GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第十話:第一次直上会戦
 
 
 
 
「陛下」
 美しい女が、水晶を覗き込んでから一時間が経とうとしていた。その間、一度も立ち上がる事無く、それどころか目を離す事もなかったのだ。
 側に控えていたクーフー・リンが控えめに声を掛けると、美しい女――メイヴは漸く顔を上げた。
「元気そうで良かった。でも、人間の女なんか好きになってる…僕という恋人がいるのに!もう…邪魔しちゃおっかな」
 しっとりと艶を帯びた長い黒髪と穏やかな雰囲気から、性格も淑やかなように見えるが、中身は別物のようだ。
「いけません陛下」
「分かってるよ。クーはいつもうるさいんだから」
 上がった顔は確かに美貌だが、その黒瞳はまるで猫のようにくるくると良く回る。シンジを恋人と言ったが、シンジはナタルに対してそんなのはいないと言っていた筈だ。
「でもクー、シンジ君はこの女の事知ってるのかな」
「知らないでしょう。もっとも、知ったとしても今は関係ない事ですから」
「だけどなんかムカツク。やっぱり邪魔を――」
 言いかけたところへ、
「陛下、それはなりません」
 さっきよりも幾分強い口調であった。
「ほぼ十割の確率でシンジ殿にばれます。そうなった場合、シンジ殿が二度と口を利いてくれない、どころか顔を見たくないと言われたらどうなさるおつもりですか」
「そ、それはやだ…」
 クーフー・リンの言葉で、メイヴが急に弱気になる。
「今はまだ、久方ぶりの人間界にいる方がよろしいでしょう。ところで陛下、少しお借りしてもよろしいですか?」
「いいよ」
 失礼致します、とテーブルに歩み寄ったクーフー・リンは、何やら呟いて水晶玉を回転させていたが、ふとその手が止まった。
「陛下、これをご覧下さい」
「ん?」
 言われて覗き込んだメイヴが、にぱっと笑った。
「なんだ、すぐ会えるじゃん。心配する事無かったな。クーフー・リン」
「はっ」
「久しぶりに会えるんだ、盛大に歓迎の用意を。私の顔を汚すなよ」
 命じたそれは、駄々っ子ではなく女王の物に戻っていた。
「かしこまりました――クーフー・リンの名に賭けて」
 一礼したクーフー・リンが下がっていく。
 水晶に映っていたのは――シンジ本人ではなく、そのシルエットであった。
 それもひどく薄く見える。
 そう、まるで今にも命の火が消えそうな病人のように。
 水晶に映ったそれは、一体何を意味しているのか。
 
 
 
 
 
 自慢じゃないがこのナタル・バジルール、怪我して誰かに抱き上げられた経験は、幼少時以来一度もない。まして、怪我もしていない状態で、それも異性に抱きかかえられて走るなど、まったく未経験だし想像すらした事がない。
 空いている一室に飛び込んだシンジが降ろすまで、ナタルが無反応でいたのは、身を任せていたと言うよりも、呆気に取られていたと言った方が正しい。どう反応していいのか、本能が判断しかねたのである。
「ど、どうし――」
 言いかけた途端、
「脱いで」
「な、何!?」
「いいから早くっ!!」
 いきなり脱衣を迫る少年は、使徒を前にした時でさえ、こんなに緊迫した表情はしていなかったような気がする――見た訳ではないが、きっとそうに違いない。シンジの双眸に少しでも欲情の色があれば、ナタルは間違いなくはねつけていただろう。或いは、叩いていたかも知れない。
 だが欲情など微塵もなく、まるで一分一秒を争うかのような緊迫した表情に、身体が反応した。
 上着とブラウスを脱ぎ、
「こ、これでいいのか?」
「パンツ以外全部。早く」
(ーっ!)
 顔が赤くなったが、ここまで来たらやむなしとスカートを降ろし、ストッキングを外した。パンティに手が掛かったが、
「あ、それはいいから。いくら何でも、その中にはしないと思うから」
「しないって何を…あっ」
 聞き返そうとした途端、いきなり身体がまさぐられた。それもタッチとかそういうものではなく、文字通り皮膚の毛穴の位置でも確かめるような手つきで、顔から首から体中ぺたぺたと触られたのだ。
(……)
 何か理由があるのだろうとは思ったが、さっぱり分からない上に触り方も愛撫とはまったく無縁の物だ。こんな事をされるのは初めて、と思った時ふと既視感を感じた。
(これはどこかで…そうか)
 乳ガンの検診を受けた時、これと同じ触り方をされたのだ。担当は女医だったが、まるで輸出する機械を一つ一つ手で確かめるような触れ方で、終わった後何となく気持ち悪かったのを思い出した。
 シンジの手が爪先まで降りていき、やっと“触診”は終わった。ただし、何を探していたのかは分からなかったが。
「もういい…んむっ!?」
 もういいのかと訊きかけた途端、今度はいきなり唇が重なってきた。有無を言わさぬ強引さで、おまけに舌まで入ってくる。
(い、いい加減にっ…)
 さすがにナタルの表情にも怒気が浮かび――すぐに消えた。舌がシンジの口腔へと引き込まれ、舌と舌が絡み合った瞬間力が抜けてしまったのだ。
 どうやら舌の裏側は自分の弱点らしいと、ナタルはぽーっとした頭で考えていた。されるがままに任せていたが、普通のキスとは少し違うようだとナタルは感じていた。これもさっき同様、口の中を“触診”しているような感じがある。
 ただし、使っている道具は舌だが。
 不意にシンジの唇が離れた。
「もう終わりか?」
 訊ねたナタルにシンジが頷く。
「一体何を…シンジ!?」
 上がったシンジの顔を見た瞬間、ナタルはぎょっとして立ち竦んだ――シンジの両目から、涙が流れていたのである。こんな事をされて泣きたいのはこっちだとか、そんな事を思う前に身体が動いていた。
「どうしたというのだ?」
 肩を掴んで揺すると、そのまま前に倒れてきた。
「良かった…ナタルが無事で…ほんとに良かった…ぐしっ」
(わ、私が無事!?一体どういう意味だ?)
 ナタルの顔半分が?マークで埋め尽くされたが、さすがにこの状態では突き放す気になれず、裸の身体にシンジを受け止めながら、ナタルは立ちつくしていた。
(熱…ん?)
 ふと乳房に熱いものを感じた。シンジの涙が乳房に落ちたせいらしい。数分経って、漸くシンジは顔を上げた。
 目元を拭い、
「ごめんね、取り乱しちゃって」
 泣き笑いの顔で謝った。
「い、いや…。その、一体何があったのだ?」
「それは僕が訊きたいよ」
「え?」
「クーに会ったでしょ」
「クー?」
「クーフー・リン。中世の騎士みたいな格好した奴に会わなかった?」
「あ、ああさっきここへ来る前に。知り合いなのか」
 うん、と頷き、
「今まで、クーフー・リンと会って生きていた人間を僕は知らない。正確に言えば、クーが生かしておいた人間を、ね」
「な…なに?」
 戯れ言でないのは、シンジの表情と行動を見れば分かる。シンジは自分の身体に何らかの痕跡を探したのだろう。そしてそれはなかったのだ。単なる冗談でシンジが泣いたりなどするまい。
 さしものナタルも、すうっと顔から血の気が引いていく。
「ほ、本当…なの?」
 と何とか言葉を紡いだのは、三十秒以上経って、しかも二度も生唾を飲み込んでからであった。
「僕が冗談でナタルを脱がせて痕を探したと思ったの?」
「い、いや…すまない…。でも…」
「でも?」
「今生きていた人間はいない、と言ったな。でも私はこうして生きているぞ。私の身体に何の痕を探していた?」
「人間じゃない生き物に変えたり、生ける屍に変えて思うように操る事なんて、クーには僕がエヴァで使徒を倒すより余程簡単な事だよ。僕が探していたのは――死人(しびと)の刻印」
 それを聞いた瞬間、ナタルは思わずシンジに抱き付いていた。他意はなかった、と言うより身体の力が抜けたのだ。さっきキスされた時とはまた別の――人間が本能的に持っている恐怖という感情からくるものであった。
「ナタル…大丈夫?」
「だ、大丈夫な訳ないだろう。大丈夫だったら――」
「分かってる、僕なんかに抱き付かないよね」
(あ…)
「ち、違うっそうじゃない。そ、そんな事を言いたかった訳じゃ」
(どうして私は余計な事をっ!)
 
 慣れていないから。
 
 普通の男であれば、マリューやミサトのような口調の方に慣れている。と言うより、生粋の軍人が側にいる事など、通常はないからだ。こういう口調の女がいたとしても、自分を僕とか俺と呼ぶキモチワルイ女くらいのものだ。
「分かってる」
 さっきと変わらない口調で言うと、シンジはナタルの頭を撫でた。ん、と小さな声がナタルの口から洩れる。
 異性に、まして年下から頭を撫でられた事などただの一度もなかったが、なぜか不快な感じはしなかった。
 むしろ、
(あたたかい…手の体温が高い訳でもないのにな…)
 少し無粋だが、何となく胸の中が暖かくなったような気がして、シンジの為すがままにさせておいたナタル。
 数分が経ったろうか、惜しい気持ちを振り払ってナタルが顔を上げた。
「すまなかった。もう大丈夫だ」
「そう。良かった」
 もっと違う反応かと思ったら、あっさりと離れた。
「そ、それでそのさっきの事だが」
「クーの事?」
「うん。その、仲は良いのか?」
「一応ツレ」
「そうか」
(ツレ?)
 いくら何でも連れ合いではあるまい。シンジまで、キラ達のように少年同性愛などと言う変態嗜好ではない筈だ。
 なお、ナタルは両刀使い(バイ)という単語は知らない。
「私がホテルで寝ていた時、宙に浮いていたのだ。それでその、友の側についていて欲しいとそう言って、治してもらった」
「治すって何を?」
「治すというか回復というか…」
 どうも歯切れが悪いが、十四歳の少年にその空気は伝わっていない。と言うよりも、まだ完全に安心した訳ではないのだ。クーフー・リンが何をしに来たのか、シンジは分かっていないのだから。
「どこか病気を?具合でも悪かったの?」
 ちょっと疲れていて、とかミサトならそう言ったろう。が、ナタルは男に余計な事を突っ込ませぬ程扱いに慣れておらず、さらっと流す事も出来ぬ性格であった。
「ち、違うっ!」
 つい大きな声をあげてしまい、
「さ、さっきので立てなくなったと言っただろう。そのせいだっ!」
 あまつさえ、きゅうっと首を絞めてしまった。無論、大した力は入っていないが、首締めプレイとか、好むタイプに違いない。
「やっぱりナタルはじめ…ふけっ」
「う、うるさいっ。だ、大体…わ、私があんな淫らになった責任をどうしてくれる!」
 
 照れ隠し及び八つ当たり。
 
 やっと解放されたシンジが、
「あの…ひとつ訊いていい?」
「何だ」
「今まで、誰かと付き合った事ってないの?」
 その途端ナタルの顔がかーっと赤くなり、
「どっ、どうせ私は葛城少佐のように世慣れていないしっ、男とも女とも付き合った事のない朴念仁だ悪かったな!」
 ぷい、と横を向いてしまった。
(お、女と付き合う?ミ、ミサトさんて両刀使いだったの?)
 これをミサトに聞かれたら、手足を縛った上でLCLの溜まり場に放り込まれるに違いない。
「ご、ごめん別にからかうつもりじゃなかったんだ。ただ、ナタルの答えがストレートだったから…」
「ストレート?」
「さっきの事。普通だったらちょっと疲れたとか何とか言うでしょ。工作が向いてないっていうか、すごく素直な人なんだなって思って」
「そ、それは褒めてるのか?」
「うん」
「そ、そうか」
 ちょっとご機嫌の直ったらしいナタルが、
「私もその…さっきは嬉しかったのだ」
「何の事?」
「ホテルで自分の事を話した時、シンジは淡々としていたな。捨て子同然の扱いだった事も、まるで他人事のようだった。でもさっきその…私の身に何もなかったと知って泣いてくれた。私はこの通り、ずっと軍人一筋で誰かと付き合った事など無かった。だからシンジが私の為に泣いた時…なんか、嬉しかったんだ」
「ナタル…」
「うん…」
 二人の視線が絡み合い、どちらからともなく唇が近づいていく。
 唇が触れ合おうとしたまさにその時、
「くしゅっ」
「!?」
 ほぼゼロ距離攻撃みたいなもので、避けようがない。
「すっ、済まない大丈夫かっ?」
「うん、大丈夫」
 軽く口元に触れたが、拭おうとはしなかった。シンジとて、まったく雰囲気を読めない訳ではない。
「それよりナタル」
 ぺたぺたと身体に触れ、
「すっかり冷えてるよ」
 言われて、漸く自分が全裸に近い格好だと思い出した。うっすらと赤くなったが、床に落ちたブラジャーを取り、
「その…付けてくれないか?」
 シンジに差し出した。シンプルな白で、小さなリボンがついているだけの、ある意味何の変哲もないものだ。
「いいよ」
 肩ひもを通して、乳房にカップを当てる。中にしまおうと乳肉に手が触れた時、上からおさえられた。
「なに?」
「さっきは…ちょっと診察みたいだったから…」
「だって触診だもの。当然でしょ?」
「そ、それは分かってる。別になんでもな…うひゃっ!?」
 思わず奇妙な声を上げたナタル。シンジの指先が、いきなり乳首を押したのだ。
「なんでもないのに、僕の手をおさえたの?何でもなかったら、僕につけさせたりしないでしょう?」
 はふ、と首筋に息が掛かり、ブラの代わりに掌に乳房が収まった。無論、シンジの手だ。
 微乳でもないがマリュー達ほど大きくはなく、シンジの手で十分収まるそれに、十本の指がまるで触手のように絡みついて柔く揉みしだき始めた。乳輪回りを外し、薬でもすり込むように揉むと、今度は少し力の入った指が乳房に食い込んでくる。乳房を弄り回す指は、まるで十本それぞれが別の生き物にでもなったかのように、初な乳肉を刺激してくる。
 大きさは普通でも感度は決して悪くないし、何よりも触れ方そのものが暖かい。ナタルの赤い唇から、はふぅと熱い吐息が洩れたのは、三十秒近くが経った頃であった。それを聞いたシンジの指が乳房から離れた。今度は乳首に来るかと思ったが、乳房はあっさりとカップに収められていた。
(あ…)
 ちょうど高まってきた所だったが、口に出すのはナタルのプライドが許さない。
「思い出したんだけど」
「…何を?」
 かすかだが、針のような物が含まれていたのはやむを得まい。
「ホテルを出る時、帰ってきたら続きをって言ったでしょ。覚えてる?」
「い、一応はな」
 下着をつけるとてきぱきと上着を着せ、ストッキングと靴以外元に戻したシンジが、ナタルの前に立った。
「今日は第三新東京(ここ)にいる。ホテルをどこかに取っておくから、今日一緒に泊まってくれる?」
「あ、ああ分かった」
 唇が勝手に動いていた。
 本人の意識とは別の所で、だ。
「良かった」
 にぱっと笑ったシンジが、
「じゃ、シャワー浴びてくるね」
 出て行きかけたが、ドアの前で足が止まった。
「さっき止めたでしょ?こんな所で燃え尽きられちゃったら困るから止めたの。じゃあね」
「さ、さっさと行けっ!」
 簡易ベッドの上にあったクッションを投げつけると、シンジの後頭部へ見事に命中した。
「いったーい」
 シンジが出て行った後、
「まったくもう…何を考えているのか…」
 ぶつぶつぼやいたが、ふと真顔になった。
「何を考えている、か。私の事だな」
 ふ、と自嘲気味に笑った。一回りの差はないと言っても、相手は十四歳の少年なのだ。何をやってるのかと自分を冷たく見据えている軍服姿のナタルは、脳裏から消えていない。
 ただ、
「私と抱き合った事で、少なくとも少年はその気になった。あくまでも任務の為だ」
 と言い切る下着姿のナタルの方が優勢なのだが、どこかに後ろめたい気持ちがあるのは否めない。そして――それが却って燃える要因になった事もまた。
「私が惹かれている?ふっ、そんな馬鹿な」
 呟いた口調は、もう元に戻っていた。
 
 
 
 
 
「確かに勝つ事は勝った。だが碇、これはシナリオにはないぞ――と言うよりどこのシナリオだ?」
 元より、レイはシンジが来るまでの足止め用で、勝てる事など最初から期待していない。零号機・初号機が共に安定しないという理由で生粋の操縦者を、すなわちアスランとキラ用の機体を作ったまではいいが、マリューとミサトの所為で使えなくなった。だからシンジを出した、とはいえこっちは最初から成算があっての事だ。
 シンジを危地に陥らせ、中に眠るユイの魂発動に期待するという、人柱も真っ青の話だったが、結果だけ見れば上手く行った。
 そう、結果だけ見ればだ。確かに一度、シンジは失神し、そこまでは上手く行ったのだ。がしかし、なぜか起きたシンジは初号機を完全に操っており、使徒をボコってから帰ってきた。それも、ATフィールドのおまけつきで。
 何らかの理由でエヴァを知っており、あえてやられたのかとも思ったがそれはあり得ない。射出された直後の危うげな動作は、間違いなく初心者のそれであり、演技したところで誤魔化されるほどまだ目は曇っていないつもりだ。
 ただ、ある意味ではその方がよかったかも知れない。その方が答えが明確だからだ。
 演技でないとすると――シンジのあの変な強さは何なのだ?
 首を傾げながら室内に入る。
 面倒なのでノックはしない。
 眉の寄っていた副司令の顔が、一瞬好々爺のそれに変わる。起きあがっていたレイが林檎を剥いていたのだ。
 無論、横になって体中の殆どを包帯巻きにされているゲンドウへのものだが、別に自分が欲しい訳ではない。
「レイ、もう起きても大丈夫なのか?」
「はい、副司令。手当のおかげで良くなりました」
 そうか、とコウゾウは目元を細めて笑った。
 がしかし。
 
 碇司令にちゅーしてもらったから。
 
 レイの思考を読めた場合、どんな顔で何と言うだろうか。
「あの、副司令」
「どうした?」
「初号機が暴走したのですか?」
「うん?」
「碇司令の怪我は、初号機の暴走によるものだとさっき看護婦が言っていました」
(初号機が暴走したらこんなものでは済まんよ)
「ああ…」
 どうしようかとコウゾウは一瞬迷った。
 シンジと妙な仲魔達の仕業だと、言うべきか言わぬべきか。正体は不明だが、シンジがちっちゃくて危険な生き物を飼っているのは分かっている。そしてそれが、シンジを長らくお待たせしたゲンドウをひどく忌み嫌っているらしいのも。
 とはいえ、結局シンジはゲンドウを殺さなかったのだ。現場を見たコウゾウは、シンジがかなり器用に手加減したのに気付いていた。
 シンジはレイの事を知らないだろう。ナタルと何かあったようだし、年上の方が合うのかも知れない。
 事実を話せばレイがシンジを憎悪するのはほぼ確定で、シンジの方も別に仲良くしようと思わなければどうなるか。
 問題は――今事実を隠蔽して後でレイが知った場合、自分への好感度が下がるという事だ。これは小さな事ではない。
 板挟みになったコウゾウは長考に――移らなかった。
 三秒で結論が出たのである。
「レイ、碇の負傷は初号機には関係ない。関係あるのは初号機のパイロットだよ」
「パイロット?」
 まもなく室内にある種の気が立ちこめた。
 それはひどく、危険な匂いのするものであった。
 
 
 
 
 
 シンジを奪還に、もとい探しに来たマリューとミサトだが、シンジを見つける事は出来なかった。フロア内はくまなく探したが、さすがの二人もナタルが違う階のシャワールームを勧めたとは想像もつかなかったのだ。
「シンジ君もナタルもいない。二人とも一体どこへ行ったのよ」
「もしかしてもう二人で帰ったんじゃ…」
「それはないわ」
 マリューの言葉を、ミサトは言下に否定した。
「検査があるから出してはならない、命に関わる重要な検査だから発見次第私に連絡するようにと、私の名前で通達を出しておいたのよ」
「い、何時の間に」
「女の基本よ基本」
 
 違う。絶対に違う。女にそんな基本は要らない。
 
 何時の間にそんな工作をしたのかと、マリューは従姉妹ながらちょっとミサトの事が怖くなった。
 昔からそうだった。悪巧みにかけては、いつも一級品だったのだ。
「とにかく早い所ナタルから引き離して――」
「私が何か?」
「『!?』」
 きゃっと小さく叫んで、それでも地上から二センチ飛び上がっただけで済んだ。
「ナ、ナタルっ!?」
「何でしょうか」
「な、何でしょうかって…シ、シンジ君は?」
「シャワーですが」
「シャワーってどこの?何処にもいなかったわよ」
 それを聞いたナタルの表情が、ほんの少し変化した。
「この階のシャワールームは狭いので、別フロアを教えましたが…探しに行かれたのですか?」
 ナタルが針を投げた訳ではなく、マリューが勝手に引っかかったのだ。しまった、と言う表情を見せたマリューを従姉妹が救った。
「そうよ。ただしナタル、探していたのはあなたよ」
「私を?」
「あなたシンジ君を迎えに行った時、シンジ君に拉致されたでしょう」
「拉致…ええ」
「おまけにさっき、シンジ君があなたを抱きかかえて走っていったと、青葉君に聞かされたのよ。心配するのは当然でしょう?」
 この辺りの切り返しは経験の差から来ている。あくまでも主題はナタルに置き、ナタルを心配したついでにシンジも、のそれへあっさりと切り替えたのだ。
 ただし、ナタルの中にあるアンテナが反応した。女なら誰でも持っているが、ついさっきまで冬眠状態にあったものだ。まだそんなに感度が良くはないが、そのアンテナが妙な電波を受信し、この二人は怪しいと伝えてきたのだ。
「ご心配ありがとうございます」
 姿勢を正し、
「ただ、私はこの通り無事です。何も問題はありません」
「そう?じゃ、シンジ君に聞き取りがあるから」
 立ち去ろうとしたが、
「それは私がしておきます」
「『え?』」
「初号機パイロットへの対応は、いわば内務処理です。お二人には街中の被害状況への対応等、外部処理をお願いします。外部への書状は、お二人のお名前で出された方が良いかと思いますので」
 さすがにここで、じゃナタルの名前で出しておいてくれればいいわ、と言うほど二人は間抜けではなかった。そうまでシンジを追えば、あまりにも怪しすぎる。
(さすがナタル。でもまだ甘いわね)
「そうね、それはあなたに任せるわ…と言いたい所なんだけど…」
 そう言ってミサトは、ナタルの全身を上から下まで眺めた。
「何でしょうか」
「ナタルだって普通の女の子でしょ」
 奇妙な事を言い出した。
「葛城少佐?」
「理由は知らないけどさ、ナタルに取ってはいきなり自分を、それも二回も拉致した相手でしょ?私やマリューだったら、そんな子を目の前にしたら身体が竦むと思うわよ。いくら私達が役に立たない上司でも、あなたがそんな状況で平然としていると思うほど馬鹿じゃないわ。大丈夫よナタル、彼の事は私達に任せて。ね?」
(くっ…)
 今度はナタルが追いつめられた。最初に自分が拉致られた理由、ましてその後どうなったかなど、間違っても言える事ではない。
 双方とも、シンジが気に入ったとか言う事は一切口にしていない。相討ちになる核兵器と思っているのどうかは不明だが、シンジがなぜいきなりナタルと呼んだのか、訊く事さえしないのだ。
(大きな武器になるのに)
 と、マリューは思っているのだが、ミサトの考えはまた違う。そんなものなど使わなくても、十分勝算はあるのだ。何よりも、万一ナタルがシンジに好意を持っているなどと言い出したらどうするのか。
 ミサトから見れば、既に十分怪しい現状なのだから。
(落ち着けナタル・バジルール)
 自分に言い聞かせ、ナタルは脳の回転速度を上げた。何か、まだ何か策はある筈だ。
(そうだ)
 ピン、と反撃策が閃いたそこへ、
「ただいま」
 頭を拭きながらシンジが戻ってきた。
「ああ、お帰り」
 声を掛けてからマリュー達の視線に気付き、
「ば、場所はすぐに分かりましたか?」
「うん。結構広かったし。ところでミサトさん」
「あ、何?」
「石鹸と洗面器がありました」
「シャワーの話?」
「ええ。それはいいんですけど、どれもNERVのロゴマークが入ってましたよ。洗脳にでも使ってるんですか?」
「違うわよ。一般向けの広報でちょっとね。超法規の特務機関だけど、完全に隠匿だけするわけにも行かないしね。最近は自分が気に入らないとすぐに騒ぎ出す、精神構造が半分いかれてるプロ市民も多いから」
 分かったような分からないような顔で頷いたシンジを見た時、ナタルはさっき感じた違和感を思い出した。
「あの」
「はい?」
(何で敬語になったんだろ?)
 思ったが口にはせず、ナタルを振り向いた。
「さっき、今日はここにと言っておられませんでしたか?」
「うん。今日はナ…えーとホテルに泊まって、明日の朝一番でアスランとキラを連れて帰る。ここに置いとくと精神衛生上悪そうだし」
 今日はな、でもいい。
 だから男は便利なのだ。
「『…え?』」
 三人の声が初めて重なった。
「え?って…なに?」
 怪訝な顔でシンジが聞き返す。
「あのね碇シンジ君その…」
 マリューが言いにくそうに、
「使徒の襲来、と言うのは前もって分かっていたの。ただ時期は分からなくて…それと数は未確認なのよ…」
「…はん?それってつまりあのヒゲ親父は、僕を武器無しであんなモン(エヴァ)に乗せて、あまつさえそのまま連戦させようとか思ってた訳?」
「ぶ、武器の事は分からないけれど…」
 冗談でしょう?とナタルに視線を向けると、申し訳なさそうにちらっと横を見た。
「……」
 シンジが俯き、数秒後にその顔が上がった。
「うらー!」
 次の瞬間、直径数メートルはありそうな氷柱が現出し、一気に天井を突き破る。数秒と経たずして、ジオフロントに巨大なオブジェが出来上がった。
「『なっ!?』」
 18もある特殊装甲は、一瞬にして破られてしまったのだ。
 
 本部被害…二発目。
 
 いずれも同じ少年による被害である。人間の敵は少年と愉快な仲間達なのかもしれない。
(フロスト、ここまでやらなくても良かったんじゃ)
(何言ってんだよ、オヤビンのエネルギーに反応したんじゃねーか)
(そうなの?)
 やった方は至極のんびりしているが、見ている方はたまったものではない。
「シンジ君待ってっ!」「シンジっ!」
 反応したまでは良かったが――人数が多かった。
 左右から飛びついたのだ。
「『あ…』」
 大きさの違う胸にシンジが挟まれる。
「あ、あーらナタルいいのよ、別に無理しなくても」
「葛城少佐こそ、ご自慢の大きな胸でシンジが窮屈そうに見えますが」
(今シンジって言わなかった?)
 ワンテンポ遅れた為、中に入れなかったマリューは、横から冷静に分析しているが、一番事態を把握していないのはシンジだろう。
(い、いったい何が…うぷ)
 左右から押しつけられる胸に、なぜかシンジは身の危険を感じていた。それもそのはずで、シンジの上空では冷気と暖気がぶつかり合って火花を散らしており、危険地帯を作りだしていたのだ。
 無論、シンジにこんな経験は一度もない。
(僕にいったいどうしろと!?)
 こんな危地からの脱出方法など、クーフー・リンもタム・リンも教えてはくれなかった。
 役に立たない奴らだと逆ギレ気味に呟いたとき、救いの手は予想範囲外の所から訪れた。
「お取り込み中悪いんだけど…」
 手を挙げてふらりと入ってきたシゲルに、ナタルとミサトがさっと離れる。
「悪いけど、そろそろ解凍してくれないかな」
「冷凍食品でも?」
「いや、赤木博士の氷柱だ。博士がいないとエヴァの後始末が出来ないんでね、悪いけど頼むよ」
「…やだ」
 シンジがぷいっとそっぽを向く。よほど悪印象で固まっているらしい。
「嫌なら別に良いが、キラ・ヤマトが迷惑するぞ」
「え?」
「赤木博士まではいかずとも、多少なりともエヴァの事を分かっているのはあの少年しかいないんだ。従兄弟に負担掛ける事もあるまい?それに――」
 シンジの耳元に口を止せ、
「俺が来なかったら窒息していた、ように見えたが気のせいかな?」
「ペッ!」
 シンジがぷいっと歩き出す。
 数歩行った所で足が止まり、
「どこに置いてあるの」
「冷凍庫に入れてある。こっちだよ。あ、バジルール少尉もご一緒願えますか」
「私も?」
 本音を言えば、あまり行きたくはない。シンジが明らかに気乗りしていないと分かる上に、シンジのリツコに対する評価はミサトから聞いている。
「勿論少尉には関係ないんですが…」
 ちらっとシンジを見て、
「解凍された瞬間炭化しても困るんで」
 それを聞いたシンジが、奇妙な表情でシゲルを見た。
「青葉さん」
「ん?」
「なんで分かったの?まだ言ってなかったのに」
「『!?』」
 その瞬間、全員の背筋を冷たい物が走り抜けた。冗談で言ってるのではないと、本能が察したのだ。精神異常の目で刃物を持った大人より、石を持ったあどけない子供の方が怖いのは、後者の方が罪の意識がないだけに手に負えないからだ。
 アリの巣を埋めたり虫の羽をもいだりするのと、或いは同じなのかも知れない。
「…分かった」
 ナタルが咳払いして、
「仕方ないな、私も同行しよう。従兄弟に負担が掛かると言われたのを聞いていなかったのか?ほ、ほら行くぞ」
(あっ!)
 口には出さなかったが、マリューとミサトが内心で声を上げた。連行するみたいにして、ナタルがシンジの腕を掴んだのだ。
 一見すると連行だが、よく見れば腕を組んでいる。
 さすがに引き離す事は出来ず、
「シンジ君お店見つけたわ。待ってるから早めにね」「寄り道は駄目よ?」
 と声を掛けるのが精一杯であった。
 シンジは振り向き、
「長居なんてしたくないですよ。とっとと戻ってきます」
 ミサト達には嬉しい言葉だったが、ナタルが一瞬だけ視線を向けたのだ。それは明らかに勝者の物であり、宙に又も危険区域が展開された。
 シンジは気付いていないが、シゲルは気付いている。
(あっという間に三人ゲットか…つーかさっき俺が入った時、確かにあの二人、チッって言ったよな!?もしかしてこの少年…俺にとっての疫病神じゃないだろうな)
 ふっと浮かんだ考えを、シゲルは首を振って振り払った。
 可能性は低い――どころか結構高確率かも知れないが、この街にとって、いや人類にとっては救世主になるかもしれないのだ。
(それに比べれば俺一人の災いなんて)
 半ば悟ったような表情で――内心は泣きながらシゲルが歩き出す。その後を付いていく二人の腕は、しっかりと組まれていた。
 そう、いつの間にかシンジが腕を取るような格好で。
 
 
 
 
 
 
(つづく)

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