妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
ドクトルシビウの闇カルテ:ツェザーレ
 
 
 
第九十二話:後ろの変態プロデュース――下乳と白い背中
 
 
 
 
 
「……」
 きつく噛みしめた唇の端から、つうっと一筋の鮮血が流れ落ちる。
 ニコル達を見て一旦戦闘不能と判断したものの、状況はシンジ捕獲まであと一歩のところまで追い込んでいたと聞き、一番悔しがっているのはアスランであった。
 奇怪な炎でディアッカが飛行不能になったのはまだしも、予備として残したハイネかレイを出していればほぼ確実に異世界人を捕縛又は抹殺出来ていたのは間違いない。
 やり方次第では追い込める事が分かった、とは言えそれは母艦もMSもほぼ戦闘に参加せず、しかもシンジが甲板で間抜けに日光浴をしているという、この上ない条件が揃った時に限られる。
 まして、今回の事があってなお、次もまた出てくるとは到底思えない。
 文字通り千載一遇の機会を逃してしまったのだ。
「グラディス艦長、助力を要請しなかった自分の失態です。わざわざ出て頂きながら申し訳ありません」
「それは、後詰めを命じられながら回収しかできなかった私への当てつけかしら」
「え…?」
 タリアは柔らかく微笑った。
「追撃されている戦艦が、甲板の上で昼寝している異世界人に艦の命運を任せるなんて、この世界の常識ではあり得ないわ。万一に備えて全機を出撃させないのは当然のことだし、もう一機追加しなかった事が敗因を招いた、というのならその参加を申し出なかった私の責任と言うことにもなるわ。常識が通じない相手だからと言って、こちらもいきなり常識を覆した作戦は取れない。そうでしょう?」
「グラディス艦長…」
「満足できる結果であるかどうかは別として、あの艦を討つ機会は必ずまたあるわ。ザフトの軍人として、求められているのは戦果を出すこと――それでは駄目かしら?」
「いえ…あ、ありがとうございますっ!」
 アークエンジェルを沈めても満足できない場合、というのが何を指すのかまでは思考が至らなかったアスランだが、アークエンジェルの女艦長に敵意を燃やしていると聞いていただけに、タリアの冷静な反応が不思議であった。
 まして今回は後詰めが任務だとはいえ、索敵範囲外から砲撃を受けた上に全く交戦していないのだ。
 無論アスランは、タリアがその怒りも悔しさもある決意に変えて抑え込んでいるとは想像もしていなかった。
 
 
「こらっ」
 船上でぼんやりと外を眺めていたニコルの後頭部を一撃が襲った。
「痛っ…なんだルナマリアか、急に何よ」
「なんだ、じゃないっつーの。ニコルの策は悪くなかった。向こうの艦長が何考えてるのか知らないけど、異世界人に好き勝手やらせてたから、あと一機攻撃に参加してれば間違いなく異世界人を殺し…じゃない捕まえられてた」
 ちら、とニコルがルナマリアを見る。
 シンジを捕まえる為に、とニコルは言ったのだ。
「それで?」
「…ご、ごめん、ちょっと口が滑ったのよ。と、とにかくアークエンジェルは沈められなかったし異世界人にも逃げられた。なのにニコル、あなたちょっと嬉しそうに見えるんだけど!」
「ルナは、電波を受信する事ってある?」
「はぁ!?それって自分は何とか王朝第何世の生まれ変わりで、襲来する何とか星人と戦う為の同志を求めてるとかってあれ?」
「…なんでそんな妙に具体的なのよ。そんなんじゃなくてその…離れた場所にいる人と通信機器を使わずに会話できたりするかってこと」
「出来るわけないじゃない、出来たら気持ち悪いわよ」
「そっか、そうだよね」
 まるでルナマリアに興味を失ったかのように、それきりニコルの視線は遥か洋上から戻らなくなった。
(そっか…って、何納得してんのよ!こっちはとっちめに来てるんだからねっ)
 ニコルの行為に背信があったとは言わないが、参加したメンバーは程度の差はあれショックを受けているのに、ニコルだけ別次元なのは明らかにおかしい。
 それに何故、突如電波受信とか言い出したのか。
 唯一、思い当たる節はある。
 だがそれを口にすることは出来なかった。
 自分は、少なくともこの世界に於いては常識人の筈だ、と言うプライドが遂に口にさせ得なかったのである。
 そのニコルはと言うと、既にルナマリアの存在は思考から消えていた。
(お、お尻とおっぱいの印かぁ…ど、どこにあるんだろ…)
 全く鵜呑みにした訳ではないが、脳内で感じ取ったメッセージが幻聴であるとは思えない。
 事実、シンジが甲板でのんびり構えていたのは確認したのだ。
(その気になれば離れていても呼びだせる…ってことは…もう所有されちゃったって…ことっ?)
 なぜその結論になるのかは不明だが、自分のことなどすっかり忘れたかのように、背を向けてもじもじしている友人の後ろ姿をルナマリアは、手足に水かきを持たないくせに泳ごうとするオリオフリネラでも見るような視線で眺めていた。
(だめだこの娘、何とかしないと…)
 
 
 
 
 
「うん、美味しい」
「ありがとうございます」
 シンジの反応に満足したか、セリオがそっと一礼したところへムウが入ってきた。
 綾香はここにはいない。
 定期検診を受けるようにとレコアに呼び出されたのだという。
「なあシンジ、ちょっといいか」
「空いてるよ」
 椅子を引いて座ったムウに、
「何かお飲みになりますか」
 セリオが尋ねると、一寸考えてから首を振った。
「いや、また今度頼む事にするわ」
「承知いたしました。では、私はこれで失礼致します」
「ん、ありがと」
 セリオが下がったのを待っていたかのように、ムウが口を開いた。
「その、今更なんだが…今日のあれは、俺が突っ込まなかったら本当にやばかったのか?」
「九割九部捕まってた。姉御はもう俺の勝手にさせてくれていたし、キラとステラは囮の相手で精一杯だったしね。戦艦の砲撃も受けず護衛のMSも手が塞がっていれば、甲板でぼんやりしてる間抜けな奴をとっ捕まえる位は楽な話だ」
「…死ぬ気だったのか」
 ムウの表情が少し険しくなったが、シンジはあっさりと首を振った。
「あの人なら、或いはMSに踏まれて死ねるかどうか試してみたい、と言うかもしれないが俺にそんな気はないよ。単純にミスしただけ」
「ミス?」
「追っ手が例の連中でなければまとめて沈めていたんだが、あのご一行だと追い返すまでにしないとならない。判断が遅れるとああなるって見本だ。他の連中だけならあっさり片付いていたが、ブリッツのパイロットが一人冷静だったのが誤算だった。やっぱり電波を飛ばすのは駄目だね」
 何が面白いのか、一人くすくすと笑うシンジを見て、ムウは呆気にとられていた。
 戦場にしては随分と粗末なやり方に真意を問いただしに来たのだが、死の危険さえもまるで他人事のようなシンジを前にすると、どうしても気が削がれてしまう。
「どちらにせよ、選んだ末の撃墜・戦死ならいざ知らず、あんな間抜けな道じゃ多分あの女神様は許してくれない。どんな手を使ってもあの場は切り抜けさせていたと思うよ」
「女神様って…いや、何でもない」
 マリューの事か、と言いかけて止めた。
 艦長席からいかなる指示を出そうが、あの局面でシンジを助けられるとは思えないし、何より――シンジがマリューをそう呼ぶことはあり得ないと気づいたのだ。
 では女神とは?
「フラガには迷惑掛けたが、異世界人も割と間抜けなのが判明した、と笑い飛ばしてくれると助かる」
 やれやれ、とムウは両手を上げた。
「まあ、あの二人を悲しませるような事はなかったし、ここまでずっと楽な道を来させてくれたんだ――そう言われちゃ俺も言えんわな。ところで一つだけ教えてくれ」
「ん?」
「オーブでの待遇に関わらず、あの国で降りることは決めたのかい?」
「降りるよ」
 シンジの答えは早かった。
「居心地が悪ければ旅客機を乗っ取って逃げ出すまでさ」
「操縦…できるのか?」
「まあ、何とかなるなる」
「ならねーよ!」
 ムウは死ぬ気かと言ったが、シンジの口から出たのは捕まっていた、と言う台詞であって死んでいた、ではない。
 シンジが追い払うだけに留める気だ、とニコルは早々に気づいていたが、シンジも又ストライクとガイアには目もくれず、自分目掛けてまっしぐらに突っ込んできたMSが捕獲を意図していたと見抜いていたのだ。
(律儀なのはいいが、所詮一兵士ではそこまでだろう。或いは…お前が絡んでいるのか?)
 脳裏に、とある女の姿が浮かんだが、我関せずとばかりにぷいっとそっぽを向いた。
 それもそうだ、と勝手に独り合点した時、
「本艦はこれより南へ150キロの位置にある島へ移動し、四日後にオーブへ出立する。その間全クルーは完全休息とする。艦の防衛に全責任を持つ異世界人は直ちに艦長室へ出頭する事。以上」
 マリューの妙に凛とした声が全艦内に響き渡った。
「シンジ…何か怒らせたのか?」
「そら、あれだけ醜態晒したら艦の責任者も怒り心頭だろう。ちょっと出頭してくる」
「あ、ああ気をつけてな」
 自覚はあるようだが、マリューがまるでナタルの様な言い回しでシンジを呼び出すなど尋常ではない。
 ナタルとは評価が全く異なるが、どやされたシンジが反発したりしなければいいがと、ムウは複雑な表情でシンジを見送った。
 
 
 
 召喚されたシンジが艦内をてくてく歩いている頃、キラとステラはシンジの部屋にいた。
 幸せそうな顔で眠っており、その手はしっかりと繋ぎ合わされている。
 無論二人まとめて抱かれた後、という訳もなくシンジが無事と知ってほっと安堵したのもつかの間、じたばたしていたシンジに誰がノーパンなのかと詰め寄ったので、二人揃って眠らされたのだ。
 手を繋いでいるのは――シンジの趣味だ。
 キスでもさせてやろうかと思ったが、それはさすがに悪趣味なので止めた。
「出頭してきてあげました」
「どうぞ」
 一歩入った途端腕を掴んで引き寄せられ、そのまま壁に押しつけられた。
 有無を言わさず顔を固定され唇が迫ってきたが、一センチ手前で停止した。
 シンジは抗っていない。
「やっぱりいいわ」
 強引すぎた、と言うかと思ったら、
「美味しいものは後で食べる主義なのよ」
 と来た。
 最初からマリューが怒っているとは微塵も思っていなかったシンジだが、マリューの表情が、いつもとはほんの少し違う事にシンジは気づいた。
 そもそも普段のマリューなら、こんな強引な事はまずしない。
「何はともあれ無事で良かったわ。でも、ちゃんと保険は掛けておいたんでしょ?」
「強制保険を」
「強制保険?何それ」
「何でもない」
 シンジは緩く首を振った。
 間違いなく自分を異世界から監視しているであろう従魔が、その誇りと尊厳にかけてもこんな所でこんな間抜けな終焉を迎えさせる筈がない、等と口幅ったい事は口にしたくなかったのだ。
(ばれたら元の姿に戻って囓られそうだしね)
「それより姉御にしては珍しいテンションだ。バジルールはまだ目覚めていない筈だが何かあった?」
「ナタルが起きたって、もう喧嘩なんてしないわよ。そんな事じゃなくて、朝からちょっと覚醒気味なのよ」
「ほほう」
「あなたが何かやらかしそうなのも予感があったし、向こうの艦長が女じゃないかって気もしていたしね。実証されたわよ」
 シンジの口が言葉を紡ぐ前に、
「向こうから通信してきたのよ」
 一瞬表情を硬直させたシンジが、ふーっと息を吐き出す。
 情報源は嘘を吐かないし、と言おうとしたのだが全く見当違いだったらしい。
 もし口にしていたら、またも余計な地雷を踏んでいたのは間違いない。
「どしたの?」
「な、何でもない」
 どうにか平静を装い、
「向こうのって、確かグラ何とか艦長?」
「そ。新人のタリア・グラディス艦長よ。わざわざ個室から、宣戦布告のご挨拶だったわ。今日はこれで退く、次は決着つけましょ、だそうよ。今回の任務は後詰めと聞いたけど、おそらく本来の任務は本艦を討つことね。MS隊のパイロットは、親がプラントの有名人達だから、前に出てくればそのメンツを潰される事になる。シンジ君に好き放題されて、それでも動けないからよほどストレスが溜まっていたみたいよ」
(姉御、顔が怖いってば)
 うふふ、と笑ったマリューだが、目元が全く笑っていないのを見て、シンジは女艦長達の間でどういう会話があった凡その見当はついた。
「色々と似てるのよね。両方とも新型艦で、艦長と副艦長の組み合わせが全員女。おまけに艦長は二人とも歴任経験のない者同士で、副艦長が優秀ってとこまでそっくり」
「……」
 こっちの副艦長は優秀か?と言いかけたが止めた。
 ミネルバは、アークエンジェルのように襲撃された挙げ句望まぬ出航だった、という事はあるまい。
 だとすれば、ハマーンの縁者だという副艦長は、最初からその能力を買われていたという事になり、たかが異世界人のシンジ一人を操縦できぬナタルとは土台からして違う、とシンジの目に映るのは――やはりハマーンが目下、この世界に於ける最優秀女軍人として認識されているからだ。
(…ハマーンと似た才なら、間違いなくオーブ出国後の戦力の落ちた処を狙ってくる)
「ちょっと聞いてる?」
「あ?イ、イエスマム」
 マリューの声に、はっと我に返った。
「あの女艦長と戦場でやり合う事はないけれど、生身で闘ったら絶対負けないわよって言ったの。口惜しいから、こっちから乗り込んで白兵戦でも仕掛けてやろうかしら」
「…ん?」
 まだ幾分ぼんやりした表情で、
「女艦長同士で肉弾戦やりたいならお供するよ…って、姉御が強いのは知ってるが、何故そうなる?」
「逃げるから」
「はあ」
 こら、とシンジの頬をぷにっとつつき、
「ガイアはオーブに返す。しかもあなたとキラ・ヤマトはオーブで降りる。MSが一機でおまけに適応パイロットがいないんだから、オーブを出たらアラスカまで全力で逃げるに決まって――んむーっ!?」
 さっきは寸止めしたのに、いきなり唇を奪われてマリューは目を白黒させたが、すぐにシンジの背に腕を回していった。
 唇を離したシンジに、
「あとで美味しく頂くつもりだったけど、なんか欲求不満に見えた?」
「ううん、ちょっと可愛く見えたから思わず」
「そっかあたしもまだ可愛く見え…って、ちょっとってどーゆーことよ!」
 オーブによるのは機体搬入の為であって、匿われる訳ではない。
 しかもマリューの言うとおり、戦力は戦力は格段に落ちる。
 にもかかわらず、それを当然のように受け入れ敵に遭ったらさっさと逃げる、と言ってのけたマリューに思わず身体が動いてしまったのだ。
 だがこの時、シンジは気付いていない。
 アラスカ行きまでは逃げるしかないとしても、借りはその後に返せばいい。
 即ち、マリューはアラスカに着いた後艦長でいる気はない、と言ったことに。
 シンジの思考回路が通常通り動作していれば、艦長職を降りてどうするのかと訊いていたろうが、そこに気が回らぬ程シンジはぼんやりしている。
 数分後、シンジは捕縛され、その頭はマリューの膝に乗せられていた。
「今度は真面目にやります。なので艦の防衛責任者はいいけど、何故四日?」
「ナタルが目覚めないまま、オーブ入国は出来ないでしょ。それとも…三日じゃ無理かしら」
「……」
 その気になれば今日の回復も出来るが――単にやりたくないのだ。
「三日でいいでしょ」
 どことなく投げやりにも聞こえた言葉に、マリューはそれ以上言葉を重ねなかった。
 三日の内に目覚めれば、艦内に告げた通り四日目には発てる。
「分かった。じゃ、防御システムは任せたわよ。他のクルー達は完全休息にしちゃうから」
「お任せを」
 戦力を揃えて再度追撃してくるとは思えないが、もし来ても今なら対応出来る。
 短期間に二度も醜態を晒すわけにはいかない。
 そう――悪の親玉に戻ってから色々自慢する為にも。
 部屋を出て行くシンジの背に、
「今晩行くから…に、逃げちゃだめよ」
「盛装してお待ちしてます」
 シンジの姿が消えてから、マリューはふふっと満足げに笑った。
 但し――その晩、シンジの部屋にマリューの姿が現れる事はなかった。
 オーブの地図を眺めていたところへ、ミーアから連絡が入ったのだ。
「今夜一晩ラミアス艦長をお借りしますわね。その代わり、キラ様とステラ様を可愛がってあげて下さいな」
 と。
(お断りだ)
 空のベッドをちらりと見やり、シンジが内心で呟いた時ドアがノックされた。
「碇様、宜しいでしょうか」
 機械的な声に、シンジの表情が動いた。
「どうぞ」
 失礼致します、と音もなく滑り込んできたセリオは何も持っていない。
「コーヒーには少し時間が遅くない?」
「いえ、今宵は夜伽に参りました」
「…来栖川からスクラップにしてくれとは頼まれてないぞ」
「あの方は今ご不在です」
 部屋から追い出されたのならともかく、どこかに行くならセリオを付けずに行くことはあるまい。
 珍しい事もあるものだとシンジの表情が微妙に動いた。
「一人で徘徊させて大丈夫かい?」
「宴の最中ですので」
 そこで止めておけばよかったのだ。
「へえ?」
「肉欲の宴にわたくしは不要ですから」
 それを耳にした途端、聞かなければ良かったと激しく後悔した。
 華麗なアンドロイドが表情を持っていれば、さぞかし満足げな表情であったに違いない。
「ま、まあいい。機能停止は出来るんだね?」
「はい」
「じゃ今日は泊めてやる。でも夜伽は要らないぞ」
「かしこまりました」
 
 
 
 
 
「アークエンジェルが進路を変えて南下したと?何故だ」
 上がってきた報告を、ウズミは怪訝な表情で聞いていた。
「残念ながら動機と目的は不明ですが、目下乗組員達は島に上陸しているようです」
 MS隊の奇妙な攻撃も、そしてそれがギリギリの処で阻まれた事も、無論オーブ側では把握していた。
 しかし、アークエンジェルがこの国にやってくるのは先刻承知していたし、中立を宣言しているとはいえ、軍事機密を搭載している艦を放置できないと、既に海軍にも出動命令を出す手筈は整っていたのだ。
「まさかこの距離で、わざわざ島に上陸して物資を探さねばならない事態が起きたわけでもあるまい。入国して機体を引き渡した途端、追い立てられる国とでも見られたのか」
 副艦長が精気を失って深い眠りの底にあるから回復を待っている、などとはさすがのウズミも全く思いが及ばなかった。
「まあよい。日時の約定はないし、今更我が国を素通りしても行くまいて。ホムラには私から話しておく。それにしても妙な迎撃と言い、我が国を目の前にしての休息と言い、あの艦には連邦の常識というものがおよそ当てはまらぬのだな」
「御意」
 その常識外の艦が、ここまで到底追われているとは思えぬ暢気さで悠々と進んできており、あまつさえさしたるダメージも受けずに敵を撃退してきている。
 原因がはっきりしているだけに、羨望と慨嘆のこめられた言葉をコーネリアは複雑な思いで聞いていた。
 アークエンジェルに取っては守護神でも、この国にとっては金神になりかねない存在は、もうじきこの国にやってくるのだ――望むとのぞまざるとにかかわらず、だ。
「コーネリア」
「は、はいっ?」
「案ずるな。金神とて、その方位を侵さねば災いをもたらしはすまい。あの艦(ふね)のクルーに出来て、我らに出来ぬ事はなかろう。それより引き取りには重々留意せよ。特にMSよりもステラ・ルーシェには最大の注意を払え」
「仰せの通りに。しかしウズミ様」
「どうした」
「確実ではありませんが、先の戦闘でガイアは出撃したものと思われます。パイロットはアークエンジェルのクルーでしょうか」
「違うな」
 ウズミは即座に否定した。
「ステラ以外の者を乗せるとは思えぬ。例え、出撃させるだけであっても、他の者を乗せはすまい。あくまでも私の勘だがな」
 分かっている、というふうにウズミは手を上げた。
「だから言ったのだ――あの艦には常識が通用せぬ、と」
 金神、とは陰陽道に見られる凶神でその方位を侵せば家族七人が殺され、人数が足りなければ隣家の者も人数合わせに引き出されるとされる。ならば方位を侵さなければ済む話だが、この大凶神はそれでは済まない。
 隋の時代に大陸から伝わったと言われる「銀玉鳥兎集」によれば、年によって金神は移動し、前年は安全とされた方位すら金神の居場所と化し、嬉々として贄を要求するのだという。
 この世界に於いて、かつて日本の植民地であったオーブにその口伝が残ったとしてもさして不思議ではないが、ウズミは一つ間違っていた。
 異世界人を動かしたのは金でも物品でも――無論女でもなかったのだ。
 だが、アークエンジェルにステラがいながら、何故コーネリアはステラ以外を乗せたと考えたのか。
 そしてウズミが口にした常識、とは?
 
 
 
 
  
 シンジは一人、ブリッジにいた。
 艦長席を占領し、モニターを眺めたまま微動だにしない。
 他のクルー達は休息命令が出ているから、上陸したり部屋に籠もったりと思い思いに過ごしている。
「ちょっと死んでるから、あとお願いね」
 手短で意味不明な連絡があったから、マリューが出て来ないのは分かっている。
 首を突っ込みたくないので機能停止しておいたセリオを再起動して偵察に出したら、綾香とレコアもダウンしていると伝えてきた。
「心身ともに疲れておられるように見えましたが、綾香様のあの表情は夜中にお一人でみ――」
 言いかけたアンドロイドの口を塞ぎ、部屋へ追い返してある。
「まったくあのエロコーディネーターめ、戦艦を何だと思ってるんだ」
 ぼやいた処へ、
「スパイらしくエロの巣窟にしようかな、と」
 後ろから聞こえた妙に愉しげな声にシンジの眉が寄る。
 縛り上げた上でその辺に吊してやろうかとシンジが振り向くと、ミーアは一番後ろにおり、そのミーアにややもじもじしながら背中を押されているキラとステラがいた。
「あん?」
 ミーアの格好はTシャツにジーンズ、ブラはスポーツブラなのか乳首が浮き上がっている。こっちはまだいいとして、キラとステラは上半身をほぼ覆うポンチョを羽織り、下は素足にサンダルという奇妙な格好であった。
 腕はポンチョに隠れて見えない。
 屋根を見上げたら、月見をしている金星人を見つけたような表情で二人を眺め、
「甲板に吊したらさぞ効果がありそうだが、ここ数日は快晴と聞いている。ミーアの依頼かい?」
 その言葉を聞いた途端みるみる二人の表情が強張っていき、
「ち、違うんですっ、お、怒らせるつもりじゃっ」「ご、ごめんなさいっ」
 泣き出しそうな顔が身を翻したが、走り出す寸前で、
「誰が怒るの?」
「『え?』」
 そっと振り向いた表情はまだ硬い。
「で、でもいま吊すって…」
 ここに至って漸くシンジは二人の行動を理解した。
 ぽむっと手を打ち、
「お仕置きで吊すわけではないよ。ここでの風習にはなかったか、ごめんね」
 幼い頃メイドにその存在を教えられ、長じてはくるむ中身次第で全く別物にも変ずると悪の親玉に知らされたが、吊す事で翌日の天候を左右する白い人形の風習を知らなければ、少女達が不安にかられるのも無理はないと笑顔を見せて二人を手招いた。
「で、その下はなに?」
「下乳と白い背中がお題ですわ」
 シンジの反応に、これは少しエロに走りすぎたかと見物人と化していたミーアだが、文化の違いらしいとみて、またカサカサと前に出て来た。すっと挙がった手が動いた瞬間、少女達の口から、あっと小さな声がもれた。
 何らかの細工でもしていたのか、二人のポンチョは一瞬で足下に落ち――その中に着ていた水着を見た時、シンジは二人の足下の装備が意味するところを理解した。
「そうか、水着にサンダルか」
「ええ」
 笑ったミーアは、何故か得意げである。
 ステラは黒のビキニで、ボトムの切れ込みは普通だがトップはサイズが合わないのかあえてそういう造りなのか、乳房の下が三分の一近くはみだしている。
「谷間よりこっちの方がやらしーでしょぉ?」
 背後から舌足らずな声で囁かれ真っ赤になったステラだが、それでも胸を隠すこともなく視線はシンジに向いている。
「お、おかしく…ないですか?」
「そんな事はない。そこそこ似合ってる」
「は、はい…」
 どう受け止めていいものか、微妙な表情で立ち尽くしているステラに、
「水着本来の役目を果たすには無理がある、後ろの変態が奨めた水着を賞賛されて嬉しい?」
「後ろの変態、とは?」
 すぐ後ろにいるミーアの周辺が、すうっと気温が下がっていくのに気付き、ステラは慌てて振り向いた。
「だ、大丈夫よミーア。わ、私は気にしてないしミーアが私の為に選んでくれたの分かってるからっ」
 乙女が懸命にフォローに回っているというのに、無責任な異世界人の視線はもうそこにはなかった。
「白い背、とはヤマト?」
「はいです」
 キラの水着は白いワンピース、全面はハイレグでもなく胸元の切れ込みも控えめだが、くるりと後ろを向いた時、ほほうとシンジは呟いた。
 前とは対照的に背中側の布地は極めて少なく、肩胛骨から尻のすぐ上辺りまでキラの白い肌を大胆に露出させていた。
「ど、どう…ですか?」
 勢いよく後ろを向いたキラだが、やはり恥ずかしいのかシンジの顔は見ずに訊いた。
「どこかで見た」
「え?」
 天候を判断することには長けていても、場の空気を察することには興味を示さない性質だけにぶちこわす台詞を吐くかと思われたが、
「競泳選手が着ているのを見たことがある。速く泳げそうな水着だね。よく出来ました」
 もとより、女として意識されていないのは分かっているだけに、これで十分だと満足げな表情で振り返ったキラだが、そのまま硬直した。
 ステラは恨、ミーアは殺の字を双眸に浮かべてじーっとシンジを眺めていたのだ。
 無論シンジが意に介する筈もなく、
「なに?」
 手習いしている処へ名前を呼ばれた大店の若旦那の如き風情で訊いた。
「…さすがに非道くありません?」
「非道い?」
 三人の顔をゆっくりと見回して頷いた。
「そうだね、先ず賞賛されるべきは制作者だった」
 にゅう、とシンジの手が伸びてミーアを抱き寄せる。
 普段のミーアなら手が触れる前に飛び退いたろう。
 いや、それ以前にわざわざ地雷原に足を踏み入れるような事はしなかった筈だ。
 顎に掛かった手が、くいと顔を上向かせたと次の瞬間、シンジの唇がミーアの首筋に吸い付いていた。
 頬でも額でも――唇でもなく首筋へのキスなど映画の中でしか知らぬ二人は、初めて見る光景にうっすらと顔を赤らめて見入っていた。
 がしかし。
 小さく開いたミーアの唇から僅かに甘い吐息が漏れた、かに見えたのも束の間で、ミーアの様子がおかしいのに気付いた。
 きつく握られていた手が開き、だらりと垂れ下がったのだ。
 喉元に口づけされているだけで身体が弛緩していく様は、快楽などとは違う異様なものに見えた。
 固唾を呑んで見守っていた二人だが、ミーアの様子が尋常ではないと声を掛けようとした時、すっとシンジの顔が離れた。ぽい、と放り出されたミーアを慌てて支えると完全に身体は弛緩しきっており意識もない。
 未だ男を知らぬ二人も、ミーアの異常な状態が明らかに性的絶頂などとは違うものだと本能で感じ取っていた。
 シンジの表情は微塵も変わらず、
「制作者への褒章は完了した。次は作品を愛でなくては」
 ガクガクガタガタブルブル。
「ヤマト、おいで」
「い、いえっ、わわっ、私はもう十分ですっ。も、もういいですからっ!」
「ではステラ。もう十分とは言うまい?」
 シンジの言うとおり、キラはともかくステラはつい最前までキラだけストレートに褒めたシンジを恨みがましく見つめていたのだ。
 墓穴を掘った我が身を呪いながら、ステラの双眸が刹那宙を泳ぐ。
 程なく、うっすらと笑った。
「今はいいです」
「今は?」
「オーブに着いたらちゅーしてもらいますから…お、おっぱいにっ」
「それは重畳」
「…え?」
 とてつもなく嫌な予感に囚われ聞き返したステラに、
「胸から吸うのはまだ試したことがなかった。持ち主の許可を得て堂々と試せるとは運のいいことだ」
 これが童貞の台詞ならまだしも、シンジに限っては吸われるものがまともである筈がない。
 胸を、ではなく、胸から一体何を吸おうと言うのか。
 真顔で頷いたシンジを見て、更に墓穴が拡大したかとステラの背筋を冷たいものが流れたが今更冗談だとは言えない。
 何しろ、今この場を乗り切らなければミーア状態二号は確実に自分なのだ。
「今は不要と言うなら押し付けるのも厚かましい話だ。じゃあ、こうしましょう。折角水着を着たことだし、甲板で日干ししているといい」
「『はい…』」
 なぜ甲板で日干ししろなどと言い出したのか、二人とも怪訝な表情で頷いたが、
「後でオイル塗りにお邪魔します。多分ミーアの部屋をあされば出てくる筈だ。さ、悪いがそれを運んでいってくれるかな」
「『了解!』」
 嬉しそうに敬礼してミーアを担いでいく二人を見送っていたシンジだが、窓の外に視線を向けた時、その顔から表情は消えており、
「ずっと観察されるのは好まない」
 抑揚のない声のつぶやきは、誰に向けられたものだったのか。
 
 
 
 乙女達が全身にオイルを塗り込まれて満足してから二日後の夜、マリューはシンジに呼び出されていた。
 ベッドには未だ目覚めぬナタルが昏々と眠っている。
 深い昏睡状態にある他は、体調面に異常はないとレコアから報告が上がっているが、この状態からどう目覚めるのか、マリューにも想像は付かなかった。
 信頼と理解は必ずしも一体であるとは限らないのだ。
(……)
 何か言いたかったが、言葉が出て来ない。
 無表情に見下ろしているシンジに、声が掛けられなかったのだ。
 パキッ。
 一つ指を鳴らすと、シンジはくるりと身を翻した。
「時間です」
 ナタルが身動ぎしたのは、シンジが出て行ってからきっかり二分後であった。
  
 
 
 
 
(第九十二話 了)

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