妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
ドクトルシビウの闇カルテ:ツェザーレ
 
 
 
第八十五話:友人の友人が所有物でテイクアウト
 
 
 
 
 
 治癒術は自分の専売特許であり、この世界で他人が使うときは特許料を払ってもらおうと考えていたシンジだが、ミーア・キャンベルのキスがどう効いたものか一晩で熱は下がっていた。
 但し、通常の風邪とは違い熱はあくまで付属に過ぎず、本質は急激に乱費された精の回復にある。巨乳美少女の口づけもそこまでは補えなかったのは、シンジにとってはある意味幸運であった。
 この世界の住人の口づけ一つで体調が全快した日には、その存在意義が根底から覆りかねない。
 とまれ、自分を心配して来た二人に声しか聞かせないと余計心配しそうだと、どこか芯の抜けたような身体を起こし、シンジはドアへと向かった。
「おはよう」
「『お、おはようございますっ』」
 出てくるとは思わなかったのか、驚かされたハムスターのようにキラとステラの瞳が丸くなる。
「あの、本当に大丈夫…ですか?」
「大丈夫だよ。放っておけば充当されるから」
(充当?)
 エネルギーみたい、と思ったが二人とも口にはしなかった。思い人が自分達の思考を遙かに超えた存在である事はとっくに理解している。
「ヤマト」
「はい」
「俺が使い物にならならと、一人で出てもらう事になる。機体の整備は大丈夫?」
「はいっ、いつでも出られますっ」
 弾けるような声で応じたキラの頭にシンジの手が伸びて、くしゃくしゃとかき回す。
「それは何よりだ」
 くすぐったいような表情で頭を撫でられているキラを見たステラが、
「お、お兄ちゃん、ガイアも出られますっ」
(ステラ?)
 私もなでなでして、と全身全霊での訴えに気づく程度には、シンジも鈍くはない。
 但し、
「でもステラは無理禁止だよ」
 と、釘をさしておく事は忘れない。
「え?」
「この艦は現在オーブに向かっている。ストライクとオーブは関係ないが、オーブ入国の折、人間しかいなくては大手を振って入れまい?」
(むう〜)
 シンジの言葉に、頭を撫でられて満足げだった二人の表情が微妙なものになった。キラは無論、自分はどうでもいいのかという思いだし、ステラの方は腫れ物に触るような扱いはされたくなかったのだ。
 ザフトの連中が諦めて、このままオーブまで入れるなどとステラは考えていない。総力戦になった時、オーブ到着後の事を考えてガイアを出さず、万一の事でもあったら一生悔やみきれないのは言うまでもない。
 オーブに行くのはガイアを返すためだから、と理屈では分かっているが、ガイアを出さなければ当然ストライクが出ることになり、そこに乗るのがシンジ一人ではない事を思うと、どうしても素直に頷くことは出来なかったのだ。
 分かってるけど嫌だ、と言えるような性格をステラはしていない。また、ここで駄々をこねるような性分なら、シンジはとっくに縛り上げて倉庫辺りのオブジェにせざるをえなかったろう。
「それでいい。オーブまでは俺とヤマトでこの艦を護衛していくから」
(え?)
 よく考えれば、ストライクが出るならシンジも『搭載』だと、キラの表情が緩んでいく。シンジさんと一緒ですねっ、とかキラが口走る前に、
「ところでお兄ちゃん、この物体は?」
 吊り下げられたまま、起きる気配のないフレイにちらりと一瞥を向けた。
「昨晩、酒瓶持参での来訪だったので吊しておいたのだが、まだ起きないらしい」
「ふうん」
 やはりレコアの言った通り、純粋な看病を希望しての張り紙ではなかったらしいと、ステラは内心で安堵した。嫌がらせだろう、とは聞いたが、シンジから直接聞かないと不安が残る。
「そろそろ塩水に漬けてみますか、お兄ちゃん?」
「人口調味料を一切含まない栄養豊富な塩漬けになる、かは微妙だな」
(塩水?塩漬け?)
 話の流れが分からず、キラが眼をぱちくりさせている処へ、
「碇さん、すみませんっ!」
 脱兎の如き勢いでサイがすっ飛んできた。
「やあ、アーガイル。予想より早かったな。塩茹でになる頃にくるかと思っていたが」
 笑ったシンジの言葉で、どうやら塩漬けはフレイの事らしいとキラも気がついたが、会話の流れは以前掴めず、可愛らしく小首を傾げている。
(でもどうして塩漬けなの?食べるの?)
「さっき食堂へ行こうとして、途中で教えられました。すみません、うちのバカがほんとにすみません」
 平謝りするサイに、ステラがフレイへのそれと同じ視線を向け、
「あなたがこれを唆したの?」
「お、俺がそんな事する筈ないだろっ!俺はフレイに、碇さんが呼んでるから行けって言っただけだ!」
「その結果がこの有様、ね」
「そ、それは…」
「つまり馬鹿は死ななきゃ治らない、って事で結論が出たみたいね」
 サイの後ろから、危険な冷たさを秘めた妙に楽しそうな声がしたが、誰も振り向かない。セリオを連れた綾香だなどとは、見ずともわかりきっている。
「碇、もういいでしょ?甘やかすだけが道じゃないし、オーブに着いたらちゃんと辻褄は合わせるわよ――この来栖川綾香の名に於いて、ね」
 艦内に居ても役に立たず、シンジを中心に団結しているメンバーの中で一人――若者達の中では随一異色の存在――皆と馴染まない存在など消してしまえと言っているのだ。
 綾香のそれはただの煽りなどではなく、シンジが一つ頷けば、綾香は躊躇いなくフレイを殺すだろう。それも、海に放り込んだりなどせず自分の手で、だ。口先だけで粋がるよりはましだが、視点を変えればこの上ない要注意人物である。
「セリオ」
「はい」
「降ろして」
「承知しました」
 セリオがひょいとフレイを持ち上げ、軽々と抱き下ろした。この後どうするのか、というように無機質な視線を向ける。
「アーガイル、お持ち帰りだ」
「え?」
 サイは前に一度、フレイを庇って綾香の一撃を受けた事がある。その綾香の剣呑な台詞を別段制しようともしないシンジに、フレイの命運もこれまでかと青くなりかけていたのだが、予想外の台詞に眼を白黒させている。
「フレイが迷惑を――と言ったらフレイは処分していたよ。後始末は来栖川の一族に押しつければ済むことだ。だがアーガイルは、うちのバカがと言った。俺の友人の友人ならいざ知らず、俺の友人の所有物を勝手に処分するわけにはいくまい。ドクターのご意見は?」
 シンジの台詞に、皆の視線が一斉に後ろを向くと、そこには白衣姿のレコアが立っていた。
「別にそうでもないけどね」
(あ、冷たい)
 あっさり突き放したが、
「それが生き方なら、そうなさい。特に、自分の生死よりも生き方を優先するような困ったちゃんなら尚更、ね」
 フォローされてるのか煽られてるのか、レコアの口調と表情からは何も伺えなかったが、
「検屍か応急処置が必要かと思ったけれど、今のところは大丈夫みたいね。後で医務室に連れてきなさい。一晩吊されたなら一応検査するから」
「わ、分かりました」
 白衣を翻してレコアが去った後、
「ドクターもああ言っておられる。アーガイル、持って行くがいい」
「…すみません、碇さん…」
 未だ目覚めぬフレイを背負い、少し蹌踉めきながら去っていくサイの背中を見送り、
「昨日からずっとあの状態みたいだけど、大丈夫なんですか?」
 まだ事態を掴みきれていないキラが訊いた。
「その為にレコアがいる。レコアなら十秒で起こしてくれるよ。それよりヤマトとステラ、朝食は?」
「あ、未だです。良かったら碇さんも一緒に行きませんか?」
「もう少し休んでからにするよ、ありがとう。二人で行っておいで」
「で、でも…」
 好意は有り難いが、熱が下がっても、まだ本調子には程遠いと自分が一番分かっている。
 かと言って事実を告げると余計に心配しそうだと、ちらりと綾香を見ると、綾香はひとつ肩を竦め、
「セリオ、食事に行くからそこのも連れてきて」
「はい」
 キラをふわっと抱き上げて小脇に担ぎ、
「キラ様、参りましょう」
 さっさと歩き出した綾香の後に続いて歩き出した。
「ちょ、ちょっと待って降ろして、私は荷物じゃな…あーっ!」
「さて、もう少し寝…あ」
 まだステラが残っていた。
「お兄ちゃん…まだ全然治ってないんじゃ…」
「レコアに診せたら大丈夫、っていう位になってるよ。さっき、手は熱くなかったでしょ」
「う、うん…」
 さっきの事を思い出したのか、ステラの頬がほんのりと赤くなる。
「後は、通常の医療技術の及ぶ範囲じゃない。そもそも生き物の種別が違うからね。気持ちは嬉しいがあまり気にしないで。いいね?」
「はい」
「いい子だ。さ、ステラも食事してくるといい」
 頷いてとことこと歩き出したステラの足が、数歩進んだところで止まった。
(ん?)
 早足で戻ってきてシンジの前に立ったかと思うと、不意につま先立ちで背伸びし――シンジの頬でちうと音がした。
「は、早く良くなってねっ」
 ぱたぱたと走っていくステラの姿が消えた後、シンジは頬に手を当てた。
「そうか、そういう触診があったか。熱が下がっていて助かった」
 艦内の娘達に聞かれたら、間違いなく逆さに吊されて四方八方からモップの柄で突かれそうな台詞を呟いた。
  
 
 
 
 
「隊長、いくらなんでも無茶です」
「胃薬と頭痛薬と解熱剤、それに栄養ドリンクが1ダースだ。これで文句はあるまい」
 格納庫へやや青白い顔色で現れたモラシムは、治るまで二日、最低でも一日は絶対安静の容態だと軍医から告げられている。早い話が大人しくしていろ、と言うお告げなのに寝間着どころか緑色のパイロットスーツに身を包んでやってきたのだ。
 無論、整備兵達は制止したが、投薬の物療作戦で補ったと一蹴し、モラシムは豪放に笑った。
「そうそう、咳止めと鼻炎薬も混ぜ合わせたからな、これで半日はスーパーモードだ」
「ス、スーパーモード?」
 奇怪な事を言い出した隊長に、兵士達は顔を見合わせた。
「1upでもいいぞ」
 益々分からない。
「まあいい、とにかく俺は出る。退治する時が延びるとその分だけやばい奴だと、俺の勘が告げてるんだ。今まで、俺の勘が外れたことはなかったろうが」
「『は…はっ、お気をつけて』」
 俺の勘、を根拠にされてはもう、兵達に止める術はなかった。
 だが、彼らは知らなかった。
 モラシムが口にした妙な単語は、熱に魘されたり、或いは危険な調合薬を服んだせいで思考回路の一部に乱れが生じた為ではなく――嘗て血のバレンタインと呼ばれた日、コロニーに打ち込まれた核に散った愛息に買い与え、一緒になって遊んだゲームソフトに出てくるキーワードである事を。
 ナチュラルへの憎しみは、モラシムにとって危険な原動力となっており、ザフトのカーペンタリア基地建造の際、ジェーン・ヒューストンが所属する海軍の駆逐艦をまとめて撃沈した事もあり、出撃も由無しの自信過剰なものではなかったのだ。
 そのモラシムにとって、まともな交戦無しに――敵艦を発見したかすら分からず――部下を失ってなお、熱を発して寝込んでいる事はプライドが許さなかったのだ。
「やつを発見次第データを送る。俺からの連絡を待って、グーンを発進させろ。いいな」
「はっ」
 水中の機体はモラシム操るゾノ一機だが、まだグーンは残っており、水中用の機体を持たない宇宙艦を海空から挟撃する事は出来る。こちらの土俵に向こうが降りられない戦闘など、設定しようと思ってもそうそう発生しないのだ。
「じゃ、行ってくるわ」
 ストライク、ガイアの両機をも上回る20メートル超の巨体が海中に躍り出た後、モラシムは海中から解熱剤の瓶を取り出し、数錠まとめて口に放り込んだ。ペットボトルの水を一気に飲むと、苦い錠剤が水と共に食道を滑り落ちていく。
「お薬飲んだら運転しちゃ駄目、ってお前はよく言っていたよな。これが…最初で最後だから見逃してくれ、悪いな」
 薬には微妙ながら睡眠誘導剤の副作用がある為、軍でもその種の薬を飲んだ時は機体の操縦を禁止されており、無論モラシムもそんな事は百も承知している。
 その左上腕に注射針の跡が数個ついている事は、艦内の誰も知らないのだった。
 
 
 
 
 
「あたし…なんでサイにおんぶされてたのぅ?」
 泥酔して押しかけて、吊し上げで済むとはシンジ君も相当弱っていたみたいね、と何故か楽しそうに笑ったレコアだが、シンジが言った通り、何やら怪しい薬をガーゼに含ませ、フレイの鼻に押しつけるとフレイはすぐに目を開けた。
 用は済んだから持って帰れ、と放逐され、再度背負って部屋まで戻ってきたのだが、放っておくと危険な――周囲に及ぼしそうな――気がして、目下額に濡れタオルを載せて膝枕しているところだ。
「酔っぱらいを回収してきたんだよ。お前、もう少しで塩漬けになるところだったんだぞ」
「しお…づけ…?」
「そう、塩漬け」
「なんで?」
「どうしてもだ。つーかフレイ、もう少しうまくやっていけないのか?前はそんな性格じゃなかっただろ」
「……」
 サイの言葉を聞いた途端、フレイの視線が変わった。とろん、と蕩けたような眼でサイを見上げていたのがみるみるうちに据わっていく。
「あたしのパパはコーディネーターに殺されたのよ。そしてそのパパを見殺しにしたのは異世界人とコーディネーターよ。サイ、あたし達がなにと戦ってるか忘れたんじゃないでしょうね」
「忘れた」
 フレイの顔が怒りであっという間に染まり、
「コーディネーターよ!宇宙(そら)の化け物よっ!あんなや――」
 怒りに任せて勢いよく起き上がろうとするフレイの肩を、サイがそっと押さえてまた横にならせ、
「今度同じ事を言ったら俺が許さない。確かにフレイの親父さんは不幸だったが、あの時碇さんもキラも、遊んでなんかいなかったんだ。なにより…この艦に異世界人もコーディネーターも居なかったら、こんなに余裕持って来られたと思ってるのか?」
「なによ…なによなによっ!サイも結局あいつらの味方なんじゃないっ!!」
 女のヒステリーに理屈は通用しない。シンジなら一瞥で押さえ込めるような気もするが、自分には無理だとサイには分かっていた。
 かと言ってひっぱたくのも、現時点では間違いなく炎上する家に投げ込まれる満タンのガソリン缶に等しい。
 刹那逡巡した結果、サイの取った行動はフレイの首に腕を回す事であった。絞められる、と思ったのか一瞬フレイは身を固くしたが、その直後サイの顔が近づき、あっという間にフレイの唇は塞がれていた。
(サ、サイ!?)
 反射的に突き放そうとした手に、それ以上力のこもる事は遂に無く、フレイもまたゆっくりとサイに抱きついていった。
 二人の唇が離れると、サイを見るフレイの眼は女のものに戻っていた。
「もう…キスで口封じなんて…サイってばやらしーんだから…」
「ご、ごめん…俺、これしか思いつかなくて…」
 通常モードに戻ったサイが離れようとしたが、フレイの腕はサイの首に巻き付いたまま離れない。
「あんなえっちなキスしておいて、これでもう終わり?あたし…」
 サイの耳元に口を寄せ、
「濡れて来ちゃった。責任取ってよねっ」
 熱い吐息と共に早口で囁いた。
「フ、フレイ…」
 肢体におよそ欠点を見つける事が出来ず、その視線だけで男女を問わず狂わせる程、危険に美しい妖艶な魔女医に魅入られた若者なら、何の感慨も持たなかったろうが、今のサイには未だ熱を帯びた肢体の内に秘めたものを見抜く術はなかった。
 ごくりと生唾を飲み込む音を確認すると、ゆっくりとフレイはサイの首に巻き付けた腕を解いた。
「ねえ…サイが脱がして?」
「う、うん…」
 僅かに震える手がフレイの胸元に伸びた直後、艦内に警報が鳴り響いた。
「総員、第一戦闘配備!」
 第二ボタンを外す寸前でサイの手が止まり、
「ごめん、行かないと」
「あん、もう折角いいとこなのに…それにブリッジには人が足りてるんでしょ?ね、サイ続きしよっ」
「本当に足りてるなら、俺らはブリッジになんてそもそも入れないよ。じゃ、俺は行くから大人しくしててよ」
 んもーっ、と可愛く口を尖らせたがフレイだが、それ以上は引き留めず、
「いいわ、じゃ待ってるから。あいつらなんて…一匹残らず殺しちゃってよね。あたし…待ってるから」
(フレイ…)
 その表情が昏いものに変わっていれば、サイの反応も違ったろう。
 だが笑顔のまま、濡れたような瞳で見上げるその口から出る言葉に、サイは返す言葉が見つからなかった。
「じゃあ…行ってくるから」
「うんっ」
 サイの姿が扉の向こうに消えた途端、恋人を見送る乙女の眼差しは消え失せ、フレイの双眸が凄絶な色を帯びた。
「そうよ…あいつらなんて…みんな、みんな死んじゃえばいいんだわ」
 地獄の亡者も裸足で逃げ出しそうな声で呟くと、服を脱ぎ捨て下着姿でベッドへ潜り込んだ。
 
 
 
「ゾノ?」
「そう、ザフトの水中用主力MS。ミサイルの発射口も多いし、戦闘能力はグーンとは比較にならないわヨ」
「ふーん」
 サイがフレイに釣られたり戸惑ったりしている頃、艦橋では既にゾノの接近を感知していた。
 居合わせたアイシャに機体の講義を受けていたのだが、
「海中を進んでくるって事は魚雷よね。レーダーに反応は?」
「ありません」
「って言ってるんだけど、アイシャ?」
「有効射程外なのよ。それに、おそらく向こうはまだこちらに気付いていないわ」
「え?」
 アイシャの言葉に、マリューのみならず居合わせた面々がアイシャに怪訝な表情を向けた。
「宇宙ではどうか分からないけど、今のこの艦は確実に有効策的範囲が伸びてるわ。積んでるでしょ、人間レーダーを。ね?」
「あ、そっか」
 ぽむっ、と手を打ったのはフォンヌ・ウォークレイだが、すぐに手を引っ込めた。
 マリューの表情に気付いたのである。
 シンジが未だ復調していない事を、無論マリューは知っている。シンジが自ら選んだ事ではあるが、好都合だと押しつけられる性格をマリューはしていなかった。
 けほん、と一つ咳払いして、
「え、えーと艦長。これ以上負担掛けない為にもさっさと迎撃用意します?」
「そうね…バジルール中尉!」
「はっ、はい」
「有視界距離までやって来てから、ビーム攻撃する程間抜けじゃないでしょ。魚雷か何か撃ってくる筈だから、航跡から敵母艦の位置を予測して。出来る?」
「お任せを」
「これより本艦は戦闘態勢に入る。ゴッドフリート、バリアント起動。敵が余程の自信過剰でなければ、水中の機体は偵察か陽動で空からも来るはずよ。コリントス、ウォンバットを全門装填、艦内に第一戦闘配備の通達を!」
「『はいっ!』」
「じゃ、ラミアス艦長。私はこれで」
 す、とアイシャが一礼した。マリューとは名前で呼び合う仲になってはいるが、人前でそんな事をしない位にはアイシャも弁えている。
 何時でも何処でも、姉御だのマリューだのと呼ぶのは、軍事行動に散々参加しながら軍籍を持つ事を頑なに拒む異世界人位のものだ。
「アイシャ、カガリを頼むわね」
「了解しました」
 一礼したアイシャの姿が消えた直後、艦内に警報が鳴り響いた。
 
 
 
「あ、目が覚めた」
 いくらシンジが寝込んでいるとはいえ、艦内が戦闘態勢に移行する警報を、シンジの居室だけ外して流すわけにはいかず、シンジの部屋にも警報は十分な音量で聞こえていた。元より眠りは浅く、むくっと起き上がると窓の外に広がる大海原を眺めていたところへ扉がノックされた。
「おっぱいの大きい人と小さい人とどっち?」
「それなりにおっきい方よ」
 訊く方も訊く方だが、即座に答える方も答える方だ。
「じゃ、入って」
 扉の外にいたのはカガリを伴った――頬を赤らめた――アイシャだったが、カガリを廊下に残し、アイシャ一人が室内に音もなく滑り込んできた。
「大人の勉強のお時間だった?」
「乳不足なのよ」
「了解した。で、出る?」
「ええ…行ってくるわ。と行ってもカガリのお守(も)りだけど、ね」
 そう言って、アイシャはじっとシンジを見つめた。
 無論、シンジとアイシャは男女の関係などではないし、情念を込めて別れの挨拶に来たわけではあるまい。
 地球軍ではないカガリと、ついこの間までザフト所属だったアイシャに、二機しかないスカイグラスパーの一機を預け、あまつさえザフトとの戦闘の出撃させる事を首に賭けて請け負ったのはシンジなのだ。
 だからこそ、本当に良いのかと今一度、シンジの意志を確認に来たのだろう。ただでさえ、この艦は現在黒瓜堂を名乗る異世界人に乗っ取られた事になっており、その映像はオーブに送られている。
 仮名はともかく、カガリを乗せた機体が消息を絶つような事でもあれば、オーブ入港の折、指弾は全てシンジが一身に受ける事になろう。この艦内のようにいくとは限らないのだ。
「気をつけてね」
 シンジはそれだけ言うと、軽くひらひらと手を振った。
 アイシャの思いは言葉などなくとも伝わってくるし、全て承知でマリューを説き伏せアイシャに託したのだ。
「ええ」
 自らの思いが伝わったのなら、これ以上の念押しは非礼にあたるとアイシャも頷いてくるりと背を向けた。
「アイシャ」
 その足が扉にかかる寸前、不意にシンジが呼び止めた。
「なに?」
 半身を起こした状態でアイシャを手招きし、側までやってきたアイシャを更に手招きする。耳打ちでもするのかと寄せた顔を、そっとシンジは両手で挟み込んだ。
(あ…)
 察したアイシャも軽く目を閉じ、小さく唇を突き出す。二人の顔が近づき、陽光の下で影はひとつに重なった。
 間もなく影が離れた時、シンジの上体は僅かによろめいた。
「勝手にキスしておいてふらつくとは、失礼な奴アル」
 妙なアクセントに自分で笑ったシンジだが、アイシャはにこりともせず、それどころかむしろどこか哀しげな表情でシンジを見た。
「対人戦闘は想定外、とはいえなんせ弱ってるもんであまり役には立たない。気休め程度で悪いけど――」
 アイシャは首を振り、直立不動の姿勢で敬礼した。
「いいえ、ミスター碇の加護、感謝しますわ」
 アイシャの姿が扉の向こうに消えた後、シンジはゆっくりと首を振った。
「えーと…本当に存在の意義しか分からないんだ」
 
 
  
「キラ・ヤマト、ストライク出ます!」「ステラ・ルーシェ、出る」
 ダウンしているシンジに負担は掛けられないと、キラとステラはそれぞれ開口されたフライトデッキで待ち構えていた。
 両機とも、シールドとビームライフル所持のノーマル試用で、あえて特化型は取っていない。海面に顔を出したところを叩く為、攻撃と防御は取り回しの容易さを優先させたのだ。
 来るのは一機と既に分かっているから、浮上したところを撃破するべく、ストライクもガイアもビームライフルを手に海原を見据えていたが、不意に艦体が離水し、一分も経たない内に黒い物体が水中を疾走していった。
「魚雷?キラ、来るわ」
「うん、分かってる」
 直後、前方の海面に緑色のMSがにょきっと顔を出したかと思うと、いきなりミサイルをぶっ放してきた。船体下部にミサイルが当たる前に両機のビームリアフルで迎撃はしたものの、戦果など知らんと言わんばかりに、とっとと海中へその姿を消したゾノを撃つ事は出来なかった。
 直後、二機のスカイグラスパーが艦から飛び出し、空の彼方へ一直線に消えていく。
 基地から飛来したのではなく、潜水母艦がいるとアイシャが言っていたからそれを探しに行ったのだろう。後発の機体にカガリとアイシャが乗っている事に二人は気付いた。
(カガリ様、お気を付けて)
(アイシャさんが操縦した方がいいと思うんだけど。カガリで大丈夫かなあ)
 それぞれにやや異なる思いを胸に、二人はスカイグラスパーを見送った。
 
 
 
 一方海中では、モラシムがあまりの呆気なさと奇妙な察知に首を傾げていた。ここまでは何の問題もなく来たし、艦上からこっちを見つけて狙い撃つなど、水中を自在に操るゾノに取っては児戯に等しい。
 がしかし、こちらの放った魚雷をかわした迄はいいとして、ビームライフルを構えていた二機は明らかにこちらの接近を察知していたのだ。その存在に気付き、間髪入れず撃った魚雷は何とか避けられても、MSが出てきてこちらを待ちかまえるにはあまりにも短時間過ぎる。
「ふむ…」
 厳しい視線でモニター越しに海中を見据え、
「水中用MSの存在を知り、MSを予め出しておいたとか、大方その程度だろう」
 常識外の答えには至らなかった。
 常識を以て測り非常識に破れる――それがここまでザフト軍の歩んだ道であり、モラシム隊もその一端に巻き込まれてはいたのだが、自ら見聞きしていないモラシムに常識を捨てろと言っても出来ぬ話であったろう。
「ま、所詮は宇宙用の期待だ。母艦が沈められるのを眺めているがいい――発射(ファイア)」
 一気に水中を進み、アークエンジェルの背後へ出たゾノがにゅうっと海面に顔を出し、嘲笑うようにフォノンメーザー砲を発射した。
 艦尾の砲門が回転してこちらを向くが、ゾノはさっさと海中に姿を消した。回転範囲の大きい砲門らしいが、ゾノにとってはなんら脅威ではない。
「残ったディンと挟撃すりゃ、あっさり墜ちそうなんだが…あいつらは一体どこへ行ったんだ?」
 あいつら、とは無論連絡もないまま消息を絶った部下達のことだ。
 
 
 
 ある程度予想していたとは言え、こうまで弄ばれるとはさすがに想像していなかった。
 水上の敵ならば、ほぼ距離を問わず迎撃可能なシステムを備えているが、船体下部からの攻撃に対してはバリアントが二門あるだけで、それ以外は砲撃も魚雷攻撃も出来ない。そもそも宇宙艦だから当然ではあるが、このままでは空中から来るであろうMSとの挟撃を待つしかない。
「艦長」
「分かっている。一旦浮上して距離を取り海面へスレッジハマー全門発射後――」
「ラミアス艦長!」
 言いかけたところへ、不意に通信回線が開いた。
 ステラだ。
「何」
「このままじゃ埒があきません。ストライクとガイアは海中へ潜ります」
「潜るだ?ストライクとガイアは――」
「空も飛べないし海中用の機体でもない、そんな事も分からない程バカではない」
 ナタルの言葉を冷ややかに弾き返し、
「艦長、許可していただけますか?」
(……)
 数秒考えてから、マリューは首を縦に振った。
「いいわ、許可します。マードック曹長からバズーカを受け取りなさい。どちらかが牽制して、降りた途端に攻撃されないよう注意して」
「分かりました。ありがとうございます」
 回線が閉じるとすぐに、マリューは格納庫を呼び出した。
「こちらマードック。お呼びで?」
「ガイアとストライクが海に降りる。頼んだわよ」
「え…は、はっ」
(艦長?)
 操舵席のノイマンは内心で首を傾げた。
 マリューの口調が僅かながら硬いような気がしたのだ。そもそも、念を押すような事でもないのに何故わざわざマードックを呼び出したのか。
 一方のマードックも格納庫で首を捻っていた。
「なんでそんな事でわざわざ…!そうか、そう言う事か」
 厳しい表情になった直後、ストライクから通信回線が開いた。
「マードックさん」
「何だ?」
「海に降ります。バズーカを用意して下さい」
「分かった、取りに来い」
「了解」
 回線が切れた直後、マードックは険しい表情で呟いた。
「艦長…これで良かったんですかい」
 と。
 
「来栖川よ、なに?」
 外の喧噪などお構いなく、来栖川重工の令嬢はロボメイドに淹れさせたコーヒーを飲んでいたが、不意に室内回線で呼び出された。
「優雅な刻を過ごしているようで何よりだ。メイドにロープを持たせて大至急俺の部屋へ。ちょっと緊縛させたいものがある。それと来栖川はヤマトとステラの捕縛を頼む」
「捕縛だの緊縛だのって、うちらはあんたのSMプレイの補助要員じゃないっつーの」
 一方的に回線を切ってから、
「セリオ、行って。くれぐれも、碇に怪我させるんじゃないわよ。いいわね」
「たった今、お断りされたようにお聞きしたのですが…わたくしの気のせいでしょうか」
「いいから」
 承知いたしました、と頷いたセリオが扉の前で振り向き、
「お嬢様、ヤンデレですか?」
「…いいから格納庫に直行しなさい」
「?」
 一瞬セリオの表情が動いたが、すぐに一礼して姿を消した。
「碇も無茶をする。それにしても…ツンデレではないのか」
 綾香は、妙に真面目な顔で呟いた。
 
 
  
「大将…本当にいいんだな」
「大丈夫、何の問題もない」
 横になっていたら、不意に回線が開いてキラが降りると言っているのが流れてきた。
 マードックにしては機転が利くな、と格納庫へやってきたら、マリューに頼むと言われたと聞かされた。
 なるほど、と得心したシンジが、バズーカを用意してと言い出して上の台詞に戻る。
「ヤマトとステラにいきなり初体験させるよりはずっとましだ。それよりマードック、成否は絵師の力量次第だ。整備班の画才に期待する」
「ああ、それは大丈夫だが…だが…」
「俺の仕事はあのガキンチョ共とガイアを無事、オーブまで運んでいく事だ。じゃ、行ってくる」
「分かった。ま、無理だけはするなよ」
 既に来ていたセリオと共に、バズーカを担いで出て行くシンジの後ろ姿を整備班の面々は一斉に敬礼して見送った。飄々として出て行った異世界人だが、完調には程遠い状態だと見抜け程節穴ではなかったのだ。
「綾香には俺の部屋、と言った記憶があるがなんでここにいるの?」
 並んで歩きながらシンジが訊いた。
「最初はそう言われましたが、格納庫へ行くようにと綾香様のご命令ですから。ここに来られたという事は、綾香様がそう言われる事を予想していたのではなかったのですか?」
「部屋を出てから気付いたんだ。相変わらず頭のいいご主人様だな」
「はい、勿論です」
 誇らしげに胸を張った――ように見えたがその表情に変化は読み取れなかった。
 カタパルトの端へ着くと、シンジは腰にロープを巻き付けながら、
「飛べる?」
 と訊いた。
「多少でしたら」
「襲ってきた奴がどの辺にいるか見てきてくれない」
「了解しました」
 外へにゅっと顔を出し――すぐに引っ込めた。
「ん?」
「艦尾の砲門に迎撃され、前部を攻撃しているようです」
 それを聞いたシンジの表情がふっと緩む。生身で迎撃に出たシンジを援護するよう、艦橋が判断したと気付いたのだ。
「セリオ、こっちの端持っていてくれる。海に落ちたら引き上げて」
「承知いたしました」
 
 
  
 船体下部からならどこからでも攻撃出来ると思っていたら、後部の砲門が妙に精度を上げて撃ちまくってきた。二門が互いをカバーするように撃ってくるせいで、追い込まれはしないまでも鬱陶しい。いくらゾノが水中では俊敏とは言え、20メートルを超える巨体の潜航を瞬時に出来る程身軽ではない。
「そうかい、そんなに後部が大事なら前からボコってやるよ。カタパルトに魚雷ぶちこまれて、それでもそこに居られるか、見せてもらおう!」
 敵と遭遇する前に浅い海を航行するのは分かるが、水面からの攻撃へろくに対処できないのに、高度を上げもしないのは、上げられない理由があるのだと踏んだモラシムは、機体を急速潜航させ、母艦へ現在地点を告げた。
 水中を疾走する機体はみるみるアークエンジェルの前方へ回り込み、カタパルト下部から海面へと浮上する。
 フォノンメーザー砲の発射ボタンに指をかけた瞬間――その手が止まった。
 バズーカを担いだ人影が見えたような気がしたのだ。
 反射的に機体を潜航させてから、モラシムはパイロットシートで苦笑した。
「まさか…な?」
 いくらナチュラルがバカの集まりでも、このゾノをバズーカ一本で落とせるとは思うまい。
 だいたい、そんなバカに敗れ去ってきたとしたら、ザフトはバカ以下になってしまうではないか。
「バカ以下だったら何になるって言うんだ」
 舌打ちして再浮上すると――そこにはやはりバズーカを構えた男が見えた。
(……)
 無視する事にしてぶっ放すと、そいつはこちらの動きを読んだかのように、発射寸前ひょいと引っ込んだ。
「そうかい…ならこいつはどうよ!」
 ロケット推進式の魚雷は地上での使用も可能になっており、船体に大ダメージを与える事は出来ずとも、二発撃ち込めば奇怪な奴を周囲諸共吹っ飛ばす位は出来る。
 今度は実弾で吹っ飛ばしてくれると、魚雷を叩き込むべく水面に浮上した時、モラシムの双眸がかっと見開かれた。バズーカを構え、カタパルトから見下ろしている男は――確かに笑ったのだ。
 背筋に走る寒気を感じながら、発射ボタンに手を伸ばす寸前、モラシムは男の手が引き金にかかるのを見た。
 直後、どうという事もない弾丸が、直径が十メートル近くもありそうな火柱と形を変えて一直線に迫り来るのを見た時、モラシムはハマーンが臆病ともとれる警告文を寄越した理由と、バルトフェルド隊が文字通り殲滅させられた理由を知った。
「この…悪魔が…」
 放った魚雷を飲み込み、迫り来る巨大な炎の背後で、撃った男が反動から吹っ飛んだのが視界の端に映り、モラシムの口元に僅かな笑みが浮かんだ数秒後、炎に包まれた機体は爆発を起こし、凄まじい勢いで水柱が吹き上がった。
 
 
 
「あ…」
 精を乗せて放った一撃の反動は、シンジにとっては想定の範囲内であった。
 ただ――それを受け止めるシンジの身体が、精の乱費で痛んでいて耐えられなかっただけのことだ。
 目を開けた時、心配そうに覗き込んでいる綾香に、シンジは自分が気を失っていた事を知った。
 失神するとは軟弱な、と笑おうとした瞬間、急激にこみ上げてきた何かを抑えきれずシンジは床に吐いていた。
 真っ赤な鮮血であった。
「シンジっ!」
 血相を変えた綾香がセリオを睨み付けた。
「あれほど言ったのにこの役立たずっ」
 だが、綾香の手がセリオに振り下ろされる事は遂になかった。
 その手をそっと抑え、
「セリオが俺を抱いてくれなかったら、今頃は多分背骨が真っ二つに折れている。ロボメイドが機械仕掛けの身体で、最大限衝撃を吸収してくれたから吐血で済んだんだ。セリオ、礼を言う。ありがとう」
「いいえ」
 セリオは首を振り、
「差し出た真似をした挙げ句、お守りできず申し訳ありませんでした」
「碇、あんたセリオに何させたの?」
「来栖川の読み通り、ロープの端を持っていて、とだけ頼んだ。それしかされなかったらこんなのじゃ済んでないよ」
 ふうーっ、と綾香が大きく息を吐き出した。
「分かったわよ。セリオ、悪かったわね」
「いえ…」
 口元の血を拭いながら、
「悪いけど、タオルを濡らして持ってきてくれる。それと来栖川は、ヤマトとステラに余計な事言わないように」
「余計って、あんたが血を吐いた事?」
「そう、それ」
「何言ってるのよ、今更。さっさと医務室に運んでレコアさんに診てもらわないでどうするのっ!」
「聞き分けのない小娘だな。どうしても言うなら――」
「な、なによっ」
「来栖川が経血まみれの股間を無理矢理嘗めさせた、と艦内に言いふらすぞ。さ、どうする?」
 シンジの言葉に、みるみる綾香の顔が赤くなっていく。
「こっ、この変態がーっ!」
 振り上げた手は、今度はセリオに抑えられた。
「お二人に心配を掛けたくない、と言う以外に何かお考えがあるのでしょう。ここは碇様の言うとおりにされた方がよろしいかと思いますが」
「…分かったわよ。ったく、いい加減にしないとぶっ倒れたって知らないからねっ」
「この世界の医療技術で、何とかなる範疇なら素直にそうしてるよ」
 足下に転がったバズーカを見やり、
「さすがはマードックと愉快な仲間達だ。見事に、不可能を可能にしてのけてくれた」
 想像以上の効果をもたらしたそれは、まだ使えるぞと床上で自己主張していたのである。
「さて、俺は戻るから、悪いがセリオ頼む」
「分かっております」
 片手を上げて歩き出そうとした途端、その身体がぐらりと揺れた。自力で踏みとどまったが、その肩を綾香が素早くおさえ、
「もう、部屋まで運んで行ってあげるわよ。この綾香様にそこまでさせたんだから、感謝しなさいよねっ」
 助かる、と頷いたシンジに、誰も頼んでいない、と切り返す気力は残っていなかった。
 胸元まで朱に染まった服を見られぬよう、シンジを半ば担ぐように綾香が艦内を早足で進んでいく。
 部屋の前まで帰り着き、肩からシンジを降ろした綾香に、
「助かったよ、ありがとう。ところで、さっき珍しい呼称で呼ばれた気がしたが」
「え?あ…あれはその…っ」
 綾香の頬がほんのりと赤くなり、
「き、気のせいよっ。誰かに話したら承知しないんだからねっ!」
「あー、はいはい」
 間もなくやってきたセリオに、濡れたタオルを受け取り、何とか着替えてベッドに倒れ込む。
 
「茶坊主とアイシャの乗った機体だけが未帰投の上、消息を絶った〜?」
 キラとステラが息せき切って駆け込んで来たのは、数時間が経った夕刻の事であった。
 
 
 
 
 
(第八十五話 了)

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