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都市で人口の再生産はできない
Reproduction of the population in the city

 近代以前も、近代以降も、都市は人口を吸収することはできるが、吸収した人口を、再現することができていない。

これは、都市の余裕のなさと、表面的なリスクの少なさによるものかもしれない。

 農村部の余剰作物による余剰人員を吸収するが、吸収した後で子供二人以下の生活を送らせることしかできないのが都市ということである。

(なんとなくみんなわかっているはずである。地方から出てきて都会暮らしをする次男三男に、農家の実家から「コメ」が届く。あるいは特産品が送られてくる。というのは、ごく当たり前の出来事である。実家から出ていかざるをえなかった同族へのおわびと、連帯は切れてない、必要ができたらもどってきてくれ。そちらでは、生産手段の保有にともなう余裕がないのはわかっているから、生活のタシにしてくれ。ごめんな。必要なかったら戻らないで、消えてくれ。というメッセージなのだ)

 教育の奨励は都市生活をしなさいというメッセージでもある。

 教育は、都市生活を有利にする。余剰人員が都市生活可能になり、結果として出生率を下げる。というのは、最悪の選択ではない。少なくとも平和だからだ。

 エネルギーがほどほどに豊かであれば、余剰作物の出た地域を次々切り替えて、都市に供給すればいいのだから、問題はないようにとりつくえる。戦後の日本のように。

 しかしエネルギーが本当に余剰生産物のみとなれば、都市は周辺を支配しつくして、やがては環境的に崩壊する。現在の都市が維持できるのは、化石燃料があるからにすぎない。

 もともと都市は、「領主の館」の拡大版であろう。領主のみが世代交代可能な一軒の家のまわりに種々の家来(貴族)、召使や職人が集合して、都市を形成していくわけである。城下町とはよくいったものである。領主の「所有」する土地が大きくなればなるほど、余剰作物を吸収して「都(みやこ)」が大きくなる。

 領主のまわりの有象無象の取り分も急速な増加が可能なので、全体でみればゼロサムどころか縮小再生産であっても、都市の魅力は成立して、つじつまはあうのである。


 都市が人口の再生産ができない理由

・収入を得るためには就職しかない。そのため高度な教育が必要になる。

・また高い収入を得るまでに時間を必要として晩婚化する。

・子育ての支援のできる親族から切り離され、物理的に同居できない。


そして、根本的なことを書けば、

 都市は空間が狭く、エネルギーが自給できない、資源がない、人材の再生ができない、事業を展開するための空間がない、官僚機構を含めたサービス産業しかできないのです。
 結局、都市は自立できない。のです。

 だから必要ではない。という時代がくるかもしれません。

20130713


 都市を擁護する意見は当然あります。

 都市生活者は寿命が長くなり 安全で清潔でエコであるという。災害にも強いという。

 検討しましょう。
 都市で自給自足はできません。 そして充分な子孫を残すことはできません。 これを指摘するだけで足りるではないでしょうか 補足として

クオリティオブライフとして

 ケージに閉じ込められ、決まった種類の穀物しか餌に与えられないブロイラーと、庭に放されて生きた虫や草を食べて生きる鶏と どちらが良いか 寿命は庭の方が短いかもしれないが、それが問題となるでしょうか。それに平均寿命は、大都市よりも地方の方が長いのではなかったでしょうか。

 都市のスラムは農村のスラムよりましだという意見については、都市で貧困者が生活できる理由として

 供給される食料を生活のダンピング合戦で、結果的にシェアするから、最低限でも食えるだけの話である。

参考「都市は人類最高の発明だ」

20130826

現代の都市は化石燃料がなければ成立しない。


 遠隔地での大規模採掘。運搬手段での燃料使用と、供給インフラ。
 どれも都市で集中使用するためでなければ資本が集まらない。
 しかし構造的なエネルギー効率の悪さはどうしょうもない。地産地消ができないのである。

 太陽エネルギーの利用効率で考えれば、化石燃料の使用はナンセンスとしかいえない環境破壊のための愚行になる、都市の消滅と共に使用は漸減していく。

 エネルギー問題はすでに解決しつつある。

 直接太陽エネルギーを変換率二割近くで電気に変換できる太陽電池パネルを身近に置いて、地産地消することは、圧倒的な効率のよさがある。

 パネルの生産に確かに大量のエネルギーが必要だが、地球の裏側から一枚パネルを運んでそのまま使うのと、おなじように地球の裏側から途切れることなく大量の物資である燃料を輸送して分配し続けるのは、勝敗は明らかであろう。

 化石燃料にささえられた都市は、浪費と物質循環の阻害を生み出す。

 大消費は、大生産・遠隔大量輸送でしかささえられない。
 過去の都市の拡大の限界は、広い範囲の余剰エネルギーを集め切れなかったからであり、化石燃料によって超大都市が生まれても、それはエネルギーが供給される間の、やがて消え去るあだ花である。

 100年後の東京は一般人には危険な「資源採掘・サルベージ鉱山地帯」になっていても私は驚かない。

20130905 20131021


都市と農村の性格の基本


都市

 全エネルギーを外部から供給される存在。

 都市での所得は基本的に、労働時間と比例するサラリーである。

 働けば働くほどサラリーはあがるが、困難さが加速度的に増して、すぐに限界に到達する。(労働時間と体力の限界にすぐにつきあたる)
 また、教育すればするほど賃金は増えるが、そのためにあらゆる時間がなくなり、かといって教育しなければサラリーが上がらずやはり必要エネルギーを売るために低賃金長時間労働で時間がなくなる。

高学歴をささえる、子供時代の学習時間の延長は、実際の収入時と時間軸をずらし、間接的になってはいるが、結果としての長時間拘束労働であり、将来に蓄積するための児童労働といえないか?(サラリーマンの労働訓練・研修と選別試験なのだ)

 一方、エネルギーの総量も決まっているので、利益(サラリー)の総量は決まっている。
 それを配当と減価償却を除いた余りを、労働者(+経営者)同士の時間の差し出しあい競争で、分配・争奪するのである。

 一人目の生活費を得たあとは、他の一人目を求める人と争わないと二人目の生活費がでない。そのため、生存には少数ほど有利になり、結果、人口の再生産ができないので、結果の結果として人口を減らす装置として、都市は機能してしまう。

 歴史的にみても、都市は人口の消滅装置なのである。
 この性質は、エネルギー効率の改善で生活向上しても、競争にさらされるのは変わらないので、結果は同じになる

 そして人口の再生産ができないということは、構造的な原因なので、「強制」にあたる。つまり自ら子孫を作らないことを選択するのではなく、作らないように強制されて従わざるをえないという基本的人権の徹底侵害が起きているということである。
 これを価値観の多様化などといったとらえかたで解釈するのは誤りであると考えます。

 適正な子孫が残せないというのは、まともな生活とはいえないのである。

農村

 エネルギーを土地で受け止めて、分配する。

 基本的に所得は土地の広さに比例する。 労働時間ではない。

 そのため、利用可能エネルギー内であれば、人口の再生産が確実に行える。

 しかし、外部から略奪した低コストのエネルギーとの競争にさらされれば、自立エネルギーとそのエネルギーが支える経済と生活は当然崩壊する。

 だからグローバル経済時代の、農村の衰退は自給できるエネルギーが外部からのダンピングエネルギーで圧倒されたから生じたものである。

 (上記の性格は化石燃料に依存する以前の農村のものである。日本でいえば1960年代以降、家畜による農耕が消滅した時点で、農村は都市の延長となった。
 それでも農村は都市より余剰が多く存在するのは自前のエネルギー生産が不完全ながらも継続しているからである。)


 農村の根本的限界は、自給できる(太陽から受け取れる)エネルギーの範囲で、確実に子孫を残すことができるが、それは低学歴(限定された知識)でも可能であり、なおかつ人口が増えないように上限の枠が(やはり)決まっている。

 これを守るために子供を生める女性の数は限られ、養育する子供の数も決まる。増えた男性は外に追い出すか、独身でサラリー(肉体)労働に従事するしかないが、女子は外部に働きにいくことは考えにくいので、内部で過酷に扱われることになった。
 これは長い長い歴史のある構造的農村の闇である。つまり、堕胎・間引き(嬰児殺害)、劣悪環境に女子を追いやる差別待遇である。
(自然条件が厳しい農耕社会ほど、女子の差別は正の相関関係があるかもしれない)

 簡単に言えば、女子が(必要以上に)生き残っては困る(やがて社会全体が貧困化して崩壊する)のである。

 どんな時代にあっても、無限に広い空間・資源はありません。基本的に太陽からのエネルギーに依存するには人口の安定は絶対条件です。

 だから避妊が機能しない時代にあっては、こうなってしまっていた。これは目をそむけたいが過去の現実であり、同時に選び取るべきではない未来である。

 資本主義時代に獲得した知識と技術と、もともと人間がもっている良識と勇気で克服せねばならない。

 都市が適正な子孫を残せないので肯定できないように、過剰な子孫を抹殺せねばならない農村も、基本的人権の徹底的侵害であり、人間らしい、まともな生活とはいえない。


 自由貿易について (参照)

 自由貿易は、化石燃料依存経済の最終形態として、外部からの略奪物資をとめどなく都市にも農村にももたらす。
 そして、すべてを不当競争にさらして、小規模生産者を圧倒・倒産させ、いわば「国ごと消費都市」にして、事実上屈服させ、間接的に化石エネルギーの奴隷にしてしまう。
 そのため、資源産出国でなければ、その国の人口を減らす効果がある。

 簡単に言えば、グローバル自由経済は、略奪経済による生存基盤の破壊、生存権の侵害の完成にあたるであろうし、早晩、崩壊する。

 自由貿易は基本的に生産手段をもち、それが国際的略奪品よりも価格と質で上回らないと生活できない体制である。

 資源・労働力を略奪する相手と、金融によって未来価値を先取りする相手の二つに打ち勝ち、乗り越えないと、生産手段を奪われて、労働時間の切り売りで生活を縮小再生産するのがやっとの人口減少社会に転落するかもしれない。

 自由貿易への参加は、あくまでも長期的国益にかなうかどうかが判断の唯一の基準であり、それ以外は、二の次でもよかろう。

 そしてまた、現在の先進国は金融操作国で、資源・食料輸出国を間接支配できる。富める国は、二重に有利な立場から、そうでない国の富を収奪可能で、ためらいなく実行されている。

 たとえばこんな国際環境の中で「日本は、どうせ旧敵国のステゴマで、歴史的にも文化的にも共通点のない、利用して切り捨ててもあとくされない、どうでもいい国だ」と見られたらどうなるであろうか・・。

20130723