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雑誌「女性自身」にハイジ特集 投稿者:tshp 投稿日:2004/04/30(Fri) 07:52 No.161
お気づきになられた方もおられると思いますが、4/28発売の雑誌「女性自身」にハイジ特集が5ページにわたって掲載されています。
取材の協力者として「Heidi Page」を運営されているイラストレーターの龍野さんが参加されておられます。v(^_^)
それによるとハイジ放送時の最高視聴率は49話の「ちいさな誓い」の26.9%だったらしいです。(クララのおばあさんが冬の家でパーティを開いた回です)
もしよかったら皆様どうぞご覧下さい。イベントやグッズの紹介記事もありました。
Re: 雑誌「女性自身」にハイジ特集 たつの - 2004/04/30(Fri) 13:00 No.162
tsさん、こんにちは。(^^)/
こちらでは、ずいぶんと久しぶりとなってしまいました。(^^;)
今回の「女性自身」の取材、協力していただき大変感謝しております。
ありがとうございました。
tsさんの取材に対する回答を見せていただいたときは、私の回答がいかに、いいかげんを思い知り恥ずかしくなりました。(_ _;)
tsさんの協力なしに今回の記事の完成は無かったと思っております。
またいつの日か、救援要請をするかもしれませんが、よろしくお願いいたします(←他力本願な奴)(^^;)
Re: 雑誌「女性自身」にハイジ特集 maekoo - 2004/05/03(Mon) 18:24 No.163
爆笑必至の「スレ立ちまくり似ちゃんねる」のページ以外見るところ無しですが、ハイジの特集はあったかくて素適なページになっていました。
又、あらすじはよくぞ短く旨くまとめられたと感心してしまいました。
ハイジフリークにとっては復習?の様な特集で参考になりました。
これで又、ハイジファン拡大ですな。(^_-)
御二人とも御苦労様でした。
Re: 雑誌「女性自身」にハイジ特集 tshp - 2004/05/05(Wed) 20:05 No.164
たつのさま、maekooさま
メッセージありがとうございます。
いろいろなことがあって楽しいです。(^ ^;)ゞ
無題 投稿者:あ 投稿日:2004/03/26(Fri) 23:27 No.148
ロッテンマイヤーさんがハイジを呼ぶときの、呼び方を教えてください
Re: 無題 tshp - 2004/03/28(Sun) 04:01 No.150
メッセージありがとうございます。
いろいろ調べてます。
でも、発表できるまで時間かかりそうです。(^ ^;)
面白いですから、みんなで調べて見ませんか?
Re: 無題 チョナン - 2004/03/28(Sun) 23:58 No.152
まぁ〜なんということでしょォアーーデルハイットォ!!
とアニメでは呼んでいますが、
スピリ訳者の各々でいろいろパターンがあるはずです。
矢川訳しか読んでいないモグリマニアの私としては、多くを語らず皆さんの回答を期待し楽しみに待つことと致します。
Re: 無題 a(A)delheid - 2004/03/29(Mon) 00:41 No.153
もしかして、私をお呼びでしょうか? ♪(*^ー^)v
Re: 無題 tshp - 2004/03/30(Tue) 04:52 No.155
チョナンさま、adelheidさま いらっしゃいませ!
宿題どんどんふえてます〜! 面白いです。
Re: もしかして、私をお呼びでしょうか? ♪(*^ー^)v 書き逃げおじさん - 2004/04/24(Sat) 14:38 No.159
↑↑
呼んで、もし自分より年上の「おばはん」が出てきたらどうするんですか (;´Д`)。
Re: Re: もしかして、私をお呼びでしょうか? ♪(*^ー^)v a(A)delheid - 2004/04/24(Sat) 22:27 No.160
「おばはん」てなぁ… 某おじさんとは同じ歳でしたね。以前は平気でネット上に歳を公開していたのですが、いよいよシャレにならん歳になってきた…(笑) ので、暴露は堪忍して…(笑)。見かけは、10歳は、さば読む自信あるねんけどなぁ。掲示板では見えへんてか? (笑)
Re: 無題 チョナン - 2004/05/14(Fri) 00:17 No.172
アデライドさまおく、玩駄夢をぢさん
招集?に応じて頂けましたので感謝の意を込め、遅ればせながら以下レポート致します。
tshp管理人様が以前に言及されていた、野上彌生子譯「アルプスの山の娘」より
「なんていふ名前です。」
フロライン・ロッテンマイアは、數分間ぢっと觀察したあとでたづねました。
「ハイヂです。」
ハイヂはきつぱりしたベルのやうな聲で答へました。
「なんですって、それは子供の名前ぢゃない。まだ何んとかほかの名前があるでせう。ほら、あんたが?會で洗禮をうけた時にもらつた名前が。」
「そんなものないわ」
「なんて返事だらう。」
「デーテ、この兒は無邪氣なの、それとも威張ってるの。」
「どういたしましてこの兒はひとさまに馴れてないのでございます。馬鹿でも威張ってるのでもないのですが、かういふ紳士がたのお邸へまゐつたのは今日がはじめてなものですから口の利き方を知らないのでございます。あなた様がこれからお仕込み下されば、きつと覺えるに相違いません。この兒の洗禮名は亡くなりましたわたしの姉で、これの母親になりますものの名前をとつて、アデライドと申します。」
「アデライドだと呼びよくてよござんすね」
連休最終日久しぶりに大阪に立ち寄り、大学の図書館にて私の現役学生時代には無かった端末パソコンの蔵書検索システムなるものでスピリ作品を探したのですが、野上弥生子全集くらいしか所蔵が見つかりませんでした。しかし都合のよいことに府立国際児童文学館(万博公園)が程近いため期待しながら足を運び図書検索したところ、コルネリの幸福やドーラの五つ星といった主だったものはありますが、グリトルの子供達 (天使の歌/僕らの仲間)は見当たりませんでした。図書館に明治・大正・昭和翻訳文学目録というのがあるようですが、管理人様の原著作翻訳図書の情報源の方が遙かに充実しており素晴らしすぎます!!閲覧できる図書から気長に探してみようと思います。
ちなみに、楓物語について児童文学館職員に問い合わせたところ、やはり国会図書館と西南学院大所蔵との情報回答でした、私のような一般人にとっては国会図書館のマイクロ資料だけが唯一の扉ですね。
『教會(けいくわい)の聖名〜 之(こ)れの阿母(おふくろ)がアデライド…矢(や)つ張(ぱ)り之(こ)れにも左様(さう)付けて御座(ござ)います…』と伊達が説明しているところをみると、ふるゐさんはアデライドと呼んでいたのかと思いきや、
なぜ、柴田がその後 ≪豆ちゃん≫と左様(さう)呼んでいたのか???
その辺りの話の展開を確認したいものです。
中世・近世の子ども達の「生」 投稿者:maekoo 投稿日:2004/03/22(Mon) 21:59 No.146
更新情報見ました。
ついに楓物語も登場し、「クララとノラとベルンハルト」も面白く読ませていただきました。
呼んでいて感じた事を述べます。
以前ある研修で「現代の親は子どもに完全な状態を求める。体の状態も学習の到達も・・・。過去子どもは病気や事故で死と隣り合わせで常時どこかで子どもが死んでいた。
その分、子ども達は逞しく「生」を全うし大切に生きていた。
親自身も同じ様に死と隣り合わせであり我が子に自分自身で生き身を守る様「生きる力」を与えて来た。
しかし現代は完璧に近づけなければ社会に送れない親たちが溢れ、子ども達を不完全でも社会に放ち学ばせる勇気を持ち合わせていない。
子ども達の方も情報社会で頭の中は肥大になってもいつまでもモラトリアムのままで人や社会と理解し会える状態で対峙する勇気を持ち合わせていない。」と言う様な事を学びました。
つまり、シュピリの時代は同じ様に今ではすぐ完治する病気で命を落とす事も多く、死と隣り合わせであり、その時代の読者にとっては自分たちや身の回りと共感する部分が多かったのかもしれません。
シュピリ自身の身近な死やの信仰心が作品に反映しているのだと思います。
又ハイジの様に生活力のある子ども達がよく出て来るのもその時代らしさかなとも思います。
高畑版はその部分で子どもの持つ成長過程の発達的部分と不完全な部分を巧く描いている気がします。
現代人は上記の様な状態で日々生活に追われ、この作品に失った何かを見出し原点に戻ったり発見して癒しにしているのかもしれませんね。
(少し長くなりました)
Re: 中世・近世の子ども達の「生」 tshp - 2004/03/28(Sun) 03:59 No.149
お返事遅れて申し訳ありません。(長くなりましてもいっこうにかわいませんよ)
考えさせられるメッセージでした。わたしもそのような意見を目にしたことがあります。
人間が人間に完全な状態を求めるというのは非現実的です。
人間なる存在がこの世に生まれてから完全な人間なんていなかったと思うべきですし、いたと思ってもそれは幻想に近いでしょう。ですから求める方が始めからムリです。
また、いつまでもモラトリアムでいることができるかどうかも考えるまでもない問題です。
完全になりたいのもモラトリアムでいたいのも人間の欲求の必然ではありましょうが、自分の欲求の素直な実現なんてありえませんし、あったらそれこそ大変だと思うべきです。
始めから終わりの見えている問題になぜ悩むのか?
(あまのじゃくな)わたしはあたりまえのことをあたりまえに考えることのできない人の多さに不思議に思っています。
maekoo様のご指摘のとおり、多くの人が、とんでもないものを失っているかもしれません。
今の子ども達の「生」 maekoo - 2004/03/28(Sun) 21:07 No.151
昨日は仕事である学童保育のお楽しみ会と6年間通った学童っ子の修了式がありました。
今日は地域の中学卒業生(43人参加)の親善ボーリング大会を実行委員長的立場で仕切って来ました。
ここで感じたのは「生」とは「クララとノラとベルンハルト」で書かれている「精神的遺産」を周りの人たちに渡す事だと言う事です。
答辞で自分の6年間を振り返り、仲間との想い出や自分の成長を振り返る六年生・・・それを共感と涙で贈る言葉を朗読する在所生達・・・感謝の言葉を述べる修了者の親御さん・・・それに共感し涙する他の保護者たち・・・。
学童保育での「育ち合い」と「いたわり」の「精神的遺産」を共感とともに受け継いだ瞬間でした。
又、普段悪さをしている中学生達が男女で明るくボーリングをする姿には優しい笑顔が溢れていました。
我々青少年指導員のボランティアスタッフもやって良かったと思った瞬間でした。
「ハイジ」と言う作品はその「生」の賛歌がある様に思います。
又、このサイトでシュピリの作家性と作品制作の背景を垣間見れた事はこう言った福祉関連の仕事やボランティアをする上で大きな糧になった様な気がします。
参加したある別の様々な講座ではこんな話がありました。
「アホを見たかったら親を見ろ」「家庭は子どもの発射台」「子どもは15でお別れパーティー(元服)を」「子が生まれる、そして親が生まれる 二人は同い年」等々
便利すぎるからこそあえて階段を登ったり歩いて目的地に行ったりする事が大きな発見や目標に近づく大きなヒントになったりしますよね。
それを子ども達と一緒に発見出来ればステキです。
自分たちの子育てももっと力を抜いて不器用にでも子ども達に成長させてもらいながら一緒に育ち合って行けばいいですよね。
ハイジはそれを体現し周りを巻き込み「生」を再確認させてくれているのかもしれません。
高畑版「ハイジ」が受けるのはそのシュピリが描いた様々な「生」への慈しみと喜びを明るく昇華させているからだと思います。
「いじめ」に対してハイジがどう対処したか?
「哀しみ」からハイジはどう立ち直ったか?
「よろこび」をいかに周りの人(動物も)と共感したか?
すべてその「生」=精神的遺産から広がっているのではないでしょうか?
この2日間で又子ども達の生きる力からいっぱい学ばせてもらいました。(感謝!)
Re: 中世・近世の子ども達の「生」 チョナン - 2004/03/29(Mon) 00:48 No.154
>高畑版はその部分で子どもの持つ成長過程の発達的部分と不完全な部分を巧く描いている気がします。
maekoo様の意見で言う「不完全な部分」というところに慈しみと喜びを強く感じます。
私は、数年前迄アニメは殆ど観ない人間だったのですが、ハイジという作品にだけは思い入れがあり二〜三年に一度はビデオを借り全話見直すということを繰り返してきました。
ところが昨年赤毛のアンを見直してみて、驚いたのですが高畑監督は実に主人公の成長過程の発達的部分と不完全であるところに、意図しない慈しみを注ぎに注いでいて、
オンジやマシュウにとっての喜びというのが何なのか、生きている精神的遺産とは何なのか、手応えを覚えました。
>不器用にでも子ども達に成長させてもらいながら一緒に育ち合って行けば良い。
ハイジによって与えられたこの命題を、高畑監督は赤毛のアンで解いてみせてくれている気がします。
モラトリアムとかパラサイトシングルといった類は、囓じるスネがあるから生じてしまうんですよね。
ハイジを観て子供が自立する切っ掛けになるのかはわかりませんが、不器用である子に対する慈しみ幼少期を反芻し結果として得られる喜びであって、成長とともに何時までも引きずらずに昇華させ、人生の階段を歩んでいく姿勢を見習いたいモノです。
青年達の「生」 maekoo - 2004/04/04(Sun) 12:10 No.157
ここの所バタバタしていて書き込みが出来ませんでした。
なるほど言われてみれば赤毛のアンも他者との関係性での育ち合いを巧く描いていますよね。
同じく高畑監督の「セロ弾きのゴーシュ」なんかも絶品ですよね。
青年期の葛藤と自律(いわゆるアイディンティティーの獲得)を絶妙に描いています。
あの動物たちとの関わりの中での成長は我々現代人が失いがちな「あるもの」を沢山描いています。
最後に年を召したバンドのお爺さんが主人公の成長を見て、若いから出来た。普通なら死んでしまう。と言う様な感想を述べられますよね。
我々はあの柔軟な若さをいつまでも持ち続けたいものですよね。
もちろんハイジの生き方もです。(^_-)
Re: 中世・近世の子ども達の「生」 tshp - 2004/04/06(Tue) 06:09 No.158
返信遅れて申し訳なゐです。(・・楓のなごりが!)
チョナンさまへ
豊かな社会・かじられるスネがあるというのも一種の試練ですね。逆境が人をたくましくし、順境が人を腐食させやすいのは古来かわっていません。ハイジはより苦しい時代の記録でもありますのでそこから何かを学べると思えます。
それから私も2000年以前にはアニメは「卒業」したつもりの人間でした。ハイジをたまたま本放送以来の再見をして「こんなにいいお話だったか!」と感動してしまい今にいたっております。
赤毛のアンもいいですよね。高畑監督は原作を自分の方法論でとらえなおして原作を活かしつつ別の作品(存在)としても見られる作品にしています。これはすごいです。その創作の方法論、創作の発送・動機を深く知りたいです。
maekoo様へ
年度替りはいろいろ忙しいですよね。
おっしゃるとおり、ゴーシュは大変よかったと思います。宮沢賢治作品の映像化では間違いなく最高クラスです。私もはまってしまいました。
それにしても高畑監督の作品はなんとなく地味です。知り合いの子供たちに見せても、反応がいまひとつなのが残念です。ひょっとして心の奥に残ってくれているのかもしれませんが、この問題が一番難しいかもしれません。
「クララとノラ・・」で、うっかり「精神的遺産」という言葉を使ってしまいましたが、これはたぶん昔読んだ内村鑑三の「後世への最大遺物」から私が(劣化)コピーしたものでしょう。内村鑑三は札幌のクラーク先生(少年よ大志をいだけ)の間接的な教え子で、明治−昭和初期の大思想家です。その著作は当時一大ブームをまきおこして現代にも大きな影響を残してます。(内村鑑三が育てたり影響を受けた人材は多く、夏目漱石と並んで近代の二大人脈と呼ばれるようです)その中の一冊が上記の本で、こうあります「我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か。事業か。思想か。・・・・・・何人にも遺し得る最大遺物−−それは高尚なる生涯である。」
(こんなこといわれると、自分の生き方としては「すみません」としかいえなくなります。ふと思い出してしまいました。それにしてもハイジのサイトなのに、別の話題にふってしまう困った守番です)
ばらのレースリ 投稿者:裕子 投稿日:2004/03/19(Fri) 16:40 No.145
はじめまして、
小学校の頃、確か学研の「学習」読み物特集号でしたかで「ばらのレースリ」の
短い物語を読み、作者の名前も忘れてしまいましたまま、ずっと胸にひっかかって
おりました。今となりましては内容もうろ覚えですが、ばらが咲くような季節では
ない時期に、家族か知人を助けるためにばらを探す‥というようなストーリー
だったように思います。
もう30年以上前のことになります。
積年のつかえが取れたように嬉しく感じております。有難うございました。
Re: ばらのレースリ tshp - 2004/03/22(Mon) 23:27 No.147
メッセージありがとうございます。
「ばらのレースリ」は、裕子さまのいうとおり、みよりのない女性を助けるために、少女が村中をかけまわって香水を作る為のバラの花を集めるお話です。
小さな作品で読後感がよかったです。雑誌のふろくになっていたということは、今回、教えていただいて、初めて知りました。なんとか確認してみたいです。
いつになりますかわかりませんが、もし何かわかりましたらこの掲示板に書いていきたいと思います。
これからもよろしくお願いいたします。