GOD SAVE THE SHINJI!
 
 
 
 
 
第八話:ある意味使徒より怖い人
 
 
 
 
 シンジが無事にネルフへ着いた頃、ナタルはホテルの一室で熟睡していた。シンジが去った後、急に疲労が押し寄せてきたのだが、それは今まで経験した事のない心地よいものであった。
 脳裏で、軍服に身を包んだナタルと全裸のナタルが取っ組み合いをした結果、全裸のナタルがあっさりと勝った。職務放棄だ、と言う思いはあるが、シンジと手を握り合ってはしたなく腰を振っていた自分を思い出すと、首筋まで赤くなってきて、しかも身体がその感覚を思い出す為到底起きられそうにない。
「は、初めてなのに私は…!?」
 赤い顔で呟いた直後、ナタルはがばっと跳ね起きた。人の気配を感じたのだが、それは間違いではなかった。
 だが、反射的に声を上げる前に、ナタルがごしごしと目をこすったのも当然で、ナタルの前に居たのは甲冑に身を包んだ男で、しかも宙に浮いていたのである。
「我が名はクーフー・リンと言う」
「ナ、ナタル・バジルールであります」
 怪しすぎるとか人外の存在だとか考えるよりも前に、唇が勝手に動いていた。甲冑に身を包んだ男からは、壮絶な鍛錬を積んだ者しか発する事のないオーラが漂っていたのである。
 敬礼した時、自分が全裸だという事は忘れていたが、自分が二度も裸で敬礼するなどとは、昨日までまったく想像もしていなかったろう。
「我が友の事が気になると、女王陛下が仰せになったので人間界まで見に来た。どうかと思ったが、心配はないようだな」
 全裸のナタルを上から下まで見た視線は、被検体を見る科学者のそれであった。
 すっと近づいてきた次の瞬間、ナタルの身体は貫かれていた。
 身構えるどころか、目を閉じる事も出来なかった。
「あ…」
 声が洩れた時、既に手は抜き出されていた。
 血は一滴も出ない。
「大抵の局面は何とか出来るだろうが、完全ではない。貴公には、我が友の側についていてもらいたい。もう体調は戻っているはずだ。人間界(ここ)が合わぬなら、いつでも連れて帰る。こんな所より、我らの世界の方が性に合っている方だ」
 シンジの経歴を解く鍵のある言葉だが、ナタルにそこまで読む余裕はなかった。
「りょ、了解しました」
 クーフー・リン、と名乗った男が、すっとかき消すように姿を消した後、ナタルは男の言った通り、体調が元に戻っている事に気が付いた。
「何が出来るかは分からないが…そうだな、寝ている場合ではなかったか」
 呟いた表情は、軍人のそれに戻っていた。
 
 
 
 
 
「今、インターフェース無しで反応したの!?あり得ないわ」
「付けていたって、こんな反応したケースは初めてよ。どうなってるの」
(インターフォン?)
 マリューやミサトの声を聞きながら、シンジは自分を守った巨大な手を眺めていた。
 偶然という事はあり得ない。ピンチの時、こんな手が偶発的に守ってくれるほど、シンジの運気は強くない。
「ミサトさん」
「なに?」
「これ、中の人とかいるんですか?」
「シンジ君が中の人になるのよ」
「はあ」
 だよねえ、と声に出さず呟いた。ゲンドウが何を持っていたか知らないが、仮にこれがシンジ専用の機体だとしても、シンジのDNAを登録するのは不可能だ。
 なぜなら、ゲンドウに放り出された時と今では、DNAが別の物に変わっているからだ――作り替えられたのである。つまり、よしんば登録された操縦者を自動的に守る機能がついていたとしても、シンジを認識する事はあり得ないのだ。
 では、なぜ勝手にシンジを守った?
 シンジはじっと紫の巨人を眺めたが、無論返答が返ってくる事はない。
「……」
 と、ふとシンジが何を思ったのか、
「オウチカエル」
 くるりと背を向けて歩き出したのだ。
「『シンジ君っ!?』」
 びっくりしたのはマリューとミサトだが、その直後に今度は度肝を抜かれる事になった――初号機の手が伸びて、シンジの行く手を塞いだのである。
「『な、な…?』」
 もう声も出ない二人だが、シンジの方はさっきほど驚いた風はない。或いは、予想範囲内だったのか。
 だが、端から見ればキングコングに捕まった少年状態であり、見ていたコウゾウもさすがに驚きは隠せなかった。
(まさか…もう目覚めたのか!?)
 だとすれば予定より早い、どころか早すぎる。こんな事は全く想定すらしていなかったのだ。
 ただ、幸か不幸か初号機がそれ以上のリアクションを試される事はなかった。
「そっか、そう言う事か」
 妙な事を呟いたシンジが、
「なんかお家に帰してくれなさそうなんで。で、どうやって動かすんですか?」
「基本的には思念よ。操縦席にレバーがあるから、それを握った状態で動作を命じるのよ。それで動くわ」
「それだけですか?」
「ええ」
 ミサトは頷いたが、どうも歯切れが悪いことにマリューは気が付いていた。
(ミサト?)
「それで、武器とかはあるんですか?」
「ご免なさい…分からないの」
「ふみゅ?」
 無いの、だったら謝る理由も分かる。しかし、分からないのとはどういう事か。
「無い、じゃなくて?」
「その…」
 ミサトが言いにくそうに、
「エヴァの運用面や技術系の担当は…赤木リツコ博士なのよ…」
 
 その者、只今氷漬け中。
 
 ごめんね、と謝ったミサトに、
「別にミサトさんのせいじゃないっしょ。凍らせたのは僕だし」
 むう、と考えてから、
「死体の脳から思考を抜いた方が早…じょ、冗談だって待てー!」
 無論、マリューやミサトが銃を向けた訳ではなく、オヤビンの意向を汲んだ仲魔たちが、
「ヒーホー、じゃ行ってくるぜ」
 いきなりトップスピードで飛び出そうとしたからだ。がしっと、何とか雪だるまと南瓜を捕まえたシンジに、
「あ、あのシンジ君それは…?」
「僕の仲魔です。帰ってきてから教えますから。それよりもホームランの人じゃないと分からないとは…どうしたものかしら」
 どうやら、リツコの評価は、シンジの中でホームラン級の馬鹿として固定されてしまったらしい。
「救護班が手当てしてるはずだから、呼んでみるわ。ちょっと待ってて」
「ええ…え?」
 シンジは頷いてから、信じられない事態に巻き込まれたような表情を見せた。
「シンジ君、どうしたの?」
「あ、マリューさんいや今手当とか…」
「何かあるの?」
 マリューが聞き返した時、もう医務室は応答していた。
「葛城少佐よ。リツコの容態はどうなっている」
「今手当てするところです。もう準備は終わります」
 そこへ、
「ちょっと待った」
 口を挟んだシンジが、ミサトを見て受話器を受け取った。
「何の準備してるか知らないけど、熱湯掛けて溶かしたら中の人間も一緒に溶解するからね」
「何っ、それは本当なのか!?」
「……」
 一瞬受話器を離したのは、無論大音量の所為だ。
 このまま切りたくなるのを何とかおさえて、
「試してみます?僕はどっちでもいいですけど」
 湯煎は中止だ!と叫ぶ声が向こうから聞こえてきた。どうやら、その予定だったらしい。シンジが言わなければ、間違いなくミサトが次に会う時、友人はドロドロに溶解した物体になっていた事だろう。
 言わなきゃ良かったかな、とちらっと思ったのだが、今はそんな場合じゃない。受話器をミサトに返し、
「起こすのも面倒なので、自分で何とかします。念じて動かすタイプって事で良いんですね」
「ええ。念じて動くというのは、機体と操縦者がシンクロするから出来る事なの。少し苦しいかもしれないけど、補助的な役目だから我慢してね」
「補助?」
「シンジ君が乗る操縦席は、エントリープラグと呼ばれているわ。ここにLCLという特殊な液を満たすのよ」
「了解」
 シンジは簡単に頷いた。無論、理解した訳ではないが、息が出来ないのなら窒息死確定だ。いくらなんでも、そんな物に乗せたりはしないだろう。
(フロストは衝撃吸収、ランタンは攻撃補助でよろしく)
(合点だオヤビン)(いいわよオヤビン、ガシッとやらせてあげるから)
 シンジ自身は、別段戦闘能力が高いという訳ではない。というよりも、単体では標準を下回っている。
 まして、いきなり乗せられた機体で近接戦闘を強いられると来れば、効果など最初からたかが知れており、ここは仲魔たちの力を借りるのが一番だ。
 登場に際し、細かい部分の説明はまだいくらもあるのだろうが、運用担当がいない上に、何よりも時間がおしている。使徒はすぐそこまで来ているのだ。
 じゃ、と乗り込もうとしたシンジの肩が、にゅうと伸びてきた腕に掴まれた。
「え?」
 見ると、マリューとミサトが左右から肩を掴んでいる。
「『シンジ君…ごめんなさい』」
 よく聞くと、確かに二人の声には微妙な差があるのに気付いた。ミサトの方が少し高いような気がする。
 そんな事を考えながらシンジは、謝る二人にちょっと困った表情を見せた。
(謝られると何ていうか、縁起が悪いんだけどな)
「大丈夫ですよ。この機体、ほっといても守ってくれそうだし」
 
 嫌だと言っても守ってくれそうだ。
 
「ええそうね…」「でも、気をつけてね…」
 言うべき言葉が見つからない、とはこの事だったろう。無謀も良いところと知りながら、年端もいかぬ少年を文字通り死線に送り出さねばならないのだ。
 ただこういう場合、言われた方も困る。こんな時のストレートな返し方というのは、生憎とマニュアルにはない。
 ちょっと考えてから、
「あの、マリューさん」
「なに?」
「この辺で、焼き鳥の美味しい店ってあります?」
「焼き鳥!?」
 何を言い出すのかと思ったら、焼き鳥と来た。
「ええ、焼き鳥です。もしあったら、今晩食べに行きましょ。ね?」
 無事に帰って来れたら、とは言わなかった。ぐっと何かがこみ上げてきたらしい二人の眉が、切なげに寄る。
「んじゃ、ちょっと行ってきます。もし知らなかったら、二人でちゃんと探しておいてくださ…あ」
 ちう、とシンジの両頬で柔い音がした。
「『おまじない…よ』」
 お呪いというより呪いになりそうな気もしたが、そんな事は無論口にせず、うっすらと笑ったシンジは、プラグへと歩き出した。
(一日で三つか。オヤビン大もうけだな)
(黙れ黙れ!あれ?)
 プラグに乗り込んだシンジは、ふと振動が止んだ事に気付いた。
(ねえ、もしかしてどっか行っちゃったのかな?)
(そんな訳ないだろ)(オヤビン、寝言は寝てから言うものよ)
(分かってるよ。言ってみただけ)
 つまらないネタを冷たくあしらわれたところで、急に水が入ってきた。
 うええ、と小さく洩らしたのは、肝心な事を忘れていた自分へのものだ。成分はともかく、水の類であれば服は濡れる。今シンジは普通の格好で、当然下着も穿いている。
「つまり僕の勝負下着が…ガハゲヘゴホッ!」
 
 天罰。或いは神罰か。
 
 いずれにせよ、罰を下し給う係はちゃんといるらしかった。初めての液体を、それも口を開けているところへ大量に流し込まれ、もう少しで調教プレイの一環と化すかと思われたが、不快な感覚はすっと止んだ。
 そこへ、
「シンジ君大丈夫っ!?」
 正体は不明だが、シンジが雪だるま及び南瓜と交信しているのは分かっている。そしてそれが、生命を持った物体であることも。
 普通ならば笑い話にもならないがここは第三新東京市――人外の使徒がやってくる街である。そして、人外の兵器で迎え撃つ街なのだ。
「大丈夫です…あれ?話出来てる?」
 息は出来るだろうと思っていたが、会話まで出来るとは思っていなかった。
「大丈夫よ。会話出来ないと、こっちからの指示に応答出来ないでしょ」
「あっ、そっか」
 ちょっと間抜けなシンジの反応に――年相応なのか――マリューとミサトは、顔を見合わせて笑った。
 少し安心したのだ。何せ、総司令は龍の形をした炎に吹っ飛ばされて燃やされ、実質ナンバー3の地位にいるリツコは、シンジからホームラン級の馬鹿の烙印を押されて、今は氷柱の中にいる。
 是非はともかく、本部初の被害は内部から、それもパイロットとして呼び寄せられた少年によってもたらされたのだ。本音を言えば、天災少年だったりしたらどうしようかと思っていたのである。
 無論、天才の方ではない。
 ところで、今ここに居ないナタルとは違い、マリューやミサトは戦術面ではなく実戦の、それも対人戦闘には長けている。シュミレーションではナタルの方が遙かに有能だが、誰ぞに攻め込まれた時を想定した模擬戦なら、ナタルは二人にあっさりととっ捕まるだろう。つまり、根本的に分野が違うのだ。
 ただし、いくらエヴァが近接戦闘を想定して作られているからと言っても、実際に動かすのはパイロットだから、必要なのはナタルの戦術面なのだ。なのにマリュー達の方がナタルよりも上で、しかもチルドレン達の指揮権を任されている理由は、当の本人達からして知らないのだ。おまけに、ネルフのナンバー1とナンバー3の反対を押し切ってナンバー2が、つまりコウゾウが推したのだと知れば仰天するかも知れない。
 無論、コウゾウには理由があったのだが。
 尤もいかにナタルが優秀でも、通常兵器が通じずしかも一機しかない初号機を駒に、どれだけ才を発揮出来るかは不明だが。
 マリュー達を推したコウゾウだが、コウゾウは直接エヴァの指揮をとったりする訳ではない。実際の役目は、世話のかかるナンバー1の補佐及び後始末にある。つまり今やネルフの、ひいては全人類の命運はマリューとミサトの双肩に乗ってきたと言っても過言ではないのだ。技術面からの助言もなく、いざとなれば全責任を取ってくれる総司令官もいない。
 とは言っても、逃げ出す訳にもいかず、マリューとミサトは気付かぬ内に、お互いの手をぎゅっと握り合っていた。従姉妹同士、繋がる所があるのだろう。
 エヴァの起動自体は、二人が指示せずともスタッフが進めていく。画面が次々に、状態クリアを示す青色へと変わっていくのを、二人は緊張した面持ちで眺めていた。
(上手く行ってくれるかな)(うん…)
 何しろ、中の人となっているシンジは、起動実験どころか、シンクロするかどうかすら分からないのだ。ある意味情けない話だが、二人が出来ると信じる根拠は、訓練する期間などほぼゼロに等しい時に呼び寄せた、おそらく存在するであろうゲンドウの秘策にあった。シンジがゲンドウをこんがり燃やす前の、ゲンドウの態度を見ても、シンジへ直接アドバイスするとは思えない。
 だからいいのだ。
 ゲンドウが伝えないという事は機体に、つまりシンジに関係ないところで発動する何かという事になるからだ。これでもし、ゲンドウがシンジへ親しげに話しかけでもしていたら、どんな策があるのかと、例え冥府から呼び戻してでも訊かねばならないところだ。
「『動かないわよ?』」
 二人の声が重なった。彼女達の脳裏には、少し前勝手に大暴れした零号機の事があった。あの時のように、いきなり大暴れされても困るが、動かないのはもっと困る。
「駄目か」
 画面を鋭い視線で睨んだのはシゲルであった。リツコか、或いはマヤがいればすぐに分かるのだろうが、生憎二人はいない。
「ここがずれてるな…シンクロにまだ誤差が出ている」
 呟いて、
「シンクロ率の誤差を下げろ。0.4%以内に収めるんだ」
 スタッフに指示を飛ばしたが、なぜシゲルに分かるのか、と言う単純な疑問はマリューにもミサトにも浮かばなかった。
「シンクロしたわ…いける!」
 数値は低いが、最低限の物は確保出来た。とりあえず起動に問題はない。
「碇司令、かま――あ」
 振り向いてから思い出した。そこに居るべき親分は、現在こんがり焼かれて病室で唸っている。
「ラミアス少佐」
 聞こえた声に振り向くと、コウゾウの姿が見えた。
 コウゾウが軽く頷く。
 やりたまえ、と伝わってきた。
 はっ、と二人が頷き、
「『エヴァンゲリオン初号機発進!』」
 二人の思いを乗せた声は揃っていた――が、動かない。
「シンジ君どうしたの、何かあったの!?」
 焦るのも当然だが、返ってきた声はどうにも間延びした声であった。
「あの、もうちょっと」
「もうちょっと何っ?」
「シャキーン、とくるものを」
(シャキーン!?)
 顔を見合わせた二人はオペレーター席を見やったが、シゲルもマコトも首を振った。
 つまり、システム的には問題ないという事なのだ。自分の意志だけで発進を抑えているのかと、一瞬背筋が寒くなった二人だが、そんな事を言ってる場合ではない。
「しょ、初号機発射!」
 と、これはマリュー。
「いまいち」
「初号機出撃!」
「ぬるぽ」
「『ふえ?』」
「ぬるっぽいって言ったんです。もー、帰っちゃおうかな」
 シンジのロクでもない科白に、マリュー達を始め聞いているスタッフ達までが全員青ざめたところへ、
「さっさと出撃して戦果を上げたかと思えばまったく」
「ナタル!?」「バジルール少尉!?」
 姿を見せたのはナタルであった。無論軍服姿で、その雰囲気はいつもの凛としたものに戻っている。
「エヴァ初号機突撃!」
 声を張り上げた時、ナタルは一瞬笑った――ように見えた。
「『え?』」
 何を言い出すのかと思ったが、
「やっぱりいい女」
 笑みを含んだ呟きはシンジの内心の物だったが、マリューとミサトにだけは、はっきりと聞こえた。
 ヒクッと二人の眉が上がるのと、
「初号機突撃ィ!」
 シンジが応じ、初号機が勢いよく射出されていくのとが同時であった。まるで、溜めていた弓から放たれた矢のように、勢いよくすっ飛んでいく。
(何!?)
 純粋に安堵したのはオペレーター達だが、シゲルの顔色は一瞬変わった。
 発進する前、シンジのシンクロ率は30%を僅かに超えた程度だが、シンジが突撃と応じたその一瞬だけ、確かに150%を超えたのだ。
 ごしごしと目をこすってからもう一度見ると、41%になっている。
(気のせいか…いや、バジルール少尉と共鳴したってところか。既にそう言う関係なのか?やるなあ少年)
 勝手に想像――事実だが――しているシゲルを余所に、初号機は地上に射出された。
 ひとまず安堵したマリューとミサトだが、使徒の次に肝心な事を思い出した。
 ギギ、と機械的な音を立てて二人が振り向く。
「も、申し訳ありません、遅くなりまして」
 睨んではいなかったが、思わずナタルの背が硬直した程の妙な気を纏っている。
「いーのよ別に」「事故だったんでしょ?」
「え…は、はい、そのちょっと衝突してしまって…」
「そ」
 マリューはあっさり頷いたが、女としての人生経験が違うミサトは、そう単純ではない。つかつかとナタルに歩み寄った。
「葛城少佐何でしょうか?」
 ここまでは良かった。別に語尾も乱れていない。
「ナタルらしくないわね。ほら、ここ曲がってるわよ」
 襟の後ろを直してやった――実際には曲がってなどいない。
「あらあ?」
「な、何か」
 二人の頬は触れんばかりの距離で、声が聞かれる心配はない。
「ナタル、首にキスマーク付いてるわよ」
 ミサトが囁いた瞬間、ナタルは明らかに狼狽えた。身体をぴくっと硬直させ、しかも顔色を変えたところなどミサトでさえも見るのは初めてだ。
「かっ、葛城少佐これはそのっ…」
「う・そ・よ」
「…はい?」
 ナタルは立ったまま呆然としており、まだ自分が見事に釣られた事はわかってない。
「そんなのが付いてるなんて嘘。さっきシンジ君がね、私に釣られてあなたの事をナタルって呼んでたのよ。でも詳細は白状しないから鎌かけてみたのよ。ねえ、ナタル」
「は、はい…」
 身体を離したミサトが、ナタルの肩に手を置いた。
「シンジ君が帰ってきたらね、焼鳥屋に行く事になってるの。そこで四人で、ゆーっくりとお話ししましょうね」
 ナタルを見る目は少佐としてのそれではなく、女の目であった。この時点で二人の立場は、アオダイショウとアオガエルに固定された。
 妖しい目でじっと見つめられたナタルが、
「わ、私はその…っ」
「今、二人きりでお話ししてもいいんだけど?」
 ふるふると力なく首を振った時、ナタルは自分が絶体絶命の危地に追い込まれた事を知った。
(か、葛城少佐…使徒より怖い人かもしれないな…)
 自分が一本釣りされた事も忘れてナタルは、先に釣られたらしいシンジの方をちょっぴり恨めしげな視線で見た。
 なお、怪しいだけでもミサトがナタルの前に針を落としたのは言うまでもなく、かなりの高確率でナタルが釣られたであろう事も、これまた論をまたない。
 
 
 
 
 
 キラを抱いたアスランは、医務室には行かず休憩室へと向かった。さすがに家へ帰るような事はしないが、こことて簡易ベッドはあるし、キラを横たえるスペースはある。
 横にならせ、まず最初に服のボタンを外した。看護婦ならいざ知らず、普通他人の服というのは手間取ったりしがちだが、アスランの手つきはじつにスムーズであった――そう、まるで日課として朝晩に練習でもしているかのように。
 現れた白い肌に耳を当てる。
 鼓動に問題はない。特に外傷もないようだ。
「しかしキラがそう簡単に失神するとは…」
 アスランは、鞄から気付け薬の瓶を取り出した。蓋を開けようとして、その手が止まる。
 ぽいと放り出した。違う手を使う事にした。
 キラの鼻を軽くつまむ。当然のように口呼吸になったところで、口も塞いだ――自分の唇で。
 キラの柔らかい唇の感触を楽しんでいるアスランだが、塞がれている方はたまったものではない。呼吸を求めて身体が無意識に反応し、徐々にもがきはじめる。
 本来なら普通に起こせばいいわけで、唇を重ねているアスランの双眸に、邪悪な光があるのは言うまでもない。
「ぷはぁっ!?」
 とうとう耐えきれなくなって跳ね起きたキラが、びっくりしたように辺りを見回している。
「ア、アスラン…」
 事態が掴めずぼんやりと想い人を眺めていたが、
「キラの身体がびくびくしているのは可愛かったよ」
 アスランの言葉に事態を悟り、
「ひ、ひどいじゃないかもう…」
 恨めしげに手を振り上げたところで、はたと思い出した。
「そういえばシンジ君は!?」
「さっき出撃するところだった。後は任せておけば大丈夫だろう。この部屋にモニターはあったかな」
 カーテンの奥にモニターが据え付けられており、スイッチを入れると外の様子が映し出される。
 が、外の光景が目に入った瞬間、二人の目が揃って点になった。
 
 ガッ。
 
 二人の目に飛び込んできたのは、シンジの初号機がいきなり使徒に殴られている光景であった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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