妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
ドクトルシビウの闇カルテ:ツェザーレ
 
 
 
第四十二話:蝦夷国…
 
 
 
 
 
「どうしても、受けてはもらえぬのか」
「帰れ」「お、お断りします」
 動機はともかく、サイ達は正式に志願兵となった。その前はあくまでもお手伝いの立場だが、軍人となる事を志願した以上、一般人のままでは使えない。全員をとりあえず二等兵とし、特例だがシンジには中尉を、キラには少尉の任官を申し出たハルバートンだったが、シンジはとりつくしまもない。
 ただ、キラの方はシンジを真似て空威張りしている風情がある。
「人間はいずれ進化していく生き物だ。遺伝子操作をしたからと言って、それを出来ぬ者が妬んで迫害し、因縁を付けた挙げ句核を撃ち込んで戦争を始めた。こんなろくでなしの地球軍風情が、私をその一端に引き込めるとでも思ったか?ハルバートン准将」
 おハルさん、と呼ばなかった事で、シンジの事は諦めた。が、キラについてはそうも行かない。そもそも、シンジはこの世界の住人ではないのだ。
「なるほど、そこまで忌まれては無理強いも出来んな。だがキラ・ヤマト、君はどうなのだ。君はミスター碇とは違い、何れどこかの世界へ戻りたい身ではあるまい。その君が民間人のままで参戦していれば、味方のみならず敵からも糾弾される可能性がある。折角、君のご両親はへリオポリス崩壊の難を逃れておられるのだ。災禍に巻き込む事もあるまい」
「……」
 子犬が縋るような目で、キラがシンジを見た。ハルバートンの言っている事は、半ば脅迫に近いのだが、それでもシンジが怒らなかったのは、ハルバートンの言葉がそれなりに真意を含んでいたからだ。単に自己の保身だけを考えただけの言葉なら、さっさと燃やしていたろう。
「ヤマトが地球軍の制服を着たからと言って、裏切った等と言うつもりはない。元より、そんな約定は結んでいない事だし。別に着ても構わないが?」
「やだやだ、絶対にヤダー!」
 だだっ子になってシンジにしがみつくキラだが、キラにはキラなりの理由がある。
 接点だ。
 出撃時、ムウは勿論軍服姿だし、ステラでさえもそうだ。が、キラは違う。シンジと同じ私服姿で、しかも揃ってヘルメットをかぶっていない。言うまでもなく、宇宙戦に於いてコックピットが損傷した場合、ノーヘルというのは即死に繋がる。いわば、キラから見ればシンジと命運を共にする証であり、私服もその一部なのだ。
 地球軍として任官されてしまえば、もう私服でも通す訳にもいくまい。ただでさえステラというライバルがいるのに、ここの所シンジはマリューと妙に仲が良い。あのえっちな身体で誘惑するなんてずるい、と言ってみたところで始まらない。しかもシンジが地球軍を軽蔑している事を知っているキラとしては、ここで地球軍の任官など間違っても受ける訳にはいかなかったのだ。
「ま、ヤマトがそう言うなら仕方あるまい。レジスタンスが協力してくれた、とでも書いておくがいい。捏造と隠蔽工作は、地球軍ならお手の物だろう。おハルさんは、あまり得意でもなさそうだが、私の相棒の為に一つ頼む」
 お前もその一味だろうが、とは言わなかった。
 ふむ、とハルバートンは頷いた。
 満足した。
「ミスター碇がそこまで言うのなら、仕方あるまい。キラ・ヤマト、君には少し話がある。残りたまえ」
「え…」
 不安げにちらっとシンジを見たが、
「MSの理念に付いて、とくと習っておくといい」
 シンジはさっさと出て行ってしまった。
(そ、そんな…)
 だが、これも部屋を出たハルバートンが持ってきたのは、キラを脅迫する為の資料でも、拷問の為の道具でもなかった。
 重たげな音を立ててスーツケースが四つ机に置かれ、中を見たキラは目を見張った。そこには、手の切れそうな新札がびっしりと詰まっていたのである。
「民間人に給与を支給する事は出来ない。だが、この先オーブへ行った時に、文無しの異世界人では困るだろう。二つはミスター碇へ、残りの二つは君へ、私からのせめてものお礼だ。受け取ってもらいたいが」
「…分かりました」
 少し考えてから、キラは頷いた。考えた事もなかったが、シンジがオーブへ来た時に、この世界の金など持っている筈がないのだ。それに、オーブへ入る前でも入り用になるかもしれない。
「でもあの…どうして私から?」
「私がそう判断したからだ。君は今彼と出撃しているが、このままでは困る」
「え?」
「このままでは命取りになるぞ――敵に討てぬ相手がいる、などとあっては」
「!?」
 みるみるうちにキラの顔色が変わっていく。
「そ、それ…シンジさんに…聞いたんですか…」
「ストライクとアークエンジェルの報告書は見た。敵はG四機に加えて指揮を執るのはあのラウ・ル・クルーゼ、おまけにハマーン・カーンまでいる。それなのにこれだけの傷で済んでいるのは――本来なら有り得ない事だが、ストライクがたった一機であの敵を抑え、しかも圧倒的優位にいながら、何故か討っていないとしか説明が付かんのだ。これだけ敵をあしらえるなら、討てぬ事と言う事はあるまい。なのにあの四機が未だ健在であるということは――」
 ハルバートンは、穏やかな目でキラを見た。それは、咎めたり叱咤したりするそれとは、程遠いものであった。
「何らかの理由で討てずにいる、と言う事だ。不慮の事態を考えれば、逃すのは自らの首を絞めるようなものだし、何よりも異世界人に初めて見える敵を討てぬ理由はあるまい」
「……」
「無論、ミスター碇もそれは承知の上なのだろうから、私が口出しはするまい。ただそれは、続けていればいずれ必ず命取りとなる。それだけは覚えておきたまえ。老婆心ながら、私からの忠告だ」
「…はい…」
 キラがそれをどう取ったのか、それ以上語らなかったからハルバートンには分からない。が、もはや戻れず炎上が確実となった時、部下達は立ち上がり、ハルバートンへ一斉に直立不動で敬礼した。
 シンジに副官諸共簀巻きにされた親玉だが、彼らに取っては誇りだったのだ。部下達に敬礼を返しながら、ハルバートンは満足していた。
(君なら何とかしてくれよう。あらぬ疑いを掛けた事、済まなかった…。異世界人の青年よ、マリューを頼むぞ…)
 ハルバートンが心の中でシンジに託したのは、アークエンジェルでもストライクでもなく――アークエンジェル艦長マリュー・ラミアスの身であった。
 後に自分の予感が的中し、また一方で外れる事を、無論ハルバートンは知る由もなかった。
 
 
 
 
 
「別にシンジ君の事なんか気遣ってもいないのに」
 一目見れば手間暇掛けたと分かるチョコレートケーキを前にして、目をきらきらさせているナタルを見ながらマリューが言った。その言葉には明らかにトゲがあるのだが、ナタルには届いていない。レコアと綾香でさえ、見ただけで胸焼けを起こした代物なのだが、ナタルの目は明らかに輝いている。
 相当な甘党らしい。
「どうなっても知らないぞ!なんて言ったくせに、何でナタルだけチョコレートケーキなのよ」
 珍しくマリューの口調が挑発気味なのは、ケーキだけではなくシンジがナタルを優しく治療した――マリューにはそう見えた――からだ。確かに公傷と言えない事もないが、あまりに差がありすぎる。
「ま、まあいいじゃないのよ。大将の機嫌損ねて、火あぶりにでもされてたら困るだろ」
 ムウが宥めに入ったが、
「フラガ少佐には関係ない事です。黙っていて下さい」
 一瞥すらされずに突っぱねられた。
「…へーい」
 で、シンジは何をしているのかというと、通常より五割増のボリュームで作ったケーキを前に、引くどころか垂涎せんばかりのナタルを微妙な表情で眺めている。どうやら、単純に厚意を詰め込んで作った訳ではないらしい。
「あー、バジルール。いいよ食べて」
「ありがとう、碇さん。頂きます」
 一口食べて顔を上げ、
「おいしい」
 ナタルが満足げに微笑った。こんなナタルを見たのは、無論三人とも初めてである。もう顔も上げず一心に食べているのから目をそらし、
「さてと、トップの三人を集めたのは、バジルールの食べっぷりを観察する為じゃない。フラガ、現状は今どうなってる?ここは何処?」
「えーとだな、今俺たちがいるのはここ――」
 壁に地図が出てきた。
「アフリカ大陸だ。分かりやすく言うとザフトの勢力圏のど真ん中。で、ここがオーブでここがアラスカ。とりあえず敵中を突破して…大将、どうした?」
「…シンジ君?」
 マリューとムウが、怪訝そうにシンジを見た。その視線は、地図のある一点で止まっている。
「中国大陸の右側が…妙にすっきりしてるんですが…」
「ああ、これかい」
 そこには、朝鮮半島と日本列島がある筈なのだが、朝鮮半島がほぼ姿を消しており――北海道しか残っていないではないか。
「ここの半島で核実験をやった奴がいてね。間抜けな独裁者が、引き金をひいちまったのさ。で、当時の日本はオーブよりも更に楽天的だった。そこへ実験が失敗してこの半島はほぼ消滅、狂った奴が日本へ核を撃ち込んだのさ。結果、日本列島は北海道と一部の島を残して綺麗に消えちまった。今は蝦夷国になってるよ」
「え、蝦夷国…」
 無論、この世界の住人でない以上、この世界がどういう歩みをしようと自分には関係のない事だ。
 だが自分が育ち、何人の侵略も許さなかった帝都どころか、日本列島そのものが殆ど無くなっている状況は、やはりシンジにとっては大きな衝撃であった。
「……」
 暫くシンジは、天を仰いだまま何も言わなかった。と言うよりも、言葉が見つからなかったのである。天変地異ならまだしも、朝鮮半島で起きた核実験失敗のあおりを食ったという。
(この世界に碇シンジがいたら誅殺ものだな)
「シンジ君…」
 シンジの様子を見て、三人はシンジの出自がやはり日本で間違いないと知った。ほぼ同じ世界と言っていたから、地形は大体一緒なのだろう。自分の祖国ではないが、何の感慨もないと言う事はあるまい。
「何とか…落ち着いた」
 ふーっと、大きく息を吐き出したのは、それから数分が経ってからの事であった。
「本当に、大丈夫?」
「ん、大丈夫。別に俺の祖国じゃないからね。危機感の足りない間抜けな政治家と平和ボケした国民しかいなかった、と言う事だろう。それでフラガ」
「あ、ああ、何だい」
「この辺にいそうな敵を始末してからオーブへ向かう、と?」
「ああ、そうなるだろうな。とりあえず、スカイグラスパーの整備を急がないとな」
「スカイ…グラス?」
「スカイグラスパー、だよ。大気圏用の戦闘機さ。二人乗りでね。俺のメビウスは宇宙(そら)専用だから」
「ふうん…」
 頷いたが、さっきと比べてどう見ても覇気がない。マリューとムウがそっと顔を見合わせたが、何か言える訳でもない。口を出せる問題ではないのだ。
「……」
 無言のまま、しばらく地図を眺めていたシンジだが、
「姉御」
「あ、なに?」
「姉御は、そのスカイグラスパーの操縦は?」
「む――」
 無理よ、と言おうとして気付いた。乗れようが乗れまいがどうでもいい、と思っているならそもそも訊かない筈だ。
「戦闘は無理だけど…操縦する位ならなんとか」
「じゃ、乗せてって」
「ふえ?」
 乗せていけ、とは一体どこへ行こうと言うのか。ムウが、はっと気付いたように、
「おいおい大将、いくらなんでも蝦夷国までは――」
「誰がそんな事を言った。その辺でいい」
「そ、その辺?」
 実を言えば、マリューもそう思ったのである。
「耳貸せ」
「え?」
 こんな言われ方をされたのは初めてだ。言われるまま耳を寄せたマリューに、シンジは何やら短く囁いた。
「は、はあ…分かりました。乗せていくだけなら何とか出来ると思うから」
「よろしく」
 マリューの顔を見る限り、戦闘に関する事ではなく、また国土の大半を失った祖国もどきに関係する事でも無いらしい。
「とりあえず、戦闘はステラメインで出てもらおう。あの形状からして、この辺りの地形には向いていそうだし、その手の訓練も積んでいよう。ヤマトでは少々荷が重い可能性がある」
「そうね」
「足りなければヤマトも出す。俺がもう少し時間がかかるので、二人には頑張ってもらわないと。それで姉御、ここにはいつまで?」
「いつまでって…あなたのそれはすぐに終わるの?」
「…ああ、そうか」
 言われて気付いたように、シンジが指で頭をかいた。どうやら、思考能力にまで影響が出ているらしい。
「駄目だこりゃ。今日はもう寝る。それからバジ…うぷっ!?」
 反射的にシンジが口許をおさえた。
 シンジが見たのは、優に十人分はあったチョコレートケーキを――それもかなり甘く作った――きれいに平らげたナタルであった。こみ上げる何かを何とか堪え、口許をおさえたままシンジが飛び出していく。
 その背へ、
「碇さん、ご馳走様でした」
 ナタルの声が決定打となり、シンジが脱兎のように走り出した。一瞬ナタルをキッと睨んだマリューだが、ケーキを作ったのはシンジだし、責めるに責められない。
「フラガ少佐!」
「お、おう?」
「スカイグラスパーの整備を急いで!今夜中には飛べるようにしなさいっ」
 これもシンジの後を追って飛び出して行った後で、
「いくら何でもそりゃ無茶だろ艦長…飛べればいいのか?」
 困った顔で首を傾げたムウに、
「艦長はこんな時に、どこへ行こうというのですか」
 何事も無かったように口許を拭ったナタルは、ケーキを丸々一個、しかもあっという間に平らげたとは到底思えない。
「さあ?別に艦長が言い出した事じゃないからな。碇の大将に訊いてみたらどうだい」
「遠慮します」
「そうかい。ところでそれ…うまかったの?」
 ふ、と笑ってナタルは立ち上がった。
「甘さは私好みでした。どこから知ったのかは知りませんが、私の事は研究済みだったようです。では、私はこれで」
「あ、ああ」
 口調はいつもと変わらぬナタルだが、表情がそれを裏切っている。ナタルが身を翻して出て行った後、
「あの中尉好みの甘さってな…どれ位なんだ?」
 どれどれ、と皿に残った小さな塊に指を伸ばし、ひょいと口に入れた次の瞬間、
「うげ!?」
 ムウが口許を両手でおさえて、ガタッと立ち上がった。チーターに追われるガゼルよろしく、すっ飛んでいくムウ。
 ケーキを平らげたナタルを見て、どうしてシンジがあんな反応を見せたのかが、嫌と言う程分かったのである。
 それは――砂糖九割に対して、チョコレートやその他の材料を一割にした位の甘さであった。
 
 
 
 
 
 ――ザフト軍地上旗艦レセップス――
 そこに、砂漠の虎と呼ばれたアンディ・バルトフェルドはいた。
 艦長室にこもって唸っている。 
 但し、虎の唸り声と言う程いいものではない。その前に置かれたのは、宇宙(そら)にいるハマーン・カーンから送られてきた電文であった。
「お前達如きの手には負えない」
 これだけである。無論バルトフェルドは、地球軍の新型艦アークエンジェルが降下してきた事を知っているし、命からがらと言うよりクルーゼ隊をあっさり蹴散らしたが、手順を間違えた為、結果的に第八艦隊と引き替えの形になった事も知っている。
 しかし、それはあくまでも宇宙戦の話であって、ここは地上なのだ。しかも砂漠地帯である。宇宙でこそ強いかも知れないが、いきなり大気圏に降りてきてどれほどの事が出来るものか。
 バルトフェルドは、ガイアの事を知らない。ハマーンが知らせなかったのだ。知らせるには情報が少なすぎたのだが、果たしてそれだけの理由だったかどうか。
「失礼します!」
「んー」
 活きの良い声がして、若い将校が入ってきた。
「ダコスタ、参りました。お呼びでしょうか」
「地球軍の新型艦の事だ」
「既にご命令通り、偵察の手筈は整えてあります」
「んー、その事なんだがな…」
 二本指で器用にマグカップを持ち上げて一口飲み、
「放っておけ」
「…はっ?」
 怪訝な表情になったダコスタに、バルトフェルドはハマーンから送られてきた紙を放り投げた。
「失礼致します」
 受け取って読んだ顔が険しくなり――そのサインを見たところでそのまま固まった。送り主が誰か、知ったのである。
「ハマーン様が…」
「画像を見ても分かるがあの大天使、砲撃による傷がほとんど無いだろう?クルーゼ達に追いかけられ、第八艦隊を犠牲にしてようやく降りてきた――筈なのにだ」
「……」
「残りのG――X105ストライクはまだ見ていないが、おそらく同じ状況だろう。それに、連中とてここがザフトの勢力圏である事は分かっている筈だ。なのに、どこかと通信を試みた形跡すら無いのだぞ。普通ならあり得るか?」
「では…内紛でも起きているとお考えですか?」
「或いは――」
 ぐいとコーヒーを飲み干し、
「端から我らなど相手にされていないか、のどちらかだな。いずれにせよ、本格的に斥候を出せば、即気付かれて攻撃してくる可能性がある。もう少し見物だ」
「し、しかし敵はストライクとメビウスゼロです。メビウスは出てこられませんし、ストライクに変形機能は付いておりません。時間が掛かればそれだけ敵が準備を…」
「敵はエンデュミオンの鷹とは言え、ナチュラルが操るMSが一機とメビウス、それに実戦経験もない新型艦が一隻です。と――」
「え?」
「宇宙(そら)の連中も、そう考えたのだろうな。その結果がこの有様だ。事情は良く分からんが、少なくとも連中の手からは悠々と逃れてここへ降りてきた」
「……」
 そう言われると、ダコスタには返す言葉がない。クルーゼ達も、おそらくはダコスタ同様たかがMSとMAが一機ずつと戦艦風情が、と侮ったろう。そして強烈なしっぺ返しを食ったのだ。
「連中は、おそらくアラスカを目指している筈だ。本来ならこんな所には来ない。少なくとも、何か緊急の事態が起こった事は確かだ。そしてそれが、敵の真ん中と言う事を無視ししても、こんな場所へ降りざるをえない程の。とは言え、それもあくまで予測の範囲内を出ていない。だとしたら、ここへ来るまでの異様な強さと悪運を考え、もう少し遠巻きで見ているのが良かろう――と、俺は思うのだがね」
「了解しました。仰せの通りに」
 何かあったのだろう、とはあくまで推測に過ぎず、その一方でクルーゼ隊が全く歯の立たない相手だった、と言う事は事実なのだ。であれば、事実の方を重視するのが賢明だろう。ここで先制攻撃を仕掛け、相手が第八艦隊の弔い合戦とばかりに意気が上がっていたらやぶ蛇になってしまう。
 未だ見ぬ相手に随分と慎重な話だが、裏を返せばハマーンの言葉が呪縛していた、と言ってもいい。
 それだけ、ハマーン・カーンの勇名が全軍に知れ渡っていた、と言う事の証である。
 
 
 
 
  
「今日は、ここに泊まっていって?私がずっと側にいるから」
 口をおさえて走り出したシンジだが、何とか戻さずに済んだ。青い顔をしているシンジを、マリューは自分の部屋へと引っ張ってきた。
 地図の事でショックを受けたのは分かっているが、その事には一言も触れず、ただ泊まるようにとだけ勧めた。
「うん…分かった…」
 普段より四割程力弱く頷いたシンジを見て、マリューは驚いた。
 シンジと会ってから、もう一月近くになるが、シンジの精神的な落ち込みを僅かでも感じ取ったのは、これが最初だと気付いたのだ。
(シンジ君、今までずっと無理して…)
 初めて見るシンジの姿に、胸の奥がきゅっと熱くなったマリューだが、
(無理…してたのかしら?)
 別に無理をしていたのではなく、単にシンジに取っては大したことのない範疇だったのではないかと、妙な考えが浮かんだ。
 が、手は勝手に動いており、シンジをぎゅっと抱きしめていた。
「姉御?」
「無理は…しないでね…」
「無理はしてない。ただ、ちょっとびっくりした所へバジルールの追撃に遭っただけ。奴があんなに砂糖派だとは思わなかった」
「そう言えば、結構量もあったわね」
「密度を増やしたので、十人分くらいは普通にあったんだけど…」
「そ、そんなに?」
「そんなに」
 頷いたシンジに、
「でも彼女、実に美味しそうに食べ…モゴっ」
 不意に口が塞がれた。
「あれは、毛先くらいだが味見はしたんだ。思い出すから言わないで」
 マリューはふふっと笑った。
「いいわ、シンジ君がそう言うなら。さ、今日はもう休みましょう。ゆっくりやすんで、早く回復しなきゃね」
「ん」
 シンジに背を向けてブラを外したマリューだが、不意にその首が鳴った。
(…ゴキ?)
「姉御今変な音が…あれ?」
 シンジが見たのは、ブラを手に首を回しているマリューであった。
「あ、ああこれね。ちょっと肩が凝っちゃっただけ。宇宙だと、重たいものぶら下げていてもいいんだけど、地上だとちょっと肩に来ちゃう…ひゃ!?」
 シンジが手を回して、乳房を両手で包み込んだのだ。
「持ってるのと揉むのとどっちがいい?」
(え、えーと…)
 無論選択したいのは後者だ。シンジの腕はもう知っているマリューである。が、そこを何とか堪えて、
「も、持っていてくれればいいわ。それだけでも十分楽になるから。ありがと、シンジ君」
「ふむ…」
 シンジは何やら首を傾げて、
「持っているだけなのに…」
「だけなのに?」
「姉御の胸って餅みたいに吸い付いてくる。器用なおっぱいだ」
「シ、シンジ君っ」
 かーっと赤くなったところへ、その耳元に囁かれた。
「肩こりと言っても要は筋肉疲労。それ位なら何とかなる。癒してあげるから、さ、そこへ横になって」
「う、うん…」
 言われるまま仰向けになると、ずしりと重たげな乳房が僅かに横を向く。下乳の辺りから肩口へ掛けてゆっくりと撫で回されると、急速に凝りは引いていった。
「もう大丈夫。異世界の歴史に、一喜一憂する程暇でも物好きでもないんだ」
 笑った顔は、もういつもの物に戻っていた。
「やる事があるのに余計な思念が入るとろくな結果にならない。姉御、もう戻ったよ。ありがと」
(シンジ君…)
 乳房を揺らして起きあがったマリューが、もう一度シンジを抱きしめた。
「向こうの世界でも…あなたはそうだったの?誰かに縋る弱さを見せる事もなく独りで立って…」
 刹那宙を見上げたシンジが、マリューの髪を軽く撫でた。
「程度の問題。まず第一に、碇シンジはそんなに強くない。二つめ、前にも言ったけど俺がいた世界にMSなんて物は存在しないし、無論乗りたくもないのに乗る娘もいないし――」
 もう片方の手がマリューの背に伸びて、柔く抱いた。
「向いてもいないのに軍服を着て、艦長席でちんまりしている宇宙艦の女艦長もいない。それに比べれば楽でしょ?」
(楽…なのかしら?)
 この辺りが、マリューには理解できない。確かにシンジの言うとおりではあるが、シンジが居なければキラが友人を見捨て、さっさとザフトへ逃げたとは思えないし、自分は一応正規の軍人なのだ。どう考えても、異世界から飛ばされた方がショックは大きいはずだ。
 問題は――シンジに虚勢が全く見られない事にある。背伸びしたり強がったりするのが普通なのに、どういう育ち方をしたら、こんな環境下でも泰然自若としていられるのか。
 抱き合ったまま、シンジに髪を撫でられていたマリューが、
「明日の件だけど、本当に連れて行くだけでいいの?」
「構わない。姉御に土方人夫の真似なんてさせないから。砂漠の盗賊避けなら問題ない。正直者の心臓は、羽根と同等か或いはそれより軽いって知ってる?」
「え?し、知らないけど…」
「古代エジプトの神話だが、アヌビスは死者の心臓を計る役目があるのだと。サンドゴーレムならぬサンドアヌビス、姉御に見せてあげるから」
「う、うん…」
 よく分からないまま頷いてから、
「あ、あのねシンジ君」
「はい?」
「ふ、二人の時はその…」
 シンジの耳元に口を寄せて、
「マ、マリューでいいからっ」
 少し早口で囁いた。その顔はほんのり赤くなっているのだが、シンジは別段、マリューにミサトそのものを重ねている訳ではないし、何よりもマリューに弟はいないのだ。
 呼ばれる度に、くすぐったいような微妙な気がしていたのも事実である。
「いいよ、分かった」
 頷いて、
「マリュー」
 と、妙に甘い声で囁いた。吐息を吹きかけられて、その肩がぴくっと揺れる。
「は、はい」
「もう寝よっか」
「え、ええ」
 名前を呼んでと言ったのは自分だが、いざ呼ばれると何となく恥ずかしい。どことなく落ち着かない風情のマリューを横たえ、
「おやすみ」
 その額に軽く口づけした。
「お、おやすみ…」
 それから三十秒も経たないうちに、マリューはすやすやと寝息を立てていた。裸の胸元までブランケットを引き上げてから、シンジがゆっくりと立ち上がる。
「私はそんなに強くないよ。悪の薫陶が無ければ、今頃はヒキコモリになってる。問題は――」
 ふと宙を見上げ、
「帝都へ戻った時、悪のレベルが上がってるかどうかだな。レベルが下がった、なんて言ったら夜香に頼んで灰にしてくれる」
 物騒な事を呟いてからもう一度マリューの髪を軽く撫で、少し身体を離してシンジは横になった。が、その身体が僅かによろめいた所を見ると、依然として完調には遠いらしい。
 数分後には二人とも寝息を立てていたのだが、シンジはこの時、自分が探索されていた事を知らなかった。探していたのはキラとステラで、シンジの部屋の前で鉢合わせし、同時に中へ入って無人だと知り、心当たりを全て探し回った結果、マリューの私室にいるとあたりを付けられていた事など知りもしなかった。
 レコアの一喝でやむなく引き下がったが、二人の双眸には危険な光が――嫉妬という名の光が宿っていた事など知るよしもなく、眠りに落ちていたのだった。
 
 
 
 
 
 結局ストライクとアークエンジェルを逃がしたハマーン達には、本国から帰投命令が出ていた。第八艦隊は壊滅させたが、ガモフを失った上に標的には逃げられ、後は地上部隊に任せて帰投しろと言ってきたのだ。
 ハマーンは気にもしていなかったのだが、一応エリートの赤服隊がMS一機に良いようにあしらわれ、あまつさえジンが壊滅した映像を見るに至って、最高評議会は大騒ぎとなった。
 ただし、ストライクの機体性能がずば抜けていない事は分かっている上に、パトリックは既にパイロットがコーディネーターである事は知っている。何よりもルナマリア以外、全員が評議会メンバーの子息と言う事もあって、善後策は何れ練るとの事でその場は収めた。
 元々ナチュラルがコーディネーターに言いがかりを付けた上、経済封鎖を掛けてあまつさえ核を撃ち込んだのが原因だが、そのユニウスセブンで近親者や友人を失った者と、そうでない者との間には戦争に対する熱にもやはり差があり、それは仕方のない事だ。愛する妻を亡くしたパトリックはその前者であり、今回の敗戦も実は内心で喜んでいたのだ。仕掛けられた戦争、と言うスタンスから見れば、ナチュラルから奪取した機体だけでは足りないから新型を作るべし、と言う論調が成り立つし、むしろ今回完勝していれば、ろくでもない和睦論者がまた大勢を占める可能性がある。
 妻の仇も討っていないのに戦争など止めてたまるものか。
 議場を出た所で吐き捨てたパトリックだが、その息子達は違う。ただでさえ親の威光だとか言われているのに、おめおめと戻ってくるなど屈辱以外の何物でもない。
 そして、イザーク・ジュールもその一人であった。母のエザリアは評議会のメンバーだが、戻ってきた息子を迎える事もなく、指定された場所へ来るようにとの手紙だけが待っていた。
「母上…」
 悄然と赴いた先は洋館であった。
「?」
 怪訝な顔で玄関で向かったイザークは、そこで予想もしない人物と会った。
「ルナマリア!?」「イザーク!?」
「『何でここに…』」
 同時に互いを指さして、はたと気付いた。
 理由は一つしかない。
 ドアを開けると、メイドが待っていた。
「エザリア様は奥でお待ちです」
 メイド達は何れも見慣れない顔であり、イザークとルナマリアが歩き出した直後、重たげな音を立てて扉が閉まった。
「『罠!?』」
 見知らぬメイドといい背後で閉まったドアといい、明らかに怪しすぎる。反射的に手を銃へ伸ばした二人だったが、
「そのまま進みなさい」
「母上!?」「エザリア様!?」
 聞こえた声は、明らかにエザリア本人のものであった。合成や録音されたそれではない。顔を見合わせた二人が、怪訝な表情のまま進んでいくと、やがて部屋に突き当たった。
「突き当たり」「だな…」
 ノブに手を掛けて中に入った途端、二人を湯気が包む。よく見ると、奥には浴槽らしき物が見えた。
「二人とも服を脱いでこちらへ」
 妖々と響いたそれは、頭の中へ直接語りかけてきたと気付く余裕もなく、二人の手は自分の衣服へと掛かっていた。
「イザーク、ルナマリア、この度の任務ご苦労でした」
 凛とした声と共に、湯を滴らせながら全裸の女性がゆっくりと立ち上がる。前を隠そうともせずに婉然と笑ったのは、イザークの母でありプラント最高評議会の議員でもあるエザリア・ジュールその人であった。
 
 
  
 
 
(第四十二話 了)

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