアの顔が、ゆっくりと微笑に変わっていくまで、十秒近く掛かった。
「ありがとう…」
 微笑んだその顔は、有能な秘書としてのそれではなく、子を想う母のそれであった。
 だが、見つめる仲魔達の思いは、エザリアのそれとはかけ離れた所にある。
 
(…オヤビン…)
 
 自分に親はないと言い切ったシンジであり、無論フロスト達もシンジの境遇は知っている。
 実親は無論、『里親』にまで全く恵まれなかったシンジの事を。
 エザリアに向けた言葉を、シンジはどんな思いで口にしていたのか。
 そんな見えざる生き物の思いなど知る由もないエザリアが、
「ところであなたの階級は何になったのかしら?」
「階級って(NERV)ここの?」
「ええ」
「ないですよ」
「あら、まだ決まっていなかったのね」
「そうじゃなくて、僕は軍属になる気ありませんから。本来なら――」
 カップを取り上げ、ちゅーっと一口飲んだ。
「アスランとキラの機体を取り出して、後はここを丸ごと氷の下に沈めても良かった位なんですけど」
「!?」
 物騒な台詞を口にしてから、
「でも、上層部のナンバー2がまともだったので、止めました。エザリアさん、いい上司持ちましたよね」
「え…ええ、そうね」
 反応するまでに数秒掛かったし、しかもこくんと頷いたそれは、まるでロボットであった。
 さっきコウゾウは、前衛的なデザインになったと言った。が、エザリアはあまり気にして聞いてはいなかったのだ。
 そう言えばネルフ本部内を何かが貫いていたようだったが、まさかこの少年が!?
「あの…一つ訊いていいかしら」
「はい?」
「使徒はその…氷漬けにして倒したのかしら」
「いいえ?そんな事出来ませんよ」
「そ、そう…。でも本部内に氷のオブジェを作ったのはあなたでしょう?」
「違います」
 シンジは即座に否定した。
 シンジ自身が命じた、或いは手を下したと言う意味ならば事実だが――そういうのは普通、シンジがやったと言うのだ。
「あら、そうだったのごめんなさい。勘違いしていたみたい」
「いえ」
 エザリアは、妙に唇が乾いている事に気が付いた。
 まだ湯気の立っているコーヒーを一口飲む――普段より、妙に苦いような気がした。
 話題を切り替えようと、
「そう言えばさっき、軍属になるのは嫌だと言っていたでしょう?」
「ええ」
「あなたはどうしてエヴァに乗っているの?」
「どうして…」
 鸚鵡返しに呟いたシンジが、
「アスランとキラがいるから。何せ僕が守ったげると決まってますから」
「そう…」
 実際には、別に人類が滅びようと関係ないけどあの二人はきっと此処を動かないからとか、良からぬ一文を省略した回答なのだが、初対面の相手にそこまで手の内を見せる事もあるまい。
 シンジがふと時計を見た。
「人を待たせてるんで、僕そろそろ行きます。その前に、一つ訊いてもいいですか?」
「どうぞ」
「エザリアさんは、性格的には赤木博士とミサトさんと、どちらに似てる感じなんですか?」
(おかしな事を訊く…!?)
 すぐにピンと来た。
 子供のはった陥穽にまんまと嵌るほど、エザリアは単純ではない。
 単に聞いただけではちょっと変わった質問だが、単語を切り離せばすぐに分かる。
「赤木博士」と「ミサトさん」だ。ミサトは日本人だから、赤木博士の同等語は葛城さんになる筈だ。
 シンジがいずれを望んでいるかはともかく、“どちらが無難か”はほぼ確定だろう。
「自分では分からないんだけど、他人(ひと)からは葛城少佐に似てるって言われるわね…え?」
 にゅう、と手が伸びてきた。
「あなたとは上手くやっていけそうです。今後ともよろしく」
「え、あ…ええ、よ、よろしくね」
 僕はこれで、とシンジが去った後、エザリアはしばらく掌を見つめていた。
 強そうな感じはしない。それどころか一見すると弱々しい印象すら受ける。
 だが手に残るぬくもりがそれを否定する――そんな単純な少年ではない、と。自分に対しての接し方はともかく、第一次直上会戦の直後なのだ。既にデータには目を通してあるが、初搭乗どころか、知識すら皆無だった少年の戦い方とはとても思えない。戦い方に対する意識とか、そんなものでどうにかなる相手ではないのだ。
「見た目と本質にギャップ有り過ぎね。彼は一体何者なのかしら?」
 呟いてカップを空にする。
 コーヒーはすっかりぬるくなっていた――急速に温度が下がったに違いない。
 
 
 
 てくてくと歩いて駐車場に着いたのは、十五分後の事であった。
「まだ寝てるね、さて起こすか」
「起きないぞ」
「え?」
 少年に、狼男はにっと笑った。
「揺り起こすだけなら誰でも出来る。クー様に鍛錬されたシンジ卿にはもっと高いレベルが要求される、そうだろ?」
「ハン?コボルト何言って…あ、こら待てっ!」
 捕まえようとした時にはもう、その姿は地中に消えていた。下級妖精の類で、知力と体力のバランスにはかなり問題のある種族だが、人間の少年が捕まえられる相手ではない。
「逃げられちゃった。仕方がない、自然に目覚めるまで待って…なんてね」
 何故かシンジは宙を見上げた。
「そこの雪だるまと南瓜ども、僕を攻撃しようと思ってたろ」
 雰囲気を読まないオヤビンに天誅を、とか仲魔達が考えていたのは分かっている。
 さっきまでなら、それでも放っておいたかもしれないが、さっきより機嫌のバロメーターはやや上がっている。
 ナタルの寝顔に唇を近づけ、両の目許に軽く口づけした一分後、ナタルはうっすらと目を開けた。
「…ここは…」
「ナタルの車の中」
「シンジが…運んできてくれたのか?」
「そ。もうお昼だし、食事してから買い物行こ?」
(直って…る?)
 キスされて、頭がぼんやりした所までは覚えているが、あまりシンジの機嫌が直っていなかったような気がしていた。
 ただ、今シンジの表情を見る限り、戻っているような気がする。
「その…」
「ん?」
「もう…いいのか?」
 ナタルの言葉にシンジがうっすらと笑った直後、ナタルが身体をびくっと震わせた。
 耳元に顔を寄せたシンジが、ナタルの耳朶を甘噛みしたのだ。
「野暮な事聞かないの。さ、起きて起きて」
「ちょ、ちょっと待て」
「え?」
「まだ勤務中だし、勝手に抜け出す訳には…」
「勝手にって、フユゲツさんから聞いてないの?」
「いや私は何も…」
 言いかけてから、ふと気付いて携帯を取りだした。
「あ…」
「どしたの?」
「副司令から十二回も連絡を頂いている」
「……」
 ジト目で自分を見るシンジに、
「し、仕方ないだろう、気を失っていたのだから。別に無視した訳ではないぞ」
「じゃ、フユゲツさんに言っとく。バジルール少尉が逆ギレしてましたって」
「べっ、別にそう言う意味ではないっ。わ、分かっているだろうっ」
「分かってるよ。さ、早く電話しないとまた掛かってくるよ?」
(ま、まったく…)
 微笑って促したシンジに、また釣られたような気もしたが、ナタルは何も言わず携帯のボタンを押した。
 相手はすぐに出た。
「私だ」
「バ、バジルールであります。遅れて申し訳ありません」
「シンジ君はその場にいるのかね?」
「は、はい居られますがお繋ぎしましょうか」
「所在確認だけだ。シンジ君がいるとあれば、君を縦穴に落とす訳にもいかんな」
(また鳥!?)
 ナタルの記憶が甦る――鳥に襲われ、体中を羽毛に覆われた忌まわしい記憶が。
「まあいい。シンジ君に聞いていると思うが、今日は午前中で切り上げたまえ。午後からは、シンジ君のお供としてついて回るように」
 命じた声は、厳とした副司令の物で、シンジに見せる好々爺ぶりは微塵も感じられない。
「かしこまりました」
「シンジ君に替わるように」
「はっ」
 副司令が、と渡された携帯を耳に当て、
「ああ、フユゲツさん?」
「私だよ。何か良い事があったかね?」
 コウゾウの言葉に、シンジがふふっと笑った。コウゾウも、シンジの精神構造を何となく理解してきたらしい。
「いい秘書持ってますね」
「エザリア君に会ったのかね!?」
 コウゾウの言葉には、明らかに心配が含まれていた。と言うより、エザリアが余計な事を口走らなかったかと、咄嗟に考えたのだ。
「会いましたよ。イザークのお母さんとは知りませんでしたが」
「そ、そうか」
 地雷を踏んだのではないらしいと知り、コウゾウは心から安堵した。ウェルダンや、氷柱に封じ込めたい秘書ではないのだ。
「それでフユゲツさん、僕に何か?」
「ああ、そうだ。買い物に行く前に、銀行へ寄りたまえ。バジルール少尉が口座を持っている銀行だ」
「いいですけど?」
「些少ながら、入金しておいた。私からのお礼――と言うよりお詫びの方が大きいな。一番と三番が迷惑を掛けたお詫びだ。家具を揃えるのにも何かと金は掛かるはず。私からだから、受け取ってくれるとありがたいが」
 一番と三番――シンジが言った上層部に巣くうボンクラーズの事だろう。
 耳から携帯を離し、シンジは一瞬電話機を見た。
「分かりました、もらっといてあげます」
「うむ。それと、明日の学校は出たまえ。ただし、こちらでの訓練等は君が直ってからで構わんよ」
 奇妙な台詞に、シンジが首を傾げる。
「僕、健康体ですよ?」
「私が君の立場になれば、数日は寝込んどるよ。君本体は普通の少年だろう?年寄りの意見は聞くものだよ。いいからそうしたまえ」
(むう…)
「分かりました。じゃ、そういう方向で」
「うむ、気をつけてな」
 通話を終えたシンジが携帯を返し、
「銀行に行くようにって」
「銀行へ?」
「僕の引っ越し代を、ナタルの口座に入れておいたからって言ってた。多分十万円くらいでしょ」
「分かった。では先に寄っていこう」
 この時点では二人とも、さしたる金額とは考えていなかった。ナタルもシンジの言った位だろうと思っていたその十分後。
 おろして来てとナタルに頼み、シンジは車の中で待っていた。
 とっとと終わるだろうと、何気なくナタルの動きを眺めていたシンジの眼に写ったのは、ATMを前にして硬直しているナタルの姿であった。
「!?」
 それを見て、シンジの表情に緊張が走る。
 カードを使いすぎて残高が無くなる事など、ナタルの場合はあり得ないし、おそらくは犯罪的要件だとおもったのだ。
 がしかし。
「ナタルどしたの?」
「…これを…」
「うん?」
 画面を覗き込んだシンジの口がぽかんと開いた。
「…は?」
 ごしごしと目を擦ってからもう一度見る。
「今日付で八百万円が入金されている」
「ナタル横見れ」
「横?」
 外部から入金された場合、振込人の欄に印字がある。
「『…フ、フユゲツ?』」
 
 
 
 
 
(つづく)

TOP><NEXT