妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
ドクトルシビウの闇カルテ:ツェザーレ
 
 
 
第八十話:敵軍の襲来に期待する海(中)
 
 
 
 
 
 味方を裏切って敵に寝返る場合、その理由は人によって数多あるが、本人にとって一番葛藤がないのは、やはり味方から捨てられた場合だろう。
 特に、自分に二心が無かった場合、その反動は顕著なものとなる。
 アイシャは正規兵ではなかったが、バルトフェルドの傍らにいたおかげで、軍容にはだいぶ通じていた。しかも、キラ達がバルトフェルド邸に連れ込まれた時、相当な人的被害は出たが、物量的にはそう大きな被害でもなかった。
 そして、バルトフェルドの命で先行避難していた者達も、資材や機器一切を持って行くことはしなかったのだ。それをすれば、もはや敗戦を前提にするようなものだから、当然と言えば当然なのだが、出撃したザフト軍が文字通り全滅した事でそれが裏目に出た。補給物資はともかく、大切なデータが、すなわち次々に開発、ロールアウトされてくるMSの情報やソナーがアークエンジェルに渡ってしまったのである。
 勿論アイシャが手引きしたのだが、戦闘直前になっていきなり恋人から裏切り者扱いされ、しかも戦って捕虜になったならまだしも、砂漠の真ん中に放り出された事でその心は完全にザフトから離れており、アークエンジェルに利する事にも何ら躊躇いは無かった。
「女ってのは怖いねえ」
 と、率直な感想を口にして、シンジに一瞥されたムウが慌てて口をおさえたのは先日の事である。
 無論、最初は抵抗もあったろうが、シンジがアークエンジェルクルーに引き抜こうとはせず、カガリの目付にと説いた事と、そのカガリとは既に相手の裸も性感帯も知っている関係だった事も大きかった。
 もしもシンジが、最初から地球軍に入れなどと言っていたら、いかにアイシャの心が冷め切っていても拒絶したろう。
 なおそのシンジだが、
「あれは偽装だよ」
「偽装?どーゆー事?」
「馬鹿な男が馬鹿な事して腕を断たれた。かたわになった身では、戦場に出ても足手まといになると思ったのか、或いは五体満足のままでも敵せずと思ったかは分からないけれど、恋人だけは落としておこうと思ったのだろう。無論、あの邸で無傷のまま済んだ事も大きかっただろうけどね。つまり、最初から裏切り者だなどとは思っていなかったって事」
「シンジ君それ、アイシャさんには…」
「姉御が――」
 言いかけてから、不意にシンジはマリューを見つめた。
「な、なに?」
「マリューがアイシャの立場ならどう思う?」
「そうね…」
 数秒経ってからマリューは頷いた。文字通りシンジに艦の命運を預け、またここまでの道中、シンジに惹かれてもいるマリューには、アイシャの想いがよく分かるのだ。
「たとえ死すとも想いは共に――生きてと願うばかりが恋情ではない。もっとも、敗戦など思いもよらず、一緒に来られても迷惑な場合もあるけどね…」
(シンジ君?)
 マリューは僅かに首を傾げた。シンジの言葉が重く、そしてどこか無理をしているような気が、したのだ。
 無論マリューは、シンジの心にとある少女が僅かながら影を落としていることを知らない。
 ただそれも一瞬のことで、
「ヤマトやステラの頼みもあったし、出来れば殺したくはなかった。連合所属でないあの娘がいたのは好都合だったよ。茶坊主も、たまには役に立つ」
 僅かに笑ったシンジは、バルトフェルドの心中をほぼ見抜いていた。
 が、当然の事ながら真意を告げられた訳ではないし、確証はない。そんな中でアイシャに懐古の情など持たれて事態がこじれては困ると、黙っていることにしたのである。
 
 
 
 ナタルがコーヒーを噴いた原因だが、別にシンジがカズィを縛って海に放り込んだという話ではない。
 マリューの許可も出たので、バーディ達を人柱にして、子供達とシンジはゾロゾロと甲板へ出てきた。世界が違うとは言え、久しぶりの海風と潮の匂いに大きく伸びをしていたシンジだが、カズィの様子が妙なのに気付いた。他の子供達は、潮風を受けながら羽を伸ばしている中で、カズィの表情だけはどこか強張っている。
「亀頭、気分でも悪くなったか?」
「あ、いやその…何か変な感じで…」
 そういうのは気分が悪いと言わんのか?と、シンジが言いかけた時、
「そっか、カズィは海を見るのは初めてだもんな」
(内陸生まれか)
 勝手に納得したシンジだが、
「へリオポリス生まれだったもんな」
(へリオポリスってあの衛星?あれ?)
 余計な事を口走らずに良かったと安堵し、観客に身を窶す事にした。
「砂漠にも驚いたけど、あれはほら単に砂の集まりだろ?でも海って怖いじゃん。深いところはすごく深いんだろ?」
「まあ、深いな」
 ケーニヒが頷いたところへ、
「怪獣がいるもかよぉ〜?」
「えぇ!?」
 妙に低い声でミリアリアが脅かし、カズィはびくっと身を縮めた。
「なーに言ってるんだよミリィ、そんな訳ねーだろ」
「ほ、本当に?」
「本当だよ。海に怪獣なんているわけ…あの〜、碇さん?」
 笑って否定したトールだが、ふと横を見ると微妙な表情で海を眺めているシンジがいた。その左右は、キラとステラがぴったりと固めている。
「こちらの世界の基準は分からないからな。MSを見慣れていれば、どうと言うことも無いか」
「な、何ですそれ?」
「亀頭、イカは知ってるな?10本足のあいつだ。たまに8本の奴もいるが、基本的には10本が前提だ」
「一応知ってますけど…」
 頷きながら、カズィは何となく嫌な予感がしていた。
「全長が17メートル、つまりMSの全長と同じ位で、触手を拡げれば無論それより長い。そういうイカなら普通にいる。まあ、そんなイカがワサワサと浮上してきて艦にとりついた所で別に怪獣とは言わ…おや?」
 
 ガクガクガタガタブルブル。
 
 勿論、ミリアリアは冗談で言ったのだが、シンジの言葉で反射的に辺りを見回し、思わずトールにしがみついた。それにつられたのか、キラとステラまでシンジにしがみついている。カズィはしがみつく先もなく、手すりを固く握りしめたまま青くなっていた。
「そういうサイズのイカ将軍を見たことはないか?」
 ぶるぶる。
 皆が一斉に首を振った。
「そうか…。ところでさっきから気になってるんだが、時折海中に触手のようなも――」
 その言葉が終わらぬ内に、
「『キャーッ!!』」
 きれいに共鳴した娘達の悲鳴が木霊し、シンジの腕は一際強く締め付けられた。
 キラもステラも、もうシンジの腕に顔を押し当てたまま、顔を上げることも出来ず、
「シ、シンジさん…そ、それ…まだ見える?」
「あ、気のせいだったみたい」
「『良かった…ん?』」
 ほっと安堵してやっと顔を上げた娘達だが、シンジの表情がどうもおかしい。どこが、と言われると困るが、巨大なイカの片鱗を見ていたようには思えないのだ。
「ここまで可愛い悲鳴を、それも三重奏で聞けるとは思ってもみなか…ん?」
 キラとステラの、そしてミリアリアの双眸がゆっくりと赤化していく。
「『それ、ど〜ゆ〜意味ですか〜?』」
「ちょっ、ちょっと待て話せば分かる。おちつ…フギャー!」
 
「シフォン中尉」
「はい?」
「何か今、どこかで牛の断末魔みたいな声が聞こえなかった?」
「さあ、私には…」
「そう」
 絶叫でもない悲鳴を、それも甲板でのものなど聞こえないのが当然であり、マリューのシンジセンサーだけがそれを捉えていたのである。
(シンジ君の声…ってそんな訳ないか)
 
「お前ら、この俺様を逆さ吊りにするとはどういう了見――」
 甲板で逆さに吊された状態で凄むシンジだが、
「『うるさい黙れ』」
「はい…」
 ミリアリアだけでなく、キラとステラまでも腰に手を当ててシンジを睨んでいる。件の巨大イカとは大王イカの事だが、そもそもそのアジトは数百メートルの深海で、上がってくるのは死体だけと相場が決まっている。
 放射能を浴びて巨大化したイカならともかく、深海を住処とする生き物がわざわざ海面までお越しになる可能性は皆無に近いのだが、注釈を入れなかったせいで少女達の恐怖心は限界近くまで煽られたらしい。
 キラなどは、目に涙を浮かべてシンジを睨んでいるのだ。
「まああれだ、少し煽りすぎた。ちょっと反省している」
「…シンジさん、ほんとーに反省してる?」
「うん。ヤマトごめん」
「ま、まあシンジさんが反省してるなら…」
(うわ、甘っ!)
 さっきまで泣きながら怒っていたくせに、ちょっと謝られただけでころっと心変わりして、カサカサと降ろしに掛かったキラを見て、ミリアリアは内心で呆れていた。
(でもあたしもトールには…やっぱり甘くなっちゃうかな…)
 ミーアの奸知によりミリアリアが異様に発情し、そのせいで一時破局寸前まで行った二人だが、シンジが間に入ったことで、壊れることもなく今も続いている。
 そのトールはと言うと、さすがにつるし上げには参加せず、カズィと共に突如アマゾネスと化した友人達を眺めている。
(好きなんだもん、しょうがないよね)
 そっとトールの手を握ったミリアリアに、
「真っ昼間から何を…ギエエ!」
 ロマンと愛情の欠片もない台詞への返礼に、腰をおもいっきり抓られたトールが悲鳴をあげた。
「ど、どうしたの?」
「う、ううん、何でもないのよ、何でも。ねえ〜、トール?」
 にこっと笑ってトールの顔を覗き込んだミリアリアの目は――全く笑っていなかった。
「お、おうっ」
 頷いたトールの表情はどこか強張っており、しかも動作までもぎこちない。
「ところで亀頭、海を見るのは初めてって事は、当然入ったこともないんだな?」
「な、ないですよ。だいたい、滅茶苦茶深い場所がある上に、こんな吸い込まれそうな色してる所なんて怖いだけで、入ろうなんて思う人の気が知れないですよ」
「ほほう」
(あの…お兄ちゃん?)
 シンジの目が一瞬光った――それも怪しく――気がして、ステラは何となく嫌な予感がしたのだが、次の瞬間それは的中した。
「人は海から生まれて海へと帰る。煌めく星屑の欠片から生まれはしないのだ、と言うことを身を以て体験してくるがいい。風縄」
 パキッとシンジの指が鳴るのと、カズィの体が浮き上がるのとが同時であった。宙に浮いたカズィの体が、まるでクレーンゲームでクレーンに掴まれたオモチャのように、海面まですうっと移動していく。
「『い、碇さんっ!!』」「シンジさん!?」
 さすがに子供達が顔色を変えたが、もっとよく観察すれば、カズィの髪と服が妙にはためいており、それも両方向から風を受けたかのように上へ上へと吹き上げられているのが分かったかも知れないが、いきなり海上へ移動させられたカズィの有様に、そんな冷静な観察力を働かせる余裕はなかった。
「半身浴もなかなかいいものだ」
 手で摘まれた人形のように、カズィの下半身が海へと浸かる。
「ちょっ、ちょっと待っ、ギャアアア!!」
 無論艦は停止しておらず、あっという間に波がその全身へと襲いかかり、カズィの悲鳴は波に飲み込まれた。
 
 
 
「よーし、これであたしも実戦でガシガシ…痛!」
 ぽかっ!
「これは所詮ゲーム。戦争(リアル)とゲームは違うのよ。こんなゲームでちょっと位良い成績が出たからって、調子に乗るんじゃないの」
 その頃カガリは、シミュレータを使っての試験中であった。無論クルーではないし、甲板に出ても良かったのだが、アイシャから許可が出なかったのである。
 高得点を出して喜んでいるところへ、アイシャからツッコミを入れられているカガリだが、実際の事情は少し異なり、外出許可が出るかどうかの分岐点であった。
 インド洋で、クルー達に砂浜で過ごすようにとシンジから通達が出た。
 だが、ザフトの襲来はインド洋上だとアイシャは見ており、それを前にして遊んでいる暇はないとあっさり却下された。
「だいたい、カガリにはそれ以外にも勉強する事が山ほどあるでしょ」
「やだやだ、あたしも海に行くー!」
 ジタバタと駄々をこねるカガリに、
「我が儘言ってるとホオジロザメを釣る餌に――ん?そう言えば、艦内に戦闘機のシミュレータがどこかにあったわね。カガリ、やった事ある?」
「シミュレータ?あたしは見た事無いよ」
「じゃ、チャンスをあげるわ。二回のテストで、一回でも95点以上出せたら、海に行った時カガリも遊ばせてあげる。もし出せなかったら、砂浜で一日勉強してもらうわよ」
「えー!?」
 結果、冒頭の台詞になるのだ。
「アイシャ、これであたしも海で遊んでいいんだ…いや、いいんでしょ?」
「そーゆー口の利き方はするな、と言ったはずよ。まあいいわ、今回は許してあげる。でも、次にやったらスカイグラスパーから吊してもらうわヨ?」
「は、はーい」
 シンジの底知れぬ怖さとはまた違うが、今まで抑える者が事実上いなかったカガリにとっては、十分怖い付き人であった。
「ところでカガリ」
「え?」
「さっき、誰か海に落ちなかった?」
 
 
 
「い、碇さんいくらなんでも酷いじゃないですか!カズィのやつ、完全に気を失ってますよ」
 風に操られて海に入れられたカズィは、もろに波を受けた事と極度の恐怖心から、引き上げてみると気を失っていた。
「もう少し頑丈かと思ったが…むう、もろい奴め」
「『……』」
 やはり暴君の気でもあったのかと、シンジに冷たい視線を向けるミリアリアとトールだが、シンジには全く慌てた様子もなく、
「ケーニヒ、艦内で医療班呼んでこい。多分レコアは暇だから」
 と告げたのだが、
「まったくもうっ」
 言われた方は半分パニック状態になっており、慌ててすっ飛んでいく。ナタルが聞いたのは、慌てたトールが医療室へ行くのを待てず、入り口の通信機で叫んだ声であった。
 一方シンジの方は、
「ハウ、ちょっと押してみそ」
「お、押す?」
「そう。亀頭の胸の辺りを両手で押して。それで元に戻る」
「……」
 あからさまに疑惑の視線を向けながら、それでも言われるまま、ミリアリアがカズィの胸を両手で押した次の瞬間、
「うぶぅ!?」
 その口から海水が噴水のように噴き出し、ミリアリアの顔を直撃した。
 しかも、
「よし」
 それを見たシンジが、ガッツポーズを取っているではないか。
(キラ、これどう思う?)(なんか…全部計算していたみたい…)
 ヒソヒソと囁き合う小娘達を余所に、
「顔にかけられるのは初体験?」
 シンジは、にやあと妙に満足そうに笑って訊いた。
「ーっ!!」
 顔を真っ赤にしてシンジを睨むミリアリアの横で、首を振りながらゆっくりとカズィが起きあがる。
「カ、カズィ大丈夫なのっ!?」
「あ、ああ…大丈夫。ごめんよミリィ、いきなり吐き出しちゃって…」
「い、いいのよこんなの。洗えば落ちるんだから。それにしてもいきなり海に落とすなんて、本当に何考えてるんですか!」
「……」
 少し表情を戻したシンジがカズィを眺め、
「亀頭、怒ってる?」
「ちょっと怖かったけど、碇さん計算してたんでしょ?別に怒ってはいないですよ。でも、今度放り込む時は温泉にしといて下さい」
「うむ」
「カズィ…」
 表情を見れば、本心かシンジに気兼ねしているのか位は分かる。そして、カズィの表情に気兼ねの色はなかったのだ。
(これって…つまりは洗脳?)
 ぽかっ。
「痛っ!?な、何するんですか!」
「ハウ、今何を考えたのか正直に言ってみ?」
「え?…え、遠慮します」
(読まれたー!?)
「さて、そろそろケーニヒがレコアを連れて走ってくる頃だ。まず異常はないと思うが、一応診てもらうといい」
「あい」
 立ち上がったシンジに、
「あの、私達は?」
「食堂でココアでも飲んでくるから、行くなら一緒においで」
「『はーい』」
 カズィも大事ないと知って安堵した二人が、嬉々としてシンジに寄り添う。
 シンジ達の姿が扉の向こうに消えてから、
「カズィ…ほんとに怒ってないの?」
 ミリアリアが小声で訊いた。シンジが扉に貼り付いて聞き耳を立てている、とは思わなかったが、声帯の方が勝手にボリュームを絞ったのだ。
「そりゃあ、嬉しいって事はないよ。少なくとも、怖いって言ってた海にいきなり放り込まれたんだからさ。ところでミリィ、俺はロープかなんかで救助されたのか?」
「違うわよ。碇さんが指を鳴らしたら海に放り込まれて、も一度指を鳴らしたらまた上がってきたのよ」
「最初宙に浮いた時さ、すごい風が吹き付けたんだ。なんか今までに一度も体験したことの無いようなすごい風だったよ。碇さんは超能力者とは違う。多分、風を微妙に操って海へ落ちないようにしていたんだと思うけど、あれってすごいと思わない?道具を使わずに、こんな速さで進んでる船から海に下半身だけ入って、また甲板へ引き上げられるなんて一生に一度も経験できないよ。ひどい目に遭わされた、と思うか一生に一度の経験をしたと思うか、そのどっちかじゃん。俺は、碇さんが妙に自信たっぷりだったし、珍しい経験が出来たと思ってる」
「カズィ…」
 ちょっとびっくりしたようにカズィを見たミリアリアが、
「なんかさ、碇さんと会ってからちょっと変わったね。前はもっとねく…あ、ううんごめん、なんでもないよっ」
「根暗だった、って?別に怒らないよ、その通りだもんな。でもミリィの言うとおり、碇さんに会ってから俺、ちょっとだけだけど変われたような気がするんだ」
「……」
 砂漠に於ける対ザフト戦の圧勝は、シンジと出会ってからすぐの出来事ではなかった。へリオポリスでジンの破片は吹っ飛ばして見せたが、宇宙に於ける戦闘は戦力面でも決して優位ではなかったし、普通に考えれば、アークエンジェルを乗っ取って降伏した方が余程いい。
 それでも、シンジの口から逃亡とか降伏とか言う言葉が出ることは決してなかったし、またキラを始めとしたへリオポリス組も、それによく応えてきた。そんな中で、カズィは今ひとつ自分の立ち位置を見切れていなかったのだ。元々目立つ方ではなかったし、どちらかと言えば目立たぬ脇役で、それこそミリアリアの言うとおり根暗な部分もあった。そのカズィが、海に放り込まれたのを珍しい体験と言えるようにまでなったのは、やはり砂漠での事が大きかった。
 自分に自信がないから、当然他人が自分をどう見るのかも気になる。正直なところ、目立たぬ自分はシンジからも忘却の彼方かと思っていたのだが、シンジは子供達の中でただ一人、カズィに声を掛けて伴った。
 無論、それはカズィでなければ出来ぬ事ではなかったし、たまたま目に付いたから呼ばれただけだったかもしれない。それでも、自らは必要とされる事もあるのだと自覚した事は、カズィ自身も知らぬうちにその性格を変えつつあったのだ。
「へリオポリスにいた頃の俺だったら、きっとひどい目に遭わされたって…泣きわめいていたと思うんだ。ちょっとずつ、ちょっとずつでも…変われたらって俺は思ってるよ」
「そっか…良かったね、カズィ」
 ミリアリアが頷いたところへ、
「レコアさん連れてきたぞ、カズィ大丈夫かっ!?」
 トールが息せき切って駈けてくるのが見え、二人は顔を見合わせて笑い合った。
 
 
 
 
 
 地上で、緊張感というものが根本から欠如しているような不沈艦が、紅海を悠然と南下している頃、プラントの一部では慌ただしい動きを見せていた。クルーゼ隊の降下、新型戦艦ミネルバの出航が明日と決まったのである。
 元より予定外の作戦行動ではないし、それなりに用意はしていたのだが、ミネルバの方はその存在からして長らく秘されていたこともあり、クルー達も最終準備に追われていた。
 そんな中、とある湖の畔では二人の少女が肩を並べて歩いていた。
 一人はルナマリア・ホーク、出航寸前で慌ただしい筈のミネルバクルーであり、もう一人は、これまた地表への降下を控えたクルーゼ隊のニコル・アマルフィであった。今の様子だけを見れば、出立前の多忙などは無縁に見える。
「ルナマリア、まだハマーン様からの連絡はないの?」
 ハマーンと二人の時は名前で呼ぶニコルだが、他の誰かがいる時は必ずハマーン様と呼ぶ。
「飛行テストがもう少し掛かるみたい。終わり次第連絡が来る事になってるんだけどね」
 二人ともエリートの赤服と言うこともあり、仲は良い。ルナマリアの搭乗機はハマーンのシグーだし、ニコルが搭乗するブリッツも既に整備は済んでいる。戦力的にも見劣りしないのだが、二人の姿にはどこか覇気がない。
 気乗りゲージで言えば、三分の一くらいしか満ちていない感じだ。
「ミネルバの配属は、あまり気乗りしてない?」
「戦艦は最新鋭だし、配属の機体もザラ議長が直々に手配されて、まだ配備すらされてないMSが来てる。でも艦長がねえ…」
「たしか、グラディス艦長だよね」
「うん…聞いた話なんだけど、あのアークエンジェルにご執心なんだって。てゆーか、向こうの女艦長にライバル意識むき出しって話よ。地表に降りたら勝手に追いかけていきそうで、なーんか不安なのよね。艦長は…あの艦(ふね)の怖さを知らないのよ」
「そっか…」
「勿論、命令で追っかけるなら全然オッケーなんだけど、艦長に暴走されたら傍迷惑だし。ま、配属になっちゃったから仕方ないけどね。ところでニコル、一回訊いてみたかったんだけどさ」
「なに?」
「碇シンジって異世界人なんでしょ?どういう性格なの?」
 その瞬間、ニコルの顔が火を噴いたように赤くなった。ぼっ、と音までしたような気がする。
「ニ、ニコル?」
「な、なんでもない…だ、大丈夫…」
(まさか貴女、あの異世界人に犯され…犯され?)
 ニコルがシンジと何かあったらしい、というのはすぐに気付いたが、だがそれは犯された女の表情(かお)ではなかったのだ。ルナマリアは、首を振って浮かんだ考えを振り払った。
「一言で言うとそうだね…敵にしちゃいけない人、かな…。ルナマリアも知ってる通り、私はあの艦で捕まってた。その時にお話ししたんだけど、とても怖い人だって言うのはよく分かった。強いとかそれだけじゃなくて、みんなを纏め上げるのがとても上手。何よりも安心感を持てる人だった。この人が一緒にいてくれれば大丈夫って、そんな風に思える人がいる艦は、敵に回ればこの上なく厄介だよ。それに今は、バルトフェルド隊を全滅させてさらに自信付いてるだろうしね」
(ニコル…)
 箝口令が敷かれてはいたが、バルトフェルド隊が砂漠の下にその姿を消したという噂は、既に一部では広まっていた。但し、カズィのように地球へ降りた事が無く、砂漠の存在を知らない者も多いため、意味を理解できない者の方が多く、また意味を理解できてもそんな事はあり得ないと一笑に付されるもので、ごく一部に於けるうわさ話として済んでいたのだ。
 だがルナマリアもニコルも、それが事実である事を本能的に感じ取っていた。ニコルは地球へ降りたことがあるし、ルナマリアの方はオーブ出身である。何よりも、シンジを搭載したMSの異様とも言える戦闘能力を知る二人は、シンジならやってのけてもおかしくないと分かっていただ。
「あの人は、地球軍のことが好きじゃない。へリオポリスで、ザフト兵が間抜けな事をしなかったら今頃はこっちにいた可能性もある。本来なら敵じゃない筈だけどでも…脅威になるのなら仕方ないよね。例え…到底及ばないって分かっていても…」
 イザークの乗るデュエルを拿捕され、無謀に免じて返してやると言われたルナマリアだが、ニコル程にはシンジのことを知らない。知らない方が幸せ、とはこういう場合の事を言うのだろうが、今からでも配置換えしてもらおうか?と思わずルナマリアは言いかけた。
 それほどまでに、ニコルの影が薄く見えたのである。
 だが、結局口にすることは出来なかった。
 戦いたくない相手だから替わってあげる、と言えば、それはニコルに取ってこの上ない屈辱になろう。ニコルは――軍人なのだ。
 こみ上げる思いと言葉をぐっと抑えながら、ルナマリアはニコルの手をぎゅっと強く握りしめた。
 これが――今生の別れになりそうな気がしてならなかったのだ。
(死なないでよ、ニコル…)
 それは、後から考えれば虫の知らせだったのかも知れない。
 
 
 
  
 
「じゃあシンジさんは、どうしても海岸には行かないんですか?」
「暇を持て余している事だし一日位海岸で休暇を、と言う発想じゃない。艦長には既に話したが、今回艦体に描いたのは尋常じゃない攻撃型タイプの結界だ。中心に施工主を配置しておかないと、正直どういう結果が出るか私にも分からない。万一、不安定な結界が暴走でもした日には、君らが砂浜で身体を焼いてる目の前で、アークエンジェルが爆発炎上でも起こすかも知れない。それは困るでしょ」
「『う、うん…』」
 砂漠の時とは違い、余計なことを口走ったせいで一緒に行けない訳ではないが、二人には諦めきれない理由があった。
 どうしても、着ている姿をシンジに見てもらいたいものがあったのだ。
「で、でもお兄ちゃん…」
「ん?」
「オーブでこの艦を降りたら、帰る方法を捜すんでしょ?そうしたらもう…」
 さすがに全ては言えず、指先を絡ませてもにょもにょと呟くような声になったステラの後ろから、
「いいじゃない、行ってあげれば。折角水着を手に入れたんだから、着たとこ見てほしいでしょ」
 ひょこっと綾香が顔を出した。
「水着姿だ〜?」
「そ、かわいいみ…モゴ…」
 さっと伸びた二本の手が綾香の口を塞ぎ、
「『な、なんでもないのっ』」
「あからさまに怪しい。まあいいが、ただ、さっきも言ったが私が決める事じゃないからな」
「じゃ、じゃあラミアス艦長に?」
「姉御に許可もらってどうする気だ。ザフトの皆様だよ。さっさとお出で頂き、撃退できればすぐには次も来ないだろうし、まあ半日位は大丈夫でしょう。その時は付き合ってあげるから」
「『うんっ』」
 感謝の視線を向けた二人に、綾香はひとつウインクしてみせた。
 綾香はシンジに対して、二人のような感情は持っていない。だから冷静に観察できると同時に、現時点では極めて勝算の薄い二人を応援したいという、反骨心と義侠心が混ざり合ったような気持ちもある。
 シンジの防壁にあえなく阻まれそうな二人を見て、援護射撃を行ったのもその為だ。
(ところでセリオ)
(はい?)
(碇以外全員行くんだっけ?)
(確かマリュー・ラミアス艦長は操舵があるので残られる、と聞いております)
(……)
 キラとステラにちらりと視線を向け、
(…前途多難だよね)
(はい)
 艦内で二人きり、と言う事など確認する迄もなく分かっていたのだ。
 その翌日、アークエンジェルは紅海を抜けてインド洋へと入った。ザフトには既に動きを察知されているだろうが、陸上であれだけ手痛い目に遭わされながら、さっそくジブラルタルから追撃の手を出す事はできまい。
 少なくとも洋上、それもインド洋に入ってからと言うのがアイシャの読みであり、ここまででそれは半分当たっている。
「でも、カーペンタリアから延々やってくるには少し遠くないかしら?」
 艦内のクルーを砂浜で焼くべく、アークエンジェルは海岸へ艦を着陸させた。これから一日海遊びとは何とも剛毅な話だが、管理人ならぬ防人の目は襲来するであろうザフトに向けられており、引き寄せて第一陣を討つ策を取っているから、一応はこれも軍事作戦なのだ。
 今までに、そしてこれから先も、誰一人として取りえない作戦ではあるが。
 とまれ、シンジからは既に下船の準備をするよう通達が出ているのだが、やはり艦長のマリューとしては、大海原で装備を放り出すような状況が、シンジ一人の判断ではなくアイシャの読みから来ているだけに、最終確認はしておきたかった。
 艦橋へシンジとアイシャを呼び出したマリューがアイシャに訊くと、
「カーペンタリアから、アークエンジェルを目指してやってくる訳じゃないわ。潜水母艦よ」
「潜水母艦を?」
 この時点で地球軍は、潜水艦と母艦の役目を兼用できる便利な代物は持っていなかった。何よりも、このアークエンジェルは水中戦闘が出来ないのだ。
 僅かに表情が硬くなったマリューの横で、
「ドロンジョ」
 小さく呟く声がして、二対の視線がそちらを向いた。
「『今、何か言った?』」
「いえ、なんでも」
 空気を読まないその男はつい、と顔をそらし、
「アイシャ、その潜水母艦の攻撃能力は?戦艦クラス?」
「勿論武装はしているけれど、メインはMSの運搬だから戦艦には及ばないわ――」
 シンジの顔をじっと見つめ、
「来ないわよ」
 と、一言告げた。
「ん」
 シンジが頷き、マリューの眉がほんの少し寄った。
 二人の間に男女の感情がないのは分かっている。が、妙に息の通じているようなやりとりは、やはりマリューとしてはちょっと面白くない。
 しかもシンジは、どこか満足げに笑ったではないか。
「俺の顔を眺めて意図を読むとは、さすがアイシャと言うところだね。と言うわけで艦長」
「…何かしら」
「目一杯近づく必要はないが、ある程度浅い所を選んで進めば大丈夫。今アイシャに訊いた意図は、母艦が前に出てきてAA(これ)を攻撃するほど、高い戦闘能力を持っているのかって言うこと。でもアイシャは、前に出てくるほどの艦じゃないと言った。ここまでいい?」
「え、ええ…」
 今ひとつ理解していない顔のマリューに、
「つまり、こっちを見つけてやってくる先陣はMSって事になる。多分、潜水母艦を沈める迄には行かない。罠(トラップ)にはまったMSを失えば、母艦は引き上げるだろうからね。あとは、こちらがインド洋を進めばまた襲ってくる。その時、浅い海を行けば空から攻撃しやすいというもの。最初の罠で仕留められなければその時はフラガと、アイシャ・カガリ組に任せる」
「そう言う事ね。いいわ、それで行きましょう。アイシャさん、お任せしていいかしら?」
「任せて、ミス・マリュー。私の心はもう、ザフトには微塵も残っていないわ」
(そう言う意味で言ったんじゃないんだけどな)
 アイシャを疑ったのではなく、手の掛かるカガリと同乗で大丈夫か、との意味で訊いたのだが、アイシャは違う方に取ったらしい。
「シンジ君が請け合ったのだもの、あなたの事は信頼してますわ」
 光栄ネ、と微笑ったアイシャが、不意にマリューの耳元へ口を寄せた。
(私にその気はないし、焼き餅なんて焼かなくても大丈夫ヨ。今日は艦内に二人きりでショ?ミスター碇にいっぱい甘えるのね)
 艦の最高責任者が、ついこの間までは敵で今でもまだ連合には属していない女に囁かれ、首筋まで赤くなっていくのをシンジは少し微妙な表情で眺めていた。
 普通に考えれば、かなり奇妙な光景ではある。
(そう…俺を含めて)
 シンジが内心で呟いた時、
「じゃあマリュー艦長、私は準備があるのでこれで。後はミスター碇のお仕事よ」
「ええ」「へーい」
 アイシャが出て行った後、マリューが動いた。ツ、と靴底を滑らせるようにして移動し、そっとシンジに身を寄せる。
「わ、私はその…じょ、除外された艦長なんだけど…よ、用は操舵だけなのかなーって、べっ、別に気になる訳じゃないんだけどねっ」
 まだうっすらと顔を赤くしたまま、少し早口で訊いたマリューにシンジは一言、
「昼寝」
 とだけ告げると、さっさと艦橋から出て行ってしまった。
「…昼寝?」
 取り残されたマリューは小首を傾げたが、その顔に暗い色は無かった。
 シンジの口調に、弾くようなものがなかったのだ。
 まだ数週間の付き合いではあるが、言葉の奥に含まれているものに漠然とながら気付けるようにはなってきた。
 特に、シンジの場合は表情にそのまま出すことが少ない為、口調で判断できないと火傷することにもなりかねない。幾度かの失敗を経てきたマリューの、自己防衛策とも言える。
「今の私は絶対なんかじゃない。後になってから間違いに気付いて後悔してそんな繰り返し…」
 距離が近づいたかと思うと、また遠ざかっている。マリューがシンジをよく知らないと言うこともあるが、帝都に於けるシンジの交友関係は、殆どがシンジの性分を見切った上で付き合っているから、うっかり地雷を踏むような事はないのだ。
 ただ、人外の存在がメインとなっている交友関係を、そのままマリューに強いるのは酷というものだろう。
「でも私はその度に…少しずつでも前に進めているのかな…」
 スクリーンに映る大海原を見つめながら、マリューが呟く。
 それから一時間後、アークエンジェルは海岸に上陸した。
 
 
 
 
 
(第八十話 了)

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