GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第十七話:Black of Natarle Badgiruel
 
 
 
 
 
 ナースとかくの一とか婦人警官とか。
 人間界の、それも日本の風俗に詳しい女王様のおかげでコスプレ――正確にはイメクラもどき――は既に体験済のシンジだが、ネコ耳はまだやった事がない。
(…なんかすっごく落ち着かない)
 ナタルはアルコールが駄目でお菓子が大好きとか、前者はともかく後者は外見とややギャップがある。だからある程度までならシンジも気にならなかったろうが、軍服に身を包んで凛とした姿勢のナタルが脳裏に浮かぶと、ギャップが大きすぎてそのまま萌え材料に転換されてしまうのだ。
 着ている方はいつもの格好だし、シンジに似合うと言われたものだから、ネコナタルの格好で麦茶なぞ飲んでいるが、シンジの方は押し倒したくなる衝動を何とか抑え込んでいるところだ。
 すう、と大きく息を吸い込んでからゆっくりと吐き出す。
 とりあえず、治まってくれたらしい。
「どうかしたのか?」
「ううん、何でもないよ」
「それならいいが…林檎でも剥こうか?」
「ウサ耳で」
(ウ、ウサ耳?)
 耳は分かるが、その前が分からない。
(ウサとは一体…?)
 脳内データベースを検索しても、そんな単語は載っていない。
「あ、あのシンジ…」
「ウサ耳知らないって事はないよね?」
 訊こうとしたらいきなりジャブが来た。知らないから教えて、と言うには少々プライドが壁になる。
 まだそこまでの関係ではないのだ。
「し、知らない訳がないだろう、数を訊いただけだ。三つ位でいいのだな」
「うん。それとふわふわでよろしく」
「ふ、ふわふわっ?なんだそれは」
「……」
 ふー、とため息を吐いてから、
「ウサ耳も知らなかったでしょ?」
 ナタルの顔をじっと見た。
「…う、うるさいっ」
 悔しそうに認めたナタルが横を向くまでに数秒掛かった。
「じゃ、教えてあげるからそこで待ってて。僕が作ってくるから」
「分かった…」
 頷いてから、
(林檎を剥くだけの筈なのに作ると言わなかったか?)
 台所に立っていったシンジは林檎を一つ取ってから、冷蔵庫を開けた。
「ナタル、中の物借りるよ」
「あ、うんいいよ」
 益々以て分からない。
 数分後、シンジが皿に載せて持ってきた物を見て、ナタルは思わず、あっと小さな声を上げた。
 皮を器用に残して耳のようにし、丸形にカットしたチェリーが両側に埋め込まれている。
 仕上げはクリームだ。少し波立つように塗られた生クリームを見れば、ナタルとて見当は付く。
「そうか…ウサギか…」
「そ、ウサ耳って言ったでしょ。はいお待ち」
 皿に載ったそれを見て、ナタルは溜息をついた。
「シンジは…本当に器用なのだな」
「いや、これ位普通でしょ。第一、僕の冷蔵庫にはあんなにお菓子の材料入ってなかったし、ナタルこそケーキとか良く作るでしょ」
「たまにはな」
 確かに作るが、それはあくまでも本を見ながらであって、自分で創意工夫する事は余りない。皮を残して切るやり方は見た事があるが、ここまでウサギ状に仕上げた物は見た事がない。
 シンジからすれば微妙に思考した程度だが、ナタルには結構なショックであった。
 即ち――マニュアルタイプと創意タイプとの違いなのだと。
(どうしたんだろ?)
 台所の物を使うまでは問題なかった筈だ。それが、持ってきた物を見た途端妙に落ち込んだ。
 過程ではなく、結果に問題があったのは確からしいが、ナタルの内心まで分かる筈もない。
「えーと、林檎は嫌いだった?」
「いや、そんな事はない。少しその…自分に疑問が湧いてきてな」
「ふうん?」
 どうやらシンジに対してでは無かったらしい。それなら関係ないやと、フォークで器用に林檎を切り取り、
「食べて?」
 突き刺したそれをナタルの口元に持って行った。
「う、うん」
(最初は私が剥く筈だったのに…)
 小さく開いた口にフォークをさし込む。
 もぎゅもぎゅと咀嚼したナタルに、どう?という視線を向けた。
「美味しい。林檎の酸味が消えるような甘ったるさも無くて丁度いい味になってる」
「そいつは良かった。んじゃ」
 もう一つ切り取ってから口元に持って行く。
「て、手は使えるぞ」
「食べさせたげるってば」
 不要、と言えばシンジは引っ込めるだろう。無理強いする可能性は皆無だ。
「も…」
「も?」
「も、もらう…」
「ん」
 結局、最初に林檎を提示したのはナタルだったが、全てがナタルの口に、しかもシンジに食べさせてもらうという、本末転倒な結果に終わった。
「ご、ご馳走様」
「ふむ」
 頷いたシンジが、
「次は、そうだね…」
(何か作るのか?)
「ベルジアンヘアーにしようか」
「…は?」
 シンジの口から出た言葉は、聞いた事もない単語であった。
「ベ、ベルリンヘア?」
 何の髪型かと怪訝な表情のナタルを見て、シンジはくすっと笑った。
「ベルリン、じゃなくてベルジアンヘアー」
「それは?」
「ウサギの一種だよ。赤っぽい毛色のブランド物。白に塗装して目を付ける位誰でも出来るからね、工夫が足りな…あれ?」
 ふと見ると、いつの間にかナタルはすっかり落ち込んでいる。
「誰でも出来るって…私はそんな事すら思いつきもしなかった…」
「だ、大丈夫だって。ほら、人には得意分野とかかなり差があるし、好き嫌いもあるでしょ」
 慌ててフォローするも、
「お菓子を作ったりするのは…自分では好きなつもりだった…」
 
 墓穴。
 
「そ、そのっ…」
 咄嗟に脳をフル回転させ、
「こ、これから覚えていけばいいじゃない。ぼ、僕もほら知ってる事は教えるからっ」
「そう…思うか?」
「うんっ」
「本当に?」
「ほんとだってば。約束する」
「シンジがそう言うのなら…」
 立ち直ったらしいナタルを見て、シンジは心から安堵した。個人的に云々と言うよりも、こういうタイプは落ち込むと奈落の底まで落下する可能性が高い。
 底辺まで落ち込まれた場合、会って二日目の自分がどうやって止めればいいのか。
「是非そうして。ところでナタル」
「ん?」
「ちょっと訊いてみたい事があったんだけどね。キラに聞いたんだけど、一応ネルフって軍もどきでしょ」
「そうだ」
「ナタル・バジルールが思う軍の形ってどういう感じ?」
「軍がどうあるべきか、という事か?」
「そんな所」
 ふむ、と宙を見上げたナタルの表情が変わった。軍服を着ている時の、凛としたそれに戻ったのだ。
(でもネコ耳)
 ナタルに聞かれたら、間違いなく吊し上げられるに違いない。
「軍に厳しい統制が必要なのは言うまでもない。そして上官の命令を速やかに実行出来る制度と、広い視野で情勢を見据えて適確な判断を下す事の出来る指揮官が必要だ」
「ふーん…」
 少し経ってから、そうなんだと呟いた。
 同調してはいないと、誰が見ても明らかに分かる。
 ナタルは咳払いして、
「シンジ、その…」
「なに?」
「思う所があったら言って欲しい。私はその、自分でも分かってはいるのだが…融通が利かない所があるから」
「やだ」
「え?」
「わざわざナタルを怒らせる事もないし、どう思ってるのか聞きたかっただけだから」
(そんなに…駄目駄目なのか?)
「大丈夫、そんな事はないから」
 シンジの手をきゅっと握り、
「例え罵倒されようとも、決して怒ったりはしない。約束する」
(罵倒って…僕がそんな風に見えるのかな)
 むう、と内心で首を捻ってから、きゅっと包み込まれている手を見た。
 その上から自分の手を重ねてみる。
(あ…)
 手を握ったのは無意識で、シンジが上から手を重ねてきて初めて気付いた。ほんのりと赤くなったが、自分から離そうとはしなかった。
「指揮官、てナタルは言ったけどそれって現場将校レベルの話?それとももっと上層部まで入ってるの?」
「司令官にも必要だが、現場で兵の命を預かる指揮官にとっては欠かせない話だ――」
 言い切ってから、
「と、私は思っている」
 言い直したのは、シンジの意見を聞いているのであって、自分の意見をシンジに説いているのではないと思い出したからだ。
「核をぶち込んで――」
 いきなり物騒な事を言い出したシンジに驚いて、
「核!?」
「敵領土を廃墟にする戦なら、それでいいかもね。乃至は、騎兵隊とか騎馬軍団が縦横無尽に暴れ回る時代だったらね」
「今は違うと?」
「要求される物が違う。ナタル、日本史は?」
「一応一通りは」
「織田が搗き羽柴がこねし天下餅、座りしままにって落首は知ってる?」
「聞いた事はある」
「織田というのは、勿論右大臣信長公の事。確かに先見の明はあったし、悪しき因習の総本山を焼いたり南蛮の物を取り入れたりもした。でも天下は取れなかった。前衛的すぎて、一番肝心な家臣の心を掴めなかったから。家臣の心っていうのは、近代戦だと占領先の民衆の事だよね。テロ戦争と称して中東へ侵攻した米国も、民衆の慰撫に大失敗して結局撤退を余儀なくされたでしょ」
「治安維持は別働隊の仕事だろう。そこまで前線の将校に負わせるのは酷というものだと思うが」
「仕事を任される時にね、最初から一任されるのと他人が中途半端に、それも悪い方へ拡散させた仕事を任されるのとでは、どっちが負担大きい?」
「それは無論後者だが…」
「単なる指揮能力のみならず、広い視野まで求めるのならそれ位は当然の範疇だよ。それとナタル、厳しい統制って言ったよね?」
「うん」
「確かに軍紀の乱れは、兵が略奪や暴行に走る原因になるから引き締めないといけないけど、近代の戦闘に於いて何が強いって、ゲリラが一番強いでしょ?国対国の戦いでは大国が勝利しても、その後民衆のゲリラ戦に巻き込まれて撤退したケースがいくつあった?」
「場合による、と?」
「そだね。でも必勝を期すなら正規軍のそれより、ゲリラの方が絶対にいいけどね」
「そうか」
 ゲリラ戦を上に持ってくる時点で、シンジの戦争に対する思考は大体分かる。
 ナタルにとっては、自らの信ずる所を根本から否定されたにも等しいが、怒ることなく黙って聞いていたのは、シンジの見方を認めてもいたからだ。絶対値が存在しない以上、色々な意見があろう。
 軍のあり方について間違いない物が存在し、それを徹底的に遂行出来る軍隊があれば、この地球はとっくに統一されていよう。
「ベルリンの狂人も、視野の範囲と判断能力に於いて全部間違っていた訳じゃないでしょ。結末はああだったけど、さっきナタルが言った条件に結構当てはまってる。ナタルって独裁者がタイプってこと?」
「そっ、そんな事は言ってないっ」
 否定されるだけならまだしも、結論はベルリンの狂人と来た。怒り、というより屈辱でナタルの顔が赤くなったが、そのまま反撃するのは思いとどまった。
(…そうだ)
「わ、私が言ったのはあくまでも理想論で、私の好みは…」
 シンジを見つめて、
「独裁者などよりは――素直な少年の方がいい」
 なお、ナタルの語彙集にショタという単語はない。シンジが顔を赤くする所を見てやれと、あくまでも意趣返しのつもりだったが、
「知ってるよ」
「…え?」
 あっさりと返された。
「フユゲツさん辺りから命令が出た訳じゃないでしょ?だったら僕を気に入ってくれた以外にないじゃない」
「なっ、あ…あぅ…」
 
 少し位照れるとか恥じらうとか。
 
 多少なりとも表情に変化があればまだしも、シンジは表情を全く変えずにさらりと言ってのけたのだ。
 ムーンサルトは失敗すれば大ダメージになる。
 かーっとナタルが首筋まで赤くなり、
「し、知らないっ」
 横を向いたが――まだ手は握り合ったままだ。
 
(とりあえずあれだ、オヤビンの背中の汗を拭って差し上げたい訳だが)
(表情は変わってないけど、背中は汗ばんでるよねえ。中途半端に腹芸が出来るんだから)
 
 仲魔達が冷徹に観察する。
 どうやら、天然の切り返しではなかったらしい。
(おまえらうるさい!)
(はーい)
 仲魔達がカサカサと退散した後、
「ナタルの言ってる事って、間違ってはいないと思うよ。ただ…」
「ただ?」
 
(理想高過ぎ、と言うより机上の空論にしか聞こえないが、オヤビンも言えないんだなこれが)
(まあ、良くも悪くもお似合いの二人かもネ。さ、フロスト行こ)
(ああ)
 
「モンゴル草原から出て西へ侵攻したチンギス・ハーンも、大王アレクサンダーも、結局世界を物にする事は出来なかった。優秀な軍の一番の欠点は、後が続かないって事だよね」
「確かに…理想論かも知れない。大国が力に任せて侵攻し、一時は平定しても結局配線と同義の所へ追い込まれるのは、国家間の力量差がはっきりしてきた後に増えてきたからな。シンジ…ひとつ訊いてもいい?」
「うん」
「さっき私に訊いた事を、シンジに訊きたい。シンジにとって軍とは、いや…理想の指揮官とはどういうもの?」
(?)
 シンジは内心で首を捻った。さっき自分が訊いたのは、ナタルの軍隊観であって、指揮官というレベルではない。別に、指揮官としての資質云々など、シンジにとってはどうでもいい話なのだ。
 無論、ナタルもそんな事は分かっている。正確に言えば、ネルフは軍隊ではなく、かなり危険な力を持った超法規組織である。
 そしてその組織で最前線に出るエヴァを指揮するのは自分ではなく――葛城ミサトとマリュー・ラミアスなのだ。この辺の心理は、シンジにはまだ分からない。
「指揮官というより偉い人の条件なら、そうだね――まあまあかな」
「誰の話だ?」
「違うって。イイ指揮官の条件だよ。もう一つ付加すると、魅力があるってこと」
「……」
「キレすぎると独裁者になる。かと言ってあまりボンクラでも困る。つまりまあまあでいい」
「魅力、とは」
「外見じゃなくて人間性(なかみ)の問題。信長公や秀吉よりも、能力的には劣っていた徳川家康が二百六十年の礎を築けた要因はそこにある。つまり良い家臣団がよいしょと支えてくれたから。大将がいまいちでも、支えてやらなきゃと思わせる者があれば、必然的に人材は集まるでしょ」
 軍隊とそれに所属する者は、あくまでも精錬されていなければならないとするナタルに対し、シンジは中庸でも良いという。魅力さえあれば、支える者が勝手に集まってくるのだから、と。
「三国時代にもそんなのがいたでしょ。家柄、それもかなり怪しい家柄なのに一騎当千の豪傑を義兄弟にして、あまつさえ天下屈指の軍師と言われた臥龍・鳳雛まで軍師にしちゃったおっさんが」
「劉備玄徳の事?」
「そ。あれなんかいい例だよね」
「そう、だな…」
 マリューとミサトがエヴァの指揮を執る事を、シンジは知っていた。だが、リツコに対しては嫌悪感を隠そうともしないシンジが、二人の事はあっさりと受け入れたように見えた。
 リツコに対する見方の原因は分かっている。ただそれを言うなら、アスランとキラの機体を見事に壊したのも二人なのだ。
 シンジが、その事をキラから聞かされたとナタルは知っている――陰で聞いていたのだから。正直、リツコと大して差はないように思うのだが、ここまで落差のある接し方はどこから来るのか。
(やはり…身体的な魅力なのか…)
 ちらっと、ナタルの視線が胸元に向いた。
 貧乳、では決してないが、やはりマリューやミサトに比べると迫力不足は否めない。
(そんな事など気にした事はなかったのに…)
「か、葛城少佐は…」
「ミサトさんが?」
(しまった)
 気付いた時には勝手に言葉が出ていた。何でもないと誤魔化しても、怪しまれる事は間違いない。
「その…し、指揮官としてはどんな印象を?」
 我ながら苦しいとは思ったが、幸いシンジは怪しまないでくれたようだ。
「そうだね…直情径行型だと思う。良くも悪くもね」
「良い方は?」
「さあ?」
「悪い方は?」
「分からない」
「……」
 ナタルの視線に気付き、
「別に巫山戯てる訳じゃないよ。直接指揮下になった事はないし、まだ分からないよ。ただ性格的に、直情径行型だなって思ったの。ネルフの位置を分かってくれてるといいけどね」
「使徒を倒すという事ではなく?」
「それもあるけど、一般人を巻き込まない事。権力の一極集中は、昔から袋叩きに遭う最大要因になって来たじゃない?秘密主義でしかも超法規が許されて、挙げ句の果てには通常兵器が通じないロボットを四機も持ってるなんて、もう絶対危ないジェラシー確定。これで一般市民に被害甚大なんて言ったら、使徒を始末し終わった翌日に関係者全員吊し上げになっちゃうよ」
 それを聞いたナタルは、うっすらと笑った。
「シンジの着眼点は、面白い所にあるのだな。私もまだまだ勉強する事があるようだ…いや、冗談で言ってるのではない。本気だ」
「ほんとーに?」
「本当だ。私とて、自分の性格は分かっているし、全て自分が正しいなどと思い上がる気はな…どうした?」
 シンジが思う指揮官像――特に後者――にマリュー達が重なっていなかった事で、少し饒舌になっていたのかもしれない。
「ナタルがムキになってるから信じる」
「な!?」
「ナタルって、いつも全力って言うか真面目だよね。冗談とか通じなくて、嘘つくのは嫌いなタイプ」
「…ちょっと待て」
 だよね、の後に微妙な空白を感じ取ったナタル。
「よく言えば真面目、と言う事だろうが。言い方を変えればなんだと言うのだ」
「訊いてどうするの?」
 シンジの言葉で、やはり裏があった事を知った。
「…言え」
「怒るからやだ。今はイージスの盾が使えないんだ」
 悪魔か神が宿り、いかなる攻撃も防ぐとされる盾だが、シンジは持っていたらしい。しかも時間制と来た。
「怒らないから。何を考えた?」
「…すぐムキになる」
「ほう…」
 ピクッとナタルの眉が上がったが、自分の手元を見て小さく息を吐き出した。何とか堪えたらしい。
「ま、まあいい。約束したから…っ!?」
 言い終わらぬ内に、ナタルの方がびくっと震えた。シンジが手の甲をつうっとなぞったのだ。
「前にいた所の関係でね、勘は――というか動物的な勘は結構働くの。危険が迫ってる時とか、そっち系にしか使えないのが残念だけど」
「そ、それと私の手を這っているシンジの指と何か関係が?」
「僕は別にマゾじゃない。叩かれたから燃えた、なんて理由じゃないよ」
「あ…ああ、私の家を選んだ事?」
「そ。僕の直感がイイって囁いたの。それにね」
 空いた手でナタルの手をふわっと包み込み、
「真っ直ぐ過ぎる所はあるけど、実直な人って嫌いじゃない。自慢じゃないけど、ナンパされた事はあっても、した事なんて一度もないんだからね」
「何時?何処の洋上だったのだ?」
(…ネタ?マジ?)
 ナタルの科白を紙に書かせれば、すぐに分かるだろう。即ち――難破、と。
「いや、いいの。気にしないで」
「そうか。だが無事で何よりだったな」
「そうだね」
 頷いたが、言葉が三割ほど浮いて聞こえたのは、気のせいではなかったろう。
 二人の手はまだ握られたままだ。
 それを眺めていたナタルが、ふと思い出したように、
「そういえば、あの答えはまだ聞いていなかったな」
「何?」
「昨晩は睡眠不足だったが、何かを見て解消したと言ったろう。やはり、シンジが持ってきた何かの道具なのか?」
「ああ、あれ…ね」
 ぽっとシンジが赤くなった。
(何故赤くなる?)
 さっき訊いた時は、こんな反応は見せなかった筈だ。内緒と否定はしたが、赤面する素振りもなかった。
 怪訝な視線を向けられたシンジだが、無論答えが変わったのではなく、状況が変わったのだ――さっきは手など絡み合ってはいなかった。
 しかも内緒だってば、と振り切れば良かったのだが、不意打ちにあってそれも出来なかった。
(落ち着け僕!)
 自分に喝を入れて、
「ナタルの寝顔」
 さりげなく流したつもりだったが、効果は覿面だった。ナタルの顔がみるみる内に赤く染まっていく。首筋までに止まらず、全身を血液が暴走して赤くなっているのはほぼ間違いないところだ。
「なっ、なな何を急にっ…ま、また私をからかおうとしてっ!」
(よし落ち着いた)
 相手がパニックに陥ると、こっちの方は大抵落ち着く。しかも沈着冷静が服を着ているようなナタルだから、その効果は更に倍増する。
「ね、寝顔とはどっ、どういう事だっ」
「あ、ごめんね言い方が悪かった。別に変な意味じゃなくて…その前に、もうちょっと落ち着いて」
(……)
 二回深呼吸したナタルが、
「もう大丈夫だ。で、寝顔の私が何を回復して見たというのだ」
(落ち着いてないぞ。日本が変)
 ただ本人が大丈夫だと言うし、余計な事を言うとやぶ蛇になる可能性が高いしと、
「羽毛まみれになったナタルを引き上げて洗ってから、膝の上に頭乗せて枕にしてたんだけど、ナタルの寝顔って面白いの」
「お、面白い?」
「面白いって言うか、性格がそのまま出てる感じ。お腹の上で手を組ませると、そのまま全然動かなかった。しかも唇はちょっと開いてるけど全然涎も垂らさないし、軍服着てるナタルそのままって感じで」
「そ、そう…」
 さっきとは違い、赤くなってあたふたと慌てる白ナタルは、黒ナタルに縛り上げられて転がっているのだが、どう反応していいのか分からない。
 鳥の大群に覆われて、羽毛まみれになっていた自分を洗ってくれたのはシンジだ。それは間違いない。
 それだって十分恥ずかしいが、他の者に裸を見られるよりはまし、と思う事にしている。自分だってシンジの裸は見たのだから。
 だから寝顔を見られたと知っても怒る気はしなかったが、どう返したものかと現在必死に模索中だ。
 ただ問題は――今の支配者は黒ナタルなのだ。
「み、みっともなくはなかったか?」
「全然そんな事はないよ。でもね」
 何を思ったかシンジは小さく笑った。
「何?」
「他は全然乱れてないけど、小さく開いた口元だけがなんかえっちな感じ」
 短期間の経験則から言えば、間違いなくヒットした筈だった。
 がしかし。
 ナタルは、表情を変えることなくシンジの手を取って引き寄せたのだ。
「それは――」
 うっすらと唇を開けて、
「こんな感じに、か?シンジ」
 不意に、ナタルの全身からぞくりとするような色気が漂ってきた。最初に会った時から今まで、一度も見た事のない姿であった。
「そ、そんな感じ」
「触れてみたくなるほどに?」
「寝込みを襲う趣味は無いんだけど」
「今は、と訊いているのだ。それとも、触れる価値もないか?」
「そんな事はないけど…」
「けど?」
「う、ううん良いと思う」
 応じた言葉は、半ば無意識であった。ナタルの気に圧された、と言った方が近いだろう。
「それは良かった。強引にはしたくなかったのでな」
(変貌した!?)
 さすがにシンジも一瞬身構え――ようとした時にはもう、唇は奪われていた。
 つるりと柔らかな舌が滑り込んでくる。一気に侵入してくるかと思ったが、舌と舌が触れ合った所で止まった。
(…まだ残っている?)
 舌を絡めて吸うと、そのまま顔を寄せてきた。熱っぽい舌が絡み合い、重なった唇の端から混ざり合った唾液が滴り落ちてくる。
 二人の唇が漸く離れた時、その間を透明な唾液が繋いでいた。それを指先で拭ったシンジが、
「ナタル、息してなかったでしょ?」
 シンジの言葉にふっと笑って、
「ちゅーに集中していたから、な?」
(も、戻ってないー!?)
 どこで覚醒したのかと、そんな事を考える間もなくシンジは抱き寄せられていた。荒っぽくはなかったが、この細い身体のどこにと思う位強い力であった。近接戦闘の能力は、マリューやミサトに遙か及ばぬナタルだとシンジは気付いていたのだ。
 にも関わらずあっさりと組み敷かれ、今度はその胸元に白い指先が伸びてきた。
「引き上げてくれた事と、身体を洗ってくれた事は感謝する」
 先ほどと同じような姿勢で――だが声は全く異質の物だ――ナタルはシンジの耳元に口を寄せた。
「羽毛にまみれた姿など、衛生班の者に見られたくはないからな。だが、お礼はせねばなるまい?私一人、あられもない姿を見られたままというのは、不公平と言うものだ」
(ナタルそれ御礼じゃなくてお礼参り)
 内心のツッコミも、ナタルの妙な気に圧されて口は出せないシンジ。そんな内心を知ってから知らずか、その耳朶をナタルの赤い舌がぺろりと舐めた。
「ひゃう!?」
 肩をびくっと震わせたシンジを見て、ナタルは満足げに笑った。
「シンジは、いい声で啼くのだな」
(ナタル!?)
 一体何事かと、もう抵抗する事も忘れて唖然とナタルを見上げたシンジだが、その双眸に焦りの色はあまり見られない。跳ね返す自信があるから、ではなく何かに取り憑かれてはいないと分かっているからだ。
 だとしたら、ナタルの内面の問題だ。
 シンジの黒瞳とナタルの紫瞳がじっと見つめ合った。
 ふふ、と笑ったのはナタルであった。
「シンジの喘ぐ顔を――」
 首筋へナタルの唇が貼り付く。
 まさに吸われようとしたその瞬間、不意に携帯が鳴った。
「!?」
 びくっと反応したナタルの動きが止まる。
「わ、私は…」
 表情に変化はないが、さっきまでの妖しい気はもう消えている。どうやら今度は戻ったらしい。
「ご、ごめん…」
 シンジの上から降りたナタルの手は、明らかに震えていた。
「やり過ぎてしまったな…すまない」
 謝ったナタルの頬を、シンジが軽くつついた。
「気にしないで。からかった訳じゃないんでしょ?」
「む、無論だ。ただ…シンジの顔を見ていたら急に身体が熱くなって…今までこんな事はなかったのに…」
「たまにはそう言う事もあるでしょ。今度、沢山しよ?」
「う、うんそうだな」
 変貌の理由は分からないが、ここでナタルを責めて良い事など何もないし、そもそも文句を付ける気もない。
「今日はもう寝…あ、さっき電話鳴らなかった?」
「いやメールだ」
 立っていったナタルが携帯を見て、
「副司令から」
「僕に?」
「はい」
 受け取って画面を見ると確かにコウゾウからで、明日の九時に自室へ来てもらいたいと書いてある。
「分かった、明日行ってくるね。今日はもう寝ようか」
「そうだな。今布団持ってくるから」
「あ、手伝うよ」
 ナタルに言われて押し入れを開けたシンジは首を傾げた。
 中に布団が一組しかないのだ。しかもベッドはなく、床に布団は敷いていない。
「それを使って」
「うん」
 よいしょと持ち上げた時、シンジの手が止まった――甘い匂いが漂ったのだ。
「一応訊くんだけど、ナタルの布団は?」
「私はいつも布団には寝てないから」
「嘘はイクナイと思う。いつも使ってる物かどうか位、すぐに分かるよ。それに、そんな不健康な事するナタル・バジルールじゃないでしょ」
 ナタルはうすく笑って、
「お見通し、か。収容能力の関係で一組しかないのだ。明日買ってくるから今日はシンジが使ってくれ」
「やなこった。レディファーストって知ってる?」
「妙な事言ってないでシンジが使えば良い。私がいいと言ってるのだ」
「だから一つしかない布団を分捕る気はないってば。ナタルが使って。僕はソファを借りるから。毛布はあるんでしょ?」
「駄目だ」
 ナタルの口調が少しきつくなった。
「縦しんば私は風邪を引いたとしても、別にどうと言う事はない。だがシンジに何かあったらどうなると思う。それに、今のシンジは成長期なのだから夜はぐっすり眠ってよく休んだ方がいい」
「一つ、僕は布団でない所に寝るのに慣れている。二つ、もし風邪を引いて明日使徒が来ても、あの機体で撃退する位なら出来る。三つ、布団に寝なかった場合、ナタルの方が風邪を引く可能性は高いし年齢を考えても治りにく…ひてて」
 頬が左右にぎにゅーっと引っ張られた。
「年齢が、どうしたと?」
 が、今度はシンジもされるままにはなっておらず、ナタルの頬を引っ張り返した。
「大体ナタルが余計な心配しないで布団に寝てれば済む話じゃん。素直じゃないんだから」
「それはこっちの台詞だ!」
 しばらく引っ張り合っていたが、ふと同時に手が止まった。何やら、思いついたらしい。
「『あの』」
 同時に言いかけて赤くなる。
「ナ、ナタルからでいいよ」
「万事レディファースト、と言えばいいというものでもあるまい。何を言おうとしたのだ?」
「万事じゃないけど、これとさっきの限定でレディファースト。ナタルから言って」
「……」
「……」
 このままでは埒があかぬと、先にナタルが折れた。
「分かった。では同時にしよう。それなら良かろう」
「いいよ」
 ぴたりと計ったように二人の口から出たのは、
「『今日は一緒に…』」
 であった。
「『あ……』」
 顔を見合わせた二人がくすっと笑った。
「シンジとは――色々と気が合いそうだ」
「そだね」
 
 
「じゃ、電気消すぞ」
「うん」
 別に寝相が悪くもないナタルが、布団のサイズをセミダブルにしていたのは、注文時に間違えたのだ。それも、孫子を読んでいた所為という辺りは如何にもナタルらしい。
 一人暮らしには余分なサイズでも、買い換えるほどではないとそのままにしておいたのだが、良くやったとナタルは内心で自分を褒めていた。
 ナタルの自画自賛などかなり珍しい。
 今、ナタルの頭は枕に載っているが、シンジの頭は枕ではなく、ナタルの腕に載っている。自分の方が身長が高いからと、よく分からない理由でナタルが押し切ったのだ。
 さすがに向き合うのは恥ずかしいらしく、シンジはナタルに背を向けた格好になっている。
 呼吸の音すら聞こえそうな静けさの中で、ふとナタルが小さな声でシンジを呼んだ。
「まだ…起きてるか?」
「ん。何?」
「その…昨日言い忘れて事があって…」
「なに?」
「本当に…よくやってくれた。ありがとう…」
「何を…ああ、使徒の事?」
「うん」
 シンジの場合、アスランやキラとは根本的に違う。数値も違えば経験も違う――どころか、搭乗自体初めてだし、シンクロ値もアスラン達の三分の一程度しか出ていない。
 そもそも、普通ならば怯懦の風に吹かれても、決しておかしくないのだ。シンジが多感な少年の一面を持っている事は、ナタルもよく分かっている。
 だからナタルの言葉には、万感の思いがこもっていた。
 がしかし。
(あまり真剣にお礼言われてもなー…)
 シンジの意識はかなり違う所にあった。確かに乗りはしたが、別に脅されて乗った訳ではなく、ゲンドウを火焙りにする前から、搭乗自体は決めていたのだ。
 無論勝算などないが、それでも出来るだけの事はしよう、と。
 その為、シンジとしては一言、お疲れと言われるだけで十分だったのだ。それ以上に気を遣われると却って重い。ただ、ナタルが物事を簡単に流せない事は、もうシンジも十分分かっている。
 うん、と軽く頷くにとどめたのもそのせいだ。
「それと…謝らねばならないな」
「何かしでかしたの?」
「広い視野で情勢を見据えて適確な判断を下す事の出来る指揮官が必要だ、とさっきシンジにそう言ったな」
「うん」
「そんなのを理想とする者が、初めて前線に出る者を半ば丸腰で行かせるなど…自惚れも甚だしいとこ…んっ?」
 振り向いたシンジが、ナタルの唇を指でおさえた。
(シンジ…?)
「指揮官じゃないんだから気にしないで。それに、技術担当は所詮ホームラン級のバカだし、いくらナタルが理想の姿でありたいとしても、どうしたって限界はあるよ」
「シンジ…」
「だから、ね?」
 思わず我が胸にきゅっとかき抱いてしまったナタルだが、本当はシンジも言いたい事はあったのだ。ナタルへ向けた言葉は、かなりオブラートに包んでいた。
 即ち、エヴァの技術開発系のトップに役立たずが――シンジのリツコに対する評価は固定されている――就任出来るような組織で、理想がどれだけ追えるというのか。
 縦しんば追えたとしても、ナタルの位置はあくまでも副官だ。マリューやミサトを差し置いてリツコを使役すれば、越権行為になる事位分かっていよう。
 つまりナタルがその気になれば為し得ていた事、ではないのだ。
「おやすみナタル」
「うん…おやすみ」
 
 
 
 それから十五分後、シンジはベランダへ出ていた。ナタルはもう寝息を立てており、ぐっすりと眠っている。
 手すりに手をついて、夜空を見上げているシンジの頭上にフロストとランタンが浮き上がった。
「オヤビンお呼びで?」
「別に呼んでない」
「そ?」
 既に時計の針は午前一時を回っている。用もないのに、こんな時間にベランダで出てくる趣味があったらしい。
「僕みたいに――」
 不意にシンジが口を開いた。
「普段はあえて抑えている訳じゃなさそうだけど、あの変貌って何?」
「変貌って、妙にエロエロになったあれかい?」
「…そう」
 もう少し表現を選べ、とは思ったがその通りなので何も言えない。
「黒ナタルってやつだな」
「黒ナタル?」
「そう。それとオヤビンとは違うけど、あれもまた一つの抑制から生まれた人格だよ。あの二人とは違って、人間の持つ三大欲求に忠実じゃ無さ過ぎる。だがそれが本性の人間など、ほとんど居ないからな。分かり易く言うと、オヤビンと寝た事で、抑制されていた部分が一気に目覚めたんだ。無論、本人は分かってないようだが」
 あの二人、とはマリューとミサトの事らしい。
「黒ナタル、か…」
 呟いたシンジに、
「気に入らなければ封印できるが?ああなった時は、オヤビンも抵抗出来ないみたいだし」
「そこまでしないでいいよ。そんな深い関係じゃない」
「ふうん?」
 それを聞いたランタンが、くるくるとシンジの周りを回った。
「とか言ってオヤビン、責められて結構感じてたんじゃなーい?」
「…ランタンうるさい!」
「冗談よ。じゃあね、オヤビンおやすみ」
 南瓜と雪だるまは、ふうっとその姿を消した。
「まったくもう、ろくな事言わないんだから。でも…強気なナタルもちょっと良かったかな…ハッ!?」
 聞かれなかったかと周囲を見回し
「でもちょっとだけだぞ!」
 無意味に声を張り上げたその顔は、うっすらとだが確かに赤くなっていた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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