国際派日本人養成講座

国際社会で真の友人を得るには

第二号 平成九年九月十二日 四百四十七部

一、日本への感謝

 金では真の友人を得られないのは、個人レベルでも、国際社会でも同じである。日本が厖大な経済援助を行っている中国の、我が国に対する姿勢を見れば、この事は明らかである。真の友人を作るのは、共に汗を流し、そして時には、血を流さねばならない。これが国際派日本人の知るべき原則である。
 インド独立五十周年を記念して、日印親善協会により全国五会場で「インドの夕べ」が開催された。東京では、八月二日代々木公園野外ステージで行われ、約八千人もの人が参加した。
 インド側代表の最高裁弁護士ラケッシュ・デヴィーディ氏は「インド独立の為に日本人が共に血を流してくれたことを忘れません」と、大戦中の日本の行動を賞賛した[一]。
 こういう挨拶を聞いてほとんどの日本人はびっくりするであろう。しかし、皆さんにもしインド人の学生やビジネスマンとつきあう場ができたら、ぜひ以下の歴史的事実を語り合って、友情を育んで欲しい。

二、藤原機関

 昭和十六年九月、日米交渉が行き詰まり、対米英戦争が避けがたい状況になった時、大本営参謀藤原岩市陸軍少佐は、マレー半島でのイギリス軍の中核を占めるインド兵に対し、投降工作を行い、それを将来のインド独立の基盤とする事を命ぜられた。そこで五名の将校を加えた藤原機関が発足した。
 開戦後、日本陸軍がイギリス軍をなぎ倒して、破竹の勢いでマレー半島を南下していった。そこにイギリス軍の一大隊が、退路を断たれ、孤立しているとの情報が入った。イギリス人の大隊長を除き、中隊長以下、すべてインド人との事である。
 藤原少佐は、一切武器を持たずに、この大隊を訪れ、大隊長に対し、投降を勧めた。これで二百名のインド投降兵の身柄を預かったのだが、この中に、やがてインド国民軍の創設者となるモハンシン大尉がいた。
 藤原少佐は、インド兵達と共にインド料理を手づかみで食べ、彼らを驚かせた。イギリス軍の中では、こうした事は決してなかったからである。
 これを機に、藤原少佐はモハンシン大尉に、この戦争が長年、欧米に支配されてきたアジア独立の絶好の機会であり、インド投降兵を組織して、インド国民軍を創設すべき事を説いた。

三、インド国民軍の創設とチャンドラ・ボース

 こうして昭和十六年十二月末に発足したインド国民軍は、各地でイギリス軍中のインド兵を説得して、次々と自軍に加え、シンガポール陥落時には、数万人の規模に達した。
 ここで、インド独立の志士チャンドラ・ボースが登場する。イギリス官憲の弾圧を逃れて、ドイツにいたボースは、十八年五月、日本に移って、東条首相からインド独立支援の約束をとりつけるや、シンガポールに乗り込んだ。そして、インド国民軍総帥の地位につき、さらに自由インド仮政府を作って、英米に宣戦布告した。
 昭和十九年一月のインパール作戦は、ボースがインド解放のために「デリーへ」の合い言葉のもと、すべてをかけた戦いであった。北ビルマから、インド東部に進攻、インド国内の独立活動を激化させて、イギリスを一気に追い出そうとするものであった。
 しかしイギリス軍の日本軍に数倍する兵力と、雨期に入り、物資補給が続かなくなった事から惨敗、参加した日印十万の将兵の内、死者は三万人を数え、インド国民軍も八千の犠牲者を出した。冒頭の「日本人が共に血を流してくれた」とは、この事である。

四、インド独立

 日本の敗戦後、イギリスはインド国民軍に参加した約二万名の将兵を、反逆罪で軍事裁判にかけようとしたが、ガンジー、ネルー率いる国民会議派は「インド国民軍将兵は、インド独立のために戦った愛国者である」として、インド全土での反英運動を展開した。
 イギリスは約二年間、弾圧を続け、数千の死傷者を出したが、ついにインドの独立を認めた。その際に「インドの独立は、日本のお陰で三十年早まった」と、藤原は感謝されている。
 こうした経緯から、インドは戦後の日本に対してきわめて好意的であった。戦争賠償の請求を放棄し、また東京裁判でも、インド代表のパール判事が、ただひとり「日本無罪論」を唱えた。さらに復興後の日本の国連入りをネルー首相は強力にバックアップしてくれた。

五、復権するボース

 ボースは、終戦の混乱の中、台湾で事故死する。インド政府は、独立五十周年を機に、国会議事堂の構内にボースの銅像を建て、また誕生日の一月十二日を、インド共和国の正式の祝日とした。
 シンガポールには、ボースがインパール作戦の犠牲者を弔うために建てた「無名戦士の墓」があったが、イギリス軍によって爆破されていた。戦後五十周年の九五年、シンガポール政府はこれを「インド国民軍記念碑」として再建した。
 それには「インド国民軍は、一九四二年、英国からインドを解放するため、日本軍の支援を受けて、シンガポールで創設された」と記されている。
 同じく九五年、インドから来日したムカジー外相夫妻は、東京杉並区にある蓮光寺を訪ねた。ここに今もなお、ボースの遺骨が手厚くまつられているからである。

六、巨大な友邦

 インドは、自由選挙を行っている世界最大の民主主義国である。最近の自由化政策が成功して、経済も好調である。また法治主義も定着し、投資先としての信用度は中国をはるかに上回る。そして反英米感情から、日本企業を歓迎するムードも強い。
 インドとの友好関係をさらに発展させれば、ここに日本は親日的かつ民主主義的な九億人もの人口を抱える巨大な友邦を持つことになる。それは、アジアの火薬庫・中国に対するカウンターバランスとしても大きな力となるであろう。

[参考]

一、「祖国と青年」、本年九月号、日本青年協議会、〇三 三四七六 五七一一

二、「コミック インドの嵐」、原作・国塚一乗(藤原機関 の一員)、作画・和田順一 高木書房 税別千二百円

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