GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第九話:Reword of NullPointer Exception
 
 
 
 
 日ノ本で、極東に巣くう度し難い民族――本国からは忌まれ、棄てられながらその厚顔無恥振りは止まるところを知らない――が厚かましくも大手を振ってのさばるようになるより遙か昔、世界が羨むようなまばゆい男達が日本には、いた。
 彼らは義理と名誉を重んじ、その為には自らの命をいつでも投げ出す男達であった。
 国の艱難に際しては、全身全霊を以て立ち向かい、この国を幾度も救ってきた男達であった。装備では劣りながらも、決して最後まで諦める事はなく、その凄烈な大和魂は列強諸国を震え上がらせるに十分であった。
 とはいえ、いつもいつも猪突猛進していた訳ではない。いかに根性があろうとも、跳ね返し得ない壁というのは存在する。
 ではどうしたか?
 日ノ本の男達の取った方法は、ある意味単純であった。
 即ち――ひっぱたいてビビらせてしかるのち講和、と。大和魂此処にありと示すことで、少なくとも交渉を対等に持っていく事は出来る。
 そこには、数千年の間ただただ侵略に膝を屈する事しか能が無く、身体の隅々まで事大主義が染みついた愚劣な民族との根本的な差が、歴然と存在している。
 そんなまばゆい男達が、日ノ本からほぼ全滅してから幾星霜が経った頃、今度は人外の物体が侵攻してきた。全人類の命運が掛かる、とはいえ直接狙われているのは日ノ本であり、畢竟迎撃もそこに委ねられる事になる。
 講和不能、と言うより会話自体が通じない、まるで蛮族が巨大化でもしたような<使徒>を相手に少年少女はどう立ち向かうのか。
 そして今、訓練と呼べる物を皆目受けぬまま、一人の少年が使徒に対峙しようとしてた――自分が何とかするという、ただその意志だけを胸に抱いて。
 
 
 
 
 
 初号機が地上へ射出された時、確かに使徒は少し距離をとっていた。獲物をいたぶる猫のようにも見えたが、とまれ距離はあったのだ。
 だからミサトもナタルを嬲っていたり出来たのである。
 地上へ射出されるまで、強烈なGが身体全体を覆っており、とりあえず地に足が着いた時、シンジは軽く頭を振った。
「結構強烈」
 呟いてから、さて使徒はどこにいらっしゃるのかと辺りを見回したが、どこにも姿は見えない。
「あれえ?」
 首を捻った直後、
「シンジ君後ろ!」
 マリューの声が聞こえたが、反射的に動けるほどシンジはエヴァに慣れていない。と言うよりも、まだ自分の力で一歩も動いていないのだ。
 
 ガッ!
 
「いったーい」
 見事な一撃だったが、使徒はカサカサと後じさり、ヒットアンドアウェイの体勢を取る気配もない。
「…なんで?」
 首を傾げたシンジに、
「『オヤビンがぬるぽなんて言うから!』」
「そんな訳ないだろ。なんでぬるぽって言ったらガッと殴られるのさ?」
「そういうもんなんじゃないの?」
 そんな馬鹿な!とは言ってみたが、確かに心当たりはない。ぬるぽって、もしかして神罰対象にでもなっているのかなと首を傾げた時、
「シンジ君!」
 声はミサトの物であった。
「あ、はいはい」
「大丈夫?」
「ええ、何とか」
「とりあえず歩いてみて。そのままじゃ回避も出来ないから」
「了解」
(動け)
 あっさり動いた。おや、と当の本人すらびっくりしている位だから、発令所で見ている面々はもっと驚いていた。
 ただし、その内容は個々によってやや違う。
(さすがだな碇シンジ。わたしとの約束は…必ず守ってもらうぞ)
 表情をまったく変えぬように見えて、視線がいつもより三割増しで熱いのはナタルだし、
「この後どうなるの?」
「分からない。多分機体に細工があると思うんだけど…」
 勝算という事に興味が無く、と言うよりそんな事まで頭が回らず、単に動いただけで喜べるような単細胞なら、むしろ気楽だったろう。
 そんな事にまで気が回ってしまい、しかも事実を知らない為、ある意味一番喜べないのはマリューとミサトであった。
 無論、勝算の確たる理由を分かっているのは、ただ一人コウゾウである。他にもいるのだが、現在加療中だ。
(シンジ君、済まない…)
 器用に後頭部をおさえている初号機を見ながら、コウゾウは内心で呟いた。母親に消滅され、父親にネグレストされた結果どんな子供になるのかと思っていたが、少なくとも息を吹きかけただけで折れそうな、唾棄すべき惰弱さは持ち合わせていなかった。ゲンドウを燃やし、リツコを氷柱に変化させたものの、コウゾウから見れば前者は当然だし、リツコの方もゲンドウ同様チルドレンなど道具としてしか見ていない。だからシンジに見抜かれたのだろうと思っている。
 リツコが氷柱にされ、マリュー達とはどこか合っているように見えるのがそのいい証拠だ。少々派手なデビューではあったが、コウゾウとしては悪印象は持たなかった。
 だから謝った。
 絶対的に不利な条件で、絶対勝利が求められている。それは可能だが、いわば生け贄として、シンジにとっての大ダメージが条件になるからだ。無論、善人として人生を歩んできたなどと、戯言を言う気はない。
 だが、贄にせざるを得ない少年を思いやる程度の心は、まだ持ち合わせているつもりだ。
「エヴァに残った彼女も、それを願う筈だ」
 コウゾウが呟いた時、初号機はおずおずと足を踏み出すところであった。
 数歩てくてくと歩いてから、腕をぐるぐる回す。
 とりあえず基本動作は出来そうだ。さて、これから数秒で戦闘の奥義を身につけるぞと、武道の達人に聞かれたら抹殺されそうな台詞を吐いた途端、使徒が動いた。見物するのにも飽いたのかも知れない。
 強烈な一撃に、初号機の顔が左を向いた。
 そして右を。
 華麗とも言える程のフックは、明らかにさっきの一撃とは異なっている。
 足下がふらついてぶっ倒れそうになったが、使徒は許してくれなかった。頭を掴んで持ち上げられ、どうするかと思ったらラリアートが来た。おそらく、地球侵攻の際に参考資料として、プロレスの映像を見てから来ているに違いない。
(やっぱりぬるぽがまずかったかな?)
(多分ね)
 一方的にやられている初号機の中の人だが、案外余裕がある。シンジが言った通り、フロストが衝撃吸収に回っており、シンジ本人へのダメージはかなり抑えられているからだ。しかも、エヴァとのシンクロ率がこれまた低く、それが逆の意味でシンジを助けていた。
 ただ問題は、
(勝たないとまずいよね?)
(それはそうでしょ。オヤビンしっかりしてよ)
(でもどうやって反撃しようか)
 生身での格闘戦などほぼ経験ゼロだし、しかも今はこんな機体に乗せられている。仲魔達も手の打ちようがないそこへ、今度は足が降ってきた。
「けふっ…いててて」
 今度は少し効いた。
 更にゲシゲシと踏まれたが、三度目に足が上がった時、何とか横に避けた。勢いづいた使徒の足が地にめり込んで抜けなくなり、しかも横転してくれた隙に立ち上がり、
「うらー!」
 ボカッと蹴飛ばす。
「うまい!よくやったわシンジ君…あれ?」
 発令所では一瞬歓声が上がったが、すぐに静まりかえった――まったく効いていないのだ。
「マリューあれどういう事?どうして効いていないのよ!?」
「シンクロ率の低さが災いしてるのよ。シンクロ率が低いのは、防御には役立つ反面、攻撃の効果が期待できない諸刃の剣。素人にはお勧めできないわ」
 とは言え、乗っているのがこれ以上ない位の素人なのだから、言っても仕方のないことだ。
「ナタル、何か良い案ないの?」
「……」
 振られたナタルが少し考えてから、
「あの機体とあのパイロットでは、為す術はありません。しかも、反撃しても効果がないのはご覧になったでしょう。ただ、手がない訳ではない筈ですが…使えないのか或いは使わないのか…」
「どういう事?」
 ちょっと言い淀んでから、
「原理は不明ですが、初号機パイロットには物体を凍らせる能力があります。キラ・ヤマト及びアスラン・ザラの両名が乗った車が氷の彫像と化したのを、私は自分の目で見ました」
 てっきり奇異な視線を向けられるかと思っていたのだが、
「それは知ってるわ…」
 返ってきたのは、微妙に力の抜けた同意であった。
「ラミアス少佐?」
「この中を見て変だと…人がいないと思わなかった?」
「はっ?」
 言われてから、漸く気付いた。本来なら主を迎えるべき場所が空欄になっている――即ち総司令の席が。おまけに、技術面・運用面を担当し、少なくともこの場にいるべき赤木リツコ博士の姿もない。
「総司令はウェルダン、赤木博士は氷柱の中よ…」
「え!?」
 来るのが遅れている間に、事態は予想より斜め上の方角に進んでいたらしい。
(少年は牙を備えていた、と言う事か…)
 怪しからん話だ、という感情が最初に浮かんでこない事に気付き、ナタルは妙な気分になった。昨日までなら、捕縛して厳罰ものだとまず考えたろう。
 と、次の瞬間ナタルの顔がかーっと赤くなった。
(私と一緒に喘いでいた少年とはとても…)
 汗まみれの身体を絡ませ合い、同時に達した事を思い出してしまったのだ。
(わ、私は何を思いだしているのかっ…!)
 唇を噛んで鎮めようとしても、鎮まるどころか生々しい快感の感触までもが甦ってしまい、握りしめている手には汗まで浮かんできた。
「ナタル、そう怒らないで」
 びくっとナタルの身体が反応した。言われた事が分からなかったのだ。
「か、葛城少佐?」
「ナタルが怒る気持ちは分かるけど…碇司令の言葉は、ずっと離れていた息子に向ける物じゃなかったのよ…。それにリツコは、ホームラン級の馬鹿とか言って、完全にそんな印象で固まった上に、保安部員呼んでシンジ君を拘束させようとしたからね」
「そうでしたか…」
 見抜かれたのではないと知り、ナタルは心から安堵した。万が一さっきの事を知られでもしたらどうなるか、見当も付かないナタルであった。
 無論、マリュー達も同様で、いくらなんでもナタルがシンジに処女をあげてしまい、あまつさえ最初から絶頂に達していたなどとは想像もしていないから、ナタルらしい正義感で怒っていると思ったのだ。
 まして、唇を噛み締めていたから尚更である。偶然というのは、時として双方にとって良いように転がる物だ。もしもマリューがシンジとナタルの関係を知ったら、使徒どころではなくなっていたに違いない。
 難を逃れたと知った時、身体の興奮はすうっと治まっていった。赤らんでいた表情も元に戻っていく。
(必ず無事に帰ってきて…)
 足場を固定された使徒をボカボカと蹴飛ばしているシンジに、ナタルは内心でそっと呼びかけた。
 その声が届いた訳でもないが、シンジは漸くコツを掴み始めていた。エヴァ自体を操縦しよう、と言う事は考えない方が良いらしい。集中すべき場所――今は右足だ――だけに意識を集中させると、ある程度自分の思い通りに動いてくれる。
 使徒の方も調子に乗っていたのか、勢いよく足を振り下ろし過ぎたと見えて、未だに地面から足が抜けていない。
 殺るなら今の内と頭を蹴飛ばしていたのだが、不意に使徒が反撃に出た。身体を支えて抜き出すのに使っていた手で、蹴ってきた足を掴んだのである。どうにか押さえ込んだ、位にしか見えなかったのに、使徒が腕を振ると初号機は簡単に振り回されていく。 プロレスで言うところのジャイアントスイング、それも片手だけだ。十回近くも振り回されてから、砲丸投げのように投げつけられ、初号機は見事に吹っ飛んだ。
「あ〜」
 殴られるとか蹴られるとか、そう言うダメージならかなり軽減できるが、妙な所からGが掛かって来るというのはどうしようもない。兵装ビルへ叩き付けられたシンジは、目を回して完全にグロッキー状態だ。
「今のは効いた…はう〜」
 まだ少しだけ余裕はありそうだが、反撃に出る力は急速に減っている。そこへ、やっと足の抜けた使徒が、これはもう背後に危険なオーラをまとってやって来た。
「フロスト、まだ大丈夫?」
「オヤビンのダメージは二割に抑えてる。ただし、機体までは期待するなよ」
(シャレが言えるならまだ大丈夫そうだ)
 呟いた瞬間、いきなり蹴り上げられた。二度、三度と蹴り飛ばされ、機体がゴロゴロと転がっていく。既に反撃の余力も技量もない。
「『シンジ君!』」
 マリューとミサトの口からは悲鳴が洩れたし、見守るしか出来ないナタルも、ぎゅっと手を握り締めていたが、シンジの口から呻きは上がらない。
 これじゃ嬲ってもツマンネ、と使徒が思ったかどうかは分からない。ただ、使徒は遂にシンジの口から声を上げさせる事には成功した――腕をねじ切ったのである。
「くぅっ…」
(オヤビンっ!!)
(だい…じょうぶ、まだ意識はあるから)
 気丈にも笑ってみせたオヤビンだが、仲魔達の方が顔色を変えている。
(フロストどうするのよ、このままじゃオヤビンが!)
(モード変換は駄目だ。今日はもう一度変えている。二度以上変えるとオヤビンに負担が大きすぎる)
(じゃあどうするのっ)
(せめて飛び道具さえあれば…)
(役に立たない人間どもねっ。いいわ、こうなったら私が直接…)
(止めろ)
 転移しようとした相方をフロストは制した。
(燃やして殲滅できる奴かどうか分からん。まだ動くな)
(で、でもっ)
 ランタンが何か言いかけた時、使徒がすっと離れた。
(フロスト来るわっ!)
(分かってる!)
 叫び返すのと、エントリープラグの表面が一瞬にして白く覆われるのとが同時であった。使徒内部に巨大な熱量を察知したフロストが、瞬時にプラグを薄い氷の膜で覆ったのだ。
 その直後、使徒から放たれた光の矢が、初号機を直撃した。顔の装甲が破壊され、まるで普通の人間のように赤い液体が噴き出す。
「『シンジ君っ!!』」
「シンジ、しっかりしてっ!」
 ナタルの声は、凄まじい轟音とマリュー達の悲鳴にかき消されたが、シンジの耳には一番よく聞こえていた。
(もー、ナタルってば心配性なんだから。でも何とかしないと…ね…)
 目が見開かれた直後、その首がかくんと折れた。失神したのである。
「神経接続不能、シンクロ計測できませんっ!」
「勝った…な」
 エヴァから伝わってくる信号は、既にパイロットの意識不明を伝えている。マリュー達の顔色が変わるなか、コウゾウは一人呟いた。
 どこか、苦い呟きであった。
 だが初号機が再度立ち上がる気配はない。
「何!?」
 身を翻し、部屋を出て行こうとしたその足が止まった。
 シンジは失神していたが、フロストもランタンも初号機内部の異様な気配は感じ取っていた。
(フロストこれ何か変よっ)
(やはりこ奴、内部に魂があったのか!?)
 とは言え、シンジの意識がない今、仲魔達の力も大幅に制限される。万事休すかと思われたその時、
(クーの心配性も時には当たる)
 涼しげな声がした。無論、フロスト達にしか聞こえていない。
(タム・リン様!?)
(人間界では、バンジー急須かというのだったかな。多少頑丈に作られてはいるが、所詮化け物を倒せるようにはなっていない。屑共が、最初からシンジ殿の危機でこれが暴れ出すようにしていたと見える。フロスト、シンジ殿のモードを変えろ)
 そりゃ万事休すだ、と突っ込むべき少年は、現在失神中だ。
 フロストに命じたそれは、柔らかいが有無を言わさぬ口調であり、
(ダメージはすべて俺が負う。シンジ殿のダメージ程度なら、受け入れる容量に問題はない。俺に任せておけ)
(分かりました)
 フロストとランタンが頷いた時、タム・リンと名乗った者の気配は消えていた。元より、実体は出てきていない。意識だけを飛ばしていたのだが、にも関わらず初号機の暴走をあっさりと防いだのだ。
 無論、その事による被害など知った事ではない――すべては友の、碇シンジの為だ。機体が暴走してどうなるかは知らないが、シンジにとって良い事ではないとあれば、妖精達に取っての行動理由は十分過ぎる。
(フロスト再起動を)
(分かっている)
「葛・樹・月・梅・陽・取・乱・色。モード切替完了…逃走モードへ。碇シンジ、再起動!」
 シンジの中に封じられた能力を引き出す時、一度失神する必要があったりして少々面倒だが、今回は幸い既に失神済だ。
 シャキーン。
 シンジの眼が開いた。
 妖々と上がったその顔に、ダメージの痕跡は微塵もない。
「マリューさん、聞こえる」
「シンジ君っ、無事なのっ!?」
 マリューの声には、どこか涙が混じっているように聞こえるが、まったく状況が掴めぬ中での意識不明とあって、マリューもミサトも最悪の事態すら覚悟した事を考えればやむをえまい。
「うん、大丈夫。それよりお店見つかった?」
 この状況下でも、眼前に迫る使徒よりも焼き鳥の方が気になるらしい。無論、二人のやりとりを知らない他の面々は、呆気に取られている。
「え…あ、ああ今探してるわっ」
「うん。あ、それからナタル」
「『!?』」
 衆目が一斉にこちらを向き、マリューとミサトからはやっぱり怪しいと、危険な視線が飛んで来た。
 ほとんど羞恥プレイに等しい。何せ、殆ど会話の無かった筈のシンジが、いきなりナタルと呼び捨てにしたのだ。シンジは軍人ではないから、少尉とは呼ばないにせよ呼び捨てとはどう見ても怪しい。
「な、何か」
 紅潮してくる顔を必死でおさえて応じたナタルに、
「これより退散する。収容準備を」
(何っ!?)
 まさか甘い事など言わないだろうなと心配したのだが、シンジの口から出たのは予想外の言葉であった。
 それでもナタルの顔が一瞬にして引き締まり、
「青葉、初号機受け入れの体勢を取れ。急げ!」
「了解!」
 シゲルからはテンポの良い反応が返ってきた。本来ならマリューかミサトの役目なのだが、なぜかシンジは自分を指名してきたのだ。これ位しても罰は当たらないだろう。
「初号機、こちらナタル・バジルール。収容準備は出来た、いつでも帰還できる」
「了解。んじゃ、逃げ帰るね」
 それを聞いた面々は呆気に取られ、そして次の瞬間信じられない光景を目にする事になった。逃がさぬ、とばかりに使徒が歩んでくるのを見て、思わずあっと声を上げたのだが初号機は、いやシンジはそんな物を待っていなかった。
 ビルに光の矢で縫いつけられたまま、すっと立ち上がったのだ。初号機の質量に耐えられなかったビルが瞬時に倒壊し、そこへ突っ込んできた使徒を初号機は片手で殴り飛ばした。吹っ飛んでいく使徒の頭をくるりと回転した爪先が直撃し、吹っ飛ぶ事も叶わずそのまま地面に叩きつけられる。
 サクッと馬乗りになり、最初に取った行動はさっきの仕返しであった。強引な体勢から、片手で使徒の腕を付け根からもぎ取ったのである。
 しかも放り出さない。
 何をするのかと思ったら、腕を折られて断たれたところに押しつけたのだ。くっついた瞬間、みるみる内に修復していくのを誰もが呆気に取られて見守っているが、最も驚きの大きかったのはコウゾウであった。
 暴走、即ちコアに眠る魂は起きていない。目覚めを妨げられたのだ。
 つまり、今の初号機は完全にシンジが制御しているという事になる。勿論、使徒を撃退するに越した事はないが、ではさっきまでの弱さは一体なんだったのか!?
 腕も回復し、使徒をボコる用意は出来た。後はもうマウントポジションから好きなようにやり放題で、忽ち使徒の顔が変形していく。さっきまでとのあまりの差に、マリュー達が思わず顔を手に当てた程だが、初号機はそんな事にお構いなく、文字通り使徒の破壊を続けた。
 DV妻になれば、さぞ見事な暴れっぷりを披露するに違いない。とまれ、初号機の両腕でボカスカと殴られた使徒の顔は、殆ど原形をとどめて居なかったのだが、初号機が止めを刺す事は出来なかった。
 振りかぶって勢いよく振り下ろされた手は、オレンジ色の光に阻まれたのである。
「ATフィールド!?」「絶対不可侵領域、あれがある限り完全に倒すのは無理よ」
 二人の言葉通り、初号機の手は完全に止まった。
 何これ、と言うように初号機が自分の腕を見た。
「しょ、初号機もATフィールドを展開っ!」
 マコトの声が上がったのは、その直後の事だ。初号機の手もまた、ATフィールドを帯びたのだ。なお、現存するエヴァンゲリオンの中で、ATフィールドを展開させてみせたのはこの初号機が初めてだが、一番大きな事は――ATフィールドはシンジの意志では無かったという事だ。
 そもそも、シンジの知識にそんなものはない。
 とまれ、自らの手にATフィールドを展開させると、そのまま使徒のATフィールドに浸食し、あっさりとこれを破ってみせた。右手で破り、そのまま左のフックが使徒の顔に炸裂させて完全に顔を破壊する。
 もはやこれまで、と思ったのか使徒は最後の足掻きを見せた。手足を伸ばして初号機に抱き付いたのである。
「自爆する気っ!?」「シンジ君避けてっ!」
 問題ない、とシンジが言ったかどうかは不明だが、シンジは避けなかった。
「痛っ」
 代わりに取った行動は、顔面に刺さっている光の矢を引き抜く事であり、今度は逆に使徒の顔面にそれを突き刺した。唸りを上げて刺さったそれは、初号機に抱き付こうとした使徒を地面に縫いつけ、使徒の動きが一瞬止まった隙に初号機はさっさと飛び退いてた。
「『う、上手い…』」
 もう後も見ずに初号機が収容口へカサカサと――どっちが敗残兵だか分からない――歩み出した直後、その背後で巨大な火柱が上がった。
 使徒が自爆したのである。
 無論、初号機が自爆に因る被害ゼロだったのは言うまでもない。
 炎の大きさは、地団駄踏んでいるに違いない使徒の悔しさの表れでもあったろうか。
 間もなく初号機は戻ってきた。惨敗確実の状況から、一転して圧勝、見事に使徒を殲滅してのけたのだ。
 プラグからLCLが排出され、髪を濡らしたシンジがひょっこりと出てきた。
「『シンジ…君…』」
「結構ピンチだったけど何とかなりまし…うぷ!?」
 いきなり両側から抱きしめられた。四つの胸に挟まれ、あっという間に呼吸が塞がれる。
「ちょ、ちょっとふた…はももげっ」
「良かった…」「本当に良かった…無事に帰ってきてくれて…」
(い、いや良いんだけど胸が当たって苦しっ…なんかいい匂いだけど…じゃなくて僕がおっぱいで窒息する!)
 何とか顔を動かし、器用に呼吸のスペースを作ったシンジが、谷間から解放されたのは三十秒後の事であった。
(あー、窒息するかと思った)
 使徒退治直後に生命の危機を感じるとは思わなかったが、さすがにそんな事は口に出さず、
「あの僕、女の人絡みで死ぬ時は腹上死って決めてるんです」
「『ふ、腹上死っ!?』」
 十四歳の少年の言葉に二人が赤くなったが、マリューの方がその色は濃い。
「だからその、四つの大きな胸に囲まれて窒息するのはちょっと…」
 言い終わらぬ内に、いきなりミサトに引っ張られた。
「ミ、ミサトさん?」
「じゃ、胸が二つなら無問題なのよね〜?もー、シンジ君たらおませなんだから」
 口調と視線は怪しい物に変化(へんげ)しているミサト。その胸にいきなり抱きしめられそうになり、シンジは慌てて逃げた。
 さっきはまだスペースがあったが、あの谷間に挟まれたらもう呼吸停止は間違いないところだ。
「そうじゃなくてっ…」
 私のじゃボリューム不足?と訊ねてくる視線は、どこかがっかりしているようにも見えるが、その奥にある物を見抜けるほど、シンジは異性との付き合いがない。
 だから逃げた。
「そっ、それよりお店は見つかったんですかっ?さっき訊いたでしょ」
「だ、大丈夫よすぐに見つかるから」
「…つまりまだ見つかってないんですね」
「ちょ、ちょっと探してくるから待ってて」
 あんたも来るのよ、とマリューを連れてミサトが出て行った後、シンジは左右に頭を振った。成分は分からないが、妙に頭がベタベタする。LCLのせいだ。
「ちょっとシャワーでも浴びて…あ」
 耳の中まで変な液体が入ったようで、ぽこぽこ叩きながら歩き出したシンジが、ナタルに気が付いた。
「あ、ナタルさん…帰りました」
「それは良かった」
(あれ?)
 違う――何かが違う。そもそも、ナタルは腕組みした姿勢で自分を見ており、おまけにその視線は睨んでいるようにすら見えるではないか。
「あ、あのシャワーはどっちかなって…ナタルさん?」
「あっちだ」
 腕を組んだまま、人差し指だけが動いた。
「う、うん…」
 さっきとは天と地ほどの差、どころかまるで数時間の差で時効が成立してしまい、捕らえられなかった指名手配犯を見る刑事みたいな視線を浴び、シンジがカサカサと歩き出した背後から、
「随分と楽しそうだな。挟まれて満足か、碇シンジ?」
 ぴく、とシンジの足が止まった。
(ランタン、何の話?もしかして使徒か?)
(使徒よ。ただし胸に住んでるおっきな奴)
(ハァ?)
 そんな意味不明な比喩で分かれば苦労はしない。その間にも、ナタルからは妙な視線が飛んでくるし、なんかチクチクしているような気さえする。さすがに御年十四歳のオヤビンには重いと見かねたのか、
(オヤビン、胸だよ。挟まれて喜んでるように見えたんだろ)
(あー!)
 フロストに言われて漸く気が付いた。
 つかつかと戻ってきたシンジに、
「な、何の用だ」
「身体が濡れて気持ち悪い時に挟まれるのって別に良くないし、それに――」
 耳元に口を近づけ、
「ナタルの胸の方が揉んだ時に気持ち良…ハウ!?」
「ななっ、何を言うか馬鹿者っ!」
 思い切り足を踏んづけられた。
(こら雪だるま、違うじゃないか)
(大丈夫だって、このフロストを信じろよ。オヤビンより経験は長いんだ)
(だけど却って怒って…あれ?)
「こ、こんな所で…ば、馬鹿者…」
 何やらさっきとは雰囲気が違う。おまけによく見ると、目の下がほんのり染まっているような気がしない事もない。
(ほーら見ろオヤビン)
(恐れ入りました)
「食事、ナタルも一緒に行…!?」
 言いかけたシンジの顔色が不意に変わった。ナタルの首辺りに顔を近づけ、くんくんと匂いを嗅ぐ。
「ちょ、ちょっと何をっ…」
「ナタルっ!」
 シンジの顔色は明らかに変わっており、叫んだ次の瞬間何を思ったのか、ナタルを横抱きにして走り出していたのだ。
 なお、身長はナタルの方が頭一つ分くらい大きい。
「お、おい少年…」
 確かに戦果は上げたが検査は必要だからと、シゲルがシンジに声を掛けようとしたのだが、その時シゲルの目に映ったのは、ナタルを抱きかかえて走り出したシンジの姿であった。
「き、既成年者略取・誘拐ってやつか?」
 呆気に取られて見送ったところへ、マリュー達が戻ってきた。
「あれシンジ君は?」
「え、えーとあっちに」
「あっち?シャワーでも浴びに行ったのかしら」
「それが、バ、バジルール少尉と一緒に…」
「『ナタルと一緒にシャワーに!?』」
 凄まじい殺気もどきを叩きつけられた時、シゲルは今日出勤していた事を、ほんの少し後悔していた。
 
 
 
 
 
(つづく)

TOP><NEXT