妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
ドクトルシビウの闇カルテ:ツェザーレ
 
 
 
第六十五話:止めて下さい少佐、セクハラです
 
 
 
 
 
 軍隊というのは会社と似たようなもので、一時的に雇われたアルバイトや協力者よりも、正社員の方が色々規則はあるし貢献も求められる。
 無論、不祥事を起こした時に世間の目も厳しくなる。
 アークエンジェルカンパニーで、総責任者はマリューであり、居候兼アドバイザーはシンジであり、キラである。
 そして――フレイは正社員である。
 しかも自分から勝手に志願したのだ。
 とは言え身勝手で我が儘なところはちっとも変わっておらず、何をとち狂ったのか、キラの不在時に勝手にストライクを動かして、しかも初めて損傷させた開拓者(パイオニア)となった。
 ここまでされては、さすがにマリューも放ってはおけなかったが、シンジがフレイに向けて呟いた言葉で自分がショックを受けてしまい、とりあえず正式に処分を下すまで、独房に放り込んでおくことにしたのだ。
 当然ナタルとの決闘で失神しているマリューは知る由もないが、シンジはどんなものかなと考え込んでいた。
 シンジから見れば、ここまで壊れたフレイは咎める気にもならず、むしろ憐憫の視線しか向けようがない。フレイ以外の娘達は――ミーアを含めても――仲良くやっており、綾香が言ったとおりフレイは艦内のガン細胞のようになっている。
 それは本人の資質の問題で、キラやステラに累が及ばなければ放っておく話だが、綾香はシンジほどぬるくも甘くもない。もし、オーブに着いて綾香達が降りる前に、シンジが帝都へ戻るような事があれば、ほぼ十割の確率で綾香はフレイを殺すだろう。しかも綾香の生態を観察するに、バックには相当な大物が付いているらしい。綾香がフレイを殺したところで、有無を言わさずもみ消される可能性がある。
 つまり、綾香が降りる前にシンジが還れば、どのみちフレイは終わりと言うことだ。
 それならば、フレイを操って自ら頸動脈でも切らせてやった方がいいのかと、ひっそりとろくでもないことを考えながら歩いていたシンジだが、
「碇さん、すみません…」
 医務室でシンジが見たのは、蒼白な顔で立ちすくむサイであり、フレイのリストカットプレイ後、殆ど時間は経ってない筈なのにげっそりと窶れているサイを見ると、さすがにそれは口に出来なかった。
「アルスターが手首を切ってみた、というのはレコアに聞いた。だがまだ詳細は聞いていない。ガーゴイル、報告しろ」
「は、はい…」
 確かにサイはフレイの婚約者だが、それは過去形である。しかもサイの方から婚約解消を言いだし、キラとフレイの取っ組み合いに繋がったのだ。
 レコアの事だからきっとそれは知っていようし、サイをたたき起こしたとも思えない。
「その、俺が悪いんです…」
 サイがぽつりぽつりと、呟くように語った内容は、ざっとまとめると次のようになる。囚人への食事運搬を引き受けたサイが、ガラスのコップを使ったのである。迷惑かけてごめんね、と謝ったフレイだが、戻ってきたサイが何となく嫌な予感に襲われて戻ると、コップをたたき割ったフレイがその破片で手首を切っていたのだという。
「俺の…俺のせいでフレイが…」
「お前の?」
「え?」
「お前は見たところ、心を乗っ取る術を身につけているようにも見えないし、催眠術も然りだ。自殺を図れと、直接言い渡したのか?」
「い、碇さんっ!!」
「何か?」
「い、いえあの…」
「確かに武器となる物を持って行ったのは迂闊だった。自殺とか、単にそれだけではなく、な」
「え?」
 自殺の道具、ではなく武器と言わなかったか?
「フレイ・アルスターの思考が通常よりも斜め上辺りを行くのは、既にガーゴイルも知っていよう。バジルールの愚か者が乗ったが、艦長が保護を許可した者を人質にしようとするなど、本来なら銃殺されても文句は言えない行動だ。しかも、先日は既に軍服を着る身でありながら、勝手にストライクへ乗り込んで動かしている。その行動を、ガーゴイルは予測できるか?」
「いえ…」
 フレイの行動基準が、常に自分を中心にしている事は、サイもある程度理解はしていたが、だからと言ってそれに共感できたり予測できるわけではない。
「ケーニヒは、食事を持って行くなど嫌がるだろう。ガーゴイルに用があって行けない時、今回自傷用に使ったそれを、持って行ったハウ辺りに押し当てて、人質にしないと言い切れるか?私が言ったのはその事だ。とは言え、それがきっかけになったとしても原因ではないだろう。自らの想いを貫くため覚悟をしていなかった、と言うのか?」
「シンジ…さん?」
「許嫁が他の娘に心を奪われ、しかも自分はその娘に何一つ勝てるところがない。人間は、奪られそうになると妙に大事に思えるものだ。元より薄い許嫁関係だが、アルスターに取ってはそんなものにしか縋れない。それを切り捨てた以上、アルスターが首を吊ろうが裸で宇宙空間に飛び出そうが知った事ではないと、そこまでヤマトを想っての絶縁ではなかったのか、サイ・アーガイル」
 フレイを一瞥したシンジが、サイを正面から見た。
(旦那なら、間違いなく坊やだからさと笑うな)
 シンジを見下ろし、ウニ頭を揺らしながら冷たく笑う知己の姿を、シンジは頭を振って振り払った。フレイが生きていればアークエンジェルに、ひいては自分にとってろくな事にならないとシンジも分かっている。
 とは言え、これまたキラを優先して生かしてあるのだ。そんなフレイだが、仮定形に近い許嫁であっても、さしたる覚悟無しに自分との関係を切り捨てたとあっては、万一このまま死んだとしたら浮かばれまい。
 無論――サイがそこまでの覚悟など、していないと分かり切った上での言葉だ。
「お、俺は…俺はっ!」
「妙な部分での気性の激しさと、思いこんだら何をするか分からぬ性格からすれば、決して想定できぬ事では無かったろう。とは言え、手首を切るなど所詮は遊び(デモンストレーション)に過ぎぬ。放っておいても死にはしない」
 冷酷とも言える言葉を、次々とサイにぶつけていく。
「本当に死ぬ気なら、艦内で給水制限のない今、お前に付き添ってもらってシャワーを浴びに行ったろう。少々時間は掛かるが、水死という手がある」
「……」
 シンジ個人としては、キラに向くサイの想いは歓迎している。シンジ自身が、興味のない事項には限界近くまで鈍い、と言うこともあるのだが、未だにキラの思考が理解できていない。
 ただ、キラの性格が宇宙での戦闘に於いて足を引っ張ったのは事実であり、ストライク一機にあれだけ嬲られた連中が、そのまま引っ込んでいるとはシンジも思っていない。シンジの役目はオーブで終わりだが、そこまでの道中でも襲撃――既に降下している可能性もあるとシンジは見ている。少々難易度は高いだろうが、サイがキラを振り向かせることが出来れば、キラの迷いも消えるだろう。この先海上に出た場合、必ずしも有利に戦えるとは限らないし、万一ストライクが墜ちれば、それはアークエンジェルの命運に直結するのだ。
 キラの心境に変わりがないまま、運良くオーブまでガイアとステラを運べれば、それに超したことはない。無論、その方が自分の経験値も上がる気はするが、シンジはそこまで固執する気はなかった。キラの心に触れぬまま、万一のことがあればそれこそ本末転倒になる。
「もう、覚悟は決めておけガーゴイル。振り捨てた女の命運など、何時までも女々しく構うものではない。他人は偽れても、自分の心は偽れまい」
 フレイの性格からして、自棄になる事も考えずに振ったのか、と言われればサイに返す言葉はない。婚約解消も、サイが自ら決めた事なのだ。
「怨まれるとか呪われるとか、そんな事をいちいち気にしていたら身が持たん。自分のことだけ考えるがいい」
(の、呪われるっ!?)
 全身包帯ずくめのフレイが、暗がりから呪詛の言葉を投げつける様子を想像してしまい、総毛立ったサイの肩を一つ叩き、シンジはその場を後にした。
「碇さん、俺は…あなたほど強くありません…」
 哀しい声で呟いたサイは、理解できぬ天啓を受けた詩人のように立ちつくしていた。
「フレイ…!?」
 眠っているフレイの顔を見つめていたサイの肩が、不意にびくっと揺れた。てっきり眠り込んでいると思ったフレイが、すうっと目を開けたのだ。
「フ、フレイ…」
「サイ…ごめんね…迷惑掛けちゃって…」
 フレイは弱々しく微笑った。
「サイに…そんなつもりじゃなかったんだけど…」
「……」
 ならば灼熱の砂漠を歩いてくれれば良かったのに、とシンジなら言いかねないが、サイはシンジではない。
「サイ、もう行って…。あたしはもう…大丈夫だから。もうサイには迷惑掛けないわ…」
「で、でも…」
 これが無関係の人間なら、まだ幾分はましになるのだが、心配そうな視線を向けてくるサイの顔が、そのまま婚約解消を言い渡した時の顔に変わり、顔を歪めたフレイが起きあがった。
「いいから行きなさいよっ、私の目の前から消えて!キラの所でもなんでも行っちゃいなさいよ!もう…もう私には誰もいないのよ。自分から私を捨てたくせに、やさしくしないでよ!!」
 ではそのように、と言えるのが碇シンジであり。
 結局非情に捨てられないのが――サイ・アーガイルという少年である。
 涙をぽろぽろ流しながら、フレイが頭から布団をかぶろうとした瞬間、その手首は掴まれていた。
「な、なによっ、放しなさい…あっ」
 確かに、フレイの自己中心的で我が儘で、空気も読まずに見境のない行動を取る所に愛想を尽かして婚約は解消したサイだが、ぼろぼろに傷ついたフレイを見てしまっては、そのまま出て行くことは出来なかった。
 フレイを捕まえたサイが、ぎゅっとその身体を抱きしめる。一瞬切なげな表情になったフレイだが、すぐにまたじたばたと暴れ始めた。
「なによなによっ、同情なんかで触らないでよっ!!」
 ぴたっ。
 その途端、サイの動きが止まった。
(…え?)
「…同情じゃないんだ…同情なんかじゃ…」
(も、もしかしてやっぱりあたしの事を…)
「反省してる」
「は、反省?」
「フレイみたいな、思いつめたら何をしでかすか分からない娘(こ)を放り出して…」
 パーン!
 フレイの眉がつり上がり、サイの頬が激しく鳴った。
「あ、あたしを…あたしを笑いものにしようっていうならっ…」
「だからもう目を離さない」
「え…?」
「俺が…側にいてやるから…もう死のうなんて考えないでくれ。フレイ…」
「サイ…サイっ!?」
 泣きながら抱きついてくるフレイの髪を撫でながら、碇さんすみません、とサイは内心で呟いた。
(俺はあなたほど…割り切れない…)
 サイ・アーガイル、キラを断念す。
「あ、でもフレイ」
「なに、サイ?」
「婚約は元に戻さないぞ」
「…もう、いじわる」
 そう言いながらも、その腕は更に強くサイを抱きしめていた。
 その表情が、乙女のものだったか唇を僅かに曲げて笑う悪女のものだったか――サイは知ることが出来なかった。
 
「想いを利用した作戦故、使えない奴とは言わない。しかし…ガーゴイル、意外と甘い奴だったな。また振り出しだ。モウイイ、寝る」
 部屋の前で足を止め、シンジが呟いた。中に入り、ベッドに身を投げ出す。
「予想の範囲内だが…女で身を滅ぼすタイプだ」
 やれやれ、と肩をすくめた二分後、室内からはすやすやと寝息が聞こえてきた。
 
 
 
「ん…んう…」
 シンジが眠りについてから二時間後、マリューに責められて失神していたナタルが目を覚ました。
「ここは…」
 視線だけ動かしたナタルの耳に、
「目が覚めた?ナタルの部屋よ」
 マリューの声が聞こえ、その顔が一瞬で強張る。
 全てを思い出したのだ。
「マリュー…」
「マリュー艦長でしょ、ナタル。もう、大丈夫?」
「…ええ」
「ナタルを艦長にする、なんてシンジ君は思ってないわ。そこまで意地悪じゃないわよ」
「……」
 ナタルが負けたら艦長にする、とシンジは言った。
 そして、自分は協力しないとも。
 マリューの言う事は確かにその通りだが、普通に読めば――ナタルは艦長失格とも取れる。
「私を…笑いに来たので…んっ!?」
 ちょん、とマリューが指でナタルの頬をつついた。
「そんなんじゃないわ。ナタルに謝ろうと思ったのよ。確かに、ほとんど何でもありの勝負だったけど、ちょっとやり過ぎたわ。格闘経験はともかく、処女のナタルをあそこまでイかせなくても良かったかなって。ナタル、ごめんね」
「べっ、別に…っ」
「え?」
「貴女が謝ることではないでしょう。お互いに卑怯な手を使った訳ではない…ただ私が弱かっただけの事。謝ったりするのはかえって…あ」
 気にしていない、と横を向いたナタルの頬を、つうっと涙が滴り落ちる。ぐっと唇を噛んで拭おうとしたその手を、マリューがそっとおさえた。
「なっ、何をっ…ひゃ!?」
 涙をぺろっと舐め取ったマリューが、そのままナタルの頭を抱きしめた。
(マ、マリューかんちょ…)
 ナタルの額が押しつけられたマリューの胸は柔らかく――そして暖かかった。思わずまた涙が出そうになったナタルだが、
「や、止めて下さい少佐、セクハラです」
「…ふえ?」
 びっくりしたように手を放したマリューが、
「ナタル、あなた何時の間にフラガ少佐と…?」
「…え?」
「だって今少佐って…」
「貴女の事です!この間、少佐に格上げされたでしょうっ!」
「?…?」
 三回ばかり首を傾げてから、
「あ、思い出したわ」
 ぽむっと手を打った。
「もう…ほんとに貴女という人は…」
 マリューの反応に拍子抜けしてしまい、ナタルの表情が緩んでいく。
「だって、誰も呼ばないじゃない」
「え?」
「ナタルのこと、シンジ君はバジルールって呼ぶでしょ。で、私はナタルって呼ぶけど、他は皆中尉って呼ぶじゃない。私の事、少佐って呼ぶ人いる?」
「そ、それは…と、とにかく…あぅっ」
 またぷにぷにと頬がつつかれ、
「ま、ナタルのそーゆーとこは嫌いじゃないけどね」
「艦長…」
 マリューが真顔になり、
「せっかく、女二人で艦長と副長やってるんだから、もう少し仲良くしましょ。私も努力するから。ね?」
 その言葉に、だからナタルも譲歩して、と言う響きはなかった。
「勿論、恩を着せるつもりなんか無いけど、シンジ君は既にナタルを殺そうとしていたわ。でも私が止めたの。勿論、シンジ君と組んでナタルに嫌がらせする為なんかじゃない。ナタルが…貴女がこの艦に必要な人だと思ったからよ」
「……」
 多分そうだろうとは、薄々ナタルも感じ取っていた。ナタルがミーアを人質にしようとした時、シンジはナタルに死化粧をと言ったのだ。あの時はマリューにひっぱたかれ、艦橋で女同士の殴り合いになってしまったが、だからと言ってシンジの気が変わる理由にはならない。
 シンジは目下軍服を着ていないし、マリューが艦長権限でナタルに手を出すなと言っても、聞くとは思えない。艦長としてではなく、マリュー・ラミアス個人として、シンジに頼んでくれたのだろう。
「分かりました」
 少し経ってから、ナタルは頷いた。確かにマリューは、艦長として純粋にどうかと言えば足りない部分は多々ある。とは言え、自分が艦長ならどうかと自問した場合、残念ながら、とっくに墜ちていると言わざるを得ない。
 コーディネーターは無論、異世界人を全面的に信用したマリューだからこそ、ここまで来れたのだ。シンジの起用に関しては、最初の頃、個人的感情はほとんど入っていなかったろう。
 甘い関係、どころかシンジに撃たれる寸前まで行ったのだ。
 だがそれは今では改善され、マリューが艦長席にいる結果、こんな砂漠の真ん中でザフトに攻撃されてもびくともしない、どころか水まで得ることが出来ている。
 文句を付けようのない結果が出ているのに、自分だけ意地を張るのは惨めになりそうな気がした、と言うこともある。
「ありがと、ナタル」
「いえ…え?」
 ナタルの前に、マリューが小指を差し出した。
 怪訝な顔のナタルに、
「指切りよ。私とナタルの仲直りの約束」
「はあ…」
 さっぱり分からない、と言う顔はそもそも知識にないからだ。
 二人の小指がきゅっと絡まったが、
「マ、マリュー」
 艦長ではなくマリュー、とナタルが呼んだ。
「なに?」
「つ、次は…ま、負けませんから」
「ナタル、あなたまだ――」
 言いかけて、ナタルの頬が妙に赤いのに気がついた。
「もしかして、えっち勝負?」
 かーっと頬を染めたナタルが横を向く。
 でも経験無いのに勝てるはず無いじゃない、と思わず言いかけて止めた。そんな事を言ったら台無しになる。
「心意気は買うわ。でもねえ」
「え…あぁっ!」
 ふわっとナタルを押し倒し、その紫瞳をじっと覗き込んだ。
「な、なにを…」
「敵を知り、己を知れば百戦して…って言うでしょ。お互い、“敵同士”なんだから敵を知る事は必要、だと思わない?」
「そっ、そんな事っ…き、詭弁ですっ」
 口では反発するナタルは、頬を染めたまま目をぎゅっと閉じ、その手は毛布を掴んでいる。無論、マリューを押しのけようとすれば簡単にできる位置だ。
「やり過ぎた、と言ったでしょ?」
「え?」
「ナタル、昨日はイったけどちょっと痛かったでしょ。ああいうのって心的外傷になったりするから、仲直りの印に――」
 ナタルの耳元に口を寄せ、
「柔らかくて甘くて蕩けそうなイく時の快感を教えたげるわ」
 と、熱い吐息と共に囁いた。
 決闘の中でも、乳首とクリトリスを足指で摘まれながら、膣口を足の裏で刺激される快感は強烈であり、まだ身体が覚えている。とは言え、数時間前体液とローションにまみれながら、全裸で取っ組み合ったマリュー相手に、自分からしてとは言えなかった。
 例え――マリューの言葉で快楽の炎が全身を蝕みだしていたとしても、だ。
 目元を染め、間違いなくマリューの誘惑に心を惹かれながら、最後の一歩が踏み出せないナタルを見て、マリューがすっと身を退いた。
「ちょっと、急過ぎたわね」
(え…)
「またにしましょう。戦争が終わったらゆっくりと、ね?」
 きゅっ。
 身を翻したマリューの袖を、ナタルの手がきゅっと掴んだ。
 こちらを正視できず、赤く染まった顔のまま目を閉じて顔を背けているナタルを見て、マリューの口元に妖しい笑みが浮かんだ。
(私が圧勝したままでもいいけど…この方がいいでしょ、シンジ君)
 脳裏に浮かんだ想い人は冷たく、そして静かに背を向けた。
(もう、どこまでも冷たいのね)
 心の中で呟いたマリューが、ナタルへゆっくりと顔を近づけていく。
 そして影は――ひとつになった。
 
 ナタル・バジルール――陥落。
 
 
 
 翌朝、フレイとサイは独房に放り込まれてしまった。
「傷など大した事はない。お前はさっさと帰れ。艦内の雰囲気を汚染し、あまつさえ私とヤマトの機体を傷つけるような愚か者と、甘い一晩を過ごすようなお前も同罪。まとめて一緒に入ってろ」
(そ、添い寝していただけなのに…)
 艦長でもないのに勝手に判断し、二人を独房に放り込んだシンジだが、まさかマリューもナタルと裸身を合わせて抱き合ったまま、寝ているとは思わなかった。
 それから三十分後、格納庫に全クルーが集められていた。
 但し、性別を男と申告する者のみで、サイとムウはここに居ない。
 招集主は告げられぬまま、さっさと来いと強引な通達を告げて回ったのは、カズィとトールであり、彼らが来たことで何となく理解はしていたらしい。
 そして、姿を見せたのはシンジであった。
「おはよう」
 一体何事かとざわついていたが、シンジが姿を見せた事ですうっと波が引くように声も音も消えていった。
「以下の条件に当てはまる者に来てもらった。もし違ったら、帰ってもらって構わない」
 ゆっくりと居並ぶ者達の顔を見回し、
「玉と根性の付いてる奴限定。自分は違う、と言う者はさっさと名乗り出るように」
 奇怪極まる言葉に、格納庫にざわめきが走った。
「お、おいおい」「玉って…この玉か?」
 まさかな、と股間とシンジを交互に見るが、その顔は真顔である。
「その玉だ。それと根性の二点セット」
 何かを試す気らしいと知り、ゆっくりとざわめきが消えていった。何よりも、シンジは女を呼ばなかったのだ。
「一部では知っている者もあるかも知れないが、マリュー艦長に頼み込み、ザフト殲滅を私が任されることになった」
 それを聞いても別段の反応はない。
 キラとステラを動かし、砂の壁も起動させてザフトの部隊を寄せ付けなかったばかりか、レセップスを後退に追い込んだではないか。
「無論、卿(けい)らの手を煩わせる気はない。アークエンジェルの兵装、及びモビルスーツは一切使わない。ただ、敵陣へ向かって直進してもらう」
「『!?』」
 それを聞いた途端、声にならぬざわめきが走った。
 確かに宇宙でもザフトを寄せ付けなかったが、それはあくまでもストライクに乗った上での事だし、いくら何でも無謀過ぎはしないか?
「私はこれより数日、艦を空ける。この間のような小手先では、ザフトを追い返すのみ。我が前に立ち塞がる愚か者に滅びを与えんため――持てる力を全て使い、巨乳軍団を仕上げてくる」
「『きょ、巨乳軍団〜?』」
 さすがに皆顔を見合わせたが、
「この砂漠で、この艦を墜とさせる事は絶対にしない――私のプライドに賭けて。だから、信じて任せてほしい」
 頭を下げたシンジを見て驚いた。シンジのこんな姿など、ただの一度も見たことは無かったのだ。
 相当分の悪いバクチなのかと、すぐには反応できなかった男達だが、ふと気づいた。
 そう言えばこの青年は、どんな危機に面しても慌てたそぶりなど、微塵も見せなかったではないか。
 最初に動いたのはコジローであった。ゆっくりとシンジに歩み寄り、その肩を一つ叩いて歩き出す。
「AA(こいつ)が墜ちたら、俺達は砂漠の真ん中へ放り出される事になる。そんな状況で、大将を信用していなかったら温泉なんて行かれねーよ。つまんない事で起こさんでくれ」
「マードック…」
「だな。ま、沈んだら沈んだで、諦めるわ。あんたがしくじってこの艦(ふね)が沈んだら、その時は諦めもつくさ」
 三人、四人と、男達がゾロゾロとシンジの肩を叩いて出て行く。
 やがて、格納庫にはカズィとトールだけが残ったのだが、
「…マジで死ぬかと思ったぜ」
 へたり込んでいるコジローを見て、男達の背に冷たい物が流れた事など、三人とも知る由は無かった。
「あの、碇さん」
「どうした亀頭」
「その…マードック軍曹じゃないけど、さっき集まった人達の中で、碇さんに任せていない人なんて、誰もいなかったと思うんですけど。どうして、わざわざ呼んだんですか?」
「俺はこの世界の住人ではないからね」
「え?」
 シンジはうっすらと笑った。
「無論、この世界での私の精(ジン)に不安がある訳ではない。ザフトの事など気にもしていないよ。だから裏方で頑張ってくれる彼らに、今回は全く負担を掛けることはない。とは言え、いつ何時元の世界に帰るか分からないのだ。そうなれば、彼らには120%の力でもってこの艦は無論、ガイアとストライクを整備面から支えてもらわなければならない。とりあえず、彼らの顔を見た限りでは、私がいつ消えてもすぐにどうこうという事はなさそうだ。二人とも覚えておくといい、男には、女が決して持つことの出来ぬ魂があると言うことを」
「『了解』」
「それとケーニヒ」
「はい?」
「バカなカップルの二匹を、独房へ放り込んでおいた」
「バカなカップル?」
 トールがオウム返しに呟いた。カップルと言えば自分とミリアリア位の筈で、サイとフレイはカップルどころか破談になった筈だ。
(もしかしてサイがキラをゲットした?)
 な訳ねーだろ!と、すぐに突っ込むもう一人のトールがいた。あのキラが、シンジを諦めてしかもサイと付き合うなど、太陽が西から昇る可能性の方がまだ高い。
「他に該当者がいるか?」
「もしかして…フレイとサイが…?」
「それ以外には居ない。アルスターだけなら、素手で毒サソリ三十匹との勝ち抜き戦でもやらせるのだが、ガーゴイルも一緒なのでそうもいかん。処分は艦長が決定されるが、それまで食事はケーニヒとハウが運搬するように」
「俺とミリィが?」
「綾香にやらせても構わないが」
「俺が行きますっ!!」
 思わず大きな声を張り上げたトールだが、食事に一服盛る綾香の姿を想像するのは、実にたやすい事だったのだ。
「では任せる」
「ウイース」
 
 
 
「?」
 白昼夢を見たのか?とシンジは首を傾げた。
 マリューに出立する事を告げに来たのだが、ちらっとナタルの姿が見えたのだ。そしてそのナタルもどきは――マリューに寄りかかって腕を組んでいた。
 間違いなく、シンジの壊れた精神が生み出した幻覚に違いない。
「仕掛けじゃなくて湯治が必要か?」
 ややげんなりした顔で呟いたそこへ、
「シンジ君、おはよ」
「ん…姉御?」
 声を掛けてきたマリューを見たシンジは、その肢体から漂う淫らな匂いを一瞬でかぎ取った。
 無論マリューとて、シャワーは浴びていよう。シビウに開発されたシンジならばこそ、見抜いたのだ。
「朝から一人でお楽しみ、と言うほど溜まっているとは見えないが」
「!?」
 シンジの言葉にぴくっとマリューが反応した。
(やっぱり、一瞬で気づいたわね。でもこれって…私のことだから気づいたって思っていいのかな)
 調子の良いことを考えたマリューが、
「あのままじゃ、ナタルも引っ込み付かないかなーって…」
「食べちゃったの?」
「ふえ?」
 また勝負したの、とか訊くならそっちの筈なのに、いきなり食べたのかと来た。
「は、早く言えば…そうなる…かな」
「良かった」
「え?」
「さっき、姉御と腕を組んでいるバジルールの幻影を見た気がした。現実だったのだな」
「シンジ君…」
 一瞬、不意にシンジとの距離が大きく開いたような気がして、思わずマリューは手を伸ばしていた。
「!?」
 シンジは――すっと後ろに一歩下がった。
「シンジ…君…」
「艦長がお疲れの間、少々動きがあったので報告します」
(私を…見てない!?)
 シンジの視線は無論マリューに向いている。
 だがマリューはそれが、アークエンジェルの艦長に向いており、マリュー・ラミアスには向いていないと気づいた。
 フレイが手首を切った事も、フレイと一緒にサイもまとめて独房に放り込んだ事も、マリューはほとんど聞いていなかった。
「と言うわけで数日艦を空けます」
「!?」
 それを聞いた時、マリューは初めてこっちに戻ってきた。
「シ、シンジ君それって…」
「別に艦を放置する訳じゃない。手勢を用意してくるだけです。弾薬は要らないので、食料と燃料だけ積めば数日は帰らずとも済む。クロイツェルを連れて行きます。艦長、ご許可願えますか」
「…分かりました。全て…任せます…」
「では」
 シンジの姿が消えるまで、何とか立っていたがそれが限界だった。シンジが角を曲がった途端、マリューがふらふらと崩れ落ちるように座り込む。
 
 この時マリューの中で一本の糸が――切れた。
 
「え、あたしが手伝い?あなたと一緒に泊まりがけで?」
「後半部分は重要じゃない。前半部分が必要なんだ」
「はあ…」
 ウェーブの掛かったオレンジ色の髪を手で梳きながら、カーテローゼは首を傾げていた。自分が劣っている、とは思わないが、五人の中で最優秀ではないし、バーディやまりなの方がシンジと合う気がする。
 どうして自分なのか。
「唯一の十代だから。年齢でとりあえず選んでみました。それと、君のパイロットとしての腕も知りたいから」
「年齢が近いって言うこと?」
「そう」
「でも、私の操縦の腕とは?私が出るような事はないでしょう」
「ザフトの殲滅作業に於いて、アークエンジェルの武装及びMSは完全に封印、唯一出るスカイグラスパーを操縦するのが君だ」
「!」
 さすがに他の娘達も驚いた表情を見せたが、何も言わなかった。
「無論、撃つのはザフト軍などではない。私の手足となって、指示する所を撃って欲しいんだ。それとも、出来そうにない?」
「出来るわよ!出来ないわけないでしょ、行くわよっ」
「よろしく」
(あーあ、あっさりと釣られちゃって)
 と、仲間達はくすくすと笑っている。
 数時間後、
「『むーむー!』」
 縛られたまま、じたばたともがくキラとステラを置いて、スカイグラスパーは大空へと飛び立った。
「二人きりでお泊まりっ?」「絶対にだめーっ!」
 と、だだをこねたのが原因なのは言うまでもない。
 
 そしてその日の夕方――。
「仕掛けた地雷が壊滅だとっ!?」
 砂漠の一角に凄まじい炎が吹き上がった。テロ集団<明けの砂漠>が仕掛けた罠だったが、悉く爆発してしまったのだ。
 顔色を変えたサイーブ達だが、バステトを象った砂像が――しかも巨乳を揺らしながら徘徊していた、との報告を受けて何とも言えない表情になった。
「さっきのってわざとでしょ?」
「勿論。テロリスト集団の地雷原など、世界でも四番目に危険な代物だ。破壊しておくに限る」
「ふうん」
 たき火を眺めながら、カーテローゼがちらっとシンジを見た。
「何か、クロイツェル?」
「私のことはカリンでいいわ。みんな、そう呼んでるから」
「承知」
「それと…」
「ん?」
「ラミアス艦長と何かあったの?出発前、二人の雰囲気がいつもと違う気がしたんだけど…」
「……」
 少し経ってから、シンジはふっと笑った。
「カリンも、まだ年相応だな。安堵したよ」
「ど、どーいう意味よーっ!!」
「内緒だ」
 その直後、月明かりは乗る者と乗られる者の影を映し出していた。
 なお、乗られている者は全身をくすぐり回されている。
 
 そんな彼らは、丸三日全く連絡も無しに帰って来ず、四日目の早朝になってやっと戻ってきた。
「布陣が完了しました。明日辺り出撃を」
「ええ…」
 出立前にシンジが見せた、冷たくはないが明らかに自分を素通りした視線を、無論マリューは忘れていない。
 三日経って少しは変わってくれたかと、縋るような思いでシンジを見たが、その視線に依然として変化はない。
(もう…駄目なの…?)
 シンジの真意が掴めぬまま、置き去りにされた形になったマリューは、この三日で体重が二キロ程落ち、決して体調も良くないのだが、
「それと艦長、この艦で一番攻撃力のある武装は?」
「陽電子砲、になるかしら。左右に一門ずつ装備しているわ」
 ふむ、とシンジは頷いた。
「ではそれの発射用意を」
「え?」
 
 
  
 
  
(第六十五話 了)

TOP><NEXT