妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
ドクトルシビウの闇カルテ:ツェザーレ
 
 
 
第八十一話:敵軍の襲来に期待する海(後)
 
 
 
 
 
「要するに、ハマーン・カーンはヤキが回ったと、ただそれだけの話だ。この辺りに連中の基地は無いから、そろそろインド洋に入る頃だろう。オレがちょっくら見に行ってくるから、お前達は出撃の用意をしておけ」
「はっ」
 と、潜水艇内で、ごりごりとコーヒーの粉を碾きながらマルコ・モラシムが命じたまでは良かったのだが、瓶に移そうと器を持ち上げた瞬間に船体が揺れた。大揺れでは無かったが、少なくともコーヒーの粉達が反乱を起こし、モラシムが激しく咳き込む位には十分であった。
「巨鯨に襲われたか敵のミサイルを回避したか、ともかくオレを納得させるだけの理由があるんだろーなー」
 額に青筋を浮かばせたモラシムを部下達が慌てて押しとどめ、
「偵察は我々が行きます。隊長は艦内でその…も、もう一度コーヒーを淹れ直しておいて下されば十分ですから」
 聞きようによっては、役立たずと言われているようにも聞こえるが、思考回路がお気に入りのコーヒーの惨状の事で塞がっていてそこまで考えつかなかったのか、モラシムは格段の反応を見せなかった。
 だがモラシムは知らない。
 その偵察対象が、とっくに攻撃を予想しており、既に対策を立てている事を。
 何よりも――その対策は、この世界の住人が誰一人として、理解も想像も出来ないものである事を知りもしないのだった。
 
 
 
 
 
「じゃあお兄ちゃん、行ってきます…」
「ん、行ってらっしゃい」
 明らかに後ろ髪を引かれている風情で、タラップを降りていくステラ達に、シンジはひらひらと手を振った。
 反応が全く違うのだが、砂漠の街で手に入れた水着を見てもらいたいステラやキラに対し、全思考回路が初めて使う結界に向けられているシンジでは、些かやむを得ないところではある。
 自ら直接精を操るのではない上に、結界を施したのすら術師達ではないと来ている。それ位シンジがやれば良さそうなものだが、
「そこはほら、絵心ないから」
 と、相変わらず緊張感の欠如している発想で他人に任せてしまった。
 尤もそんな青年に守られてきた艦であり、またそんな艦一隻も落とせないザフト軍なのだから、レベルとしてはちょうどいいのかもしれない。
 すっかり休日気分のクルー達が次々に下船していく中で、やや緊張の面持ちなのはノイマンであった。
「艦長、操舵の概要はお渡ししたマニュアルに記載してあります。一応自動操縦は可能ですが、あくまでも非常時の為のシステムですのでその…」
「分かってるわ。ふらふら飛んでいかないように気をつけろって言うんでしょう」
「いえ…」
(?)
「その万が一にもですが…対艦、対MS戦闘等が発生した場合は…至急我々に帰還の命令をお出し下さい」
「でも、泳いでくる訳には行かないじゃない。もしシンジ君の結界が使えないとしても、やっぱり迎えに来ないとならないでしょう」
「え、ええ…」
「大丈夫、余計な操縦はしないわ。それと、シンジ君にはノイマン少尉が心配で仕方ないみたい、と伝えておくから」
「か、艦長それはっ…」
「冗談よ」
 笑ったマリューに、心底安堵したノイマンだが、マリューの方はあまり良い気分ではなかった。マリューが勝手にアークエンジェルを動かして、クルージングでもしまいかという心配はまだしも、シンジをあまり信頼していないのが気に入らなかったのだ。
 シンジに伝えておく、と言ったのは半分本気である。
(ま、こればかりは度量の問題だものね)
 と、ちょっと都合の良いことを考えていたマリューだが、全クルーを降ろして沖合へ出るまでは問題もなく、巨艦は静かに着水した。
「さて、シンジ君をお呼び出ししなきゃね」
 呟いたところへ、
「マリューさんいる?」
 シンジがふらっと入ってきた。
「今艦内放送で呼ぼうと思っていたところよ。電波が通じた?」
「姉御が電波塔だとは初めて知った。艦はもういいの?」
「ええ、もう放っておけばちゃんと停まってるわ。後はシンジ君の張った網に魚がかかるのを待つだけね」
 ん、と頷いたシンジが、
「ところでノイマンは操舵を放り出して、不安がってなかった?」
 と訊いた。
「…シンジ君聞いてたの?」
 さすがに驚いた表情で聞き返したマリューに、シンジは軽く首を振った。
「盗聴の趣味はないよ。エスパーでもない。今までに、この艦が自動操縦で漂流した事は無いと聞いていたからね。それ位は想像つく。まして、防衛線が見たことも聞いたこともない異世界人の妙な結界やらとくれば、ね。ま、無理もない話さ」
(シンジ君…)
 ノイマンの反応を確認しようともしない辺り、シンジの方は想定の範囲内だったらしい。
「その…気にならないの?」
「全然。というよりは、姉御が順応性高いんだよ。異世界人の結界が当てにならないかも、と言われて引っかかるのはそれを信頼してくれてるから、でしょ」
「も、勿論よ」
(ほ、本当はそれだけじゃないんだけどでも…も、もぅ…)
 単にシンジの技量だけを信じている訳じゃない、とそれは口にすることが出来ず、指先を絡み合わせて何やらもじもじしているマリューをよそに、シンジは勝手に艦長席へと座り込んだ。
 シートの横に手を伸ばして弄っていたシンジが、
「よし出来た。マリュー」
「え?」
 一人違う世界に入っていたマリューが呼ばれて振り向くと、座席は倒されて簡易ベッドのような形状へと変化していた。
「艦長室へ戻っている時間がない時は、一応ここで仮眠できるようになっていると聞いた。と言うわけで、姉御の場所はここ」
 いくら仮眠可能とは言え、本来の役目は艦長席であり、シンジが指したのは女が一人入り込むには極めて狭い隙間であった。
「あの、シンジ君それって…」
「昼寝って言ったでしょ、忘れた?」
 一緒に、と言うのは間違いない。マリュー一人なら、さっさと起きてそこを指さし、そのままシンジは出て行くだろう。そもそも、シンジの結界頼みである以上マリューがここで窮屈に寝る必要は全くない。
「も、勿論覚えてるわ。で、でもそこはちょっと狭いかなって…ま、まあシンジ君がどうしてもって言うなら、そこでもいいわよっ」
 やや早口で言ったマリューが上着を脱ぎ、シンジの隣へそっと横になると身体が不意に持ち上げられた。あっ、と小さく声を上げたマリューの身体が、きゅっと抱き寄せられる。
「お、重くない?」
 最初に出た言葉がこれであり、言った後で我ながら随分間抜けな台詞だと思ったが、「そうでもない」
 軽いよ、でも重いでもなく、シンジの台詞はいつも通りであった。
「時間が来たら起こす。姉御には少し休息が必要だ」
「ん…ありがと、シンジ君」
 マリューが下でシンジが上なら、寂しく独り寝になる可能性もあるが、シンジが下ならマリューがどかない限りシンジは動けない。そう気づいたのは、抱き寄せられるままシンジに身体を預けてからであった。
(これって、結構良い感じよね?)
 ベッドと比べれば当然窮屈だが、その分密着度は高い。加えて、シンジの方が身長は高いから、マリューはすっぽると包み込まれるような格好になり、なかなかいい感じだとマリューもご機嫌になっていた。
「シンジ君あの…」
「なに?」
「ん、ん〜」
 そっと唇を突き出したマリューの頬で、小さな音がした。
「おやすみ、姉御」
「ええ、おやすみ」
 唇ではなかったが、マリューは満足であった。頬におやすみのちゅーして、とはさすがに言えなかったのだ。
(でも…ちょっとマリュー分が減ってるぞ。もう、つれないんだから…)
 シンジの心がここにはないと、それはマリューが一番分かっていた。
 当然だろう。
 もし自分がシンジの立場なら、戦うどころか状況を受け入れる事すら出来ず、パニックになっていたと自信がある位だ。何がどう転んでも、異世界に留まりたいなどとは思えない。
(でもあなたは…オーブまでいてくれるって言ってくれたよね。この先どうなるか分からないのに残るって…)
 おそらく確信はあるまい。それでもシンジは言ったのだ、オーブまでは残ると。
 いずれにしても、シンジとはオーブで別れる事になる。
 多分それが永遠(とわ)の別れになろう。
 だからこそ…今は二人だけの時間に浸っていたかったのだ。
 最近姉御と呼ぶ事が多くなっていると、そこはちょっと気に入らないが、シンジに軽く髪を撫でられると、一分も経たないうちにマリューはすやすやと寝息を立てていた。
 そのシンジはと言うと、
「前はよく、姉貴にこうやって抱かれて眠ってたな」
 と、マリューに聞かれたら限界まで頬を引っ張られそうな台詞を口にしながら、手はマリューの髪を柔くかき回していたが、やがてその手が止まり、リモコンへと伸びた。
 ボタンを押すと、スクリーンのスイッチが入り映像が映し出される。
「まだ、待ち合わせの時間には早いと見える」
 呟いたシンジがマリューの頬を軽く撫で、自分も軽く目を閉じた。
 そこに映っていたのは大海原であり、そして――それは本来アークエンジェルの艦橋で見られる光景ではなかったのだ。
 とまれこの時、艦内に流れている空気は、戦乱とは完全に無縁のものであった。
 
 
 
「まったく、この非常時に何をやっているのだ…本当にもう…」
 砂浜に立てたパラソルの下で、ジーンズとTシャツ姿にサングラスを掛け、ビーチチェアに寝そべりながら、ぶつぶつぼやいているのはナタルである。
 格好と言い服装と言い、どう見ても説得力皆無の台詞だが、それは本人も自覚していると見えて、どちらかと言えば自分に向けての言葉に見えた。現在のアークエンジェルは、軍人のとるべき行動のセオリーからすれば、これ以上にない位間違っているが、求められる事――即ち如何にして自軍の被害を少なくして目的を達するか、という点から見れば、ここまではこれ以上にない成果を挙げている。
 但し、艦の指揮能力に於いてはマリューを完全に凌駕しているナタルが、ここまで出番が殆ど無く、その思考と性格に於いて対極にあるシンジがクルー達を手懐けているおかげで、やや浮き気味になっているのは事実だ。
 しかもアークエンジェルの戦闘経験値はちっとも増えないし、オーブで戦力ががた落ちになるのは確定している。何よりも、異世界人のあり得ぬ理力で圧勝してきた戦闘を、キラの功績として報告するというかなり無理のある仕事までシンジから押しつけられているのだ。
 ラフな格好と、思い切りリラックスした姿勢には不似合いな事を、ナタルが呟きたくなるのも無理はあるまい。
 が、台詞と格好が不一致である事に変わりはなく、しかも――さして大きくない声量だったが聞かれていた。
「あんなノリノリの格好して言う台詞じゃ無いわよね、あのオバサン」
「……」
 艦内でこんな台詞を言えるのは二人しかいないが、片割れは今艦内にいる。
 犯人の来栖川綾香だが、人間離れした聴力を持つわけでも、シンジのように風がその耳元で囁くわけでもない。
 世話係に加え、マイクロホンと電波受信の役目も果たすセリオがいるからこそ、可能なスキルだ。
 そのセリオは、綾香の側に黙って控えている。
「んで、副長さんはあんなラフな格好してるのに、なんであの二人はかしこまっちゃってる訳よ?」
 その視線の先には砂の城を造っているキラ達がいた。
 やってる事は普通だが、格好がおかしい。キラもステラも水着でない――どころか、軍服姿なのだ。ステラはまだしもキラに至っては、頑として着ようとしなかった地球軍の軍服姿なのだ。
 ちょっと浮いている、どころの話ではない。
「おそらく、碇様の関係かと」
「碇が?水着禁止令でも出したの?」
「いいえ、ここには碇様がおられませんから」
「……」
 ああ、と数秒経ってから、綾香はぽむっと手を打った。
 理解したのである。
「そっか、好きな人に最初に見てもらいたい、か」
「はい」
 綾香の目が、尊大なお嬢様から乙女のそれへと変わって二人を見つめる。
「…前途多難よねえ」
 ふう、とため息をついた。
 ため息を吐かれたキラ達だが、本人達は別段気にした様子もない。他のクルー達はのんびりと日焼けなどしているし、レコアもビキニのブラを外して俯せになって、ミーアにサンオイルを塗らせている。
 そんな中にあって軍服姿で、しかも砂の城を造っているときてはこれ以上にない位浮いているが、シンジは必ず来てくれると信じているのだ。
 シンジの意志以前に、敵襲があってしかも迎撃しないとならないのだが、恋の炎が物騒な位に燃えている乙女心の前では些細な条件である。
 一緒に造っているのはミリアリアだが、その側にトールの姿はない。思い思いに寛いでいる中にもいないが、よくよく見ると少し離れた場所にその姿が見える――但し、頭だけが。
 オレンジ色のワンピース水着に着替えた恋人を見て、
「へえ、ミリィの乳増量したんだ?ま、あれだけ俺に揉ませて…ゲフ!?」
 危険な台詞を口走った為、ミリアリアの一撃を受けた上、砂浜に埋められる羽目になったのだ。
「まったくもう…トールの馬鹿!エッチ、変態!」
 ぷりぷりしながら砂を固めているミリアリアだが、その頬はどこか赤い。
「ふうん、トールにおっぱい揉ませて」「ミリアリアって胸をおっきくしてるんだ?いいな〜、揉んでおっきくしてくれる人がいて」
 と、左右からキラとステラに囁かれた事と、強ち無縁ではあるまい。
「べっ、別に揉まれて大きくなったわけじゃないんだからねっ」
「『ほんとーに?』」
「ほ、本当よっ、嘘だと思ったらレコアさんに訊いてみなさいよ」
 咄嗟に出た言葉だったが、二人は本当に訊きに行った。
(げ!?本当に行っちゃった)
 てくてく歩いていくキラとステラの後ろで、びくびくしていたミリアリアだが、
「つまり彼氏がいて貧乳なのは、皆セックスレスとか愛撫が足りないと言うことでいいかしら?」
 逆に聞き返され、すごすごと帰ってきた二人を見て、心底安堵した。
「ほ、ほらね言ったでしょ。それよりほら、お城でも造りましょ」
「お城?」
「碇さんと一緒に、また来たいんでしょ?上手に出来たら、褒めてくれるかもしれないわよ」
「『その案採用』」
 軍服娘が二人と水着姿の娘が一人、ぺたぺたと砂の城を造っているのを見ながら、
「どして意外そうな顔をしてるのかしら」
 レコアの言葉に、ミーアの手がぴくっと止まった。
「…見えたの?」
「それ位見なくても分かるわよ。で、私が二人を煽ると思ったの?」
「ええ、思い切り思った」
 ふむ、とレコアが頷く。
 実験結果に満足した科学者の面持ちであった。
「どんなに思っても、全く相手にされない想いというのは存在するのよ。それも、幸か不幸か知らないけどこの艦内に、ね」
「……」
「まあ、シンジ君は女の扱いなんて手慣れているから、私がちょっと煽ってみてもあっさりと受け流すでしょうけどね」
 
 同時刻、艦長席で寝息を立てていたシンジの眉がすうっと上がり、また元に戻った。
 
「だけど、男を全く知らない処女の子をあまり煽ると、暴走する可能性もあるのよ。しかもそうなった時、彼は洗脳する位はやりかねないからね」
 シンジに聞かれたら吊される――どころか海岸へ逆さに埋められかねない台詞を口にしながら、シンジの事はなかなかに理解しているらしい。
「ところでミーア」
「はい?」
「ラクス・クラインの代役と言っても、見た目だけじゃないわよね。歌えるんでしょ」
「え、ええ一応は…」
 レコアの真意が分からぬまま、何となく頷いたミーアは、高い悪巧みIQを持つ衛生兵の視線が、浜に置かれた音響機器に向けられているのに気づかなかった。
「じゃ、歌って」
「…え?」
「え、じゃないでしょ。折角音響機材もあるのに、使わなかったら罰が当たるわよ」
「あ、あの〜あれは歌うためのものじゃないかと…」
 ミーアの言うとおり、別にミーアが砂浜でコンサートをやるために、シンジが持って行かせた訳ではなく、
「海岸を勝手にうろつき回って集合時間に来ない奴が、絶対三人位いるから音響機材を一式持ってけ」
 と言ったのだ。
 がしかし。
「つまり私の言うことが聞けない、と?」
 水着のブラを外して俯せになっているレコアは、どう見てもこの上なく隙だらけの格好なのだが、そのレコアの視線に会うと、なぜかミーアはそれ以上言えなくなってしまった。
「わ、分かりました…」
「物わかりのいい子は好きよ。ほら、そこの砂遊びしている三人組!」
「『?』」
 呼ばれたかな、とキラ達がこちらを向いた。
「そ、あなた達よ。ミアコンやるからちょっと手伝いなさい」
「ミアコン、ですか?」
「そう、ミーアのコンサートよ。歌えない歌姫を乗せておく程、アークエンジェルは暇じゃないの」
 ミアコンと関係ないじゃん、と思いはしても、口にしない程度には三人娘も空気が読めている。
「簡単なステージを造る位の部材はあるでしょ。あっちでビール飲んで日光浴してる男どもを起こして手伝わせてちょうだい」
「『はーい』」
 レコアはナタルと違って、最初からシンジと合っている事もあり、キラもステラも素直に頷いた。
 但し、もしこの場にシンジがいたらこう言ったろう。
「ステージ造る部材なんて入れてないぞ」
 と。
 とまれ、三十分程で小さなステージもどきは完成し、ビキニ姿のミーアがそこに上がった。水色のビキニ水着にガウン姿のミーアは、ステージ下に集まったクルー達の視線を受けて、やや恥ずかしそうにもじもじしていたが、
「あ、あの…ア、アークエンジェルクルーの皆さん、ミーアのステージにようこそ〜」
 声量は普段の半分位の台詞に、ワーッと歓声が上がると吹っ切れたのか、勢いよくガウンを脱ぎ捨てた。
 元々ミーアの乳を覆うには足りない位なのに、少し上に引き上げられた事で、解放された下乳がむにゅっとはみ出している。
 おぉ〜、と男共がどよめくのを見ながら、
「ビキニを持ち上げて下乳揺らすなんて、生意気なエロテクじゃない。でも下をハイレグにしてない所を見ると、手入れしてないのかしらね〜」
 呟いた綾香に、
(綾香様、あの方の乳房への嫉妬が所々に滲み出ておられますが)
 と、主な思考は口に出さず、
「綾香様、さっきミーア、と…」
「ああ、言ってたわね。ま、揺れる乳に気を取られて誰も気づきゃしないわよ」
「それならよろしいのですが」
 
 静かなこの夜に あなたを待ってるの
 あの時忘れた 微笑みを取りに来て
 
 そんな主従を余所に歌いだしたミーアが、決して広くはない臨時ステージの上を躍動感いっぱいに跳ね回ると、薄手の布地に包まれた乳房が上下左右に揺れ動く。
 淫らというよりは健康美に近い乳揺れで、さすがに欲情を煽る程ではなかったが、見知らぬ光景に口を開けて見入っていたトール――ステージ造成作業に伴い一旦解放された――は、頬をふくらませたミリアリアにポカスカと叩かれていたし、これまたサイの視線を奪われたフレイは、はっきりと敵意の視線を向けていた。
 但し、
「なによ…ちょっと位乳がでかいからって、自慢してんじゃないわよ」
 敵意を含んだ声は、もごもご呟かれたのみで、それがサイに聞こえる事は無かった。
 キラを諦めてフレイを選んだサイだが、本人が自覚しているといないとに関わらず、多分に同情を含んでおり、それはフレイもよく分かっていた。しかも、来栖川綾香には一方的にやられ、シンジからも抹消される寸前まで行っており、文字通りサイしかいないのだ。
 そのフレイにとって、どれだけ妬ましくてもそれを口にすることは出来ない相談であった。
 と、一曲歌い終えたミーアの動きが止まった。
 数度深呼吸してから、
「もっと聴きたい?」
「『ヒーホー!』」
 少し変わった歓声でクルー達が応じると、
「じゃあ、そーね…」
 つ、と細い人差し指を唇に当てて、つうとなぞる。
(あれは…)
 綾香の傍に控え、クルー達の文字通り悲喜交々の模様を観察していたセリオだが、キラがミーアをじっと見つめているのに気付いた。フレイのような妬心ではなく、他のクルー達のように萌え萌えでもない。
 はて、と首を傾げてから小さく頷いた。
(そういう事でしたか。確かに、教材にはなるかもしれませんね。良い教材、と言い切れない部分もありますが)
 そんなキラの視線を知ってか知らずか、妖しく笑ったミーアが一つウインクして、
「レコアさんが一曲歌ってくれたら、あと四曲歌ったげる。どう?」
 その声に、我関せずと日光浴していたレコアが跳ね起きた。まだブラはしておらず、ぷるっと揺れた乳房を慌てて隠す。
 男達が一斉に手を挙げたのはその直後で、白い乳をステラにしか見られなかったのは、不幸中の幸いだったろう。
 きゃあっ、と思わず漏れた娘のような可愛い悲鳴は、セリオの聴覚も捉えていたが、こちらはいつも通り無反応であった。
 急いで突っ伏したレコアに男達の視線が集まる。
「わ、私は嫌よ。絶対に歌わないからね」
 ぷいっとそっぽを向いたのも当然の反応だが、
「レ・コ・ア!レ・コ・ア!」
 平素、シンジに玉と根性のある奴限定、と極めて理不尽な上にいい加減な条件で招集されてるだけあって、ノリは極めていい。
 クルー達から一斉に名前を連呼されたレコアは堪らなくなり、
「い、い、いやーっ!!」
 砂浜に悲鳴が木霊するまでに、そう時間は掛からなかった。
 それを見たミーアが悪戯っぽく笑い、
「じゃ、ここは許してあげますわ。レコア様の可愛い悲鳴も聞けた事ですし。ね?」
 レコアが真っ赤な顔でミーアを睨み、クルー達は拍手と口笛で応える。
 砂浜も、大凡平和であった。
 
 
 静まりかえった環境に、警報が鳴り響き――すぐに止んだ。
「やっとお越しか」
 す、とシンジの目が開きスクリーンが外の模様を映し出す。
 そこには変わらぬ大海原が映っており、敵機など影も形もない。
 無論、関係ない商業船を木っ端微塵にしては一大事だし、迎撃反応を見せるのはあくまでも敵意を持った相手のみだ。とは言え、結界は種別を問わずに接近を感知するタイプなので、敵軍もその辺の民間機も全て探り出す。
 その為警報はギリギリのレベルに落とし、何を探り当てても鳴るようにしておいたのだ。
 だが、シンジの表情は、民間機が警戒網に引っかかったそれではない。
 マリューを抱いたまま少し身を起こし、もう一度瞑目する。
 数秒で開いた。
「小魚二匹」
 そう呟いた直後、映る景色が変わった。突如として海面が数十メートルの高さまで盛り上がり、その上には二機のMSが持ち上げられている。まるで弄ばれるかのように、落ち込んでいった波の谷間に待っていたのは、まるで槍の柱と化したような波であり、そこへ突っ込んでいった二機は避けることも抗う事もなく、一瞬で木っ端微塵に砕け散りそのまま海の藻屑と化した。
 荒れ狂った海面がMSを飲み込み、元の穏やかな海面に戻るまで、艦橋内に聞こえるのはマリューの寝息のみであった。
「前菜はミュートモードで」
 うっすらと笑って、マリューの頬にちうと口づけしたシンジが、
「こらっ、起きろ」
 
 
 
 
 
「偵察に出した連中が消息を絶っただと?足つきに迎撃でもされたのか」
 先発させた水中用MSが、消息不明になったと聞いたモラシムは首を傾げた。海上から探させた方が、効率がいいのは無論だが、敵の搭載機に見つかり万一先に撃墜されてはと、水中用のMSを出したのだ。
 何よりも、地上全土を覆っているNジャマーの影響も、地上よりは水中の方が幾分少ないので水中ソナーの精度が若干ながら上がる。だからアークエンジェルが潜航でもしていなければ、まず墜とされる事はあるまい。
「だが行方を絶った。つーか、二機揃って海底散歩としゃれ込んでるんじゃあるまいな」
 なかなかに深刻な事態の筈だが、モラシムの口調がちっとも沈んでいないのは、とりあえずコーヒーが片付いて少し機嫌がいいのと、何よりもアークエンジェル如きに二機揃って沈められる事はあり得ないと、完全に舐めきっているからだ。
「まあいい、次は水中と海上と両方で出せ。あいつらが海底で熱帯魚と遊んでいたら、ちゃんと連れ帰って来るんだぞ」
「了解であります!」
 
 
 
 
  
「むう、起きないとは怪しからん」
 頬にキスされて、耳元で囁かれた位で目が覚めたら苦労はしない。目覚めぬマリューの肩にシンジが手を触れようとした寸前、形の良い唇が動いた。
(ん?)
「もう…シン…ちゃん…」
「なっ!?」
 刹那、シンジの顔色が激しく変わった。目が見開かれ、手も硬直したまま呆然とマリューを見つめる。
 そこだけ時が止まったかのように、凝固したままマリューを見つめていたシンジが、復旧するまでに二十秒近くかかった。
「まさか、ね…」
 呟いた声も、悪魔の降臨を目の当たりにした敬虔なクリスチャンのようなものだったが、暫し瞑目してから首を振って目を開けた時、その表情は元に戻っていた。
「まったくもう…馬鹿マリューなんだから」
 初めての珍妙な台詞をマリューが聞いたら、なんと言ったろうか。
 とまれ、シンジはマリューの鼻を軽くおさえ、そのまま唇を重ねたものだから、マリューは寝入った時と違って、ひどく息苦しい目覚めを迎えることになった。
「もーっ、呼吸塞いで起こすなんて…」
 シンジを睨んだマリューに、
「舌入れた方が良かった?」
「え?」
(じゃ、キスで起こされたの?)
 ちょっと表情が緩んだかに見えたマリューの手が伸びて――シンジの頬をむにゅーっと引っ張った。
「あの、姉…モゴ!」
 言いかけたシンジの首がきゅっと引き寄せられ、唇が塞がれる。おまけに鼻までつままれ、眼を白黒させたシンジだが、呼吸が苦しくなる前にマリューの唇は離れた。
「こ、今度寝息塞いだら…つ、月に代わってお仕置きだからねっ」
(えーと艦長、赤くなる位なら言わなきゃいいと思うんですが)
「そ、それでシンジ君…その、食事の時間とかかしら」
「ん?ああそうそう、思い出した。食事じゃない、映画鑑賞のお時間です艦長」
「映画、と?」
「100%ノンフィクション、些か演出には難があるかも知れないが、その辺はご容赦願おう」
「そうなの?」
 この時点でマリューは、シンジの意図を理解していなかった。映画を観るなどとは聞いていないし、何よりもまだシンジの腕の中なのだ。
 フィクションが云々言ってるから、ラブロマンスとか――ここの空気に合うものではなさそうだ。
 怪訝な顔をしているマリューにひとつ頷き、シンジの手がリモコンに触れる。そこに大海原が映し出された瞬間、マリューの顔色が変わった。
「ザフトのMS!?でも警報はっ?」
「あれはザフトの羽つき、ディンでございます」
 コース料理の前菜でも説明するような口調のシンジに、思わず顔色を変えたマリューも落ち着きを取り戻した。
「で、何やってるかというと往復の燃料を積み、暢気に特攻してきたところ」
 まるでその言葉が聞こえたかのように、いきなりディンが空中でふらついた。順調に飛行していた機体が突如蹌踉めく様は、あたかも団扇で扇がれた蚊蜻蛉のようにも見え、マリューが思わず生唾を飲み込んだ次の瞬間海面が牙を剥いた。壁のように盛り上がった波がディンを弾き、吹っ飛ばされたところへ海中から飛び出した何かが激突した。
「ザフトの水中用MS、グーンでございます。お仲間が行方不明になったので、水陸両面から探しに来たのが徒になったところ」
 マリューを抱いたまま、淡々とシンジは告げた。
 無論、敵と間違えて撃ったとか体当たりしたとか、そんな平凡な話ではない。既に海中でも波が逆巻いており、何の前触れもなく巻き込まれたグーンは振り回された挙げ句、空中へと射出されたのだ。
 この時、グーンのパイロットは衝撃に耐えきれずに失神しており、自分が仲間へ体当たりしていくのを見ずに済んだが、ディンはそうもいかなかった。大きく振られて翼はもぎ取られ、完全に制御を奪われてはいても、水中と比べれば衝撃は少なく失神することも出来ずにいた。
 結果、いきなり盛り上がった波に吹っ飛ばされるという、人生でも初めての体験をした直後、一直線に突っ込んでくる友軍機を発見し、避ける事も停止させる事も叶わぬまま絶叫しながら、ただ衝突の瞬間を待つしかなかったのだ。
 決して長い時間では無かったが、死の間際パイロットの脳裏を過ぎったのは、勝手に突っかかって散るなよ、と言って寄越したハマーンの言葉であった。
 風に殴られ波に弄ばれ、散っていく機体を見ながら、シンジの腕の中でマリューはどことなく違和感を感じていた。
 レーダーが反応していないから、モニターに映っているのはおそらく有効範囲外の場所だろう。距離と効果の関係は分からないが、シンジはかなり危険な代物だと言っていた。確かに抗う術もなく避ける事も出来ず、討たれていく様は確かに危険とも言えるが、どこかぬるいような気がしたのだ。
 本来ならこの世界であり得ぬ光景だし、或いは、MSでも戦艦でもなく、大自然を盾と矛にした文字通りの殲滅を、砂漠で目の当たりにしたせいかもしれない。
(シンジ君が言ってた暴走を起こすよりは、ずっといいわよね)
 それを口に出す事はなく、枕になっているシンジの手にそっと自分の指を絡めていく。性的な絡みは無くとも、この広い艦内で狭い艦長席に二人きりで抱かれている時間は、マリューには確かに幸福な時間であった。
 がしかし。
 絡め取られた指先を見ながら、シンジはまるで違う事を考えていた。
(マリューの体温が高くて良かった)
 と。
 無論マリューの体温を感じて楽しんでいたわけではない。マリューが感じていた違和感は、決して気のせいではなかったのだ。
 帝都に於いて、除霊をやらせても結界を張らせてもシンジの右に出る者はまずいない。但し、それはシンジの素質に依る部分が極めて高い為、途中のプロセスについていは些か曖昧な所がある。つまり、本来なら幾つもの結界を必要とする業でも、結界無しでやってのける事が可能な代わり、実際に結界を描こうとすると記憶頼みになってしまう。
 それでも簡単な結界術なら何とかなったかもしれないが、今回は攻撃力の高さから使用を禁止されている程の代物で、しかも術者でない者達に描かせた事で、副作用がもろに出た。距離に関して言えば、本来のそれを上回ったが、迎撃に際してはマリューが感じた通りややぬるいものとなり――何よりも、シンジは既に自らの発熱を自覚していたのだ。
(今夕までは、何とか誤魔化せるか)
 マリューが低温タイプだと、こうまで身体が密着していては怪しまれる可能性が高くなる。クルーを回収する夕方位までは持ってもらいたいものだと、シンジの意識はそっちに向いていた。
「もう少し頑張ってくれるかと思ったが、こんなものだったかな」
「え?」
「向こうの数だよ。この世界の艦船の事はよく分からないが、アイシャの話でもそんなに大きな旗艦じゃなさそうだったし、第一陣はこれで打ち止めでしょ。いくらザフトが猪突猛進型とは言え、すぐに次が来ることはない筈だ。ノンフィクションは、ちょっと物足りなかった?」
「そうねえ…」
 何やら考え込んだマリューが、
「良かったわよ。その…せ、席が良かったからね」
 シンジの耳元で囁いた顔は、僅かに赤くなっていた。
「それは良かった。ところでそろそろ昼食の時間なんですが」
「あまりお腹空いてないのよね。そ、それよりもーちょっとこのままがいいかなー、なんてその…」
「じゃ、そのように」
(ふえ?)
 マリューが拍子抜けした程、シンジはあっさりと頷いた。
「おやすみ、姉御」
 その指が瞼に触れると、マリューは数秒で寝息を立てていた。
「へたに起きられてばれても困る。さて、某はちょっくら脱出を」
 そうっと抜け出そうとした直後、空いていたマリューの腕が伸びて、シンジの首へにゅっと巻き付いた。
(しまったー!)
 シンジの体温が、体温計で表示できるギリギリの数値にまで上がったのは、その日の夕刻にクルー達を回収した直後の事である。
 
 
 
 
 
(第八十一話 了)

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