妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
ドクトルシビウの闇カルテ:ツェザーレ
 
 
 
第八十四話:逸失
 
 
 
 
 
 澄み切った青空の彼方へ、爆音と共に次々と輸送機がその姿を消していく。
 僚友機を搭載した輸送機の尾翼を、アスランはソファで足を組んだ姿勢で見送っていた。各機にはそれぞれ機体とパイロットを搭載しているのだが、アスランの機体は最終チェックがまだ終わっておらず、出立まで少々時間が掛かると既に通達があった。
 新隊を結成早々、隊長自らの遅延だがアスランは原因を質しはしなかった。
 面倒だ、と思ったわけでもないが、宇宙での破損はアスラン機が一番激しかっただけに、地上での運用も他機と同時にゴーサインは出せまいと、ひとり納得していたのだ。
 なにせ遅れる原因を問い質した挙げ句、首を落とされた機体だから整備に時間が掛かるんだ、とでも言われた日には、例えそれが捏造であっても一生整備に口出しは出来なくなる。
 既にカーペンタリアでは母艦が手配され、パトリック・ザラが秘かに建造を進めていた新型戦艦も後詰めに加わると分かっている。
 秘かに、とは言え完全に箝口令は敷けなかった筈で、いくら人脈が広いとはいえ、よくそんな物を造ってのけたものだと、アスランは改めて感心していた。存在が知られても問題にさせなかった事もさる事ながら、最高権力者となった事で堂々と就役させる事が可能になったのだ。
 息子の事は道具位にしか思っていない節があるが、外面はかなり良いようだ。いくらパトリックが有能であっても、いきなり独裁者として君臨し、大型軍艦を一隻建造してのける手腕はあるまい。
 但し、宇宙でも地上でも追っ手をまるで意に介さず、悠々と進軍を続ける物騒な不沈艦に対し、ちょろまかしたMS4機と実戦経験のない艦長を要した新造艦を差し向けるというのは、本腰を入れていない証左でもある。無論、戦争に終止符を打つべくスピット・ブレイクも同時進行中なのだから、さして戦力を割くわけにもいかないのはアスランも分かっている。
 そもそも、戦力で圧倒すれば何とかなる相手かどうかは些か疑問があるし、宇宙であれだけ翻弄されたアスラン達にも意地がある。そうそうやられっぱなしにはならないぞと、とりあえず四機で袋叩きにするべく企んでいるところだ。
 宇宙に於ける移動能力に関し、ストライクとイージスに決定的な差はないが、地上でのそれは絶対的な差が存在する。
 飛行能力だ。
 MAに変形すればイージスは空中移動が可能だし、MS形態であってもザフトが誇る大気圏内用の無人輸送機グゥルは、間抜けな地球軍の連中がMSを侮った為、アークエンジェルに搭載のMSは絶対に空を飛べないのだ。
 艦橋上を走り回ったところでたかが知れている。どうにもならない能力差だけは、才能で補えるものではない。
「ん?」
 ピクっとアスランの表情が動く。
 脳裏に何か――何かろくでもない思考が一瞬過ぎった気がしたのだ。
 予感や予知は気にすればする程、現実に影響を及ぼすという。隊長がそんなものを気にしていては士気に関わる。
 アスランは思い切り首を振り、脳裏を過ぎったそいつを追い出す事にした。
 そう――それが黒い影を帯びてひたひたと近づいてきていたとしても、だ。
 
 
 
 
 
「まったく、酷い目にあったわね」
 カルテの端を揃えながら、台詞と一致しない口調でレコアが呟いた。
 久しぶりに海へ来たのだからと、トップレスで陽光を浴びていたらミーアのおもちゃにされた。異世界人のせいでクルー達の乗りが良くなっているとはいえ、男達から名前を連呼されるなど生まれて初めての経験だ。それでも、その表情にも口調にも不機嫌なものが見られないのは、通常なら決してあり得ぬ臨時休暇だからだ。艦内に艦長と正体不明の異世界人を残して、全クルーが海岸で遊んでいたなどと、上層部に知られたら間違いなしに全員軍法会議もので、同僚に話せば間違いなく脳の検査を勧められるだろう。
 或いは、有無を言わさず脳神経外科辺りで受診させられかねない。
 但し、その非常識がここでは常識になることを艦長以下、クルー達は目の当たりにしてきた。身を以て体験した筈の常識が崩れ去り、おとぎ話か夢物語でしか聞かないような事象が目の前で起きれば、いつの間にか常識も再構築されるというものだ。
「さて、待ち受けと甘い時間はうまくいったのかしら、ね」
 白衣に着替えたレコアの口元に僅かに笑みが浮かんだ時、扉がノックされた。複数の、それも尋常ではない叩き方に一瞬レコアの表情が動いたが、銃に手を伸ばすような事はなく、入り口へと歩いていく。
 ブザーが壊れてはいないのに、扉を叩くのは侵入者か或いは緊急の何れかで――レコアの知る限り、艦内でこんな叩き方をするのは目下二人しか該当がない。
「医務室に施錠はしていないわよ。緊急時以外はね」
 扉を開けると、そこに立っていたのは両目に涙を浮かべたキラとステラであり、
「レコアさんっ、お兄ちゃんがっ」「熱を出してっ、それに…それにっ」
 二人が口々に訴える内容も、レコアには大凡想定内であった。先だって、ストライクで宇宙から降ってきた折、降りてきたキラはピンピンしていたがシンジは高熱を発して寝込んだ。
 異世界人の能力について、レコアもその大部分を未だ理解しかねている状況だが、ただでさえ尋常でない能力を更に集中して酷使した時に、身体に負担が来るらしいとは理解している。
 そのシンジが自分だけで十分だと――何故か艦長と二人きりで――MSも艦の武装も使わず敵を待つとクルーを海岸に降ろしたのだ。
 血でも吐いたのならいざ知らず、発熱なら本人も想定していようし、癒し方は本人が一番分かっている筈だ。この世界の治癒術が使えるとは思えない。
(ん?)
 そう言えば発熱以外に何か言っていた、とステラに聞き返すと、シンジの部屋の扉に紙が貼ってあるという。
「一般人立ち入り禁止。特にキラ・ヤマトとステラ・ルーシェは絶対立ち入り禁止」
(あー…はいはい)
 まだ続きがあり、
「ナタル・バジルールとフレイ・アルスターの懸命なる看護を望む」
 と書かれており、これが二人の乙女心に甚大なるダメージを与えたらしい。
「どうしてっ、どうして私達が駄目であの二人なんですかっ!よりによってあんな二人にっ!!」
(えらい言われようね)
 レコアが内心で苦笑したのは、事態とシンジの心中を一瞬で把握して余裕があったからだ。軍事的に正しいかどうかはともかく、立ち入り禁止はシンジにとっての最重要二人だし、看護を希望された二人はその真逆であろう。
「ところで彼が熱を出したって誰に訊いたの?」
「ちょっくら熱を出したって紙に書いてあって、通りかかったフラガ少佐が間違いないって…」
 ふむ、とレコアは頷いた。今日の結果が気になったか休暇の報告に行ったか、シンジの部屋に赴いたのだろう。
 そこで発熱したと聞かされたのだ。
(そう言えば艦長に粘膜感染とかしな…!?)
 無論口には出さず、脳裏を過ぎっただけの妄想は、中途で否応なく断ち切られた。
「『レコアさん!?』」
 奇妙な感覚が、肩口から背骨を辿り腰まで一気に突き抜け、不自然に身体を強張らせたレコアに、二人も怪訝な視線を向けた程であった。
「大丈夫…何でもないわ」
 笑って首を振ってみせたが、その口元はまだ僅かに引き攣っていた。
「私の事はともかく、彼の事なら心配要らないわ。それより、彼に見せたい水着の試着でもしていなさい」
「で、でもレコアさん…」
「熱を出したのは一時的に能力を酷使したからでしょ。ザフトが襲来したと見て間違いないわ。そしてこの艦には寄りつけもしなかった事も、ね。ストライクで地上に降下した時と同じよ」
「あ…」
 レコアの言葉に、その時の事を思い出したのか、キラが僅かに俯いた。
(あーあ)
 これだからあまり言いたくはなかったのよ、とレコアは内心でため息をついた。ミーアや来栖川綾香辺りなら、もう少し上手い事を言いそうな気もするが、生憎咄嗟には思いつかなかった。
「発熱はそれが原因だとして、私達が指名で遠ざけられた理由は?」
 と、俯いたキラに代わってステラが訊いた。
「必要だからよ。普通の風邪とは違うからそうそう伝染りもしないと思うけれど、オーブまでもう少しの今、ストライクとガイアのパイロットにもしもの事があったら困るでしょう。自分の具合が悪い時、大事な人には伝染したくないから、傍に来ないでって言うのと一緒。そーいう事よ」
「『あ…』」
 キラとステラの動きが一瞬止まり、ゆっくりと顔の表情が緩んでいく。
 にぱぁ。
 レコアの耳は確かにその音を捉えていた。抑えきれない程緩みきった表情を隠そうともせず、
「も、もうっ…い、言ってくれればいいのに」「お兄ちゃんも冷たいんだからぁ…」
(直接言ったら遠ざける意味ねーだろ。つーかそんな事言ってくれる性格かどうか、いい加減分かれ)
 決して口には出来ぬ言葉で内心毒づきながら、表情はあくまでも笑みを浮かべたまま、
「指名で看護を希望された二人を、シンジ君がどう評価しているかはあなた達も知っているわね。心配しなくても大丈夫だから、二人は機体の整備をしておきなさい。彼の役割は操縦にはないんだから、どれだけ整備しても過ぎるという事はないわ」
「『はあい』」
 来室した時と一転、嬉々として戻っていく二人を見送りながら、レコアの心は既に自分達の休暇中に挙げられたであろう戦果に向けられていた。
 
 
 
 一方艦橋では、副長のナタル以下、子供達に替わって入ったバーディ達が残されていた映像に、全身を硬直させながら見入っていた。
 既にマリューはシンジが熱を出した事は知っている。その腕に抱かれていた時は気付かなかったのに、と自分を責めるマリューの様子を見ているかのように、
「精を一時的に大量使用した反動だから、心配要らない。それより、敵の親玉が来てくれるかもしれないので油断なきよう」
 と連絡があったのだ。
 元より再度の来襲は想定内だが、一矢報いるどころか敵の居場所さえ掴めず、消息を絶った部下に業を煮やして敵の親玉が一気に襲来する可能性はある。
 勝利が油断を生むのは、古今東西枚挙に遑がない。
 だからこそ勝って兜の緒を締めるべしと先人は教えを残しているのだし、そもそも海は連中の庭なのだ。宇宙での運用を前提に作られたAAとは、運用構想からして違う。
 砂漠の時同様、夜の海をザクザクと進撃して来ても何ら不思議はないし、シンジは現在ダウン状態にある。もし全ての状況を把握していれば、敵が押し寄せるのに今程の好機はない。
 とまれ、シンジとマリューの事情など知らぬクルー達は、眼前に展開される映像に、皆一様に色を失っていた。和いでいた海面が一瞬にして牙をむき、逆巻く大波にのみこまれたMSが為す術もなく木の葉のように弄ばれ、機体同士が激突し、或いは海面に叩きつけられその性能を微塵も発揮することなく文字通り殲滅されていく有様は、異世界人の尋常ならざる能力は何処まで底知れぬのかと、クルー達を心胆寒からしめたのである。
 画面に映し出された映像をそのまま取り込んでいるだけで、何の加工もされていない映像だが、それだけに起きている事象はそのまま伝わってくる。
 ただ、恐怖を覚える程圧巻の映像を造りだした張本人は、目下こちら側についており、その牙が自分達に向けられる可能性はほぼ皆無だが、一人ナタルだけは、やはりあの異世界人は要注意人物だと警戒心を新たにしていた。
 マリューが知れば、いい加減に空気読めばと呆れそうだが、そもそも地球軍の軍属ではなく、しかもナチュラル自体に決して良い印象を持っていない異世界人に対し、無条件で任せるよりも、警戒心を解かない方が軍人としては正しい。
 ただナタルの場合、心中を決して表情に出さない、所謂面従腹背が苦手なので警戒心は持たない方が無難で、――特にシンジ相手の場合には――マリューのように心を許して預ける方が現状には合っている。
 軍人としては正しい筈、と言う理屈が全く通じないのが異世界からの客人なのだ。
 そして――軍としての常識を全く外れ、危機感を微塵も持たないまま撃墜にも沈没にも無縁で、悠々と進軍しているのがこの艦だ。
「艦長、この映像は有視界外でしょう?距離はどの位なんです」
 訊ねたバーディに、
「シンジ君にも正確な距離は分からないらしいのよ。何分、急場で間に合わせた結界らしいから。この世界だと、儀式に必要な物が全く足りなくて…だから身体に負担が…」
(艦長…)
 最大で10キロ圏内とは言っていたが、正確な距離は聞いていない。一時的な反動とは言え、またもシンジが倒れた事で、この艦の勝利は文字通りシンジの双肩に殆どが乗っているのだと否応なしに実感させられる。
 本人は毛先程も気にしていないのだが、艦長のマリューがそれは助かるわと、見過ごせる性格ではないことを、何よりも抱かれるようになった今、殊更に痛感していることをバーディ達はよく知っていた。
「とにかく、シンジ君の防衛機構は十分に役立ってくれたわ。あとはシンジ君が回復するまで、我らで何としても敵を寄せ付けるな、いいわね!」
「は、はいっ」
 全クルーが一日の臨時休暇を海岸で過ごしている間、直接身を危険に晒した訳ではないものの、高熱と引き換えに敵を撃破したのだ。
 それを見せられて、ただ呆然と見守るだけのクルー達ではなかった。
 艦長就任以来、マリューの初めて飛ばす檄に、皆一斉に挙手で応じた。
 
 
 
 
 
「そうかい…偵察に出した機体が一機も戻らず、いつの間にか俺たちは水中用の機体を全て失っていたのかい」
「申し訳ありません…」
 自分たちの仕業とはいえ、核防止で地表に打ち込んだNジャマーの影響で、現在の戦闘は有視界時代の物へと退化した。アークエンジェルに、飛行可能なMSが無い事は既に分かっている。
 戦闘機は積んでいるようだが、いかに地上でも、この辺りの海域を縄張りとするモラシム隊のパイロットが、ナチュラルの操る戦闘機如きに全機叩き落とされるとは考えにくい。
 誰も戻ってこないところを見ると、レーザー通信に飽いて、対面報告に拘った訳でもなさそうだ。
 空中迎撃に然したる手段を持っていない相手への索敵任務に対し、帰還者も報告も皆無とは、このモラシム隊が結成されて以来の椿事で、だからこそモラシムも、顔面蒼白で謝る部下に片手を軽く挙げて制したのだ。
 これで、索敵命令を逸脱し勝手に攻撃した挙げ句の全滅と分かっていれば、また違った反応になっているところだが、原因不明で結果だけ判明している現状では些か判断に困る。
(しかし、勝手に攻撃して返り討ちに遭ったとしても、あの足つきがどうやって水中用MSを容易く撃破したのだ…)
 下がってよい、と部下を退出させてから、モラシムは暫く考え込んでいた。
 空中用と水中用、いわば水陸両面から派遣――それも命令は索敵のみだ――したのに、報告も帰還もないときた。いくら自分達の領域であっても、舞台はまだまだ人知の及ばぬ大海原だけに、不慮の事故に遭った可能性もあるが、空中対応MSを持たぬ艦に全機撃墜されるのと、一陣と二陣が揃って海難事故で消息を絶つのと、どちらの可能性が高いか、と問われて即答できる指揮官はそうそう居るまい。
 だが、数字的には確実に預けられた戦力を原因も分からず失っているのだ。
 それでも、部下に八つ当たりすることもなく、思考回路をフル回転させるような男だからこそ、隊の結成以来どんな作戦であれ、部下達が黙って従い、そして戦果を上げて来られたのだろう。
「探索は戻らず状況は皆目不明、んでもって戦力は七割減ときた。さて、どうしたものかね」
 渋面のまま、空になったコーヒーカップを指で叩いていたが、その動きがふと止まった。
「しょーがねぇ、俺が行くわ」
 単純で確実な結論に落ち着いたらしい。
 状況が分からない上に戦力は当初の三割にまで落ちたが、状況把握もまた、当初からちっとも進んでいないのだ。
 縦しんば一旦帰投するにせよ、徒に戦力を失い、敵の動向も不明のままで戻るなら、その辺で潮を吹いている鯨のおやつにでもなる方がましというものだ。
 あり得ぬ自然現象に巻き込まれたか、乃至は万に一つの可能性で揃って撃墜されたのか、いずれにせよ部下に任せて置ける状況ではない。
 暫し瞑目していたモラシムがゆっくりと立ち上がった時、そこにはコーヒーの開発に勤しむ物好きな艦長の姿はなく、紅海の鯱と渾名される戦士のそれへと戻っていた。
 がしかし。
 翌早朝にゾノが大海原へ出撃する事は出来なかった。
 索敵を部下に任せ、コーヒーの開発に勤しんでいた罰でも当たったか、早朝から隊長を崩して寝込んだのである。
 まず扁桃腺が反乱を起こして二倍近くにふくれあがり、次いで倦怠感がそっと全身を包み込むと、今度は体内から平熱の急激な上昇を訴え、さすがのモラシムもたまらず倒れ込んだ。
「艦長、お風邪ですな」
「……」
 軍医がシンプル且つ無感情に告げるのを、モラシムは苦虫を五匹まとめて噛み潰したような顔で聞いていた。
「なに、大した事はありません。安静にしていれば、二日程で回復されるでしょう」
「…分かった」
 アークエンジェルは敵の目を避けての強行軍、とは程遠い行程を取っており、二日後に出撃しても逃がしはしない、と床の上で頭痛薬をバリボリと噛み砕いているモラシムだったが、その敵艦では最大の、と言うよりザフトに取っては全ての元凶となる異世界人がぶっ倒れており、文字通り千載一遇の機会を逃したとはさすがに思いも寄らなかった。
 元凶がダウン中で、母艦を守護するMSを駆る少女達もその容態が気になって仕方がないと知れば、例え這ってでも出撃したに違いない。
 
 
 
 
 
 クルー達に初めて檄を飛ばしたマリューが、何時になく厳しい顔でブリッジを出たところへ、
「艦長、お話が」
「何」
 表情は変えぬまま、マリューは振り向いた。
 ナタルだ。
 用件は分かっていたが、無視して去る程機嫌が悪いわけでもない。
「その、張り紙で私とフレイ・アルスターが指名されていたのですが…艦長はご存じでしたか」
「知らないわ。シンジ君の決めた事よ。何故私に訊くの」
「艦長もご存じの通り、私もフレイ・アルスターも、医療に関してはほぼ素人です。それに本艦には医務兵も乗艦しております。それなのにどうして――」
「シンジ君の常識が、私達の理解の範疇に収まっていれば、この艦はとっくに何度もピンチを迎えているわよ。違うかしら?」
「そ、それはそうですが…」
 ナタルの言いたい事は分かっている。要は、嫌がらせで呼んだのではないかと思っているのだが、さすがにマリューを前にしては口にし得ないだけだ。
 そしてそれは――九割九分正解であった。
 幾らシンジの能力や思考が常識では計り知れないと言っても、熱を出しているところにわざわざ素人を呼ぶ要はない。指名にマリューが関わっていない、と言ったのは事実だし、シンジの真意は分からないが、何をどう考えても嫌がらせである。
 片方は自分を信用しておらず、もう一人は自分に敵意すら抱いている二人を呼び出して、何を企んでいるのか見てみたいと思っている黒マリューが、マリューの中でにんまりと微笑っているところだ。
「行きたくないのなら、行かなければ済む話よ。呼び出しに応じなかったから火炙り、と言う程シンジ君は暴君じゃないわ」
「分かりました…」
 悄然と項垂れて歩き出すナタルを見ると、さすがにマリューも少し可哀想になり、
「シンジ君には私から言っておくからナタル、あなたは艦橋にいなさい」
「は、はっ!」
 早速生き返り、軍人の顔で歩き出すナタルの後ろ姿を見ながら、やっぱり生贄になる寸前まで放置した方が良かったかと、マリューは小首を傾げた。
 一般人は立ち入り禁止、と記されてはいるが、全クルーに一般人の認識があるとは限らない。
「あたしは一般人じゃないし」
「右に同じ」
「熱病が伝染して、綾香様が倒れられた時はお知らせください。担いで戻りますので」
 と、キラとステラが素直に涙を呑んだ室内には、ミーアと綾香が来ていた。
 セリオは外で控えている。
「で、何しに来たの?」
「お見舞いと報告と事情聴取よ」
「事情聴取?艦の冷蔵庫からおやつが無くなっていたとか?」
「『ううん』」
 綾香とミーアが揃って首を振り、
「『甘くて熱い時間についてくわしく』」
「?」
「だーって、一日中年頃の男女が二人きりだったのよ?そりゃもう、熱くてぬるぬるでたぷたぷな時間に決まってるじゃない。艦長も明日には粘膜感染のおんなじ症じょ…いたっ」
 ぽかっ。
 熱くも冷たくもなく、力も入っていないのは弱っているからだ。
「術は急拵えだし、作動すれば反動があるのは分かっていた。来栖川みたいな色ボケと一緒にすんな」
「ひっどーい、あたしが色ボケってどういう事よ!エロエロな時間とか言ったのはミーアじゃん!」
「そのすぐ前にハモっていたのは誰だ」
「あ」
 ぺろっと綾香が舌を出す。
 シンジはそれ以上追撃はせず、
「で、海岸の方はどうだった?」
 と訊いた。
「楽しかったわよ、ミアコンやったりして」
「ミアコン?」
「ミーアのコンサート」
 両頬に小さな?マークを浮かべているシンジに、
「歌えない歌姫を乗せておく程アークエンジェルは暇じゃないの、ってレコアさんが」
「……」
「あ、私は別にいいのよ。歌うの嫌いじゃないし、みんなも喜んでくれたし。ねっ」
 現場にいないと、台詞だけではレコアの嫌がらせにも聞こえかねない。シンジの表情がそれを物語っている事に気付き、ミーアは大急ぎでフォローする事にした。
 シンジ相手の場合、逡巡や看過が一大事を招きかねないと、巨乳と歌姫を兼ねた娘はよく知っている。
「それにレコアさんの乳揺れも見られたし」
「女性クルー限定でブラ取り合戦でもしたの?」
「碇が見たいならやってあげよっか。大小様々の乳揺れが見られるわよ」
「イイ」
 間に合ってる、とは言わなかった。言いそうになったのだが、何とか寸前で止めたのだ。もしも言った日には、二人が口を揃えて何を言うか分かったものではない。
「ブラ取り合戦じゃなくて、トップレスで日焼けしてたのよ。レコアさんが一曲歌ったら、アンコールに応じてあげるって言ったら、びっくりして跳ね起きたのよ。正面から見たのはステラだけだったけど、乳が揺れたのはあたしにも見えたわ。色白で結構いいおっぱいしてるのよねえ」
 ミーアの言葉に、シンジと綾香が顔を見合わせた。
 二対の視線が自分の顔に集中し、ゆっくりと下がっていくのに気付き、ミーアが思わず胸を隠すと腕の間から押された乳肉がむにゅっとはみ出す。
「『お前がゆーな』」
 色白で、マリューには及ばないものの十分なたわわな乳を持つミーアに褒められても、嫌味以外の何物でもない。
 正当な発言権は、対象より胸が控え目な者のみに与えられるのが道理だ。
「白くてやわらかくておっきな乳を持ってるからこそ、批評にも説得力があると思わな――」
 腰に手を当てて、胸を張ったミーアの台詞が終わらない内に、扉が勢いよく叩かれた。ノックでもインターホンでもなく、いきなり叩かれたのだ。
 無論、ここの装置に異常はない。
「誰よまったく…セリオのやつ、何やってるのかしら」
「訪問の仕方がどうあれ、招集の掛かった者であれば制止する謂われはあるまい。来栖川重工の造ったアンドロイドは優秀だ」
「『?』」
 一瞬の後、招集の単語で意味が思い当たったか、ミーアがぽむっと手を打ったところへ、扉が一層激しく叩かれ、
「あげなざいよぉ、異世界人〜、このフレイ様が…ンギモッチイィ〜」
 それを聞いた途端、綾香のしなやかな眉がすうっと上がった。
「バカは死ななきゃ治らないみたいね」
 みるみる間に細身の全身へ殺気を漲らせ、ドアへ向かおうとする背にシンジの手がにゅうと伸び、襟首を掴むとひょいとつまみ上げた。
「あっ、ちょ、ちょっと碇放しなさいよこらっ」
「殺しの代役を頼む程深い仲でもあるまい。ミーア、捕まえといて」
「はぁい」
 ミーアは訓練を受けた兵士などではないが、片手でキラを捕まえ微動だにさせぬ程の膂力の持ち主だ。ミーアに綾香を預け、シンジはベッドから起き上がった。
(…むう)
 殆ど熱は下がっておらず、立ち上がると足下が覚束ないのがよく分かるが、なんとか気を足に集中させ、ふらつかないように一歩ずつ前へ進んでいく。その背に向けられている綾香の刺すような視線は、シンジの背を通り越して扉の先に向けられている。
 扉を開けると、そこにはフレイが立っており、セリオが無機質な視線でそれを眺めているところまでは想定内だったが、フレイの手に酒瓶が握られていたのは予想していなかった。
 張り紙の事を聞いたサイが、絶対に行けと強引に向かわせたのだろう。無論、シンジを診る気など微塵もないフレイは、自室かどこかでしこたま飲んで、十分出来上がってからやって来たのだ。
 酒臭い息をシンジにふーっと吹きかけ、
「あによぅ…あんだ、げんぎそーひゃないのぉ…。ん〜?なんとがイイなざいよぉっ」
 既に綾香の殺気は限界近くまでふくれあがっている。無論、姿が見えずとも背中に殺気はひしひしと伝わっており、背に物騒な気を感じながら、
「元より看病を強いる気などない。この部屋の前にどんな表情で立つか、写真撮影してあとでそれを元にフィギュアを作成する気だったが――」
 手刀がフレイの首筋に吸い込まれ、フレイはその場に崩れ落ちた。
「酒瓶を手土産にした酔客が来訪と思っていなかった。セリオ」
「はい」
「これをそこの壁に吊しておいて。君のご主人様が、さっきからミンチにしたくてたまらないらしいから、ミーアが押さえきれなくなる前に頼む」
「かしこまりました」
 一礼したセリオが、失神したフレイを軽々と持ち上げ、壁の取っ手に手際良く吊していく。
 数分と経たぬ内に、壁へ案山子よろしく吊られたフレイを見て、シンジはひとつ頷いた。
「ありがとう、セリオ」
「いいえ、お安いご用です」
「それから綾香の回収を頼む。明日の朝までは絶対に部屋から出さないように」
「了解しました。ウロウロしないよう、わたくしが責任を持って見張っておきます」
「ちょっと綾香、あんた誰の使い魔なのよ!」
 ぷりぷりと怒る綾香の元へ行き、
「碇様の意に反し、治癒を妨げるのも放っておきます、と申し上げた方がよろしかったでしょうか」
「くーっ!」
「さ、お嬢様、参りましょう」
 セリオが綾香を肩に担ぎ、シンジに向かって一礼した。
「お休みなさいませ碇様。くれぐれもお大事に」
「気の利くメイドロボだ。ありがとう」
 続いてミーアが、
「あたしももう帰るわね。あまり長居して熱上がったら困るから」
「ん」
 とことこと歩き出したその足が止まり、ベッドの上に座ったシンジの所へ戻ってきた。
「そうそう、もう少しで忘れるとこだったわ」
「なにを…んむ!?」
 反応する間もあらばこそ、シンジの唇にはあっという間に、ルージュを掃いたミーアの唇が吸い付いていた。
 さすがに舌は入って来ず、唇は十秒足らずで離れた。
「…もしもし、ミーアさん?」
「吸い取り治療よ。ミーアが碇さんの熱を吸い取ってあげるから、すぐ良くなるわ。本当は粘膜越しに毒素を全部吸い取って――アッー!」
 気力が一気に通常の一割台にまで下がったシンジが弱々しく目配せし、頷いたセリオがもう片方の肩に、片手で軽々とミーアを担ぎ上げたのだ。
「じゃ、おやすみ。さっさと治すのよっ」「あたしが吸い取ってあげたんだから、さっさと治さないとお仕置きよっ?」
「あ゛〜、はいはい」
 セリオの肩越しに聞こえる声に、シンジはひらひらと手を振った。二人を担いだセリオの足音が消えるのを確認してから、ゆっくりとベッドに倒れ込む。
 指で唇をなぞり、数秒経ってから、
「間違いなく悪化だな」
 と呟いた。
 
 入室も看病も拒まれ素直に従ったものの、症状の仔細が分からず一晩悶々と過ごし、朝になってすっ飛んできた少女達が見たのは、首から酒瓶をぶら下げ、あまつさえ壁に両手を吊されたフレイの姿であった。
「フ、フレイ?一体なにを…」
 小さく口を開けて見入ったキラだが、
「ゴルゴダの丘で殉教した救世主を模しているのなら、両脇腹に穴を開けられるのが――」
 部屋にも入れぬ苛立ちもあり、物騒な事を言い出したステラの腕を引っ張り、
「救世主とかお腹にとか、とりあえずいいから!そんなもん、見に来たんじゃないでしょ」
 キラは奇妙なオブジェを見た、位にしか思っていないが、ステラはフレイがほぼ間違いなくシンジ絡みで吊された、と見抜いており、二人の反応が対照的だったのはその為だ。
 フレイに冷たい視線を向けたステラだが、シンジの部屋の前に立つとと表情が戻り、ゆっくりと深呼吸した。
 インターホンに手を伸ばしたが、すぐに引っ込めた。そっとドアに触れ、遠慮がちにノックするとすぐに応答があった。
「だれ?」
「あ、あのっ、キラとステラです…」「お兄ちゃんの具合はどうかなって思ってそのっ…」
「回復に向かっている。今夕には起きられる筈だよ」
「『良かった…』」
 ほっと安堵の顔を見合わせた二人だが、
「どう見ても治癒術など持ち合わせていないのに…プラントのコーディネーターは化け物か!」
 その思い人は、予定より明らかに早い回復に現実を受け入れられず、ベッドの中で地団駄を踏んでいるとは知る由もなかった。
 
 
 
 
 
(第八十四話 了)

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