GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第十五話:サークス・サーク
 
 
 
 
 
 マリューとミサトは、一時期ある男を中心にして、三角関係だった事がある。短すぎる青春を浪費したと、正直今では後悔しているのだが、その時に男が選んだのはミサトであった。
 いや、選ばせたと言った方がいいだろう。二人が一年近く断絶状態だったのは、マリューの諦めが悪かったから、ではなくてミサトの手が少々卑怯だったからだ。
 とまれ、マリューはこの年になっても男を知らず、恋愛の駆け引きに関してはミサトと比べるべくもないほど疎い。
 よく言えばストレート、悪く言えば単純なのだ。ミサトの見た所、ナタルの恋愛経験値も決して高くはなく、おそらくマリューと良い勝負だ。だから正面から張り合ったりしているのだろう。
 そのナタルとシンジの妖しい空気に、マリューはもう怒りの表情だったが、ここにはシンジがいる。無理押しだけして良い場面ではないと、マリューを制してミサトが前に出た。
「なーんか、空気が熱いなって思ったのよね。ちゅーしようとしてたのに、お邪魔だったかしらあ?」
「べっ、別にそのようなことはっ」
 ナタルが否定するのは最初から計算済だ。縦しんば、放っておけば間違いなく熱い口づけを交わす状況であったにせよ、ナタルが勿論です邪魔しないで下さいと、開き直る可能性はゼロに近い。現時点で、ナタルがミサトに太刀打ち出来ない最大の原因はそこにある。
 そう、ナタルの中では軍人としての自分の方が遙かに大きいのだ。そのナタルがシンジとの事を、それも年下の少年との関係を公に認める事などあり得ない。
 そして同時に、ミサトは二人がある程度親密になっている事にも気付いていた。
 だから、
「ふうん…そうなの、シンジ君?」
「キスじゃないですよ。ナタルさんがフラフラしてたから、担いでいこうかなって思っただけで」
 こちらはナタルより冷静だったが、やはりナタルを打ち消しはしない。
 シンジがナタルを追い越さない事を承知の上で、あえてシンジに振ったのだ。シンジは独裁者タイプではないし、むしろ細やかな気遣いが出来るタイプだと見ている。
 そのシンジが、我が道を突っ走ってナタルを危地に追い込む事など、絶対にあり得ないと十分に読み尽くした上での科白であった。この辺りは、ナタルもマリューも、まだまだ及ぶ所ではない。
 無論怒るのは簡単だが、それは猪のする事であって大人の女には似合わない。ナタルに続いてシンジも否定した事で、盛り上がった空気はすうっと冷めた。
 一瞬――おそらく側にいたシンジも気付いていなかったろう――だが、ナタルがかすかに表情を動かした事に、ミサトだけは気付いていた。
(やっぱりキスにリーチだったのね。この二人、一体どこまでいってる事やら)
 二人のいちゃつきはとりあえず阻止したが、それは最初の一手である。ミサトの頭脳は既に次の局面を想定している。いわば、生きた戦闘の場合、ミサトの能力は最大限に発揮されるのだ。
 と、それを察知した訳でもないだろうが、
「ところでマリューさん達、鍋とか皿とか持ってどうしたんですか?」
 シンジが訊いた。
「ああこれ?」
 やっと気付いてもらえた所持品に、マリューの表情が緩んだ。
「ふふ、シンジ君の為に作ってきたのよ」
「鍋と皿を?」
「もー、違うわよほら」
 シンジが奇妙な事を訊いたのは別に嫌がらせではなく、半分は本気であった。何を作ったのかは知らないが、家に呼びつければ済む話であり、転んだりでもしたらその途端にすべてがおじゃんになる危険を冒す必要はあるまい。
「煮付けとお刺身ですか」
「そ。結構綺麗に切れてるでしょ」
 正直に言えば、二人とも料理は不得手の部類だ。ただし、切るとか刻むとかその手の細工は得意なのだ。少々殺伐とした響きのする単語だが、二人の分野をよく表していると言えるかもしれない。
「美味しそうですけど…」
「なにか駄目な感じする?」
「いえその、ミサトさんの家ってここから遠いんですか?」
「この上の階よ」
「資質のない人間がドアをくぐると、もう二度と出られないとか?」
「やーね、そんな事ある訳無いじゃない」
 笑いかけて、やっとシンジの言葉の意味に気付いた。
「あ、ああどうしてわざわざ持ってくるのかって顔ね。ほら、あたしもマリューも最近忙しくて、外食と既製の弁当ばっかりだったのよ。久しぶりに料理作ったらさ、家の中でこぼしちゃってね。シンジ君に食べてもらう事優先しようと思って、とりあえず持ってきたのよ」
 はーあ、とシンジはため息をついた。
「何をこぼしたか知りませんが、家の中は全室フローリングですか?」
「絨毯もあるわよ」
「だったら尚更です!」
 ビシッと指を突きつけられ、
「『ご、ごめんなさいっ』」
 思わず謝ってから、どうして自分達が謝らなければならないのかと、内心で首を捻った。
「絨毯の上に食べ物をこぼしてそのままになんかしたら、あっという間に染みになっちゃいますよ。ナタルさん、道具あるでしょ」
「道具?」
 掃除用具だと気付いた瞬間、ナタルの『本能計算機』が作動した。
 一つは頷いて、そのままミサトの家まで行く事。
 マリュー達が、わざわざここまで持ってきた理由はただ一つ――そう、片づけが間に合わなかったのだ。最初から片づけを断念したか、途中で投げ出したのかは分からない。
 多分後者だろう。
 とまれ、ミサトの家の中を見せてからここへ帰ってくれば、マリュー達との間に大きな差が付く事は間違いない。掃き溜めまでは行かずとも、ミサトの家と自分の家では、整理整頓に雲泥の差があるという自信はある。
 最もストレートなやり方だが、深いダメージにはならない。それどころか、開き直って掃除を教えてとかシンジにおねだりなどされたら、シンジが入り浸る可能性すらあるのだ。
 却下だ。
 もう一つはシンジを引き留め、ミサトに恩を売る事だ。女としての勝負は現時点でミサトに及ばないと、ナタルも分かっている。当分のライバルはマリューだ。
(ラミアス少佐に見せつけられれば…その方が得るものは大きい)
 三秒で思考はまとまった。
「掃除道具ですか?」
「そ。あるでしょ?」
「ありますが…シンジさん、葛城少佐の家へ上がり込まれるおつもりですか」
 行く、だったらうんと言ったろう。だが上がり込む、と言われてシンジの掃除魂(スピリット)が一瞬怯んだ。
「だってほっといたらえらいことになるよ」
「そんな事は葛城少佐もご存じでしょう。折角料理を持ってきて頂いたのに、後回しにするのですか?」
「わかったよもう。ナタルさんてば、妙な所で気を回すんだから」
(見抜かれた?)
 一瞬目論見が発覚したかと思ったが、そうでもないらしい。
「家が可哀想だから、ちゃんと掃除しておいて下さいね」
 マリューから鍋を受け取り、てくてくと中に入っていった。マリューが後に続き、ナタルとミサトが残された。と言うより、残ったのだ。
(ナタル、あなたが純粋な好意でするわけないわよね)
(勿論です)
(へえ…言うようになったじゃない。それで?何を交換条件に出そうって言うの)
(別になにも…。ただ、見ていてもらえればそれで結構です)
(シンジ君に何をおねだりかしら?)
 ちょっと躊躇ってから、
(た…食べさせて頂くだけです)
(ふうん?)
 ミサトがナタルの顔をじっと見た。まるで、視線だけで穴でも開けるかのようなそれに、
「な、何でしょうか」
「つまり叩きたいのは私じゃなくてマリューからって事ね。ま、ナタルとマリューじゃ、今はほぼ同レベルだしね」
「ど、どう取られようと葛城少佐のご自由です」
 僅かに視線を逸らしながら、あっさりと見抜かれた事で、ナタルは改めてミサトへの警戒心を強めていた。これがマリューなら、そうそう見抜かれはしなかったろう。
「ナタルの考えてる事は分かった。でも駄目よ」
「なぜ…ですか」
「ナタル・バジルールが、自分の心を隠してるからよ。私もマリューもシンジ君が好き――本気でね。だからこっちを振り向いて欲しいし、努力だってする。でもナタルは?シンジ君の事をどう思ってるの?好きなのかそうじゃないのか、単なる冷やかしなのか私達の恋敵なのか、まったく分からない。シンジ君の事をどう思ってるのか分からない娘が、シンジ君にちょっかい出すのを黙ってみているほど、私はお人好しじゃないわよ」
 そう言って歩き出したミサトが、ナタルの横をすり抜ける時、
「あなたが本当にシンジ君の事を想っているなら、認めてあげる。でも自分を隠して、まるで傷つきたくないみたいな態度だったら、例えシンジ君を好きじゃなかったとしても、全力で排除するわ――例えどんな手を使ってもね」
 ミサトが家の中に入っていった後、ナタルはその場に立ちつくしていた。確かにマリューもミサトもシンジへの好意を隠しておらず――そのシンジは、自分に好意を見せてくれているのだが、では自分はどうなのか。
 何度もキスはしたし――その前に身体を重ねもした。
 但し、それはあくまでも身体上のことに過ぎない。
 自分自身の感情は、シンジに対して何を思うのか。
(悪く思わないでね)
 見なくとも、ナタルが俯いて立ちつくしているのは分かっている。ちょっときつかったかなとは思うが、ナタルが当初シンジに何の感慨も持っていなかったのは分かっているし、しかもそのナタルにシンジがいきなり惚れた――らしいと言うのも癪に障る話だ。
「私は…私の心は…」
 最後の部分は、不意に吹いた一陣の風にかき消された。
 
 
 
 
 
「ラクスから電話があった?」
「ああ。それも怒ってたぞ」
 シンジの性癖はノーマルだが、アスランとキラはノーマルではない。
 シンジの将来は今のところ独身予定だが、アスランとキラには許嫁がいる。
 即ち――世の中は不公平という、いい例である。
 キラの許嫁は、ラクス・クラインという。今ドイツ支部にいるが、チルドレンではない。名家の出で、美貌の歌姫としてその名はつとに知られている。おっとりした物腰だが、時々電波を受信したような台詞を口にする事がある。
 外見と違い、少し焼き餅やきだ。
「キラからのメールに碇シンジと言う方の事しか書いていない、きっとわたくしの事などどうでもいいのですねと俺が絡まれたんだ。聞いてるか?」
「放っておいて」
 許嫁同士の愛情表現も、昔と違って今は電子メールという便利なものがある。電話代を考えて月一回に抑え、あとは月と陽を見上げてきっと同じ物を見ている筈だと、切ない思いに胸を焦がす時代は終わったのだ。
 ただ問題は、やや情緒が減少した事と、送信ボタンを押した瞬間に相手の所へ行ってしまう事だ――中継地点で弾かれるとか、そんなケースは除く。
 しかも声と違ってニュアンスが伝わりにくいと言う事もあり、おかしな顔文字とやらを多用したがる輩も増加した。
 ラクスがどう受け取ったかは知らないが、アスランが災禍に巻き込まれたのは事実である。
「ラクスって、自分の事が七割位書いてないと、機嫌が悪くなるんだもん。それに、今一番大きな事は、初乗りでいきなり使徒を殲滅したシンジ君の事。そうでしょ、アスラン?」
(……)
 実を言うと、電話口で延々とラクスに泣き付かれて、キラには緊縛の一つもと思っていたのだが、この口調で言われると弱い。ネルフに生息する、ホモなどというおぞましい趣味を嬉々として堪能する変態女子職員の間で、実はアスランの方が受け側なのではないかと噂されるのも、この辺りに原因がある。
「カガリとは話したの?」
「ラクスに泣き付かれておなか一杯になった。これ以上カガリの愚痴まで聞かされたら身体が持たん」
 今、エヴァがあるのは日本の本部と、ドイツ支部だけだ。本部の場合、コウゾウとリツコが両輪となって支えているのだが、ドイツ支部は一人の男だけで持っていると言われている。
 その名を、ウズミ・ナラ・アスハという。
 アスランの許嫁、カガリ・アス・ユラハの実父だ。長髪にヒゲという、ゲンドウに勝るとも劣らぬ風貌だが、父親としての資質は天と地ほども違う。
 カガリには、チルドレンとしてではなく、無論自分の後継者でもなく、一人の娘として厳格な教育を施しており、アスランがこれまた愚痴を聞かされる原因になってはいるが、ウズミが娘に深い愛情を持っている事をアスランは知っている。ゲンドウがシンジの抹殺命令を出した、と聞いたらアスランはあっさり信じるが、ウズミが娘に同じ事をしたと言われたら、例え本人から聞いても信じないだろう。
 その位、アスランはウズミを評価している。
 髭面でも極悪人とは限らない、というれっきとした証明だ。
「ラクスが、一度こちらに来たいと言っていた」
「僕に会いに?」
「違う」
 アスランは首を振り、
「キラの心を占めている方とお会いしたいですわ、だそうだ」
「絶対にだめっ。アスラン、ちゃんと断ってくれたよねっ?」
「無論だ。大体、シンジ君に会ってそんな事をいきなり言ったりしたら、こんがり焼けたウェルダンになりかねないぞ」
「そうだよね。ラクスもすぐ焼き餅焼くんだから。でもそれだけじゃないでしょ」
「うん?」
 アスランの肩口から、にゅうと伸びてきた腕が首に柔く巻き付いた。
「確かにシンジ君は大事だけど…心を占めてるのとかじゃない。それは…違うでしょ?」
「そうだよな。ラクスも自分に自分に自信がないから…痛っ!」
 きゅっと首を絞められた。
「アスラン!」
 ソファが倒れ、二人が絡まったまま床に倒れ込んだ。
「分かってるってキラ。ごめん、冗談だよ」
 なお、カガリもラクスも、自分達の許嫁のおぞましい性癖については、露ほども知らない。
 
 
 
 
 
(しっかしまあ…人の住んでいる家とは思えないわね)
 左右を見回しながら、ミサトは罰当たりな台詞を呟いた。別に生活感がないのではなく、あるべき物がすべて所定の位置にあるだけに過ぎない。むしろシンジから見れば普通のレベルだ。
 かつてシンジが住んでいた場所など、文字通り人の気配は自分以外に皆無だったのだから。
 蛸の行方はどうなったかと台所に入ると、
「マズー」
 顔をしかめているシンジと、落ち込んでいるマリューを発見した。
「煮付けの味が口に合わなかった?」
「合わないとかそう言う問題じゃなくて。ミサトさん、この蛸いつ入れました?」
「水と醤油と砂糖とか入れて、ちゃんと味が染みるように最初から入れたわよ」
「調味料が煮立つ前に入れるなんて、誰に教わったんですか?無茶苦茶生臭いんですけど」
「ご、ごめん」
「まあそれは仕方ないとして…この刺身、そのまま食べてもピリピリするのはどしてですか」
「ああそれは放射能…じょ、冗談よ。包丁にうっすらと七味塗っておいたからね。これって効くのよ〜」
(…何にどう効くんですか)
 そう言うのは自分の小皿でワサビでも七味でも入れればいいのであって、間違っても包丁に塗ったりする物ではない。
(フ〜)
 食中りでも希望ですかと言いかけた時、悄然と俯いているマリューに気が付いた。張り切って持ってきた物が全部否定されては、やむを得まい。
(まったくもう)
 言葉は内心に飲み込み、
「マリューさん、まだ材料は残ってますか?」
「え、ええまだあるけど…」
「じゃ、それ持ってきて下さい。もう一回作りましょう」
「え〜?」
 後ろから上がった異議に、二人の視線が後ろを向いた。
「残りはタコワサにしてあたしがつまみにし…ううん、何でもないわ。今取ってくるわねっ」
 生タコにワサビを和えるのは悪くないが、そんな珍味より味覚を何とかしてと、声に出さずに呟いた。マリューとミサトを見て分かったのだが、二人共悪気はない。
 ただ――味覚が常人とやや異なるのだ。
 いくら何でも味見くらいはするだろうし、その上で持ってきたと言う事は、味覚に問題があるとしか思えない。
「シンジ君、あの…ごめんね」
 すっかり気落ちした風情のマリューに、
「ああ、大丈夫ですからそんなに気にしないで。練習すればきっと良いお嫁さんにもなれますから」
 言った途端、
「ほんとにっ?」
 マリューは一瞬で回復した。無論、シンジに深い意味があっての台詞ではない。
「え、ええ」
「良かった〜」
 豊かな胸をなで下ろすマリューに、何故か得体の知れない不安を感じ、
「え、えーと道具は何を使ってるのかな」
 収納扉を開けた途端、シンジの口が小さく開いた。
「う、嘘…」
 そこに収まっていた包丁は、いずれもかなりの業物と一目で分かる代物で、しかも河豚引き包丁まで揃っている。抜き出してみると研ぎ込まれた形跡があり、単なる肥やしとなっていた訳でもない。
「ナタルさんこれって…あれ?」
 その辺にいると思ったがいない。
「ナタルさん?」
「何でしょうか」
 呼ぶと玄関から入ってきた。まだ表にいたらしい。
「この包丁、すごいですよね。自分で研いだりとかするの?」
「ええ。自分で使った道具くらい、手入れするのは当然ですから。その方が愛着も出るし、切れ味も増していきます」
「よくそう言われるけど、独身でこんなに揃えるのってすごいよね。僕もここまでは手が出なかったもの」
 独身、の部分がちょっと引っかかったが、単純に褒め言葉として受け取っておく事にした。
「シンジさんも料理はされるんでしょう?」
「するけど一人暮らしで困らないレベルだし、こんないい道具は使った事無いよ」
 ナタルはうっすらと笑って、
「これからは、好きなだけお使い下さい。それに私は、道具はあっても料理はそんなにする方ではないので、色々教えて頂く事もあると思いますから」
「うん」
(……)
 完全に置き去りにされたマリューが、これを見て面白い筈がない。しかも、ミサトが戻ってこないから材料もなく、会話の糸口が掴めない。その辺はミサトとの経験値の差だが、これで引き下がっては女が廃る。
「ふうん…シンジ君、こういう包丁って高いの?」
 河豚引き包丁を手に取り、ナタルではなくシンジに訊く。普通は、持ち主のナタルに幾らしたのかと訊くところであり、無論ナタルもわざと自分が素通りされた事は分かっている。
 パチッと火花が飛んだが、シンジは分からない。
「高いですよ。これだと多分…三万円位はするんじゃないかな。ね?」
「ええ」
 顔から笑みを消さずにナタルは頷いた。
「シンジさんもご存じのように、長さで値段が変わってきます。高いかなとは思ったのですが、店頭で手に持った時とてもしっくり馴染んだので」
「相性が良かったんだろうね」
 また二人だけの世界が出来かけた次の瞬間、
「痛っ」
 マリューが声を上げた。
「え?」
 見ると、先の部分にでも触れたものか、皮膚がすっぱりと切れている。
「あ、大変すぐ消毒しないと」
「大丈夫です。お任せ下さい」
 ナタルは切った瞬間を見てはいないが、別段シンジが引っ張った訳でも無し、いきなり切れる方がおかしい。しかもその寸前、マリューがシンジの方へ一歩歩み寄った事には気付いていたのだ。
 シンジが反応してくれると見越して、半ば故意に切ったというのが正解だろう。
 現に今、シンジが手を伸ばしかけた時、マリューの口元は緩んだのだ。それを傍観するほどナタルは甘くない。
「大丈夫ですかラミアス少佐」
 こっちへ、とシンジを一歩下げるようにして、二人の間に割り込んだ。ナタルに手を取られた瞬間、マリューは手を突っ張らせた。シンジに手当などさせてなるものかと、蛇口へ手を引くナタルと、目論見を潰されたくないマリューが、数秒無言で手を引っ張り合った。
「ラミアス少佐、水道に毒など入っていませんからご心配なく」
「毒〜?」
「いえ、こちらの話です」
 シンジに振り向いた顔だけは笑っている。
(ナタル…!)
 このままでは女に、それもよりによってナタルに手当てされて終わってしまうと、左脳をフル回転させたマリューが、そっとナタルの手をおさえた。
「毒、なんて思う訳ないでしょう。そんな事じゃないのよ」
 シンジを見て、
「来襲する使徒の形態が不明な以上、或いはパイロットが自分の怪我を自分で手当てする事を迫られるかも知れないわ。シンジ君がどれだけ見ておきたいのよ。シンジ君、やってもらっていいかしら?」
 婉然と微笑んだマリューのそれは、明らかに勝利宣言を含んでいる。
「いいですよ。切り傷位なら消毒して絆創膏巻く位だし」
「いいえ」
 前に出ようとしたところを、ナタルに制された。
「ナタルさん?」
「機体に応急手当用のキットを積む事はあり得ません。そもそも、LCLで濡れたキットなど、使い物になると思っておられるのですか」
 思わぬ逆襲に、一瞬マリューが怯んだが、すぐに切り返した。
「赤木博士に耐水の物を作ってもらうわよ」
「もし出来たとしても、シンジさんを試されるのは別の機会でいいでしょう。私がゆっくりと時間を掛けてお教えしておきますから。今日は私が手当てさせて頂きます」
 結構よ、と本当は喉を通過した位まで出掛かったのだ。それでも、シンジの印象を気にして直前で何とかおさえた。
「いいわ…じゃ、お願いするわねバジルール少尉」
「了解しましたラミアス少佐」
 お互いに階級で呼び合う二人。まだ鍔迫り合いは続いているが、リツコとレイのような殺伐ではない。
 とそこへ、
「ま、ナタルの言う事も分かるけどね。でもシンジ君の器用な所は、私も見てみたいわね。シンジ君、悪いけどこのドジな従姉妹の手当てしてやってくれる?」
 蛸をぶら下げたミサトが姿を見せた。
「いいですよ」
 ナタルとマリューに向けられたミサトの視線は、今日の所は引き分けにしておきなさいと言っており、二人を従わせる威力は持っていた。
 最初からこの場にはおらず、三すくみ状態になっていなかった事も大きい。
 シンジの処置は水洗いして絆創膏、だとナタルもミサトも思っていた。
 ところが、
「ほら、すぐに消毒しないから血がいっぱい出ちゃってますよ」
 マリューの指を取って、シンジは口にくわえたのだ。そのままちゅーっと吸い上げられ、マリューの顔は首まで一瞬で赤くなった。
(シ、シンジ君!?)(なっ、何をしている!)
 シンジの身体は、年齢的にもまだ中性的な所を残しており、その唇は元から少し赤みを帯びている。その赤い唇が指をくわえて吸い上げている様に、ナタルとミサトの顔も我知らず赤くなっていた。
 ミサトがマリューの肩を持ったのは、単に従姉妹だからと言うよりも、ナタルは自分達が帰ればあとはもう、ずっとシンジと二人きりなのだと、その部分の方が大きかったのだが、まさかここまでシンジにしてもらえるとは思っていなかった。
 指を吸われて、ぽーっと赤くなったマリューは、シンジが水道に手を伸ばそうとした途端、
「だ、駄目よっ」
「駄目?」
「い、いえその…も、もうシンジ君に消毒してもらったから、み、水はいいと思うの」
(マリューの奴!)(ラミアス少佐…調子に乗りすぎです)
 二人から灼熱の視線を浴びているマリューだが、内容は少々違う。シンジに吸ってもらった指だから洗わない気ね、とそこまでは一緒だが、ミサトの方はもう少しストレートであった。
(洗わないで持って帰っておかずにする気ね)
 と。
 現に、
「マリューさんがそう言うなら」
 絆創膏を巻こうとしたシンジに、
「ふわっとでいいから。あまりきつくしないで大丈夫よ」
 保護面すら触れさせたくない、と言うのが見え見えではないか。
(…葛城少佐)
(ごめんナタル、あたしの計算違いだったわ。シンジ君があそこまでしてくれるなんて、想像もしてなかったのよ)
「マリュー、あんた手当終わったならさっさと下がりなさいよ。シンジ君の邪魔よ」
 ややきつくなったミサトの口調にも、
「そうね、大人しく待ってるわ。シンジ君ありがと」
 と、シンジににこっと笑ってからカサカサと退散したが、その妙に甘い口調は二人の眉をピキッと吊り上がらせるには十分であった。
「明日には多分くっつくと思うけど、一応それまで激しく動かしたりはしないで下さいね」
「はーい」
「さてと、それじゃもう一回煮付…け!?」
 何気なく振り向いたシンジの全身が一瞬硬直した。
(な、何これ!?)
 シンジとて、人間界外での生活が長かったから、そう滅多な事では驚かない。オウチカエル、と歩き出して初号機に制止された時だって、驚かなかったのはシンジ一人くらいのものだ。
 だがシンジが見たのはそれ以上の――鬼であった。
 ナタルとミサトの全身から、凄まじい鬼気のようなものが立ち上っていたのだ。二人が喧嘩でもしていれば別だが、していなかっただけに尚更恐ろしい。
「どうしたのシンジ君?」「どうかされましたか?」
「う、ううん何でもない」
(き、気のせいだよね。うん、気のせいだ。間違いない)
 
 
(ああいうのを現実逃避、と言う訳だが)
(オヤビンの十八番なのよ。見なかったふりするのが一番楽だしね)
 
「そこうるさい」
「『え…?』」
 言うまでもなく、仲魔達の声はシンジ以外には聞こえておらず、いきなり奇妙な声を上げれば、怪訝な視線を向けられるのは当然だ。
「ちょっと蚊がいたみたいだから」
 我ながら苦しいとは思ったが、
「殺虫剤を撒くと食べ物にうつります。蚊取り線香ならありますが」
 ナタルは文面通りに受け取ってくれたらしい。
「ありがとう、もう大丈夫。乗せるネギとかはあるかな」
「少しですが冷蔵庫に」
 言われて冷蔵庫を開けた途端、又してもシンジは度肝を抜かれる事になった。冷蔵庫の中はきれいに整理されており、無造作に放り込まれている物など一つもない。何よりも、冷蔵庫にありがちな混ざり合った食べ物の匂いが全くしないのだ。
 刻んだネギを始め、何種類もの薬味が収納されており、しかもご丁寧に作成日の書いた紙まで貼ってある。
(こ、これはいくら何でも…ハッ!?)
 ミサトとしてはやや引き気味――自分の所とは余りにも差違がありすぎる――だったが、問題は自分の感想ではない。
 シンジはと見ると、目を輝かせているではないか。
(この二人って、もしかして相性最高?)
 ふと浮かんだ嫌な思いを振り払い、
「シンジ君もこんな風にしまうの?」
「まさか。此処までは出来ませんよ」
(そうよね、それが普通だよね)
 安堵したのも一瞬の事で、
「こんな器用なお嫁さんだったら、会社から帰ってくる時楽しみですよね」
「え…」「ふえ!?」
 ナタルの顔がぽーっと赤くなり、ミサトは眼を白黒させた。いきなり爆弾投下になるとは、思っても居なかったのだ。
「シ、シンジ君っ、なんでっ?」
「だって奥さんがおいしいご飯を、それも毎日違う物を作って待っていてくれるでしょ。すっごく楽しいと思いますよ」
「ふ、ふーん…」
 別に自分が毎日帰宅を楽しみにする旦那になる、とは言ってないが、やはりミサトは面白くない。
 正確に言えば、ミサトだけが。マリューは切った筈の自分の指を見て表情が緩んでいる怪しい女になっているし、ナタルはと言うとまだほんのりと顔が赤い。シンジの言葉から何を連想したのかなど、確かめる必要もない。
(あたしだけ置いてきぼりじゃん)
 第一コーナーを回った時点で、いきなり十馬身位離されたような気がする。
「ナタルさんの新妻物語は置いといて…ナタルさんどうかしたの?」
 ナタルの顔が赤らんでいる事に今気が付いた。
「い、いえ何でもありません。大丈夫です」
「そう?でもなんか具合悪そうだからそっちで休んでて。手伝ってもらおうかなと思ったけど、無理させちゃ悪いから」
「え…」
 シンジの言葉を聞いた瞬間、ナタルは自分を呪っていた。一旦言い出した以上、大丈夫と言っても手伝わせはしないだろう。
(ナタル・バジルールの馬鹿)
 自分で自分を呪うのは久方ぶりだ。或いは、初めてかも知れない。
「ナタルさん、台所借りますね。ミサトさん、手伝ってもらってもいいですか」
(げ!?)
 嬉しいが嬉しくない、とはこういう事を指す。皿を出す程度ならまだしも、シンジの腕前がある程度以上なのが確定してるから、下手に手伝うと墓穴を掘りかねない。状況設定としては最高だが、
「き、今日はシンジ君のお手並みを拝見してるわ。あたし達に、シンジ君の手料理をご馳走して?」
「いいですけど…」
(う…)
 ちらっとミサトを見た視線に、何が含まれているのかミサトにはいたい程分かった。
「要するに苦手なんですね」
 と、九割九分九厘までこれだろう。
 妙に嬉しそうなナタルとマリューを見て、ちょっとムカムカしてきたが、こればかりはしようがない。いつか、絶対にシンジを唸らせる位の料理を作ってやるんだからと決意して、どさっと腰を下ろした。
(シンジ君に習っちゃうってのも一つの手よねえ)
 それに気付いた瞬間、ミサトの口元がにやあと緩んだ。
(…何か後ろから怪しい気配が漂ってるんだけど)
(まあ、オヤビンに危害は及ばないから気にすんな)
(う〜…何かやだ)
 シンジならずとも嫌な状況だろうが、それでも一度作り始めてしまえば、そっちに集中出来るのがシンジの長所だ。
 炊飯はもう用意がしてあったから、味噌汁とおかず三品を追加するだけで事足りた。
 三十分後、ミサト達の前に出された蛸の煮付けは、第一陣とは全く異なっていた――外見と匂いからして違う。
「『頂きます』」
 一口食べて、
「美味しいです」
 ナタルからはストレートな反応が返ってきたが、ミサトの反応はちょっと微妙なものであった。おいしい、とは言ったが表情と言葉があまり合致してない。
「ちょっと薄かったでしょ。少し薄めにしたんです」
「あ、やっぱりそうなんだ。あたしの舌がおかしくなったかと心配になっちゃったわ」
(シンジ?)(ナタル、いいから)
 薄い、どころかナタルには普通だったし、これ以上は味が濃くなり過ぎる。何を言い出すのかとシンジを見たが、別にシンジの舌までおかしくなった訳ではない。ミサト達の場合、料理が上手い下手と言うより味覚に問題があるらしいと、気付いていたのだ。
 原因は分かっている。それに、今後一切ミサトの料理に触れる機会がない訳じゃないし、早い所治しておかないと自分の健康に関わる。
「タバスコでいい?」
「ええ、お願い」
(……)
 なぜ正常者がおかしい方に合わせるのかと、納得のいかないナタルだったが、口にはしなかった。
 今日のところは食べさせてもらうのも諦めており、夕食は平和裡に終わった。さすがに昨日の今日で、酒を持ち出す事もなく、昨日と比べれば格段に静かなものであった。
 二人に空けられたリードを縮めるのは難しいとミサトも見たか、一時間程で二人は帰っていった。
「シンジ、あの味は本当に薄かったの?」
 二人が帰って早々、ナタルの最初の言葉はこれであった。
「まさか」
 シンジは笑って首を振った。
「ではなぜ?」
「あの二人、料理が下手とか言う事よりも味覚に問題がある。それも、見たところミサトさんにマリューさんが引っ張られてる。どの位ずれてるのか知っておかないと、修正しようがないでしょ」
「べ、別にシンジが修正しなくてもいいと思うが」
「何で?」
「な、何でってその…」
 私は美味しいと思ってるし一緒に暮らすのは私なのだから、と内心ではもにょもにょ言ってるが、さすがに口には出来ない。
「ミサトさん達から、今度食事に呼ばれる事はありえない、と言うなら別だけどね。絶対無いとは言い切れないでしょ…ん?」
「な、何」
「大丈夫。別に毎日呼ぶなんて事はしないから」
「わっ、私は別にシンジを独占したいとかそんな事はっ」
「…え?」
 シンジの表情を見た途端、ナタルは直径一メートル、深さ二メートルの墓穴を掘った事を知った。
「ナタル的には静かな方がいいのかな、と思ってたんだけど…」
「わっ、忘れてっ。い、いや忘れろっ、これは命令だ!」
「なんの権限で?」
「なっ、何でもいいからっ…あっ」
「いい訳無いでしょ」
 カサッとシンジが動いた瞬間、ナタルは押し倒されていた。
「僕の親分に任じた記憶はないぞ。ナタルのくせに生意気なんだから」
「う、うるさい。わ、私を押し倒して何をする気だ」
 嫌がっている科白ではあるが、掴まれている手からは急速に力が抜けている。
「何しよっかなあ」
 怪しく笑ったが、ふと何かに気付いたように手を離した。
(…シンジ?)
 特に抵抗はしなかっただけに訝しく思ったが、それ以上訊く事はなく、ナタルも黙って起きあがった。
 漂った沈黙は何となく重い。
「後片付けしようか」
「あ、ああそうだな」
 
(オヤビンの不可解な言動の理由は?)
(不安になったのよ)
(不安?)
(このお嬢ちゃんが自分の事をどう思ってるのかってね)
(ツッコミ所満載だな。オヤビンはまだ治ってなかったのか)
(そう言う言い方はイクナイ。フロスト、妖精相手と人間相手は違うのよ)
(そうだな。だがオヤビンの精神衛生維持も我らの務め、オヤビンに送るとしようか)
(持ってるの?)
(勿論だ。結果が予想出来る以上、陛下からのお叱りを受ける事もあるまい)
(そうね)
 
「『妖精界にのみ野生する果実から精製された飲み物。とても甘いが、その滴は口にした者の本質を引き出す――サークス・サーク。そう、妖精達からの贈り物を我が主人へお贈りしよう』」
 
 テーブルの上にあった物をすべて流しに運び、布巾を絞って戻ってきたシンジが見たのは、小さな瓢箪であった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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