妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
ドクトルシビウの闇カルテ:ツェザーレ
 
 
 
第四十一話:シンジ、注文さる
 
 
 
 
 
「黒瓜堂殿、わざわざ来てもらって済まぬな」
 頭を下げたフユノに、
「いや、さっきシンジ君を見て来たついでです。さしたる手間でもありませんから」
 危険なウニ頭を揺らして黒瓜堂は笑った。
 シンジが昏睡状態に落ちてから、今日で丸二日が経つ。精神が空っぽになっている、と黒瓜堂が判断した為、綾小路葉子以下本邸のメイド達は一応落ち着いてはいるが、このまま放置も出来まい。現金は財布ごと、そして身体の上に置いたエクスカリバーもその姿を消した。それを必要とする環境、と言う事になるのだが、何時までも自分の寝室へ寝かせておいてよいものか。
「此度、シンジの事は全てお主に任せる。儂は一切口を出さぬ故、済まぬが…シンジの事よろしく頼む」
 シンジの場合は性格上、フユノの場合はそれに加えて自分の地位を自覚している為、大きな声を出す事などまず無い。特にフユノは、その一言で数百数千の人間の生活に影響を及ぼしうる為、迂闊に感情など出せないのだ。
「分かりました。尤も、私はあまり心配していませんがね。精神だけ抜けているとは言え、おそらく向こうでは実体化しているでしょうし、本人がよほど腑抜けていなければ五精も使える。問題は、この間とは逆のケースになった場合ですよ。中国の奥地で派遣された娘に出会い、謂わばその娘を守る形になって力はフルに使えた。が、いつもそうなるとは限らない。出会った者のせいで力を制限される事もある。夜香殿やドクターとの付き合いで、シンジ君もだいぶフェロモン値は上がっている。引きつけた者が、足かせにならなきゃ良いんですがね。それさえなきゃ、そのうち放っておいても帰ってきますよ」
 シンジがいる世界では、既に二十日が経過している。こちらとは時の進み方が違うのだが、無論黒瓜堂もフユノも知る由はない。
 何よりも、黒瓜堂の言葉がまさにビンゴで、錘を付けられている状態になっている事など、知る由もなかったのだ。
「シビウ病院に置くのが一番いいんですが、葉子嬢達が不安がる。どこに放置するかはもう少し考えてからにしますよ」
「頼んだ」
「了解」
 手を上げた黒瓜堂がウニ頭を振りながら出て行く。その姿が消えた後、フユノは一葉の写真を取り出した。この間中国から戻ってきたシンジを撮ったもので、珍しく、内心の動揺がほんの少しだけ現れている写真だ。
「このまま身体が息絶えれば、後を追う者が多すぎる。シンジ、何としても戻ってきておくれ…」
 
 
 
 
 
 シンジが目を覚ましたのは、身体に当たるむにむにした乳房の感触でも、窓から差し込む朝日の為でもなく、熱い吐息のせいだ。
「!?」
 反射的に跳ね起きようとしたが、身体が動かない。何事かと見ると、腕がにゅうと自分に抱き付いている。
「…ハン?」
 全裸のマリューだと気付くのに数秒掛かったが、それどころではない。裸で自分に抱き付きながら、苦しげに呼吸しているのはそのマリューなのだ。マリューの額と乳房と手首に触れたシンジの表情が厳しくなった瞬間、激しく咳き込んだ。
 まだ治ってはいないらしい。
 最後に自分の額に触れた。幾分楽にはなっている自分の容態と、マリューのこの姿を見れば、何があったのかはほぼ見当が付く。
「姉御…」
 何とも言えない表情になったシンジが、マリューの乳房に口を近づけた。乳暈の少し上に唇を付け、少し強めに吸うと鬱血の痕がくっきり付いた。
「んっ、うん…」
 小さな声を洩らしてマリューがうっすらと目を開けた。
「あ、シンジ君…」
「おはよう」
「おはよ…あっ」
 自分の格好に気付いたマリューが、慌てて毛布に手を伸ばすが、シンジがすっとおさえた。
「え…」
「姉御、どうしてこんな事をしたの」
「ご、ご免ねシンジ君…その、少しでも良くなってもらおうと思って…」
「それが通じるのは一般人の場合だよ。風邪の熱じゃないって、レコアも言っていたでしょ」
「うん…」
 余計な事だったらしいと悄げたマリューだが、
「精(ジン)を持たない者が精使いの熱を吸い取ると副作用が出るんだよ」
「ふ、副作用…ふああっ!?」
 突如、マリューの頭から爪先まで強烈な感覚が貫いた。その白い身体がびくっと跳ねた程の感覚の名は、欲情という。
「くうっ、ふっ、ふうぅーっ、んぅっ!」
 今までに感じた事の無いような欲情が全身を覆い、強烈な性欲が子宮からこみ上げてくる。
 シーツを掴んで懸命に堪えるマリューだが、既にその顔は赤く上気しており、吐息はもう欲情の響きを隠しきれない。それを見たシンジが、マリューの乳房を持ち上げた。
「ひゃふうんっ!?」
 感度も相当上がっているらしく、部屋の外まで聞こえるような声がマリューの唇を割ったが、その目に映ったのは乳房についたキスマークであった。
「シ、シンジ君それってっ…」
「さっき俺がつけたの」
「ふえ?」
「熱と倦怠感とそれに伴う強烈な性的衝動。それはお呪い、と言うか予防。付けてなかったら、今頃はもう乱れまくって自慰の真っ最中になってる」
「…!」
 物騒な台詞を聞いて、さすがにマリューの双眸にも刹那意志の光が過ぎったが、それだけでは抑えきれない程に身体が疼いている。特にここ暫く、異性との交わりはおろか自分での処理すら無かったのが災いした。先だって、シンジに乳房を責められて達してしまったが、異性からの刺激で達した事自体が実に久方ぶりだったのだ。
「シンジ君っ、何とかしてぇっ」
「分かってる」
 頷いたシンジがマリューに唇を重ねると、マリューは躊躇いなく受け入れた。
 差し出された舌をするりと受け入れ、まるでキスを覚えたての頃みたいに、二人は激しく舌を絡ませ合った。舌の絡み合う音と唾液の行き来する音だけが淫らに響き、混ざり合った唾液がマリューの胸元を伝い落ちる。
 漸く二人が離れた時、マリューはだいぶ平静さを取り戻していた。
「あ、あの今のももしかして…」
「無論」
 当然のようにシンジは頷いた。
「分かり易く言うと、姉御のお熱を少し没収しました。で、どうなるかと言うと――」
 その言葉が終わらない内に、シンジはぐらりと蹌踉めいた。
「シンジ君っ!」
「大丈夫…あまり大丈夫じゃないけど」
 壁に寄り掛かって身体を支えたシンジがマリューを制した。
「姉御は動いちゃ駄目。折角抑えたのに、またむずむずしてくるから。いいね?」
「え、ええ…」
 顔を赤くして、マリューがこくっと頷く。その身体に毛布を掛けてから、
「空気を読まずに余計な事をしてくれる女(ひと)だ。でも、嬉しかったよ」
 すっと顔を近づけたシンジが、マリューの額にそっと口づけし、すぐに離れる。
 多少蹌踉めきながらシンジが出て行った後、口づけされた箇所に触れながら、ぼんやりと宙を見上げていたマリューだが、不意に毛布の中へかさかさと逃げ込んだ。
 急に恥ずかしくなったらしい。
 シンジの解熱の為にと、裸を全く躊躇わなかったマリューの表情は、赤くなりながらもきりっと引き締まっていたのだが、今毛布にくるまってごろごろ転がる姿には、その片鱗も無くなっている。
 部屋を出たシンジが向かった先は、医務室であった。マリューの言い方からして、キラに何かあったような気がするのだ。ぶっ倒れてまでキラを保護したのは、キラを完全に守る為であって、キラ倒れられたら自分が何の為にダウンしたのか分からなくなる。
 体調自体は大丈夫、とマリューは言ったのだが、生憎とその時にシンジは朦朧としており、全ては覚えていない。
「おや?」
 医務室へやってきたシンジは、入り口で足を止めた。ベッドの横に置いた椅子に座り、微動だにしないサイに気付いたのだ。
(アーガイル?こんな所で何をしている?)
 そっと中に入ったシンジは、音を立てぬように近づくと、サイの肩をぽんと叩いた。
 びくっ!!
 まるで、仕事中警官に肩を叩かれた泥棒みたいにサイの肩が激しく揺れる。
「い、碇さんっ!も、もう大丈夫なんですかっ!?」
「まだ少し残っている。それよりガーゴイルは…」
 言いかけて、キラの手を握っているサイに気付いた。慌てて手を離したサイに、
「いい、構わんから。よく付いていてくれた。で、そんなに悪いのか」
「それがその…」
「どうした?」
「いえ、悪いって事は無いんですけど、碇さんが倒れたってんで二人とも半狂乱になっちゃって、ずっと鎮静剤で寝かせていたんです」
「ん?」
 左に三回、右に二回首を傾げてから、シンジはぽんっと手を打った。
「あの〜碇さん?」
「ああ、悪い悪い。思いだしたんだ。そう言えば、昨晩姉御がそう言っていた。ところでレコアは?」
 訊いた時、寝ている二人がうっすらと目を開けた。ぼんやりしていた焦点が、ある一点を捉えて急速に定まってくる。
「シンジさんっ!」「お兄ちゃんっ!?」
 がばと跳ね起きた二人を、シンジが手で制した。
「その前に、暴れて傍迷惑なコーディネーターの小娘達に、ずっと付いていてくれたのはガーゴイルだ。ちゃんとお礼言っとく」
(碇さん…)
 まだ何も言っていないのに、どうして一晩中と分かるのか。
「サイ、ありがとっ」「ありがとう」
「あ、ああ…あっ!?」
 どう聞いても自分へのそれは優先順位が五番目位で、自分の反応も待たずシンジに飛びついた二人を、サイは寂しく見ていたのだが、次の瞬間その顔色が変わった。
 飛びつかれたシンジが、そのまま床に押し倒されたのである。
「シンジさん!?」
 コーディネーターガールズに飛びつかれ、そのままあっさり押し倒されたシンジは、珍しく僅かに苦笑した。シンジがこんな表情を見せるのは珍しい。
「無謀な人のせいで急激に回復したが、まだ治ってないんだ。あと一日か二日はかかる」
 最初は全治二日の予定だったが、シンジの精に中ったマリューを治した為、また伸びる可能性がある。一方キラとステラはと言うと、方や少し疲労気味、もう片方は生理痛だったりするが、鎮静剤に加えて点滴を打たれていた為、動かずして体力だけが余計に回復した状況なのだ。シンジがあっさり押し倒されるのも、ある意味当然だったろう。
 が、問題はまだ終わっていなかった。
「シンジさん、まだ微熱があるみたい」
 シンジの額に勝手に触れたキラが、
「今回の事は私のせいだから…治るまで私が一緒に寝ますっ!」
 無論ステラが黙っている訳もなく、
「キラに任せたら悪化するだけ。お兄ちゃん、ステラがずっと側にいるから」
 何故か、居てあげるとか寝てあげるとか、二人が一切言わない事にサイは気付いた。
(受けと攻めの問題なのか?)
 と、サイにしては器用な事を考えたが、二人が両側からシンジの手を引っ張ったのを見て、慌てて止めに入った。
「ちょ、ちょっと二人とも止めろよっ!碇さんまだ治ってないんだぞ、二人が引っ張り合いしたらどうなるか、少しは考えろよ!」
「『サイ…』」
 一喝された二人がびくっと手を離したが、
「ガーゴイル」
「はい?」
「もう少し小音量で頼むわ」
「す、すみません」
 とは言え、サイが居てくれて助かったのは事実だ。サイがいなかったら、今頃シンジの両手は長さが三倍位に伸びていたかも知れない。
 そこへレコアが入ってきた。
「あら、随分と賑やかね。シンジ君、あなたはまだ安静が必要な顔よ。寝ていなきゃ駄目じゃない」
「ヤマトとステラの容態が気になってきたんだ。取り押さえてガーゴイルが見張っている、と姉御に聞かされたのを忘れていたよ」
(あ、馬鹿っ!)
 さすがに口にする程間抜けではなかったが、レコアは内心で声を上げていた。この部屋に入ってくる前から、レコアは廊下で指示を出しており、中の会話は聞こえていたのだ。シンジは無謀な人が治してくれた、と言った。それを自分の事だと思ってくれればいいが、少女達がそんなに単純かどうか。
 果たして、
「お兄ちゃん…さっき無謀な人がって言ってたでしょ」「それもしかして…マリューさんの事ですか」
 レコアが危惧した通り、二人の台詞はぴたりと合っている。
 が、それはそれで面白い。キラとステラが、ある意味危険な位シンジに魅せられているのは知っている。確かに長身で髪は綺麗だし、何よりも戦場でこれだけ頼りになれば惹かれるのは分かる。だからこそヘリオポリス組もあれだけまとまっているのだし、マリューもシンジに頼っているのだろう。
 戦闘時とか、統率に関してある程度のレベルにあるのは分かった。が、恋愛時の――明らかに一方通行の想いだが――修羅場もどきをどう切り抜けるのか、レコアはひどく興味がわいたのである。
「無謀、では失礼だった?」
「違いますっ!」
 二人して、ぶるんぶるんと首を振った。
「さっき、ちょっと気になったんです」「お兄ちゃんの身体から甘い匂いがしました」
「ほう…」
「『マリュー艦長の香水の匂いに似てます!』」
(へっ!?)
 ここまで来ればサイにも何となく読める。シンジは熱があり、それを無謀な方法で急激に回復させた誰かがいる。そしてシンジの身体からはマリューの香水と同じ匂いがしたという。
(そ、それって…)
 雪山で遭難し、たどり着いた山小屋で全裸になって抱き合う男女の姿がサイの脳裏に浮かんだ次の瞬間、
「痛っ!?」
 スパン!
「ガーゴイル、何で貴様が赤くなっとるか」
「す、すみませんつい…」
「何がつい、だ全く。それよりレコア」
「なに?」
「昨日持って来てもらったタオルには、姉御が香水を染みこませていたのか?身体を拭く為だと思ったが」
(そうか、そう来るか)
 自力では無理、と思ったかどうかは知らないが、自分を巻き込んできた。確かに熱を冷ますよう、冷えたタオルを持って行ったのは事実だが、無論香水など染みこませてはいないし、薬も塗り込んでいない。
 が、シンジにしてみれば、ここでレコアが空気を読もうが読むまいがどうでもいいのだ。一切何もしていない、と言っても確かに入っていたと言えばいい。もう洗ってしまったと言えば済む話なのだ。しかも、その時点でレコアの評価は大幅に下がるだろう。レコアとしては、それが一番困る。まだ、彼女の顔と手には絆創膏が貼ってあるのだから。
「香水なんて使う訳無いでしょう。私が調合した特性の薬よ。匂い消しに香水を少し使ったからそのせいかもしれないわね。でもあれ、額に当てるものであって身体を拭く物じゃないわよ」
「間違えたらしい」
 軽く肩を竦めて、
「と、言う事だが…」
「『う〜』」
 完全に納得した訳ではない、と顔に書いてある。但し、これ以上突っ込める材料が無い事も事実だ。
「それよりレコア、絆創膏剥がして。二人が迷惑かけたね」
「『え?』」
 シンジの言葉で、二人が初めてレコアの絆創膏に気付いた。
「あの、レコア少尉その傷は…痛っ」
 ぽかっ
「暴れるコーディネーター二人を取り押さえた結果だ」
「『!す、すみませんっ』」
 漸く思いだしたらしい二人に、レコアはうっすらと笑った。
「いいのよこれ位。無理矢理シンジ君から引き離したんですもの。でも二人とも、本当にシンジ君の事が好きなのね」
 それを聞いた二人がしゅうしゅうと赤くなり、その一方で僅かに視線を逸らすサイがいた。勿論レコアは、サイが秘かにキラへ想いを寄せていると知っているのだが、この反応を見る限り、サイの願いが叶う可能性はほぼ無いと言っていい。が、その渦中にいるシンジはと言うと、マリューとの距離がずっと縮まっているのだから皮肉なものだ。
 マリューが添い寝を――それもおそらくは裸でしたのだろうと、レコアは女の直感で気付いていたのである。で、その結果シンジの熱は下がったが、当然のように今度はマリューがダウンしているのだろう、と。ナタルだったら死んでもやるまい。それに、どうしても必要な事ならレコアにでも命じれば良い事で、自分がする必要はない。まして、伝染った場合の事を考えれば、艦長がするというのは軽率でもある。
 が、マリューはそれを選んだ。単にシンジが重要だからとか、それだけの理由ではあるまい。
 そんなレコアの思考をよそに、その傷跡にシンジが触れると、傷はあっさりと消えた。痕跡など微塵も残っていない。
「いつもながら大したものね。軽い外傷専門の病院を開けば大繁盛じゃないの?」
「癒し系に使うのは、ヤマトみたいに手の掛かる困った娘がいる場合限定だ。それ以外は、焚き火をするのと温泉を作って入る事限定と決まってるんだ」
「『ごめんなさい』」
(何でステラまで謝るのかしら)
「別に二人が謝る事でもないよ。それよりも、ここが何処かは知らないが予定が狂ったのだろうし、安全圏じゃない可能性もある。目下足手まとい状態なので、二人にはそれぞれ単独で出てもらう。頼んだよ」
「『はい』」
「じゃ、ちょっとケーキ作ってくるから。ヤマトはいいけど、ステラはもう少し安静にしてるように。まだ完調じゃないでしょ」
「もう大丈夫ですお兄ちゃん」
「そう?それならいいけど」
 元が生理痛だから、シンジの守備範囲外だ。ナタルの傷の事もあるしと、出て行こうとしたところへ、
「あ、ちょっと待って」
 レコアが呼び止めた。
「これ、コックピットにあったからって持ってきたんだけど、正体分かる?」
「?」
 差し出されたのは、金属片と文字通り灰になったような破片であった。
「さっぱり」
 シンジは首を傾げたが、
「多分それ…折り紙かと…」
「折り紙?」
「シャトルを見送った時、小さな女の子がくれたんです。服の中に見あたらなかったから、きっとそれじゃないかなって」
「でもキラ、それ半分灰になりかかってるぜ」
「うん…」
 唇を噛んだキラが俯く。
(?)
 キラの様子を見る限り、探し回っていた感じではない。相当大事にしていた風情でもないのに、この反応は何なのか。
「シンジ君が触れなかった箇所は相当温度が上がっていたんでしょうね。だってこれも中から見つかったのよ」
「レコアそれ違う。その金属片は、格納庫で拾った代物」
「え…そうなの?」
「そう。大体、金属が曲がるような温度にまでなったら、いくら精を全放出しても無理だ。中でこんがり焦げてるよ。が、ヤマト」
「はい…え?」
 シンジがキラの頭をくしゃくしゃと撫でたのだ。
「ハマーンの性格に助けられたとは言え、シャトルを地上へ降ろす事は出来た。あの後摩擦熱で炎上したとか、まさかそんな間抜けな事はあるまい。とりあえず民間人を帰す事は出来たはずだ。贈り物が半分灰になっても、少女からも恨まれはすまいよ」
「あ…はいっ」
 シンジに言われるまですっかり忘れていたが、あの後事故でもない限り民間人は守れたのだ。キラの顔に、漸くうっすらと笑みが浮かんできた。その顔を見ながら、シンジはある言葉を抑えていた。本来なら、ただ次は自力で守れるようにしないと、と来るところだし、またそれを言うべきでもあるのだが、それを言えばキラはまた気に病むのが目に見えている。
 実際、討てないのではなくて討たないのだから。
 だから言わなかったのだが、そんなシンジの横顔をステラがじっと見つめていた。
 キラを傀儡化すれば戦いやすくはあるが、その後被検体がどうなるかを考えれば、そうそう使えるものでもない。シンジはこれで最後にする気でいた。つまり、今後も錘を付けた状態での戦闘を強いられると言う事だ。どのみち、戦いやすくなるだけで討てる訳ではないのだ。
 それが茨の道だと言う事は――最初から分かり切っていた事である。
「じゃ、俺はこれで」
 廊下へ出たシンジの足が止まる。
 そこにいたのはフレイであり、明らかに中の様子を窺っていた風情であった。しかも手には、食事を載せたトレイを持っている。確か食膳を運ぶワゴンはあったから、持ってこようと思えば三人分を持ってくる事は可能だ。それをしなかったのは、一つ一つ手ずから運ぶ為、ではなくサイ一人の分だろう。
「ガーゴイルに持ってきたのか」
「…そ、そうよ。何か問題あるの」
 来栖川がいたら大変だ、と内心で呟き、
「別に?ガーゴイルなら中だ。入るがいい」
 サイがキラを見る視線から、シンジはその想いに大体気付いていた。そしてフレイが、サイ以外に頼る者がない現状である事も。フレイが振られようとキラとサイが恋人同士になろうと、シンジには関係ない。
 戦闘時、キラの精神状態に支障が出さえしなければいいのだ。だからあっさり通したが、すぐには入ろうとせず、中の様子を窺っている。ちらっと視界の端でそれを見たシンジは、さっさと歩き出した。
「でもさ、ほら碇さんも言ってただろ。二人とももう少し休んでいた方がいいって。だからさ…」
「シンジさんが言ったのはステラの事だけ。私はもう元気だから大丈夫」
 そう言ってすたすたと出て行こうとするキラの手を、サイは取ってしまった。
「キ、キラっ!」
「なに?」
「あ、いやその…ごめん…」
 手を離そうとした時、不意に扉が開いた。
「…サイ…」
 フレイが見たのはキラの手を握っているサイであり、そしてキラも満更ではない――フレイにはそう見えた――表情をしている。一瞬フレイの眉が吊り上がったのだが、
「あ、あらキラもう起きていていいの」
「うん、私はもう大丈夫。じゃあステラ、私ももう行くからもう少し寝ていてね」
「…分かってる」
 多分キラはシンジの後を追わない、とそんな気がしてはいたのだが、確証がない。
「サイ、ありがと」
「あ、ああ…」
 フレイの横をすり抜けるようにしてキラが出て行ったが、その後ろ姿を、フレイが凄まじい視線で睨んだ事に、レコアもステラも気付いていた。分からなかったのは、サイ一人である。
「もう休んでいる必要は無かったみたいだけど、もしかしてキラに告白タイムだったかしらね〜」
「な、何言ってるんだよ。ち、違うよっ」
 誤魔化したサイだが、明らかに動揺しているのが丸分かりだ。なお、フレイの表情に張り付いているのは笑顔だが――その眼はまったく笑っていなかった。
 
 
 
 夕刻まで、シンジはマリューの部屋にいた。ベッドの横に座って、その寝顔を眺めていたのだ。正確に言えばその時間は二十分程度で、後は壁により掛かって目を閉じていた。とりあえずマリューの方は問題なく回復に向かっていたが、シンジの方は少々悪化に向かっていた。ただでさえ精を急激に大量消費したところへ、伝染ったマリューに精を送り込んで治したものだから、良くなる筈がない。この世界には、その神伎で癒す魔女医も、悪知恵が生み出す怪薬で治しに来る悪の親玉もいないのだ。病室を出た時は、少々危険かと自覚していた位である。
 とは言え、何もせずに休んでいたから、やや持ち直してきた――キラもステラも来なかったし、静寂の中でゆっくり出来たのだ。
 シンジの目が開いたのは、もう夕日も役目を終えて沈もうかという頃であり、それから二分後、マリューがうっすらと目を開けた。
「シンジ…君?」
「ここにいるよ。具合はどう?」
「ええ、おかげでだいぶ楽になったわ。ありがとう」
 微笑ってから、
「あら?」
 と首を傾げた。着けている下着が、朝の物とは違うのだ。
「汗で濡れすぎだったから、ブラだけ代えさせてもらった。勝手に脱がしてごめん」
「い、いいのよそんな事気にしないで。それにシンジ君だったらもう見られてるし触られてるし…っ、あ、あのそうじゃなくてその…ほ、他の人だったらちょっとびっくりすかなって。へ、変な意味じゃないのよっ」
 少々怪しくなったが、マリューの言葉は本心であった。ブラを替えるというのは、無論乳房を触られる事になる。レコアが判断したのなら、よもや整備兵にやらせたりなどしないだろうが、やっぱりいきなり他人に触られるのは気恥ずかしい。
 見ると乳肉はちゃんとブラに収まっている。シンジがどうやったのか、と言う事は考えない事にした。考えると、表情がどうなるか自分でも分かり切っている。
「分かってるよ」
 シンジは笑って頷いた。目の光を見ても、この分ならもう大丈夫そうだ。
 後は――自分がさっさと回復するだけである。
「それよりシンジ君はどうなの。少しは良くなった?」
「回復途上。大方予定通りだから。ただ、ナチュラルとコーディネーターは診るのが初めてなので、内容が分からない。姉御、何か食べたい物ある。出来る物なら、何でも用意してあげるから」
「…何でもいいの?」
 訊かれた時、そこに僅かな空白があった事に、シンジは気付かなかった。だから簡単にいいよ、と頷いたのだが、それを見たマリューがシンジを手招きした。
「うん?」
 呼ばれるままとことことシンジが近づくと、
「ちょっと耳を貸してくれる」
「返してね」
「んもう、分かってるわ」
 何故か、すうと大きく息を吸ってからマリューが囁く。
「シンジ君が食べたい」
 と。
「……」
 シンジはすぐに反応しなかった。マリューに耳を寄せたまま、硬直しているようにも見える。
(す、滑った…かしら…)
 半分は冗談だったのだが――もう半分は本気という事になる。反射的にシンジが反応すると思ったから、それを見てネタにするか本気にするか考えるつもりだったが、シンジの反応は予想外であった。
 たっぷり三十秒は経ってから、シンジはぽんと手を打った。
「そうか、そう言う事か」
「あ、あの…シンジ君?」
「姉御がいつからカニバリズムに宗旨替えしたのか、ちょっと考えてたんだ。食人族じゃなかったんだな」
「…もしかして文字通り食べるって意味だと思ったの?」
「違う意味?」
 うん、と言ったら頬をつねってやるつもりだったが、シンジはあっさりと反攻に出てきた。
「し、知らないっ!」
 顔を赤くして毛布に逃げ込んだマリューの耳元で、
「姉御が治ってからね。今は失神されちゃうと困るから」
「!」
 マリューの赤くなった顔が、目許だけ出てきた。
「…ほんと?」
「うん」
「や、約束よっ」
 少し早口で言ったマリューの前に、シンジが小指を差し出した。マリューが自分の指をおずおずと絡めていく。
 数分後、部屋から出てきたシンジは、まっすぐ食堂へ向かった。まだ、治療とお菓子作りが残っている。
 が、食堂に着いた時、その身体は僅かながらまたも蹌踉めいた。まだ静かに寝ているようにと、天上のどなたかがお告げになっているのかも知れない。
 
 マリューとナタル、それにムウの三人が食堂に呼ばれたのはそれから二時間後のことであり、あまり出たくないのにと内心でぼやきながらやって来たナタルを待っていたのは、直径21センチ七号サイズのチョコレートケーキであった。
「味は一応大丈夫。が、虫歯や体重増に関するクレームは却下する」
「…い、碇シンジさん…」
 まさか本当に作るとは思わず、呆気に取られた表情のナタルを見て満足げなシンジと、そのシンジを見て僅かに眉の寄ったマリューが居る。
 そして、
(で、俺の立場は?)
 内心で呟いたのは無論ムウであった。
 
 
 
 
 
 
(第四十一話 了)

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