妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
ドクトルシビウの闇カルテ:ツェザーレ
 
 
 
第六十六話:自爆と告白の三次式
 
 
 
 
 
「駄目だな、こりゃ」
 七十六個目の義手を投げ出して、バルトフェルドは呟いた。口調だけ聞けばひどく脳天気だが、その内容は切実である。
 先だってキラ達三人を屋敷へ連れてきたとき、キラに銃口を向けたせいで目に見えぬ風の刃が屋敷内で荒れ狂い、バルトフェルドも右腕を断たれた。
 これではMSの操縦など到底出来ないし、指揮官がこの有様では兵の士気にも関わる。幸いプラントの技術は進んでおり、義手や義足はお手の物で、根本から断たれた状態でさえ、神経を繋げば何とかなる位だ。とは言え、作れると言うことは早さと比例する訳ではなく、仮の義手が出来るまで三ヶ月かかると言うことで、とりあえず代用できそうな物を片っ端から試していたのだが、悉く失敗に終わった。
 つまり、まもなく攻めて来るであろうアークエンジェルと<明けの砂漠>の連合軍を相手に、片腕で指揮を執らねばならないという事だ。
 ジブラルタル基地総司令官は、弱みを握ってあるからこちらの言うとおりの兵力を寄越してくる。
 が、肝心の自分がこの有様では右翼をもぎ取られたようなものだ。
「集めるだけ…」
 バルトフェルド隊の隊長として、その語尾は口にしえないものであった。
「隊長!」
「入りたまえ」
「失礼いたします!」
 いつも通り、元気よくダコスタが入ってきた。
 バルトフェルドの肩より下には視線を向けず、
「ジブラルタル基地より、最終確認の連絡が来ました。こちらの戦闘艦はレセップス・ピートリー・ヘンリーカーターの三隻、増援要請はバクゥ五十機、及びザウートが五機と戦闘ヘリが五十機、以上でよろしいでしょうか」
「そうだな…」
 しばし考え込んでから、
「戦闘ヘリは四十機、バクゥの要請は三十に減らせ」
「隊長!?」
 無論ダコスタも敵の、と言うより唯一にして一番厄介な青年の事は知っている。バルトフェルドが頭をおさえてくれなかったら、今頃首は胴体と円満離婚していただろう。
 しかもバルトフェルドがこの有様では、戦力などどれだけあっても過多と言うことはない、と思っていたのにそれを減らせと言う。まさか、と嫌な悪寒がダコスタの背を走ったが、
「機体の上に人材まで要求しては、さすがに逆ギレされるかもしれんだろう?」
「人材、でありますか?」
「そ」
 片手でぎこちなくコーヒーを注ぎ、不自由そうに飲む。こんな時でもコーヒー好きの嗜好は止まらないようだ。
「機体の要請は、今言った数に減らせ。そして、ジブラルタルから、ライラ・ミラ・ライラをこちらへ寄越すように要請しろ」
「…はっ!」
 ライラ・ミラ・ライラ。年はまだ若いが、バクゥを操らせればジブラルタルに敵うものはいない、とまで言われるほどのパイロットだ。
 能力に問題はない。
 だが、問題は呼ぶ理由にある。仮にバクゥが百機いても、パイロットが常人ばかりでは意味がないからまとめる者を、との事で呼ぶわけではないのだ。おそらく、いや間違いなく――隊長機であるラゴゥの操縦助手だろう。ラゴゥは指揮官機の二人乗りで、本来ならバルトフェルドとアイシャが操縦していた。
 バルトフェルドがとても使えないから、アイシャと組んで操縦させるのか。
 答えは否、だ。
 屋敷内を死の風が吹き荒れた日、バルトフェルドを始め駆けつけた兵は悉くその刃に掛かり、文字通り死屍累々となりながら、一応兵に所属するアイシャだけは唯一免れた。軍服を着てはいないが、バルトフェルドの右腕としてラゴゥを駆っているし、兵でないとは言えまい。
 しかも、婚姻統制に引っかかったおかげで、バルトフェルドとは結婚できずにおり、元凶となった三人を連れてきて、その上レズプレイにふけっていた――実際はカガリを堕とそうとして返り討ちにあったのだが――と見る向きもあり、生き残った者達からも微妙な視線を向けられているのは事実だ。
 本来なら恋人の位置だが、決して結ばれぬ、いや結ばれる事を禁じられた為、愛人と言った方が近い。
 ダコスタは当然信じているが、万が一にもアイシャが戦場に出る事で士気に影響があってはと、わざわざ操縦者を呼び寄せることにしたのだろう。
 ライラは、バルトフェルドの友人だとも聞いている。相性としては問題ない筈だ。
「かしこまりました。機体数の修正とライラ大尉の召還を要請します!」
「頼んだ」
「はっ!」
 がしかし。
 アイシャは仮にも、隊長であるバルトフェルドと両思いの間柄にあり、少々妙なところがあったからとて、そうそう妙な噂が立ったり、怪訝な視線を向けられたりする筈もない。
 全ては――バルトフェルドの差し金であった。
 腕を根本から断たれた己の姿を認識したバルトフェルドが見たのは、泣きながら身体を揺すってくるアイシャの――健常者の姿であり、咄嗟にはねつけてしまったのだ。どうしてそんな事をしたのか、後で考えても分からなかった。
 ただその時、女の見せた悲しげな顔とそれまでとは違う涙は、男の心に小さいが決して抜けぬトゲとなって残った。
 彼我の戦力差――圧倒的にこちらが有利。
 これまでの戦闘結果――こちらが惨敗。
 しかも、内一回は生身の青年相手に、後一歩で討ち死にという所まで追いつめられたのだ。何よりも、到底分析不能な砂像と、人為的に操られているかに見えた砂嵐は、それこそ戦力がいくらあっても手の打ちようがない。
 負ける、とは言わぬ。
 だが、客観的に分析すれば勝率は10%を切っていると、バルトフェルドは判断していた。
 つまり、ほとんど負け戦という事だ。とは言え、何もせずにジブラルタルまで引き上げる事は出来ないし、勝ち目が薄過ぎるから、と避けていて軍人はつとまらない。
 あの脅威の光景を知らない連中からは、ナチュラル風情が乗った一隻の戦艦と二機のMS相手に、恐れをなして退散したと見えよう。小さなほころびが、やがては巨大なダムをも決壊させると、バルトフェルドは十分に知っていた。
 だからこそ――バルトフェルドは、一つの決意を固めていたのだ。
 自らの犯した、男として決して自分を許せぬ過ちの償いの為に。
 
 
 
 
 
「シ、シンジ君っ」
 たまりかねてマリューが遮った。このまま、生身のマリュー・ラミアスを見ない視線を向けられ続けたら、精神(こころ)がおかしくなると、自分が一番分かっている。シンジが自分を見なくなり、しかも丸三日間一切連絡して来なかった間、睡眠も食事もマリューから遠ざかった。
 化粧水を含ませたコットンで顔をこすれば、隈の出来た目元が浮き上がってくる有様だ。自分の心がこうまでシンジに奪われているとは、離れるまで自分でも気づいてはいなかったが、今マリューの精神状態はかなり不安定になっているのは事実だ。
「何か?」
「す、少しっ…お、お話しさせてくれないかしら」
「構わないが、バジルールと上手く行っていないの?」
「え…ナタルと?」
「姉御がナタルを抱いたのは、その方が二人の関係が上手く行くと考えたからだろう。だからこそ、俺がわざわざ姉御を遠ざけて差し上げたというのに」
「…えーっ!?」
 シンジの口から出る奇妙な言葉に、思わずマリューが素っ頓狂な声をあげた。艦長室だから良いようなものの、艦橋だったら周囲が一斉に振り向くだろう。
「えーっ、とは?」
「だ、だってシンジ君が今…へ、変な事をっ…」
「何を言っとるか。宇宙人が地球へ来て寝ぼけてるな。バジルールが処女だった事は、姉御も知っているだろうが」
「え、ええ…」
 マリューの顔に浮かんだ?マークが、一つから三つに増えた。
「処女で愛撫に弱く、しかもキスすら未体験だったようなバジルールが、同性は無論異性とも付き合ったことはあるまい。ここまで分かる?」
「う、うん、それは私も知ってるけど…」
「姉御と裸で掴み合い、完膚無きまでに敗戦し、しかも絶頂を迎えさせられた。この場合、雨降って地固まると言うのかは知らないが、文字通り裸でぶつかり合って、多少はすっきりした所もあろう。そこを姉御に誘惑されて抱かれた。バジルールにしてみれば、文字通り全てをさらけ出した最初の人になる」
 と言われても、まだ分からない。
「……」
「まだ分かってないな?処女で恋愛もした事のない娘が、付き合いを飛び越えていきなり抱かれたりすると、奇妙な依存的感情を抱く事がある。当人は恋愛感情のつもりだが、実際は強迫を伴った独占感情だったりする事が多い」
「そ、そうなの?」
「そう。ま、バジルールは姉御を閉じこめて自分のものに、などと言いはしないだろうが、自分を抱いた直後の姉御が、私とくっつているのを見れば、自分をまさぐった指や舐めまわした舌で何をしたのか、とあらぬ思いに囚われたりもする」
「べっ、別に舐めまわしたりなんて…痛」
 ぽかっ。
「たとえだ。とにかく、それが原因でまだ元の木阿弥に戻ってはならぬと、私が姉御を遠ざけたのだ。少しは理解したか?」
「じゃ、じゃあ…わ、私がナタルを抱いたから避けたとか…じゃなくて…?」
「何でそんな事で…ああ、性癖の話か。別に同性間恋愛否定論者じゃない。そんな事を言ったら、悪の師匠に破門されるよ。だいたいそんな事で姉御を…もしもし?」
「…ばか…ばか」
(ハン?何で俺が馬鹿だと?)
 マリューの脳内を解剖してみたくなったシンジだが、
「シンジ君が…私の事を避けてるって…何も言っ…ない…ばかぁっ」
 その両目から頬を滴る涙を見て、何とも言えない表情になった。
「バジルールがどう出るかを見るため、と姉御に言っておけば、姉御は必ず顔に出るだろう。そこはうちの姉貴よりレベルは低い。だから言わないでおいたのだが…姉御にそこまでの精神感応や以心伝心を期待するのは、まだ無理があったか。困った姉御だ」
 ぶつくさぼやきながらも、その頬を伝う涙をシンジが舐めとった瞬間、
(うぐ!?)
 強烈な力で抱きつかれた。
「もう…シンジ君…」
(世話が焼けることだ)
 安堵した事せいか、自分の胸元に顔を押しつけて泣いているマリューの髪を撫でながら、シンジはちらっと宙を見上げ――慌てて逸らした。
 シンジがそこに見たのは、姉のミサトが腕を組んで見下ろしている姿であった。
 かさかさと視線を逸らし、マリューの髪をそっと撫でていく。
 やがて、マリューの顔が上がった。
「ご、ごめんね…みっともない所見せちゃって…」
 ごしごしと目許を拭ったマリューに、
「姉御って、ちょっと泣き虫?」
 うっすらとシンジが微笑い、マリューの顔がかーっと赤くなる。
「し、仕方ないでしょっ、それだけ好きになっちゃ…!?」
 マリュー・ラミアス、自爆す。
 ミーアには白状させられながら、ここまでシンジに直接言った事は一度もなく、無論シンジにそんな感情の有無を確かめた事もない。それが自分から墓穴を掘ってしまったのだ。
 告げられたのはシンジなのに、その笑みは崩れずマリューをじっと見つめてくる。
 首筋まで真っ赤に染めたマリューが視線を逸らしたところへ、
「ありがと、マリュー」
「…え?」
 シンジはそれに答えることは無かったが、マリューの柔らかな頬を指先でつうっと撫でた。
(シンジ君…)
 確かに今、艦長でも姉御でもなく、マリューとシンジは呼んだ。嫌われたどころか、自分の独り相撲だったらしいと知り、しかも思わず好きだと口走ってしまったのだ。恥ずかしいやら口惜しいやら、もやもやした気持ちがマリューの胸中にわき上がってきたが、
(でも、悪くない…かも)
 嫌われたりしたのではない、と分かったのはやはり嬉しかった。万一これで、嫌悪感をまともに向けられたら、自分はもう立ち直れなかったろう。
 シンジがひょっこり姿を消せば、まだ元の世界に戻ったのか思うことも出来るが、それとは全く異質のものなのだ。
 細い指に頬を撫でられ、心がすうっと落ち着いていく。
(ほんとに…好きになっちゃったんだ私…)
 やがてシンジは指を離し、
「さて、話を戻そっか」
「そ、そうねっ。それで…ローエングリンを発射ですって?」
「ローエングリン?」
「陽電子砲の事よ」
「ああ、ネーミングね。そう言うこと。ここから数キロ前方に、三十体の砂像が列を成している。そこへ撃ち込んで」
「ど、どうするの?」
「どうって試し撃ち。五体撃ち抜けるかどうかだと思うが」
「……」
(ガンマ線の関係とかは…知ってるのよね?しかも五体がせいぜいってどういう事?)
 マリューは内心で呟いた。
 シンジの顔をちらっと見たが、真顔である。虚勢を張っている様子もない。
「陽電子砲と変わらぬ威力の砲火があれば、そちらで構わない。無論、地表へ影響力があるのは承知の上だが、敵がそれを持っていれば意味が無くなる」
 どうやら、三日間の成果を試したいらしい。そんな事などせずとも、マリューはシンジを信頼していると言えばそれまでだが、前回と同じ事ならシンジも試し撃ちなどとは言うまい。
 指先をじっと見つめて考え込んでいたマリューが、すっと顔を上げた。
「シンジ君」
「ん」
「分かりました、許可します。但し、一つだけ条件があります」
 シンジに裸身を絡めてくるマリューではなく、アークエンジェル艦長の顔で、マリューがシンジを見た。
「何でしょう」
「私と一緒に行って欲しい場所があります」
「場所、と?」
 
 五…四…三…二…一。
 
「温泉へ」
 マリューの表情が崩れ、艦長から女のものへと変わる。
「お風呂に私がエスコートしてあげる。み、三日も淋しい思いさせて…ゆ、許さないんだからねっ」
「ではそのように」
 表情を変えぬまま、シンジはいつものように一つ頷いた。
 一時間後、一度目に左舷陽電子砲が発射され、砂像は五列中、三列までが吹っ飛んだ。
 そして右舷から二度目に放たれた時――砂像の列は一列目の三体を倒したに過ぎなかった。
「この数日、殆どの時間は地脈の調整に費やした。この世界には、精(ジン)を使える者が存在しないと見える。精使いが十人もいれば、地上の基地は全てどちらかの陣営の旗に染まっていたものを」
 シンジの世界にモビルスーツはない。
 そしてそれは、帝都がまた繁栄の時を迎えたとしても、製造されるものではないように思う。技術力の違い、と言うよりも進む道が異なっていると、シンジはそんな気が、した。
 だいたい自らも精を持ち、大地の精も自由に操れ、しかもMSを媒体とする事の出来る者など居れば、文字通り無敵になってしまう。
 陽電子砲ですら崩せぬ砂像に、驚愕の眼差しを向けるクルー達を見て、シンジは静かに頷いた。シンジ個人の精ならいざ知らず、地脈から直接精を集めた結果なら、シンジからすれば当然の範疇である。
 その夕方、
「え、マリュー艦長?シンジ君と一緒に出かけたわよ」
「お兄ちゃんと?」「シンジさんと一緒にっ?」
「ええ。何でも明日の仕掛けの最終確認に行くんですって」
 私から避妊薬と媚薬をたっぷりもらってね、と付け加えるほど、レコアは愚かではなかった。
 無論、最終確認どころか、温泉へ一直線だった事もレコアは知っている。
「『そうですか…』」
 軍務、と聞いては二人にそれ以上言うことは出来ず、とぼとぼと帰って行くキラとステラの後ろ姿を見ながら、ごめんとレコアは呟いた。
(でも、これで良かったのよね)
 レコアに取って戦場とは、義務や正義感から居る場所ではない。自分の心が満足するかどうか、の一点にある。そして今、レコアはシンジと共にいる自分に満足していた。
 恋愛感情とか、そんな事ではない。
 シンジが今、艦内で最も対等に見ているのはおそらくレコアであり、それはレコアがシンジを認めているからこそ意味がある。格下から対等に見られるなど、殺意の元になるだけだ。
 端的に言えば、レコアに取ってマリューはシンジを補うパーツの一つでしかない。ましてナタルなど、ノイズくらいにしか思っていない女である。自分の認めるシンジがマリューをどう見ているか、でレコアの接し方は変わってくる。
 女として扱うとか優しく接するとか、そんな所に鍵(キー)がないだけに、非常に扱いづらい部分のある女だが、一度認めてしまえば決して裏切らない。その辺りは、今混浴中であろう五精使いにどこか似た部分がある。
 シンジから見て、キラとステラはどう頑張っても妹分止まりだ。マリューについては、シンジの心が依然として分からないが、少なくともキラ達よりは十馬身くらい、距離は近いだろう。
 最近はシンジに影響などされたせいか、レコアは何となくマリューが理解できるようになってきてしまっていた。戦略的な部分は、本来ナタルに近かった筈なのに、だ。
 ただ朴念仁ではないし、別に潔癖性でもないから、シンジとマリューが寝ている事について別に違和感は持っていないが――処女のナタルがマリューに抱かれた事は、さすがに知らない。
 それを知ったらどんな顔で何と言ったろうか。
 とまれ今のアークエンジェルは、レコア・ロンドにとってほぼ満足のいく職場であった。
 
 つやつやぴちぴち。
 今のマリューを一言で言い表すとそんな感じになる。三日分の鬱積を腫らすかのように、シンジの上で腰を振り、自ら乳を揉みたてて自分の乳首に吸い付き、あられもない声で喘ぎまくったマリューは、絶頂そのままの艶っぽい顔ですやすやと寝息を立てている。
 シンジはと言うと、いつも通り雰囲気も表情も変わらぬまま――ふらふらと危なっかしくスカイグラスパーを駆って戻ってきた。不慣れなのは、仕方のない所だろう。
 太陽はもう昇る気配を見せているが、マリューを抱きかかえて歩くとさすがに目立つ可能性があるから、寝かせておく事にして一人降りた。軽く手をあげると、その手にエクスカリバーが現出し、抜き出したその刀身を見て一つ頷いてから宙に放り投げる。
 神の名を持つ妖狼に託された剣はその姿を消し、てくてく歩いて部屋まで戻ってきたシンジが、ふとその足を止めた。
「……」
 部屋の前で、膝を抱えて座っている娘二人に気付いたのだ。キラとステラだが、無論昨晩は泊まりに来るようになどとは言っていない。
 小首を傾げたシンジが、二人の前にかがみ込むと寝息が聞こえてきた。そっと顔を持ち上げてみると涙の痕は無く、何となく安心した。約束が無くとも、文字通り泣き寝入りされると夢見が悪い。
「このまま寝顔ウォッチという手もあるけれど…」
 起こそうかと伸びた手が宙で止まり、観察と呟いた。
 その三十分後。
「だ、だから悪かったって言って…降りんかー!」
「お兄ちゃんの意地悪!」「どうして起こしてくれないのっ!」
 部屋に引きずり込まれ、キラとステラのトランポリンと化しているシンジが、いた。
 可愛らしく開いた二人の口元から、とろりと涎が落ちてシンジがくすっと笑った瞬間、運悪くキラとステラがぱちっと目を開けてしまったのだ。
 で、今に至るのだが、当然と言えばこの上なく当然である。文字通り揉みくちゃにされたシンジだが、二人の動きが攻撃すると言うより、身体を絡ませてくるようなものに近いと、シンジは感じ取っていた。
 ひとしきり暴れて気が済んだか、ベッドの上に座り込んで荒い息をついている二人に、
「可愛い顔していたんだから、別に恥じる事はあるまい。醜い顔なら、こちらから吊し上げの刑にしてやる所だ」
「『ーっ!!』」
 二人の顔が揃って真っ赤になり、
「そっ、そんな事言ったって…」「だ、騙されないんだからっ…」
「まあいい。で、何かあった?泊まりに来る話は無かったはずだが」
「『あ、あのっ…実はその…』」
 何やら言い淀んで、ちらちらと顔を見合わせていたが、
「『こ、これ!』」
 ラッピングされた包みを差し出した。
「既製品、ではなさそうだ。手製の爆雷でも造ってくれた?」
「も、もー、お兄ちゃん違います。その…チョ、チョコレート…」
「?」
 シンジは首を傾げた。通夜を帯びた黒髪がふわっと揺れ、キラとステラが羨望を含んだ視線を向ける。自分の誕生日は六月六日であり、どう転んでも二月ではない。今、暦の上では二月下旬の筈だ。
「ありがとう…」
 頂いたが、どう見ても理解していないシンジに、二人はちょっと顔を見合わせた。
「あ、あのシンジさん…」
「何?」
「バレンタインって…知らないですか?」
「知ってるよ」
 シンジはあっさりと頷いた。
「え?」
「姉が弟に親愛の情としてチョコレートをくれる日、と相場が決まっている」
「『……』」
 マリューがシンジの姉と声がうり二つ、というのは二人とも知っていたが、シンジの言葉を聞いてシンジが元いた世界での二人の関係が、おおよそ想像できた。
(シスコン…じゃなくてブラコンだ)(…負けない)
「それが何か?」
「あ、あの…ちょっと違うの」
「違う、と?」
「お…お、女の子がその…お、男の子にお花とか…チョコレートとかを、お、贈ったりする日で…」
「そうなの?」
 シンジの反応は薄い。ミサトに欺かれた、と言うより単に世界が違うから風習も違う、位に思っているのかも知れない。
「でもあれは確か二月十四日だった気がする。違ったかな」
「『ごめんなさい』」
 揃って謝られ、シンジの双瞳に?マークが浮かんだ。
「『は、初めてだったから…』」
「ほう」
 二人の全身を眺めたシンジが、
「それはそれで。じゃ、これはありがたく頂いておく」
「『うんっ』」
 やっと二人の顔に笑みが浮かび、
「そ、それとね…」
「ん?」
「今日…お兄ちゃんだけ出撃でしょ?気をつけてね…」
「何を」
「え、えーとその…あぅ」
 シンジの意識に危険とか、まして敗戦などと言う文字は微塵もないらしい。キラはそれが何となく分かっていたから、口を挟まなかったのだが、気分を害する程の事でもなかったようで、シンジはステラの髪をくしゃくしゃとかき回した。
「まあいい。ステラにはまだそこまでの要求はしない」
「え?」
「何でもない」
 雲南の地で、降魔の大群へ主従二騎での突撃を控え、毛先程も思い悩んでいないシンジに対し、これが最期かも知れないから抱いてと言った娘を、シンジは冷たく拒絶した。
 或いは――その時の事が心によぎったものか。
「さてと、コーディネーターの蟲共と遊んでくるか」
「『……』」
 ザフト、ではなくコーディネーターの、とシンジは言った。言うまでもなく、キラもステラもコーディネーターである。
 
 
 
 
 
「アイシャ、本当にいいのかい?」
「だーってアンディが、俺は出られないからって言うんだもん。仕方ナイじゃない」
「まあこの腕じゃな…。しかしきれいに断たれたもんだな。風の刃だって?」
「ああ、そうだった。ライラは疑っていないのか」
「疑う理由もないだろう。あれだけ死屍累々の光景で、銃弾を受けた遺体は全くなかったんだ。信じない方の神経を疑うさ」
 数を減らした事が功を奏したのか、依頼した機体はさっさと届いたし、ライラの召還もすんなり通った。
「ところで、アークエンジェルご一行は、今どこにいるのか分かっているのかい?」
「多分、<明けの砂漠>の本拠地の側、だろうな」
「多分?」
「飛ばした無人偵察機が、特定の場所でことごとく消息を絶った。調べたら、どうやら円を描くようにして、バリアだか見張りだか知らんがいるらしい。連中のアジトを中心に半径五キロの中には入れず、他に見あたらないとなれば確定だろう。とは言え、一度も姿を見ていないのは事実だ」
「相当厄介な相手と見えるな」
「そうだな。そうだアイシャ、ライラにコーヒーを」
「要らん」
 ライラはあっさりと遮った。
「お前の淹れたコーヒーは偏ってる。アイシャ、悪いけど淹れてくれない?」
「いいワよ」
 アイシャの姿が消えてから、
「ライラ、頼みがある」
 ライラの碧い瞳を見据えたバルトフェルドの顔は、別人のようになっており、
「分かっている。私と乗ってくれ、と言うのだな」
「ライラ…」
「アイシャの腕も悪くはないが、いきなりあたしと組んで、いつもの力が出るとは思えない。かと言って、かたわになったバルトフェルドじゃ、大してアイシャを使えないからな」
 事も無げに言ったライラだが、バルトフェルドは怒った顔も見せず、
「その通りだ。最初は…俺が出る。ライラには用意を頼む」
「用意?」
 何やらバルトフェルドに耳打ちされた直後、その表情が激しく変わった。
「アンディあんた…」
「アイシャを泣かせた私の…せめてもの償いだよ、ライラ。無論、嫌なら断ってくれても構わんよ」
 すべてを決意したような男の顔を、ライラはじっと眺めていた。
「いいだろう」
 その美貌がゆっくりと頷く。
「最初から放り出すのは嫌いでね」
 
 
 
 
 
「艦長」
「あ、なに?」
「夕べ何回イったんですか?」
「レ、レコアっ!」
「…そんな事訊かれたくなかったら、イったばかりの顔で、あんな所で寝ないで下さい。こっそり運ぶの大変だったんですからね」
「ごめん…」
 シンジがスカイグラスパーに戻ると、マリューは居なかった。起きて自分で帰ったのだろうと思ったが、実際にはたまたまやって来たレコアが発見して、背負っていったのだ。
「ほんとにもう、えっちな艦長なんだから」
 ぶつぶつ言いながらも、
「でも、艦長の顔色が元に戻って安心しました。このまま放っておかれたら、紫になるんじゃないかって心配してましたから」
「レコア…」
「でも艦長、今回の原因は何だったんですか?」
「な、内緒よ」
 いくら何でも、ナタルを抱いた事に端を発していたとは言えない。
「艦長を問いつめる、なんて事はしませんが、でももう少し上手く付き合って下さい――この艦の為にも」
「分かってるわ、レコア。いつもありがとう、あなたには感謝してる」
「いえ…」
 ちょっと調子に乗った事も言うレコアだが、引き際はわきまえている。上官だから、とかそれ以前に、マリューの後ろには死神の翼がはためいているのだ。
 とまれこの日、ここ数日の絶不調が嘘のように顔色の戻ったマリューを艦長席に据え、アークエンジェルはゆっくりと動き出した――すべての武装と虎の子のMSを封印したまま。
 
 
 
 
 
(第六十六話 了)

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