GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第十一話:ファーストインパクト
 
 
 
 
 地雷というのは、既にある程度覚悟して踏む場合と、まったく想定外で踏んづけてしまう場合がある。肉体的、或いは物的被害は双方とも大差はないが、心理的は全然違う。
 数値にすると、ざっと8.2倍の差があるのだ。
 なお、この場合の地雷とは、必ずしも戦場に埋め込まれたものとは限らない。
 例えばそう――日常生活に於いて、触れた瞬間激しくダメージを受ける事象も含まれる。
 そしてその中に――蒼い髪の少女が含まれる事は、言うまでもない。
 
 
 
 
 
(も、もういいだろう離すぞ)
 すぐ先をシゲルが歩いているから、あまり大きな声は出せない。一度も振り向かないシゲルの背が、妙に硬く見える事にナタルは気付いていた。
 先に腕を取ったのは自分だが、今度はシンジから腕を組まれてつい応じてしまったものの、今は二人きりではないのだ。
(別にいいけど、離したら逃げるかも知れないよ?)
(…し、仕方がないな。いいか、逃げようなどと思うなよ)
 がしっと腕に力を入れたナタルに、
(でもナタルもちょっと嬉しいでしょ?)
 訊ねたシンジに、ナタルは微笑んだ――綺麗な、そしてあまりにも危険な笑みで。
「ふぎゃ!?」
 唐突に上がった大きな声に、先を行くシゲルの肩が一瞬びくっと震えたが、それでも振り向かない。あくまでも振り向かないつもりのようだ。
 或いは、振り向いたら何かの法則が発動するとでも思っているのかも知れない。
 無論発生源はシンジだ。この体勢ではこれ以上出せない、と言う位の力で思い切り足を踏んづけられたのだ。
「大丈夫か、少年?さ、行くぞ」
 腕を取り直したナタルが、さっさと歩き出す。勿論、休んでいる暇など与えるつもりはない。
(な、何もそこまで踏まなくても…)
(……)
 足を引きずっているシンジをどう見たのか、
(もう一度言っておく。決して嬉しくなどないぞ…絶対にだ)
 素早く顔を寄せたナタルが、はむっとシンジの耳朶を甘噛してすっと離れる。
 
(フロスト、この小学生もどきの行動どう思う?さっきから燃やしたくてうずうずしてるんだけど)
 無論、シンジの事ではあるまい。
(多少知恵が回るかもしれんが、平均的には小学生レベルなんだろ。そこがいいんだ、とオヤビンが言うかも知れないからほっとけ)
(まったく…こんな感情も素直に出せない女のどこがいいんだか)
 
 そんな仲魔達の思いなど知らないシンジが、噛まれた耳朶をおさえてナタルを見た。
(……)
 何を思ったのか、組んでいた腕をすっと解く。
(あ…)
 怒ったのかと思ったら違った――腕ではなくて手を繋いだのだ。
(腕を組まれるのが嫌だから、じゃしょうがないでしょ?)
(か、勝手にするがいい)
(うん)
 シンジが一方的に繋いだように見えるが、後ろからよくよく見れば、ほんの少しナタルの手にも力が入っている事に気付いたかも知れない。
 
 
 
 
 
「では…碇司令がこんなに大けがしたのは、ふらふらしていたサードチルドレンの仕業だったのですね」
 そうだ、と頷きながらコウゾウは、言わなければ良かったかなと、少しだけ思い始めていた。
 レイの表情に変化はないが、その全身からは鬼気のような物が吹き上げており、しかも既に室内を覆い尽くしている。まだ意識の戻らぬゲンドウが夢を見ていれば、さぞかし悪夢に悩まされる事だろう。
「とはいっても…」
 言いかけたところで止めた。確かに軽傷ではないが、重傷というほどでもないし、この包帯も医療班が大仰に巻いたものだ――ヒゲ面を見たくないと思ったから、かどうかは分からない。
 しかし、レイの赤い双眸には殺気が満ちており、絶対ヌッ殺すと力強く宣言していたのだ。もはや、何を言っても無駄だろう。
 それにしても、とコウゾウはゲンドウを見た。
 確かに火種へ点火したのは自分だが、レイがここまでゲンドウに入れ込んでいるとは思わなかった。ゲンドウがレイに拘りすぎなのはとっくに知っていたが、レイのそれはあくまでも受け身だと思っていたのだ。
 だがどうだ、今のレイは明らかに怒りという感情を持っており、普段の無機質な人形を思わせるそれなど全くないではないか。
(これは少し、レイに対する認識を改めねばならんな…こんな事でそうなるとは思わなかったが。こういうのもやはり、両想いというのかね、ユイ君?)
「あの人は可愛いところもあるんですよ、先生」
 十数年前、自分にそう語りかけた娘は、エヴァの中から帰らぬ人となった。
「初号機は息子をすぐに認識し、落下物から守ってみせた。だが私には――」
 コウゾウは薄く笑い、
「碇を可愛い人と言い切った君のほうが好意に、いや敬意に値するよ」
 その後幾人もの女から想いを寄せられながら、ゲンドウが本当に心を開いたのは未だにユイだけだという事を、コウゾウは知っている。
「君の息子はまたここへ帰ってきたよ。氷柱や火の玉を操る友達と一緒にな。ある意味立派になったものだ」
 小さく呟いてから、コウゾウはため息をついた。レイの殺気は、ゲンドウの顔を見つめていた事で緩んだらしく、今はウサギ型に切ったリンゴへ更に細工を加えているところだが、シンジに会えばまた再燃する事は間違いない。
 その前に釘を刺しておかねばならないのだ。
 そうしないと、レイが危ない。零号機が使えない以上、別にレイがダウンしても良いのだが――シンジが飼っているもの達のゲンドウに対する反応から見て、ダウンで済まない可能性の方が高い。
 美少女入りの氷柱というのは、マニア受けしそうだがとりあえずは必要ない。
 
 
 
 
 
 深呼吸してから振り向いたシゲルを、シンジが不思議そうな目で見た。
「青葉さん、どうかしたんですか?」
「いや、何でもないよ」
 冷凍室に着いた時、見張りの者は誰もいなかった。シゲルがすぐに振り向かなかったのは、いちゃいちゃしていると困るからだ。
 それ自体は別にどうでもいいが、お邪魔虫みたいな視線を向けられるのは困る。
「こっちだ」
 案内された先には、冷たいオブジェとなったリツコがいた。冷凍庫に入っていないのは、室内の温度が低い事に加えて、氷柱自体も非常に冷たく、自然解凍はあり得ないと判断したからだろう。
「何つーかこう」
 しげしげと氷柱を眺めて、
「間抜け面だよね」
 出てきたシンジの評価はそれであった。奥には保安部員入りの氷柱もあるのだが、まさか自分も同じ運命とは思わなかったようで、口をぽかんと開けたまま凍っている。人間、驚愕が極まるとこうなるのかも知れない。
「ま、後は適当にやっておきますよ」
「分かった、よろしくな」
 頼みますと、ナタルに視線を向けてシゲルは部屋を出た。嬉々として溶かしてくれるとは思っていなかったし、どうにか出来るのがシンジしかいない以上、余計な事を言って気変りされても困る。
(そう言えば…)
 自分はさっき一度来たので上着を着ていたし、ナタルも少し寒そうな様子だったが、シンジは平然としていたのを思い出した。寒そうな様子など微塵もなかったのだ。
 シゲルが出て行った後、
「ねえナタル」
 友達でも呼ぶような声でナタルを呼んだ。
「ん?」
「ダイイングメッセージって知ってる?」
「いや、知らない」
「推理小説とか読んでないでしょ。つまんないひ…くえ!?」
 言い終わらぬ内に、きゅっと首が絞まった。どうやら今日は、そういう日らしい。
「能書きはいいから。それがどうしたと言うのだ」
「死ぬ前にね、殺された人が血文字で犯人の名前とか書いたりするの。それをダイイングメッセージと呼ぶの。でもそれは、死にかけであってもあくまで生きている人がするやつ。怨念とか信じるタイプ?」
「そんなものを信じていたら、軍など指揮できんよ。下らん妄想だ」
「そう?ナタルさんて、現実主義者みたいだしね」
 笑ったシンジが、
「ところで、ちゅーしていい?」
「なっ、何をいきなりっ…んむっ!?」
 ナタルの反応を待たずに唇が触れあい、反応する間もなく唇は離れた。
「目を閉じて深呼吸して、それから下を見て」
「……」
 ナタルが黙って従ったのは、シンジが突如発情したのではないらしいと気付いたからだ。もっとも、その可能性もゼロではないが。
 深呼吸したナタルが目を開き、顔を下に向ける。
「なっ…あ、あぁ…」
 その途端、ナタルの表情が凍り付いた――自分の足に、地面から生えた数本の腕が絡みついていたのである。
「あ、足が…私の足がっ」
 引き抜こうとしても、まるで地面に縫いつけられたかのように足は動かず、ただ手だけを振り回しているナタルだが、本人は気付いていない。
「シンジ、シンジ助けてっ」
 初めて聞く悲鳴のような声に、普段の凛としたナタルの面影は微塵もなく、それは初めての恐怖に覆い尽くされた一人の女の物であった。
「ん」
 頷いたシンジが取った行動は、再度のキスであった。軽くナタルの唇を塞ぎ、すぐに離す。
「もう大丈夫」
 言われた瞬間、足は自由に動いていた。
「…っ!」
 足が自分の意志で動いてくれたと同時に、ナタルはシンジに飛びついていた。何も言わず、まるでやっと父親に会えた迷子のようにぎゅっとしがみつく。シンジはその身体に手を回すことなく、黙って立っていた。
「すまない、もう大丈夫だ…」
 ナタルが離れたのは、それから数分後の事であった。
「もう大丈夫だね?」
 シンジの言葉に小さく頷く。
「シンジ、今のは一体…」
「最初に口づけしたのは、普段は見えざる物を見えるようにする為。その次のは普通の能力に、つまり見えざる物がそのまま見えないようにする為。この十年間、生活してきた環境のおかげで、普通の人より少し色々な物が見えるようになったの。今見えたのは、ここで殺された人達の怨念だよ」
「殺され…た?」
「そう。実体化させる事も出来るんだけど、それやるとナタルが腰抜かしちゃって、下手すると乗っ取られる可能性もあったから止めた。標榜は人類最後の砦でも、ずいぶんあくどい事やってるみたいね」
「そうか…ところで今、私が腰を抜かすとか言わなかったか?」
「言ったよ。ああいう未成仏霊ってのは、対象に恐怖の感情が強ければ強いほど乗っ取られやすいんだ。他の人はともかくナタルは困る。だって――」
 ナタルの頬を両手で挟み、
「だってこれ僕のだもの。可愛い悲鳴あげるし」
「!?」
 何も言わずにぷいっと横を向いたが、その頬は確かに赤くなっていた。
「話を戻して、ちょっと手間は掛かるけど、さっきの霊達がここで地縛霊になった原因、つまり殺された状況ってのは訊こうと思えば訊けるんだ」
「シンジはそういう職業なのか?」
「違うってば。ただ出来るだけ。わかりやすく言うと、死体からでも頭の中身は読み取れるってこと」
「ふうん…何!?」
 聞き流しかけたが、その顔色がさっと変わった。自分達が、ここへ何をしに来たのか思い出したのだ。
「あ、赤木博士をこのまま殺すというのかっ?」
「殺すなんてご大層なものじゃないよ。アスラン達は、あくまでも足止めがメインのそれだったから、放っておいても命に別状はなかった。でも、この中にいるホームラン級のお馬鹿さんは手加減してないからね、あと十分も放置すれば勝手に凍死する。死んだ後、知識を全部吸い取って誰かに移す位なら僕でも出来そうだし、出来なかったらクーにでもやってもらう。僕としてはその方がいい」
「……」
 ナタルは、目の前にいる少年が、自分の知識範疇を遙かに超えた所にいるのを知った。リツコの資料から、ならともかく遺体から直接知識を吸い取るなどとは、無論想像した事もない。
「マリューさんやミサトさんじゃ不向きみたいだし、アスランやキラじゃ迷惑だし…」
 うーん、と考え込んでから、
「そうだ、ナタル・バジルールさんにやってもら…痛っ!?」
 強烈な一撃がシンジを直撃し、
「今すぐに赤木博士を元に戻せ。さもないと」
「さ、さもないと?」
「この場で犯すぞ」
「もう一度」
「だ、だからこの場で…う、うるさい早くやれっ!」
 
 柄に合わない事はするもんじゃない。
 
 シンジの襟を掴んだまでは良かったが、聞き返された途端、その顔は首筋まで真っ赤に染まっている。
「ん、分かった」
 頷いて、
「でもナタル、次は無いからね」
「それは…赤木博士も分かっておられると思う」
「分かってなかったら、ナタルに責任取ってもらおっかな――勿論身体で」
「か、身体っ!?」
「冗談だよ。どうせ分かってる筈無いんだから。ナタルだってそう思ってたでしょ?まさか本気で言った訳じゃないよね」
「……」
「さ、行こ」
 さっさと身を翻して、
「ランタン、一応溶かしておいて。ただし、健常体に戻す必要はないから。当分は病室へ突っ込んでおいて」
「了解オヤビン」
 二人が部屋を出た所へ、
「シンジ君」
 姿を見せたのはアスランとキラであった。
「あれキラ?なんでここが」
「さっき青葉さんに会ったんだ。シンジ君達がここにいるって聞いたから」
(…押しつけたな)
 内心で呟いたシンジにアスランが、
「使徒戦見てたよ。緒戦だったのによくあれだけ」
「僕は使徒をボコって逃げてきただけ。自爆したのは映像で見たけど、機体に巻き付こうとしてくれて助かったよ」
「どういうこと?」
「だからさ、あのロボットの後を追ってここの中で自爆しようとか、そんな知能があったら困るっしょ。たった今までベッドの中で二人きりだったのに、気が付いたらがれきの中で灰被りになってたら泣くっしょ」
「『べっ、別にっ、何のことだかっ』」
 ほらね、とナタルを見て、
「久しぶりに会った従兄弟と友達が変態になってて…あの、もしもし?」
「な、何だ」
「…ううん、なんでもない」
 何がどう聞こえたのか、ナタルの顔まで赤くなっていたのだ。アスランとキラに気付かれなかったのは僥倖だったろう。
(ナタル顔赤いよ)
(きっ、気のせいだっ)
 それでも、多少なりとも自覚はあったのか、
「す、すぐ戻る」
 早足で入っていった先はトイレであった。
 その後ろ姿を見送って、
「まあ、おまいらが出来てようと抱き合ってる変態だろうと、それはそれでいいんだけどさ…本当に、違うんだな?違うのに変態異常性癖者扱いするのは、とっても失礼な話だから」
「お、怒ったりしない?」
「自慢じゃないけど、武器も無しでいきなり変なロボットに乗せられて、それでも怒らなかったんだ。安心汁」
(シンジ君…)
 確かに怒ってはおらず表情は平素のそれだが、ゲンドウもリツコも絶対安静状態になっている。結果とはあまり関係ないのだ。
「わ、分かったよ…。た、確かに僕とアスランは恋人同士で…シ、シンジ君!?」
「やっぱりかー!変態殲滅!!」
 あっという間に二人の下半身が氷に覆われた。
「お、怒らないって言ったのにひどい…」
「変態を撲滅するのは一般人として当然の役目だ。美少女とか美幼女愛好ならともかく、ホモだの801だの最低の性癖に成り下がるとは断じて許せん。まあいいや、それよりちょっと訊きたい事がある」
「訊きたい事?」
 聞き返した時、二人は下肢の感覚が消えてはいない事に気付いた。氷に覆われてひんやりする程度で済んでいる。
「二人の機体が使えなかったろ。あれ、原因は何?」 
(……)
 鏡を見て赤らんだ顔に気付き、冷水で顔を洗ってから深呼吸して顔色を直したナタルが、ちょうど出てこようとする所であった。無論その原因に、アスランとキラの関係など無関係であり、ある記憶が甦ったせいなのは言うまでもない。
 出ようとしたのだが、シンジの声が聞こえてその足が止まった。
 言っちゃえ言っちゃえ、とナタルの心情としてはそっちだが、まさかそんな事を唆す訳にもいかない。
「その、この間模擬戦をした時に葛城少佐とラミアス少佐が…」
 話を聞いたシンジは、ふーんと頷いてしばらく何も言わなかった。
「べ、別に二人に悪気があった訳じゃなくて…」
「やる気があれば良いってもんでもないでしょ」
「う、うん…」
「ただ、それ自体は些少な事で、大した問題じゃない。そんな事よりも、初号機しか使えなくなった状況下の事が問題なんだ」
「シンジ君どういう事?」
 訊ねたアスランに、
「マリューさん達の仕事は、エヴァが出た後にあるってこと」
 分かったような分からないような、微妙な表情をしている二人に、
「この後焼き鳥の店に行くんだけど、二人も行かない?」
「一人で行くの?」
「いや、マリューさん達と。それとナタル引っ張ってく」
「『えんりょするよこのあとようじがあるんだ』」
 初めて知能を与えられたロボットが、テキストを読むとこうなるのかも知れない。それは文字通り、棒読みの手本のような発音であった。
 二人は、マリュー達がシンジをどう思っているかは知っている。しかも今、シンジはナタルを名前で、それも呼び捨てにしたのだ。無論、積極的にではないにせよナタルも承知の事だろう。
 アスランとキラにとって、店内の光景を想像するのは、下半身を覆っている氷から抜け出すより遙かに容易な事であった。
 
 バミューダトライアングル。
 
 二人の脳裏にそんな単語が浮かんだ。バミューダトライアングルとは、言わずと知れたマイアミ・バミューダ島・プエルトリコを結ぶ海域で、その中で過去に忽然と姿を消した飛行機・船舶は数知れない。色々な諸説があるが、船体には何ら異常がない状態で、乗組員だけが消失したマリー・セレスト号等、完全に解明出来ていないケースが数多ある。
 なぜ二人がバミューダトライアングルを思ったのか?もしもシンジと行ったら、二度と店から出てこられないような気がしたのだ。
「用事があるんじゃしようがないか。あ、ところでアスラン」
「うん?」
「あのロボットのパイロットって、アスランとキラだけなの?」
「いや、ドイツに二人いる」
「じゃ、四人か…どうした?」
 四人、と言う単語を聞いた時、アスランが僅かに苦い表情を見せたのに気付いた。ドイツにいるパイロットといい関係ではないのかと思ったが、
「もう一人、いる事はいる…」
「いるの?」
「ああ。でも俺たちは――少なくとも俺は関わり合いになりたくない。シンジ君、悪いけどバジルール少尉に案内してもらって。じゃ、俺たちはこれで」
「あ…」
 あっさりと置き去りにされてしまったシンジが、珍しい事もあるんだと呟いた。理由はどうあれ、他人にあんな表情を見せるアスランは初めて見た。
 なお、二人の下肢を縛していた氷は、歩き出すと同時に崩れている。
 そこへ、
「待たせた」
 ナタルが戻ってきた。
 その顔をちらっと見て、
「どこから聞いてたの?」
「…内緒だ」
「そう」
 深追いどころか全く追うことなく、
「ナタルは、もう一人のパイロットの事知ってるんでしょ」
「無論」
「腕が四本あるとか、根性が螺旋階段並にねじ曲がってるとか?」
「そんな事はない。ただ、少し不器用ではあるかもしれないがな」
「不器用?」
「生きる事に、さ。会ってみるか?」
 ふむ、とシンジは頷いた。どういう少年かは分からないが、アスランにあれだけ忌まれるというのは、違う意味で興味がある。
 携帯を取りだしたナタルがどこかへ掛けた。
「シンジ」
「ん?」
「今、総司令のところにいるらしいが」
「もう治ったの?そんな柔いダメージにはしなかった筈だけど」
「看病だろう」
「ゲンドウサンのお気に入りってやつ?」
「別…」
 いつもくっついてはいるが、と言いかけて止めた。ゲンドウがレイを見る目は、シンジに対するとそれと比べれば文字通り雲泥の差がある。
 シンジは、少なくともゲンドウの息子なのだ。
「まあいいや、僕との事はどうでもいいし」
(?)
 ゲンドウとの関係ではなく、アスランに一体何をしたのかと、シンジの興味はその一点に尽きる。その“少年”がゲンドウとどういう関係であっても、自分にはどうでも良い事だ。
「どっち?」
「あ、ああこっちだ」
 先に立って歩き出しながら、ナタルは迷っていた。会わせない方がいいかと思ったのである。ただ、パイロットである以上、いつまでも会わない訳にはいかない。
 遅いか早いかの違いだけだ。
 部屋に着いた時、室内にはゲンドウとレイの姿しかなかった。
「総司令のご容態は」
「さっき意識が戻られました。今は鎮静剤で眠っておられます」
「…そうか」
 とそこへ、
「で、ゲンドウサンのお気に入りの少年ってどこに?」
「何?」
「さっき言ってたでしょ」
「…何か勘違いしていないか?紹介しよう、ファーストチルドレン、綾波レイだ」
「ハン?」
 シンジがまじまじとレイを眺めたのもやむを得まい。アスランがあんな表情を、それも女相手に向けるなどある意味信じられないからだ。
 或いはキラでも盗られかけたかな、とろくでもない事を考えたシンジに、
「綾波レイ」
 無機質な声にそっちを見ると、赤い瞳が確かに殺気を湛えてシンジを見据えている。
「あ、碇シンジです」
(気のせいかな?)
 内心で首を傾げたが、やはり気のせいではない。とはいえ、見知らぬ少女にいきなり敵意を向けられる謂われは無いし、まして少女と分かってあっさり興味が失せた。
『変態ロリコン』の烙印をゲンドウに押したのみである。
 ゲンドウを見たシンジが、
「かなり手加減したし、そもそもこんなに包帯なんて巻く必要ない筈だぞ。救急隊員がヒゲを見るの嫌がったんじゃないか?」
 その途端、レイの眉がキッとつり上がった。
 凄まじい視線に、ナタルがこれは止めた方がいいかと思った時にはもう、
「でもどうせならこの際ミイラ男にして…なに?」
 シンジが異様な気配に気付いて振り向いた瞬間、レイの手が唸りを上げてその頬を襲っていた。
 
 パン!
 
 目の覚めるような、と言うよりほぼ全力に近い一撃であり、シンジの顔が横を向き掛けた。
(ぬるぽなんて言ってないのに…)
 内心で呟いたシンジに、
「碇司令に危害を加える事は許さない。今すぐこの部屋から出て行きなさい」
 レイが向けた視線は憎悪そのものであり、ナタルでさえも一瞬背筋が寒くなったほどであった。
「分かった」
 シンジはすぐに頷いた。レイの事などどうでも良かったし、そんなことよりもフロストとランタンを抑えるのに全精力を傾けていたからだ。
「その前に一つ訊きたいんだけど。アスランやキラを叩いた事もあるの?」
 
 
 
 
 
(つづく)

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