妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
ドクトルシビウの闇カルテ:ツェザーレ
 
 
 
第五十二話:吸血のススメ
 
 
 
 
 
「黒瓜堂殿、碇様のご容態は…」
「まあ、大した事はないでしょう。適応能力はかなり高い筈ですから」
 この男の何処にそんなものが隠してあったのか、と思われる程に穏やかな視線を麗香に向けながら、黒瓜堂の主人はうっすらと笑った。
 麗香――戸山町にひっそりと暮らす吸血鬼の一族であり、次期当主夜香の実妹である。北欧にいたが、胸騒ぎがして急遽戻ったのだという。
「ただこれは私の憶測ですが…精神だけが抜け出してる状況なんですが、どこで何をしているにせよ、精神的な疲労は結構大きいと思うんですよ。霊体になって彷徨ってる、とは考えづらいし、その証拠に財布も剣も消えている」
「実体化していれば精神的な疲労が?」
 いつも兄や祖父の後ろで楚々として控えており、前に出る事を好まない娘が、こんな風に自分から促してくるのは珍しい。表情には出さないが、内心では心配でたまらないのだろう。秘かにシンジを想うその心を、黒瓜堂はよく知っている。
「私は論外ですが、君の兄上や妖艶な院長など、シンジ君の周囲には彼よりレベルの高い面子が揃っている。気を抜いていても困る事は殆どない状況ですが、異世界に飛ばされた場合――おそらくシンジ君の精神的レベルは、いやでも他よりだいぶ高くなる。エクスカリバーが消えたというのは、それが必要な状況だからでしょうし、戦闘地域にでも飛んでいた場合、シンジ君は頼りになりすぎる存在ですよ。一人で集団を背負うような状況にでもなれば、シンジ君の精神がよく保ち得るかどうか…心配はそれだけです。身の危険とかそんな事は、考えるだけヤボだとこの私が保証します」
「黒瓜堂殿…」
「だから、麗香殿もそんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
「はい…」
 無論、目覚めていない以上その心配が完全に消えた訳ではないが、それでも黒瓜堂の言葉に少しだけ安堵したのか、麗香は小さく頷いた。
「ただちょっとだけ困っている事がありましてね」
「何でしょうか。私でお手伝い出来る事でしたらなんでも」
「あ、いやいやそう言う事じゃないんです。シンジ君の処分の件でね」
「え!?」
「あ、失礼処遇の件でね。御前から任されたんですが、目下のところたまに点滴を打つ位で十分だとフェンリル小姐が。なので本邸でもいいんですが、一応シビウ病院へ担いでいこうかと思ってます。ですが、本邸にいるシンジ君付きのメイド娘達が反対するんですよ」
「……」
 碇家の本邸には十数名のメイドが働いている。建物の表面積が広い上にひっそりと地下まであって手入れも並大抵ではない為だが、シンジに接する事を許されているのは、ごく限られた者達だ。
 無論シンジのお気に入りとかそんな事ではなく――戦闘能力の低い一般人がシンジを取り押さえようとすると、あっさりと飛ばされてそのまま邸の周囲にある堀へ放り込まれる可能性があるからだ。そこを徘徊しているのは用心棒代わりのピラニアである。
 裏を返せば能力も高く、通常はシンジからも信頼されているという事だが、それだけにシンジの事は皆大事に思っている。
 そして――人外の美貌を持つ魔女医が、シンジの愛人を自認している事も知っている。だから、やむを得ない程の容態ならいざ知らず、出来るだけ入院はさせたくないのだ。しかも、シンジは意識がなくすやすやと眠っている状態である。何をされても分からないではないか。
「メイドの方達のお気持ちも何となく分かりますが…」
「私には痛い程分かりますがね」
「あ、いえあの…」
 麗香としては、よく分かるなどと言える身ではなかったろう。
「まあそれは置いといて、やっぱり病院で安置しておくのが一番いいんですよ。シンジ君の状態が掴めない以上、万一肉体に悪影響が出ないとも言い切れない」
「そうですね…」
「つーことで麗香殿」
「はい?」
「かぷっと吸っちゃって下さい」
「え…え!?く、黒瓜堂殿!?」
 自分の血を吸え、と言っているのではあるまい。シンジの血を吸えと言っているのだ。しかも意識がないシンジを、だ。
 思わず麗香が咎めるような視線を向けたが、悪の親玉は平然と受け流し、
「寝ているシンジの血を吸う嫌な女、にあなたを仕立て上げたいと、私が企むと思いますか?偽装工作ですよ」
「ぎ、偽装工作?」
「言ったでしょう、本邸の小娘達が不安なのは、点滴程度で足りる現状だからなのだと。麗香殿がちゅーっと吸って少し顔色を悪くしておけば、容態が少し悪化したからとか理由は付けられます。大丈夫、あなたに累が及ぶような事は絶対にありません。吸われた痕など、私が完璧に消してさしあげる。この――」
 どん、と胸板を叩いた黒瓜堂が激しく咳き込んだ。さして胸板も厚くないのに、そんな事をするからだ。
 自業自得である。
「だ、大丈夫ですか黒瓜堂殿」
「大丈夫」
 けほけほと咳き込んでから、
「この私の、悪の親玉のプライドに賭けても、ね。うちは、大将は大した事がないが、部下はいずれも粒揃いです。悪に関しては事欠きませんから」
「そ、それはよく知っておりますが…」
 麗香の視線がシンジの顔に注がれ、時折ちらちらと黒瓜堂を見る。まだ肯定はしていないが、その横顔がほんのりと赤くなっている事に黒瓜堂は気付いていた。
「麗香嬢、私が許可する。この子の悪の調教を頼むと、両親から遺言で託された私が。内心を隠せぬ君のそういう所、私は好きですよ」
「黒瓜堂殿…」
 少し眩しげに自分へ視線を向けた麗香に、黒瓜堂はゆっくりと頷いた。
 その動作一つ取っても、ひどく邪悪であった。
 
 
 
 
 
「何を酔っぱらっているのかは知らんが、宇宙空間で宇宙服なしのジョギングでもしてくるか?」
「い、いえっ…だ、大丈夫ですっ」
 結局ラクスに生理が来て、妊娠していない事が分かった。既に覚悟完了していたし、妊娠でも別に良かったのだが、違うとなるとまた微妙な話になってくる。ラクスの生理周期は聞かなかったが、あの反応からして安全日当日だったと言う事はあるまい。
 と言う事は、アスランとラクスの何れかが、体機能に問題があった可能性もあるのだ。
(中に出せば絶対に妊娠する訳じゃない。そんな事は分かってるが、もしも不妊症とか俺の方に問題があれば…)
 無論アスランは、そんな妊娠に関する診察を受けた事はない。それぞれがリトマス紙に精子と卵子を付けて、仲良く医師に渡す二人の姿が脳裏に浮かんだ。
(は、恥ずかしいけどそれはそれで…でも俺だけに問題があったら…あーどうしよう!)
 勝手に妄想して勝手に結論を出して、一人で懊悩するアスラン・ザラ。これでも一応ザフト軍のエリートであり、血統もサラブレッドなのだが、傍から見れば不気味なオタクである。部屋へこもっている時だけにすればいいものを、父に呼び出されてどこかへ向かう最中もまだ妄想が止まらなかった為、既に柱と壁に三度の突撃を試みており、とうとうパトリックから冒頭の台詞を告げられたのだ。
「父上、あのここは…」
「いいから黙って付いてこい」
 完全に防弾・防音仕様になったゲートを十個近くくぐり抜けており、これだけでも相当な機密事項である事が分かる。何よりも、これだけ大きな建造物なのに、アスランは見た事もないのだ。
 やがて二人は大きな空間に出た。突如明るくなった視界に、アスランが一瞬手を顔の前に翳すが、次の瞬間その口から、あっという声が上がった。そこで見たのは巨大な戦艦であり、大勢の整備兵達がまるで蟻のように取り付いている。
 だが、この時期にこんな戦艦を造るなどと言う話は聞いていない。宇宙艦だとは思うが、ナスカ級やローラシア級とはいずれも形状が違う。そもそもこの警備の厳重さは一体何なのか。
「ち…いえ委員長閣下、これは…」
 さすがにここへ来てまで父と呼ぶ程、アスランも間抜けではない。
「この間造った」
 簡潔で、分かりやすい事この上ない返答であった。
(…え?)
 が、それが聞き手に理解されるかどうかは、まったく別問題である。
「宇宙艦だが地上でも運用は出来る。連合のG機――お前達が一向に使いこなせない例の機体――が開発されていると情報が入る前から既に建造はしていた」
「も、申し訳ありません…」
 建造を知らなかった事ではなく、使いこなせていないと指摘された事だ。乗れていない事はないのだが、性能の面で大きく抜きん出てもいないストライクと、さらにはアークエンジェルを、落とすどころかほぼ無傷で地上へ逃がしてしまった。しかもジン数十機の壊滅というおまけ付きである。
 ガモフの特攻でメネラオスを失い、おたおたしている艦隊の残りは片づけて全滅させたが、元よりMAではMSに勝てないと分かっており、艦隊を全滅させたところでちっとも誇りにはならない。何を血迷ったのかは不明だが、ストライクが先に自分達の掃除を優先していれば、全滅したのは自分達だと分かっているのだ。
「現在建造は急ピッチで進んでいる。この艦にお前達を放り込んで、あのアークエンジェルとストライクを追わせる――というのも手だが」
「え?」
 てっきり自分達が乗るものだと思っていたが、どうやら違うらしい。
「我らの追っ手をああまで悠々と振り切られては、さすがに新造艦をいきなりぶつける気にはならん。この<ミネルバ>は、地上へ降りて地球軍の基地を攻撃させる。最適ではないが、あの艦の相手をするよりは良かろう。アークエンジェルを沈めさせるのはその後だ。無論、地上に降りている部隊が奴らを狙う。それで沈めばよし、沈んでいなければこの艦の出番になる。アスラン」
「はっ」
「新型MSの開発も極秘で進めてきた。だが事を公にするのはもう少し後だ」
「完成後、でしょうか」
「違う」
 パトリックがギロリとアスランを見据え、
「プラント最高評議会の議長が替わった時だ。ナチュラルの奴らは、地球圏外での勢力を失おうが、別に困る訳ではない。だが我らの敗北は即ち、コーディネーターの滅びを意味する。それ位は分かるな」
「は、はっ!」
 地球とプラントがそれぞれ国家として確立し、この太陽系の主導権争いを始めた訳ではない。突如として核を撃ち込まれ、あまりにも多数の同胞を失ったプラントにとっては、決して負ける事が許されぬ戦争なのだ。
 ただ――。
 どうすれば勝てるのか?
 何を以て勝利条件とする?
 勝ってその後どうなるのか?
 士官学校自体から時々考えた事はあったが、やっぱり今になっても結論が出ない。特に勝利条件の設定については、本来なら開戦前から考えておくべき事だが、そこまで考える余裕もなく戦争に突入してしまった。
 思想はどうあれ双方の核を封じた今、量で勝る連合と質で上回るザフトの戦いは膠着状態になっており、正直泥沼と言っても良い位だ。
 だから、
「ならばいい。勝つ為に必要なのだ」
 父の言葉を聞いた時、心の奥底でかすかな疑念を抱きながらも、それを口にすることなくアスランは頷いた。しなかったのではなく、出来なかったのだ。
 代々が優秀な家系の軍人でアスランも厳格に育てられた、と言う訳ではなかったが、プラントに於いて実質ナンバー1である父の背中は、アスランにとってあまりにも遠すぎた。
「分かってはいると思うが、この建造は極秘中の極秘だ。ここを出たら見た事は忘れて、イージスの整備に専念しろ」
「はっ。それであの…我々はこの後…」
「お前達五人は地上に降下し、アークエンジェルとストライクを追う事になる。だが、バルトフェルド隊の戦果次第だ。それに、ハマーン・カーンがシグーを強化するからもう少し待てと言ってきている。出撃はもう少し先になろう」
「了解しました!」
 こうしてアスランもまた、先の見えぬ戦争と知りながら、その中に巻き込まれていくのだった。
 戦争自体が間違っている、と言う訳ではない。だが行き着く先を見据えぬ戦いは、たやすく暴走する危険をはらんでいる。
 そして先が見えねば見えぬ程――自分達を守る為、とか勝つ為に、等の言葉は耳に心地よく聞こえるものなのだ。
 だがタリアの元をクルーゼが訪れた時、まだ企画書の段階だと言っていたではないか。タリアがクルーゼに欺かれたのかそれとも――パトリックの秘密主義がクルーゼの情報収集能力を上回っていたのか、さて。
 
 
 
「つまり敵に自然を操る兵士がいるって言う事?そんな訳ないじゃない」
 くすくすと笑ったのはアイシャ、バルトフェルドの恋人である。膝に乗せたバルトフェルドの頭を撫でながら、
「そんな敵がいたら、地球軍が使わずにしまっておくと思う?もう、アンディったら」
「……」
 本来なら戦闘映像を見せつけて黙らせた上、口に男根をねじ込んで強制的にしゃぶらせるところだが――後で映像をチェックしたところ、大地が鳴動した箇所はことごとく砂嵐の画像に変わっていたのである。
 砂漠の砂嵐――大自然の産物ではなく、深夜にテレビを付けると発生しているあれだ。つまり、映像を見せてここで砂漠が像の形を取ったのだと力説しても、ことによったら頭の中を疑われるかもしれない。
 それにアイシャの言うとおり、敵にそんな自然を操れる者がいたら、宇宙になど行かせずこの地上で、ビクトリア宇宙港にでも配備していただろう。あそこで砂像が五体も待っていたら、陥落させるどころかこちらが壊滅していた筈だ。
 だが、バルトフェルドを始め前回の戦闘に参加した者達は、大地があり得ぬ動きをした事を知っている。何しろ、目の前で不意に盛り上がって仲間を飲み込む砂漠を見たのだから。
 そしてその光景は、今でも脳裏から離れる事無く、バルトフェルドを未だこの艦内へ留めているのは事実である。次に何をするか、はもう決まっていた。戦闘開始時はいなかったくせに、途中からちょろちょろ出てきて、一機とはいえ戦闘ヘリを撃墜した<明けの砂漠>への復讐だ。
 テロ集団の分際で正規軍に楯突くとどうなるか、きっちり教えておかねばなるまい。ただし、アークエンジェルが連中の前線基地へ向かったと言う報告も入っている。あまり戦闘を長引かせると、例の奇妙な砂嵐が襲ってくる可能性もある。
「つくづく厄介だな…」
「なにか言った?」
「いや、何でもない」
 むくっと起きあがり、内線でダコスタを呼び出した。
「ダコスタであります!」
「先日の礼をしに行くぞ。ただし、アークエンジェルはどうやら奴らのアジトにいるらしい。経緯は分からんがな。街の連中と挟撃されても困るからな、今回は街だけ焼き払ってくれる。標的(ターゲット)はタッシル、出撃準備をしろ」
「了解!」
 元々地球軍の味方をする気が無かった以上、報復されようがアークエンジェルご一行には何の関係もない。
 だが、大地すら操りザフト軍を寄せ付けなかったシンジがいなければ、違う手段を取っていたかもしれない。シンジの存在が、タッシルの運命を決したのである。
 
 
 
「これが、改造されたシグーの全貌だ。よく目を通しておけよ」
「はっ」
 ハマーンのキュベレイは目下改装中だが、あれの手入れが終わらぬうちに出撃命令が出る事は有り得ない。それに回せる機体が他に無い事もあって、ハマーンはルナマリアに自分のシグーを譲った。
 一心不乱に仕様書を読んでいるルナマリアを眺めながら、
(短期間でめっきり女らしくなってきたな)
 ハマーンは内心で呟いた。元から素材は悪くなかったが、女としての色香はほとんど無く、どちらかと言えば素朴さが魅力のような娘であった。
 それがプラントへ戻ってきてから、まだ数日だというのに急激に変化しており、特に肩や腰の辺りから匂うような色香が漂い出してきている。色香が不要と言う事は別段無いのだが問題は――
(男の影は全く感じられないが)
 女が男を慕い内面から変わる、というのは自然の摂理だが、その男の影が微塵も感じられないのにこうまで変わるとは。
「ハマーン様」
「何だ」
「このシグー、通常より稼働時間が長いのですね」
「少なくとも、G四機と同程度には動けないと、作戦上支障が出る。追い込んでいざとどめを刺そうとしたら肝心のシグーがエネルギー切れになった、等というのでは笑い話にもならんからな。知っているとは思うが、このシグーは指揮官機だ。ルナマリア・ホーク、と大書きした旗を持ち歩いても構わんが、事情を知らぬ者には指揮官が搭乗していると見えよう。また、その動きもそういう目で見られる」
「ハマーン様のお名前に泥を塗らぬよう、精一杯頑張ります」
「いや、そこまでは必要ない」
「え?」
「カラーリングは汎用のものに戻したからな。誰が見ても私の機体とは分からん」
「はい…」
 言うまでもなく、単に指揮官であるだけの者と、孤高の勇将として知られるハマーンでは、その搭乗機に向けられる視線に雲泥の差がある。通常のシグーならば笑って済むミスであっても、ハマーンのシグーとなればそうはいかない。ハマーン・カーンの、という余計な前置詞が付くのだ。それだけにルナマリアも勢い込んでいたのだが、ハマーンはカラーリングを変えてしまったという。
「勘違いするな。お前などに私の機体は百年早い、と思った訳ではない。ただ、お前にはまだ経験が足りん。誰の機体だろうが最新鋭の機体だろうが、人間が操縦する以上必ずミスはあるし、退くしかない窮地に陥る時もある。そんな時に、私の機体だからなどと言う事を忘れて、機体を操作できるか?」
「い、いえそれは…」
「慣れてくれば、また色も変えてやる。ハマーン・カーンのシグーを乗りこなしてみせたと、胸を張るがいい」
「ハマーン様…ありがとうございますっ」
 自分がどうこうではなく、ルナマリアの為に色を戻したという。頭を下げたルナマリアだが、
「うむ。それにしても…」
「はい?」
「エザリア殿はつくづくお上手だな」
「え゛!?」
 不意にルナマリアの言葉が上擦り、
「お、お上手って…な、何がでありますかっ」
「開発」
「!!」
 ルナマリアの顔が、まるで火を噴いたように赤くなり、
「ハ、ハマーン様っ、きゅ、急に何を言われるのですかっ。エ、エザリア様が私の開発上手だなんてそんな事っ…あ、ある訳ありませんっ」
「誰がお前の開発上手、と言ったのだ?機体の開発がお上手だ、と言ったのだがルナマリア、心当たりがあるのか?」
 無論、エザリアに機体開発のスキルなどない。
「い、い、いえっ、こっ、心当たりなどちっともまったく全然でありますっ」
 首筋まで赤く染めた少女が、脚を摺り合わせてもじもじさせながら力説する場合、どれ位の説得力値が発生するのだろうか。
「ほう、そんな心当たりのない相手から毎晩のように愛撫されて、肢体を震わせながら喘いでいるのか?」
 ふっとハマーンが笑うと、もう青くなったり赤くなったりしているルナマリアは、口をぱくぱくさせる事しか出来ない。
「まあいい。個人の性癖に口を挟む気はないからな。だが私も初めて見たよ」
「…え?」
「女に磨かれて綺麗になる少女を、な。エザリア殿は女の扱いも長けていると見える。試乗して、シグーの癖も頭に叩き込んでおけよ」
 ハマーンが靴音を鳴らして部屋から出て行った後、
「も、もうだめぇ…」
 ルナマリアがぽてっと倒れ込んだ。
 精神的な糸がぷつんと切れたのである。
 ハマーンが言った通り、エザリアに堕とされてからというもの、ルナマリアは殆ど入り浸りであった。イザークの方は何やら忙しく、屋敷にエザリアが一人でいるものだから辺りを憚る事無く抱かれている。
 何よりも――
「今日は一緒に食事へ行きましょう。ただし、これをルナマリアの中に入れてね?」
 甘い囁きと共に渡された卵形のローターは、既にポケットに入っている。スイッチの入ったそれを膣内に入れて、しかもエザリアと食事している自分を想像するだけでもう身体は熱くなっており、仕様書を読んでいても殆ど頭に入っていなかったのだ。
 妄想しているのが、ハマーンには熱中しているように見えただけの話である。
「でも…楽しみ…」
 熱い吐息と共に呟いたルナマリアの指が、ゆっくりと下着へ伸びる。今の自分は軍服姿だというのに、指でそっと触れるとくちゅっと音がした。
「ぬ、濡れちゃった…パンツ穿き替えなきゃ…」
 蹌踉めく足を踏みしめて、ルナマリアがふらふらと立ち上がる。
 だがルナマリアは知らなかった。
 ここはハマーン・カーンの屋敷であり――監視カメラも作動させぬ程、ハマーンはお人好しではなかったのだ。
 
 
 
 
 
 話を聞いたシンジは、フレイを三枚に下ろしてから包み焼きにしてくれる、とは言わず医務室へ向かった。サイは腕に包帯を巻かれていたが、無論治ってはいない。
「で、お前が諸悪の根源か?」
「すみません碇さん、俺のせいで…」
「お前のせいだ」
 即座に断定しながらも、指先で包帯を裂いて傷を治してやった。
 そこへ顔を出したレコアが、
「ステラは少し血の気が多すぎるんじゃない?形式的に言えば、オーブの兵士が地球軍の兵士を撃ったのよ。フレイ・アルスターが軍属になった事はもう知っているでしょう」
「それは表面的な話。ガーゴイル」
「はい?」
「あまり訊かれたくない事かもしれんが、キラを相手に想いが叶う可能性は高いのか」
「……」
 僅かに歪んだ顔と、沈黙が何よりの答えであったろう。
「つまりヤマトにその気はない。ヤマトがガーゴイルを誘い、円満そのもので成人次第結婚する予定だった仲を破壊したならいざ知らず、アルスターのそれは、単に振られた女の逆恨みでしかない。あの娘が滅んだとて何の影響もないが、ヤマトの精神衛生状態はこの艦の運営に直結する。ただ、撃つならガーゴイルではなくアルスターだろう、と思うのは俺だけかな」
「すみません…」
「何だ?」
「咄嗟に動いたもんで俺が撃たれたんです」
「またお前か」
 やれやれと肩をすくめてから、
「とは言え、アルスターの動き次第では跳弾がヤマトに当たっていたかもしれん。よく当たった、と言っておこう」
「ど、どうも…」
「私としては正直、素っ裸にして放り出し、深夜砂漠のサソリの餌にしたくてたまらない気分なのだが、あいにく出来ん。気が変わった、とヤマトが言っていないからな。だがガーゴイル、お前が誰を想おうとそれは自由だが、このまま野放しには出来んぞ。何とか出来るのか」
(シンジ君も結構酷な事訊くわね)
 無論レコアは、キラの視界にシンジしかいない事は知っている。そしてシンジの視界にキラは入っていない事も。
 しかし、いくら眼中にないからと言って、キラが自分を想っている事位は知っていよう。それなのに、キラが振り向いてくれる可能性はあるのかとサイに訊いたのだ。キラを見ていないから、と言えばそれまでだが、あまりと言えばあまりな台詞である。
「碇さん…」
「ん?」
「俺とフレイの仲は確かに悪くなかったけど、この婚約自体は親同士が決めたんです。それに…碇さんやキラが俺達の為に命懸けで戦ってくれてる時、あいつはキラがコーディネーターだってばらして連れて行かれる原因を作ったり、キラが足止めされて苦戦してる時にラクス――本当はミーアだったけど――を連れ出して人質にしようとしたりして…。キラが必死に戦ってくれてるのを見れば見る程、あいつのそういう所が嫌になっちゃって…キラの事を好きになっていなくても、俺は婚約を解消してました…」
「だった――」
 言いかけたレコアを、シンジが視線で制した。レコアが言おうとした事を、シンジは見抜いていたのだ。
 どのみち婚約は解消していた、とサイは言う。だが、それならば先に婚約を解消し、完全にフレイの気持ちを遠ざけてからキラにアタックするべきだったろう。シンジとて、それはちらっと考えたのだ。
 が、口にはしなかった。確かにサイの行動は軽率だったが、人の力量はそれぞれ違う。少年達を統率し、ストライク無しでMSを撃破出来るシンジでも、そのMSを操縦する事は出来ない。
 人が皆、理想通りに行動出来れば問題は無いのだ。
「艦長には私から報告しておく。とりあえずステラには、艦内の発砲は控えるように言っておこう」
「すみません…」
 フレイがキラに絡んだのは単に少女同士の喧嘩である。が、そこへ発砲したステラをこのまま放っておく訳にはいかない。何らかの処分は必要になるのだが、
「ステラに罰を?ばっかじゃないの」
 と、あきれ顔で言い放つ綾香が今から想像できるだけに、気乗りしない事夥しいシンジであった。
「やれやれ」
 艦の外に出てふわあ、と腕を伸ばして欠伸したシンジに、
「あ、あのさ…」
「ん?」
 振り返ると、アフメドが立っていた。
「確か、ケツメド少年だったな。何か?」
「…アフメド・エルフォズルなんだけど」
「そうだったかな。私に何か?」
「サイーブが呼んでる。食事の用意ができたから、あんた達も一緒にどうかって」
「そうか。艦長に伝えておくよ」
 身を翻したシンジの背に、
「ま、待ってくれよ…」
「?」
「あ、あんた…カガリに何言ったんだよ。あいつ…カガリが泣いてたんだぞっ」
「ほう…」
 シンジの視線が、しげしげとアフメドを見やる。
 その足は――震えていた。シンジが手も触れずにキサカを吹っ飛ばし、巻き添えを食って潰された事は身体が覚えているのだろう。それでもカガリの為、足が震えながらも抗議に来ているのだ。
「二人きりで話した訳ではない。サイーブと、それに艦長も一緒の場だった。気になるのなら、サイーブに訊いてみるといい」
 シンジの声は穏やかなものであった。
「もっとも、わざわざアジト内で話した事が、そう簡単に口外していいのかどうかは知らないが。アフメド少年」
「な、なんだよ…」
「足が震えているな」
「!!」
「自分を叱咤してここへ来た勇気は賞賛に値する。将来は、道を誤らなければ立派な戦士になるだろう。行く末が楽しみだ」
 その言葉は、決してアフメドを年下の小僧と侮ったものではなかった。月光に映える長髪を揺らし、シンジがタラップを上がっていく。
「待って…」
 その背を、アフメドが再度呼び止めた。
「何か?」
「こっ、これ…」
 アフメドが、大事そうに何かを手に乗せて差し出した。
「ハウメアの…護り石って言うんだ。もらってくれよ」
「要らない物にも見えないが、なぜ私に?」
「俺の宝物だけどあんたにやる。あんた、強いんだろ?怪我だって治せちゃうんだろ?あいつを…カガリの事を守ってやってくれ、お願いだ」
 大自然すら操りうる目の前の青年が、自分を認めてくれたと気づいたらしい。
「……」
「あんたはさっき、俺が将来強くなるって言ってくれた。俺はきっと立派な戦士になってみせる。でも今はまだ…カガリの事を守ってやれないから…」
(オーブ国民の事を考えれば、砂漠でとっとと朽ち果ててもらうのが良さそうなんだが…)
 少なくともシンジのカガリに対する感情は、守ってあげたい等とは対極の位置にある事は間違いない。ただシンジは、文字通り決死の覚悟で自分を呼び止めた少年の意気を、土足で踏んづけてみる気にはなれなかった。
「仔細は言えないが、あの娘は折を見て適当に滅ぼす予定になっていた」
「!?」
 それを聞き、アフメドの顔が一瞬で青ざめる。
「だが、足の震えを止められぬまま、決死の覚悟で私の所へ来た若き戦士に免じて、しばらくは預けておく。ところであのカガリは仲間なのか?」
「う、うん」
「ならば、あの性格はもう少し矯正した方が良かろう。あれは、好んで滅びを招く性格だ。石は、お前が持っているといい。この物騒な砂漠で、護り石はそれなりに出番もあろう」
 黒髪を揺らしてシンジが機内に消えていく。
 ふとアフメドは――自分がぺたんと地面に座り込んでいる事に気付いた。
 いつ足下から崩れ落ちたのか、自分では全く分からなかった。
 
 
 
 
 
(第五十二話 了)

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