GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第十四話:オカエリ
 
 
 
 
 
「……」
 ミサトの携帯のサブウィンドウには、発信元が出ており、それは副司令となっていた。ちょっと考えてから、シンジは通話ボタンを押した。
 ゲンドウに副司令のネーミングを付けてはいないだろう。
「シンジですが」
 一瞬の沈黙の後、
「葛城少佐の携帯だと思ったんだが」
「寝てますよ。起こしちゃ可哀想でしょ」
「ああそうか…って、こんな時間まで、しかも君の隣でかね」
「もう一度」
「あ…いや、失礼した」
 咳払いして、
「ラミアス少佐と…もしかしてバジルール少尉も一緒かね」
「ええ、熟睡してます。つーか、返り討ちにしておきました」
 少年に返り討ちされた女、と言うと普通はあっち系を想定するが、何せ少年の方は尋常ではない。余計なボケをかますのは止めて、
「三人とも酔い覚ましが必要かな」
「そうですね――まあそんな感じです」
 仲魔の一撃が原因だが、アルコールが完全に抜けているという事はあるまい。
「ふむ…」
 何やら考え込んでいる気配が伝わってきた。
「幾つかコースがあるが、シンジ君に決めてもらおう。葛城少佐とラミアス少佐は、二人ひと組で良かろう。とりあえず、蛸とワニと蟋蟀があるが」
(シャープなコースだこと)
 内心で呟いてから、
「武器は?」
 と訊いた。
「蛸と蟋蟀なら要らんだろう。ワニなら、シンジ君に鰐皮のベルトでも贈らせようか」
「生臭いから要らない」
「ならば蛸だな。食材にも使える」
 そう言う意味じゃないよと、突っ込むのも面倒なので黙って聞いていたシンジに、
「君はどう見るかな」
「何をです?」
「時間だよ。彼女達二人を放り込んで、どの位で上がってくると思うね?」
「十分から十二分」
「そうか」
 即答に満足したらしい。
「信賞必罰には公平が欠かせない訳だが、バジルール少尉には何を選択する?シンジ君が決めたまえ」
 すやすやと寝息を立てているナタルは、よもや数時間後の自分の命運が、こんな少年に握られているとは思うまい。
「ワニと蟋蟀以外で」
「ほう。却下だ――と言いたい所だが、条件による。気に入ったかね?」
「ええ、まあ」
 少し曖昧だが、今度も答えは早かった。
「そうか。バジルール少尉の性格では少々一本気過ぎる所もあるから、君との相性はどうかと心配していたのだが…」
「結構可愛いとこも…な、なんでもないです」
「それは良かった」
 コウゾウがさらっと流した事に、シンジはちょっとだけ感謝した。
「シンジ君がそこまで言うのなら一つ追加しよう――鳥だ」
「と、鳥?」
「そうだ」
(な、何の鳥?)
 訊いても教えないだろうな、という予感はあった。どうせ教えないのなら、わざわざ訊く事もあるまい。
「フユゲツさんを信用します。猛禽類じゃないでしょうからそれで」
「良かろう。で、バジルール少尉はどう見るかね」
「失神して発見される、に一票。くれぐれも傷つけたりはしないで下さいね。それと、ナタルさんに伝言を」
「何かな」
「蛸よりは怖くない。マジでお勧め――と」
「了解した」
「よろしく、フユツキさん」
(ん?)
 コウゾウは小さく首を傾げた。さっきはフユゲツさんと言った。
 今度はフユツキだ。別に間違えた風情もない。
(フユゲツスイッチでも…あるのかね?)
 
 
 
 
 
「ひどい目に…遭ったわね…」
 もぞっと起きあがったリツコは、ゆっくりと首を回した。全身が氷漬けになった間の事は覚えていないが、氷漬けにされる寸前の凍てつく感覚だけは覚えている。
「あんな非科学的な現象でダメージを受けるなんて無様よ、赤木リツコ」
 リツコに取っては科学がすべてであり、雪だるまが吹雪を吐き出して氷漬けにされるなど、決してあり得ない事なのだ――そう、自分がその体験をしたとしても。
「さてと、どうしてくれようかしら」
 リツコの思考は、既に復讐へと移っている。自分が寝間着に着替えている事は、敢えて見ないようにしているのだ――解かされた時、凍り付いていた服は細かい破片となって地に落ち、その場にいた者達に眼福をおごる事となった。
 但し、上と下で毛の色が違う事を好まぬ者達に取ってはどうであったか。
 復讐だが、社会的に抹殺というのは少しまずい。ゲンドウの、と言うよりネルフ本部総司令の息子だし、何よりも過去十年間行方不明だった事で、元から半分消去されていたようなものなのだ。やはりここは一服盛って、とふふっと危険に笑った時、ふとその視線が横に動いた。
「あらマヤ?どうしてここに」
 横に寝かされていたのはマヤだが、リツコと違って制服のままだ。と言う事は、少なくとも氷漬けにされた訳ではない。
 しかしマヤが横に、それもまるで自分を追ってきたかのように寝ているのはどうしてか。
「あの生意気な子供の毒牙に掛かった訳じゃないみたいね。それにしても、可愛い寝顔でぐっすり眠っちゃって」
 ちょん、と人差し指で頬をつついた。無論シンジに突撃して反撃を食らったのではなく、氷漬けになったリツコを見て失神した為、面倒な女だと救急隊員にぶつぶつ言われながら運ばれてきたのだが、もしもマヤが知ったら何というか。
 マヤの髪を軽く撫でてから立ち上がる。その後ろ姿には、確かに鬼気が漂っていた。
 一方、リツコが目覚める少し前に、ゲンドウも意識を取り戻していた。やや時間が掛かったのは、重傷だったからではなく、副司令からの指示があったからだ。
「彼が、使徒のついでに本部を破壊する気になっては困る。すぐには起きないようにしておけ。その方が世界平和の為だ」
 と。
 賢明であったろう。
 少し重量を感じて目覚めたゲンドウが見たのは、自分の上に頭を載せて、寝息を立てているレイの姿であった。エヴァが住居を破壊したからここへやって来た、と言う訳ではあるまい。
「付いていてくれたのか…」
 包帯をびっしりと巻かれた手がレイの顔に伸びる。
「うっん…」
 気配に気付いたのか、レイがぱちっと目を開けた。
 二人の視線が絡まる。
「碇司令…碇司令!」
 起きあがったレイが、ほっと安堵したように胸に触れた。まだ抱き付くような情緒は持ち合わせていない。
「良かった…心配したです…」
 そっと――殆ど力など入れずに頭をもたせかけたのだが、一瞬ゲンドウは眉を寄せた。愛情表現だろうが、今の身体には結構くるものがある。
「私は、どれ位眠っていた?」
「昨日から、一昼夜です」
「そうか。では使徒は初号機が始末したな」
「はい」
 シンジが、とはまったく言わない。息子がどうなったか、とは一言も訊かず、その件に関する話は終わった。
「レイ」
「はい」
「冬月に連絡を取ってくれ。ここへ来るようにと」
 それを聞いたレイの顔が微妙に変化した。
「それがその…」
「どうした?」
「あの、えと…も…」
(?)
 よく分からないが、コウゾウが何かを言い残した事は間違いなさそうだ。そしてそれが、言いにくい内容らしい事も。
「構わん、冬月は何と言ったのだ」
「その…も、問題児に付き合っている暇はない。起きたら呼べと言うだろうが放っておけ。気が向いたら私の方から来る…と」
 申し訳なさそうに俯いたレイの頭に手を伸ばそうとして、止めた――勝手に酷使するなコラ、と身体がストを起こしたのである。
「では呼ばなくともよい。そこまで言ったのなら呼んでも来るまい」
(冬月め、シンジなぞに肩入れしおって)
 肩入れとかいう単純な問題ではないのだが、事件は会議室で起きているのではないという、根本的な事を分かっていないゲンドウには理解できない話だ。
「レイ、今日はもう自宅に戻れ。風呂にでも入ってゆっくり休むといい」
「で、ですが…」
「そうしろ。それと、帰る時に冬月を捜して、起きたとだけ伝えてくれ」
「り、了解しました…」
 後ろ髪を引かれるような面持ちで、レイは小さく頷いた。無論ゲンドウの事も心配だが、レイがずっと付いていた訳はもう一つある。
 シンジがとどめを刺しにと言う事ではなく――。
「失礼します」
 声が聞こえた瞬間、レイの表情が明らかに強張った。
 ドアが開いて入ってきたのはリツコであった――レイが最も、そして唯一警戒していた女。
「意識が戻られたのですね。良かったですわ」
「少し寝込んでしまったようだ。ところで、初号機の動きはどうだった」
 別にコウゾウでなければまずいと言う事はない。リツコでもいいと思って訊いたのだが、リツコは軽く首を振った。
「総司令を焦がした犯人を捕らえようとしたのですが、私も氷漬けにされてしまいました。つい先程目覚めたところです」
「そうか…大変だったな」
 余計な事をするからだ、とかいう単語が出て来ないのは分かっている。ゲンドウの言葉を聞いたリツコはにこりと微笑み、レイは唇を噛んで横を向いた。
 
 だからこの女を来させたくなかったのに。
 
 ゲンドウが目覚めていなければ、絶対に入れさせないところだ。そんなレイの様子に、ゲンドウは気付いていないがリツコは気付いている。
「あらレイいたのね」
 まるで今気付いたかのように言うと、
「後は私が付いているわ。あなたはもう帰りなさい」
 もう用済みだと言わんばかりの口調に、レイの眉がつり上がる。
「私は氷の中に閉じこもったりはしていませんから、体調に問題はありません。赤木博士こそ今日は休まれた方がいいと思います。無理は身体によくありませんから」
 さっきのお返しに、もう年なのだからという響きを言外にたっぷり込める。聞いているゲンドウには分からないが、女同士には十分通じる。
 ちょうどお互いに白刃を抜いて鍔迫り合いになったところだ。
(なんですってこの小娘が…)
 同じ男絡みでも、シンジを間にしたミサト達の場合だと、ここまでギクシャクした感じはない。当のシンジがまだ来たばかりだし、何よりもお互いを嫌っているというのが根底にないからだ。
「大丈夫よ」
 うっすらと――目はまったく笑っていない――笑って、
「定期的なメンテナンスがないと、肉体すら保てない子供よりは頑丈なつもりよ。心配しないで」
 大上段からの一撃で、ダメージを与える事には成功した。
 が、その後がいけない。
 さりげなく果物に手を伸ばしたつもりだったが、それを察したレイの方が一瞬早く手に取った。一秒の差で追いついたリツコが、レイの手から奪い取ろうとする。
(渡しなさい)
(絶対に嫌)
 数秒間、二人は無言で果物を奪い合った。と、ふとリツコの爪がレイの手をひっかいた。意識してではなく、手が縺れた拍子だったが、リツコは謝らないし、レイも偶然だなどとは思っていない。
 引っ掻く代わりに爪を立てる。リツコもすぐにやり返し、視線だけは熱く睨み合ったまま、二人は果物も放り出して爪を立て合った。痴情の縺れ、と言うより単なる女同士の喧嘩になっており、もう頭の中には相手を痛めつける事しかない。ギリギリとお互いの手に爪を立て合いながら我慢比べを――と言えば聞こえはいいが、爪が食い込んだ手の甲からは、既に血がにじんでいる。
 リツコとレイの事を完全に忘れ、初号機の処遇を考えていたゲンドウが漸く我に返り、
「今は、食べたい気分ではない。少し一人にしてくれ」
 声を掛けた時、二人の爪はそれぞれ相手の手にきつく食い込んでいた。わざと痛みが残るように引き離すと、手には文字通りの爪痕が生々しく残っている。憎悪のこもった視線でにらみ合ってから、ふいっとそっぽを向いた。
 
 
 
 
 
「『た、ただいま戻りました…』」
 マリューとミサトがはい上がって来た時、それはある意味で凄惨な姿であった。髪は乱れて服はボロボロになっており、身体のあちこちには緊縛の痕がある。
 文字通り、怪しさ大爆発の格好だ。
「なかなか――」
 ちらりと時計を見たコウゾウに、何を言われるのかと身を固くした二人だが、
「シンジ君は良い勘をしているようだね」
「『え?』」
「君たちが落ちてから、ちょうど十一分と三十秒が経過した。シンジ君に時間の予想を訊いたところ、十分から十二分と答えたよ」
「シ、シンジ君が…」「ぴったりに…」
 墨だらけになっているのも忘れて、座り込んだままうふふと笑う二人。傍から見ると、やや不気味に見える。
「で、その抱えているのは戦利品かね」
 二人が担いでいたのは、太さがミサトの胴体ほどもありそうな足であった。
「折角ですので、今夜のおかずを取ってきました」
「結構な事だ。但し、常に足をもがせてくれる相手ばかりではないよ」
「『りょ、了解しました…』」
 立ち上がって敬礼してから、ふと思い出した。
「あの、副司令」
「何かね」
「その、バジルール少尉は?」
「シンジ君からの伝言に見送られて、別の所へ行ってもらっているが」
(あたし達への伝言は!?)
 内容は知らないが、自分達はそんなものなどもらっていない。ちょっとむくれた風情の二人に、
「その足は、君ら二人の食料かな」
「い、いえっ、もし宜しかったら副司令も如何かと」
「私は君らの志だけで十分だよ。元より、誘う相手が間違ってはいないかね」
「間違って…!」
 ピンと来た。
「よ、よろしいのでしょうか」
「よろしいも何も、私が決める事ではないよ。ところで、シンジ君の住居は何処になったのかな。まだ報告は受けていないが」
「本人はバジルール少尉との同居を望んでいるようですが、同性でもありませんし、あまり好ましくはないかと…」
「君ら二人となら問題ないのかな、ラミアス少佐」
「い、いえそう言う意味では…」
「結婚に於いて最優先されるのは、当事者同士の合意だ。それは同居に於いても変わらないことだ。それとも、バジルール少尉が嫌がっているのを無理矢理に?」
「い、いえ…」
 どう見ても嬉々としてました、位は付け加えたかったのだが、マリューもミサトも、陰で足を引っ張るような真似はしたくないから言わなかった。
「であれば問題ない。それに、正体は不明だが、彼には強力な友人が居るようだ。女一人で不用心な家のセキュリティ問題も、一気に片が付くというものだ」
「『は、はい…』」
 副司令のお墨付きをもらったようなもので、いわば公認化したとも言える。これでは反対しようがない。
 だが、コウゾウの次の言葉は意外な物であった。
「但し、君らも知っているとおり、シンジ君についてはまだ不明な部分が多い。経歴は無論の事、その性格もまだ未知数だ。現時点でバジルール少尉との同居が確定しても、常に続く訳ではない。勿論、移動してもらう事もありうる」
「『そ、それじゃっ』」
「シンジ君がどう見るか、と言う事だ。私が強制する事ではないよ。差し当たって料理や掃除など、家事の面で彼に負担を掛けないのは最低必要事項、と言う事になるな」
 その途端、二人がぴくっと反応した。別に、コウゾウが葛城邸の内情を知っていた訳ではないのだが、マリューとミサトの脳裏でサイレンをかき鳴らすには十分であった。
「ふ、副司令っ」「し、至急の用事を思い出しましたので、ほ、本日は失礼致しますっ」
(許した、とは言っていないが…)
 内心で呟いたコウゾウだが、目の前の二人を見れば、どんな話をしても右耳から入って左耳へ一瞬で抜けていくのは分かっている。馬に念仏、を実行するのもお洒落な話ではあるまい。
「良かろう」
 コウゾウが軽く頷いた次の瞬間、
「『失礼致しますっ』」
 脱兎のように走り去っていく二人を見ながら、
「仕込みに時間の掛かるタコ料理を思いついた、というだけではなさそうだが」
 呟いてから、コウゾウはくるりと身を翻した。
 執務室を出て、足が左を向いた時、コウゾウの携帯が鳴った。
 発信元をちらりと見て、
「目覚めたか」
 少し嫌そうに呟いてきびすを返した。向かおうとしていた先の方が、遙かに気乗りしていたらしい。
 結局コウゾウが戻ってこれたのは、三十分後の事であった。室内にはゲンドウしかいなかったが、妙な空気が――何やら殺伐とした――漂っており、コウゾウが起きた事態をなんとなく想像するには十分であった。
「赤木博士とレイがいたのかね」
「…ああ」
 少し遅れて返ってきた言葉を聞けば、それで足りた。
 使徒戦の後処理と戦闘状況の事を話したのだが、結局、ゲンドウの口からシンジという単語は一度も出る事が無かった。
(……)
 部屋を出た時、コウゾウは身体が軽くなったような気がした。
 なぜかは自分でも分からなかったが。
 早足で向かった先は、自分の私室であった。
「お帰りなさい」
 コウゾウを迎えたのはシンジであった。その膝にはナタルの頭が乗っている。
 無論、本人に意識はない。
 ナタルも又、シンジの読み通り、羽毛に覆われて失神している所をサルベージされた。既にシンジは来ており、
「あーあ、真っ白になっちゃって。ちょっと洗ってきます」
 そう言ってナタルを担ぎ上げたのだが、一瞬コウゾウに視線を向けた時、コウゾウは自分の寿命が二年ほど、間違いなく縮んだ事を知った。
 それでも、もう一度ナタルを背にして戻ってきた時は、もういつものシンジに戻っており、未だ目覚めぬナタルの頭を膝に乗せて、出された羊羹を食べているところだ。
 コウゾウが感心したのは、膝枕のまま微動だにしていない事ではなく、羽毛まみれで運ばれていったナタルが、落下する前と変わらぬ格好で戻ってきた事であった――おそらく脱がせたのだろうが――寸分違わず、元の格好に戻してのけたのだ。
 さっきミサト達には訊いたが、ナタルの同居を選ぶだろうという事は、ある程度分かっていた。と言うより、この姿を見れば想像はつくというものだ。
「ところでシンジ君」
「はい?」
「エヴァに乗る事は、既に了解済みかね」
「何となくな感じで」
 そうか、と頷き、
「守秘義務、等という課すも無駄な事を課す気はない。だが…実態はどうあれ、普通に見ればネルフに所属した事になるだろう。それは、良いのかな」
「冬月さん、僕の事はどれ位知ってますか?」
「率直に言えば、だな――殆ど知らない。知りようがない、と言うのが本当の所だ」
「調べる事が出来れば、それこそ人外の領域に近づいてますけどね」
 言いながら、満更でもない様子に見える。
「僕の事を思いやったからじゃなくて、醜聞が自分の地位を脅かす事を怖れて、ヒゲロリコンの人は、僕の預け先に送金し続けました。送る側と受け取る側の思惑が違う、というのはこれまたよくある事でして、僕が戻った時には、本来なら蓄えられているそれは、夫婦二人暮らしを念頭に置いた豪邸と、パスポートを埋め尽くす位の海外旅行でほぼ使い果たされていました。まあ、誰が何処に送ろうとどう使おうと、そんな事はどうでもいいんですが。そんな事がありまして、実は僕ってば親無しなんですよ」
(シンジ君…)
 歪んでいる、と言えば歪んでいるのだが、問題はシンジの言葉に強がりがまったく感じられない事にある。コウゾウとて、だてに人生の年数だけ重ねてきた訳ではない。少なくとも、少年の言葉の真偽位は見ぬけるつもりだ。
 だがコウゾウが聞く限り、シンジの言葉はストレートな本心なのだ。つまり、シンジにとって父や母と呼べる人物は、この世にいないという事なのだろう。
「単に名字の同じ人がいる、とそれだけのことですよ。僕におかしな事を企んだりしなければ、関わり合いになる必要もありませんから」
「そうか、君が気にしないというのならそれでいいが」
 言葉を紡ぎながら、コウゾウは言葉の一つ一つが異様に苦い事に気付いていた。口から出る言葉がこんなにも苦いのは、人生経験でもおそらくは初めてだ――他人に聞かされたそれが苦かった事ならいくらでもあるが。
 ふとコウゾウの脳裏に浮かんだのは、シンジの実母ユイの事であった。
「あの人は、本当は可愛い人なんですよ」
(よりによってこれか)
 脳裏に浮かんだユイの笑顔を、コウゾウは首を振って打ち消した。
「どうしたんです?」
「いや、なんでもない。それより、さっきから姿勢がまったく動いていないが、疲れてはいないかね」
「載せてるものが柔らかいから大丈夫」
 少し理解しかねる言葉だが、分かる者には分かるのだろう。世の中の言葉というのは、大半はそんなものだ。
「そうか」
 頷いてから、コウゾウは時計を見た。
「シンジ君、悪いが私はこれで失礼するよ。総大将は未だ使い物にならないのでね、この老体を酷使せねばならん」
 或いは――ご迷惑を掛けてます、と言う言葉を期待しなかったと言えば嘘になろう。無論、シンジ自身がと言う事ではない。
 だがシンジの口から出たのは、
「トップ三人の中で、唯一のまともな人に何かあると、ここを氷の下に沈めるのが僕の役目になっちゃいます。お体にはお気を付けて」
 と言う、コウゾウを気に掛けながらも、その思うところとは遠くかけ離れた言葉であった。
「そうだな…ありがとう、シンジ君」
 コウゾウが部屋を出て、その足音が遠ざかるのを確認してから、シンジはナタルの耳元に口を近づけ、はふっと息を吹きかけた。
 寝ている筈のナタルの肩が、ぴくっと揺れる。
「多分今日は戻ってこない。そろそろ起きたら?」
「…い、いつから気付いて…」
「数分前から。冬月さんがいるから寝たふりするなんて、ナタルも律儀だよね」
(べ、別にそう言う訳では…)
 シンジの言うとおり、ナタルは既に意識を取り戻していた、ただ起きなかったのは、コウゾウの声を察知した、と言う事もあるが、自分の頭がどこに載っているのか分かったから、との理由が大きい。
 無論、口に出せる事ではない。
 顔を上に向けたナタルが、顔の前に手を持ってきた。
「きれいになっている…」
 ちらっとシンジを見た視線は、本人は無意識だろうが妙に色っぽい。
「洗ったから」
 何気ない一言だったが、ナタルは語尾にわずかな空白を感じ取った。
「誰が?」
 と訊いたのは、十秒位経ってからの事であった。
「僕が」
「…着替えも?」
「服が乱れてたら、起きた時に嫌でしょ?ナタルってその辺ちゃんとしてるから」
(…っ)
 こう言われると返しにくい。微妙な所で、ツボを突いたような外したような台詞は、ナタルのようなタイプにはちょっと効いたりする。
「シ、シンジが…」
「え?」
「シンジがそ、そんなに淫らだとは思わなかった」
 精一杯の切り返しだが、戦法的には間違っている。そもそも、裸を見られたとは言っても、身体を綺麗にして着替えさせてくれた相手に、淫ら扱いでもあるまい。
「ちゃんと着替えさせてあげたのに」
「そっ、それは分かってる。でも…っ」
「こんな事ならおっぱいにキスマークでも付けておくんだった」
 その途端、ナタルの顔がかーっと赤くなり、
「う、うるさいっ。そ、そんな事を言う口はこうしてやるっ」
 シンジの顔を両手で挟んで引き寄せると、いきなり口づけしてきた。
 
 単語の意味としては合っている――これが本当の口封じ、と。
 
 為すがままでも良かったが、ちょっと癪だしと反撃する事にした。
 さほど広くない室内に、舌が絡み合う音と唾液が行き来する音、時折洩れる熱い吐息の音だけが響く。
 二分後、シンジが唇を離した途端、ナタルの顔はくてっと落ちた。完全に力が抜けている。
「僕をちゅーで口封じしようなんて、十年ととんで四日早いんだから」
「う、うるさいっ」
 横を向いたナタルが、
「い、いつか…絶対私の下で喘がせてやるっ」
「ナタルさんでもそういう事言うんだ。ちょっとびっくり」
(……)
 ナタルは何も言わず、シンジの足をきゅっとつねった。
「真面目で、そう言う事って冗談でも嫌いなのかと思ってたから」
(あ…)
 囁くようなシンジの言葉に、ナタルの身体から力が抜けていく。
「僕を喘がせてくれるの楽しみにしてる。でも今は」
 きれいな黒髪を優しく撫でて、
「もう少し安静にしてようね。まだ起きるのは無理だから」
 ナタルの頬に、ちうと口づけした。
 
 
 
 結局、ナタルが起きたのは夕方になってからであった。さして疲労が溜まったとも思えず、シンジの言葉に少し反発したところもあって、起きあがろうとはしたものの、あっさりと倒れ込んでしまった。
 無理しないで良いから、とあやすようなシンジの言葉に、うるさいっとそっぽは向いたものの、もう一度目覚めるまで、二人の手はしっかりと握られていた。
 起きあがったナタルは、帽子をかぶった途端明らかに雰囲気が変わった。普段の、凛としたものに戻ったのだ。
(帽子が必須アイテムなのかな?)
 ぼんやりと考えていたシンジを引っ張るようにして、部屋から出て行く。
「そう言えば…」
「なに?」
「約束していたのに今日は行かれなかったな。ごめん」
「……」
 黙って横顔を見つめるシンジに、
「な、なんだ」
「眠ってる間にすっかり忘れたかとおも…ひたた」
「わ、私が約定を忘れる訳がないだろう。馬鹿にしているのか」
「でも行かれなかったっしょ」
 頬を引っ張った手が、力なく離れる。
「そ、そうだな…」
「明日行けばいいでしょ。お店が今日で逃げる訳じゃないんだから」
「うん、そうだな」
 途中で夕食を買い込み、マンションに着いた頃にはすっかり日が落ちていた。
 先に立って鍵を開けたナタルが、
「今日からここがシンジの家になる。あまり綺麗じゃないけれど…」
「そんな事無いと思うよ。お邪魔します」
 無いよ、と断言するのはさすがに避けて、一歩入ろうとしたら腕を取られた。
「何?」
「やり直し」
(ハン?)
 やっぱり断言した方が良かったらしいと、
「綺麗なのは間違いないから。じゃ、お邪魔します」
「違う」
 また捕まった。
「…失礼致します」
 何もそこまで強要しなくても、と思いながら入ろうとするとやっぱり捕まった。
「だ、だからそう言う事じゃない!そうじゃなくて…」
(ん?)
 足捌きとか、そんな事ではないらしいと気が付いた。そうなると残りは台詞だが、別に間違ってはいまい。
「だから…きょ、今日からはここが家なのだ。その…お帰り」
「ああ、それか」
 ぽむっと手を打って、
「お帰りナタル」
「…何故そうなる」
「えーと…オカエリ?」
 言った途端一撃が飛んできた。
「誰が発音を変えろと言った!カタカナにしてどうする気だ!」
 段々と、ナタルが殺気を帯びてきているような気がする。シンジはまだイライラしていないが、これ以上間違えると我が身に危険が及ぶ可能性がある。
(もしかして…)
「た、ただいま…?」
 これとてまったく確証はなかったのだが、その途端ナタルの表情が緩んだ。
「そうだ…もう、遅いぞ。自分の家なのにお邪魔しますなどと…」
「ナタル…」
 ナタルの言葉に、シンジは胸の奥が少し暖かくなった――ような気がした。
「もう…全然伝わらないんだから…」
 そう言いながらも、視線を逸らす事はせず、二人の視線は絡み合ったままだ。
 やがて、どちらからともなく手が伸びて、お互いの身体に回ろうとしたその瞬間、
「あーらお邪魔だったみたいねえ?」
 笑みが一割で残り九割は鋭いトゲみたいな声に、二人が慌てて離れる。
「玄関先でディープキスでもするのかしら?お熱い事よねえ」
 シンジとナタルの首が、奇妙な音を立ててゆっくりと振り向く。
 そこには、怪しい、と言うよりも危険な笑みを浮かべて、マリューとミサトが立っていた。
  
 
 
 
 
(つづく)

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