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 『Happy!』 について(評論)

 
   著者 浦沢直樹  小学館ビッグスピリッツコミック刊 全23巻 1994-1999年

 

 作品の紹介

 柔道の金メダリストの愛称のもとになった国民的大ヒット作『YAWARA!』のあとに雑誌『スピリッツ』に掲載された作品。
 主人公・海野幸(うみのみゆき)は両親のいない18歳の女子高校生。兄と弟妹三人の五人兄弟で貧乏アパートに住み,アルバイトで家計を支えながら生活していた。しかし兄が二億五千万円の借金を踏み倒して姿をくらましたあと,ヤクザな借金取りから兄の命を守るため,プロのテニスプレーヤーとなり賞金で借金返済をしようと決意する。

 幼い弟妹を抱えてけなげに奮闘する幸だが,大富豪で天才のテニスプレーヤ竜ヶ崎蝶子にライバル視され,あの手この手の陰謀にはめられて,世間からは性格最悪の汚い手段を使う悪役扱いされる。

 幸は次から次へと降りかかる不幸にも負けず,劣悪で過酷な環境のなか,借金返済のため必死で戦いつづけ,やがてウィンブルドンの決勝出場を果たす・・。
 と,設定としては貧乏を笑いにとる,スラップスティックなスボ根ドタバタコメディ。

 前作『YAWARA!』のパロディとしても読める。だが,幸がソープに何度も叩き込まれそうになったり,愛人にされかかるなど、妙にリアルで単純に喜劇とはいえないし,描かれたドラマは並大抵ではないシリアスさがある。

 勝手な評論
(この評論は『Happy!』と『YAWARA!』の両作品を読んでおられるのを前提としております。)

 マンガというか,コミックというか,呼び方すらまだ固まってはいないが,マンガは映画や小説と並んで,現代における重要な芸術メディアである。
 日本で発達したため,まだ芸術の本流とみなされない偏見は強いが,質,量とも,驚くべき水準にあることは冷静に見れば否定のしようがない。
 そしてコミック王国日本で現在,もっとも重要な作家の一人,浦沢直樹の最高傑作がこの『Happy!』だと思うんだけど,なぜか評判が悪い。
 確かに上記の紹介で書いたようにジャンル分けがあいまいという欠点はあるし,『YAWARA!』の亜流だとか,キャラが嫌い(蝶子)とかのインターネット上の書きこみがある。
 どんな作品も欠点はあるだろうからこれらの批判が的外れとはいえないが,ちょっと評価が低すぎるように感じる。
 物語構成で言えば,前作の『YAWARA!』より,はるかに山あり谷あり,キャラクター造型も皆,実に生き生きとしている。
 私の自分勝手な100点評価では『YAWARA!』はせいぜい50点。でも『Happy!』は80点ぐらいをあげたい。(ホント勝手)

 読者が気になるのは,まずはテニスの試合のワンパターンさだろう。
 作中で描かれるたいてい試合の前半は圧倒的に相手に押し込まれながら,後半ぎりぎりで反撃してひっくりかえす。
 それが続くのは鼻についてもしかたがないが,もしかしてこれも一種のリアリズムかもしれない。
 テニスの実戦経験豊富な人から意見を聞きたいのだが,幸のテニスが相手のリズムを読み,相手の力を利用して突破口をひらく受身タイプの特性を持っているなら,これも仕方ないのではなかろうかと思える。
 現実の人間もさして器用ではないのだ。(フォローできる方いたらお願いします)
 まあ,海野幸のあんなきゃしゃな体(の設定)では,相手を圧倒する力はないが,持久力で勝負することを選んでも仕方ないのかなぁ。と門外漢には思ってしまう。
 さて。本題に入りたい。

 『YAWARA!』と『Happy!』の比較。

 海野幸のライバル竜ヶ崎蝶子は,史上まれに見る強烈にして猛烈なキャラクターである。
 このキャラが嫌いで『Happy!』自体も嫌いという読者が男女問わず多いのもうなづける。
 そのスゴさときたら下手な説明するより実際に読んでいただくのが手っ取り早かろう。
 この悪辣さにくらべれば『YAWARA!』のライバルキャラであった本阿弥さやかの性格の悪さなど取るに足らない。
 蝶子に比べたら,さやかは善良なお嬢さまである。
 
 もっとも重要なライバルキャラの次は,ヒロインの相手方をつとめる男性キャラ比較である。
 両作品での男性のメインキャラである桜田純二と松田耕作,鳳圭一郎と風祭慎之介を比べても,両作品を比べて,どちらが味があって,魅力的だろうか。(この名前と顔と性格の設定の類似には,作者の新規まきなおし,真『YAWARA!』という意味合いがあると思う。)
 作者は意図的に『Happy!』を,『YAWARA!』を超える作品として作ろうとしていて,それぞれの役割を同じようなキャラにさせているが,造型の深さがまるで違うのだ。
 
 これはヒロインにも言える。
 柔は目的意識もなく,また強くなりたいという意欲もない。
 ところが幸の場合には,ソープにいくのが『断固イヤ』でいかなる苦難にも飛び込んでいく。
 柔は一人でいたらキャラにはならない平凡(ちょっと平凡過ぎてイヤミなほど平凡)な設定である。でも幸はなにもなければ天然ボケでいい味だしているキャラでは?。
 それに,なんといっても,これほどバリゾーゴンをあびたヒロイン(幸)がかつていただろうか。
 いわく,バカ娘に始まって,泥棒,サル娘,ポンコツ娘,疫病神,死神,蝿,ゴキブリ,淫獣,スパイ,薄汚い泥棒猫,家ダニ娘,レズ,世界を股にかける女…。やれやれ。「テニスしか出来ない駄馬」という悪口が誉め言葉に思えるくらいひどいフレーズが連発される。(女の子にむかって,あんまりだ)
 
 清純で倫理的,気は強く見えるが実はとても優しいからで,家庭的で,けなげ,なにより前へ前へと歯を食いしばり,運命と悪意に立ち向かっていく可憐な少女がこれほど罵倒されるのは信じられない。(鼻は低いが)
 まあ,幸は男性が勝手に思い描く,女性の理想形のひとつなのだろう。私もまんまとひっかかってホレてしまいました。作者の感情移入もありありと感じちゃったりする。
 そして,この気の強さは…。まあ…いいか…。いいよ別に。どってことない。
 本音で生きてる人間はこのくらいでなくては!?

 『YAWARA!』と『Happy!』が決定的に違うのはラストである。『YAWARA!』のラストは考えてみれば,けっこう悲惨だ。
 あの猪熊家は今後どうなるのだろう。祖父の滋悟郎ジーサンと父の虎滋郎氏と松田氏はどうやって,一つの家の中で折り合いつけていくのだ?
 風祭氏は愛なき二重生活で,いいかえれば鳳圭一郎の初期の状態以下に落ち込んで救われない生活になるのではないか。
 そんな伴侶をもったさやかちゃんもかわいそうだ。それに松田氏は本当に柔ちゃんとうまくやっていけるのか。愛だけで大丈夫か? 相思相愛は確かでこれはこれでハッピーエンドだ。
 だが,あまりにも柔が有名で。アイドルで。存在がでかすぎないか? だいいち結婚してしまえば柔の記事は松田には書く資格がなくなってしまうのだ。松田はいつまで新聞記者をやっていられるのか。
 あの「ヤワラ」ちゃんの夫がスキャンダルを仕事で追っかけること自体がスキャンダルで,なにより二人が結婚したときの新聞紙面がスーパースクープなのだが,どんな内容にする気だ?。秘密にするわけにいかんだろうし。
 あと,失恋の加賀ちゃんはどうなのさ。
 さらに加賀ちゃんを誘拐しようとして失敗した男二人はボスにどんな目にあわされたのか。心配なんだよね。なんか。(心配しすぎかも)
 どうも,『YAWARA!』の世界の今後を考えるのは,気が重たい。かわいそうなのだ。
 この欠点を十分知っていた作者だから,『Happy!』では最後のハッピーエンドを徹底的なものにするべく反省点をふまえて,実に素晴らしい結末を生み出した。
 『YAWARA!』は『Happy!』を生み出すための踏み台とボクは考えたい。浦沢直樹のリベンジである。
 『Happy!』も『YAWARA!』も非現実的ドラマであるのは同じだ。
 どちらも同じような系統の舞台設定を使っており大富豪を登場させるというありきたりな設定とそのありがちな描写(パラシュートで飛び降りるなど)によって読者にこれは「シリアスではない」というメッセージを伝えていたはずだ。
 なのに『Happy!』のほうは,後半,そんな描写は陰をひそめてしまい,モンスターばりのシリアスな場面が連続してくる。
 『Happy!』にコミカルな描写は多い。
 だが,ドラマ自体は恐ろしいほどシリアスなのだ。
 一歩間違えば,悲惨な状態にすぐになる設定に加えて,さまざまな障害と悪意が次々とおそってくる。
 こんな状況ではコミカルさは物語の息抜きなのだ。
 シリアスな本筋に対するコミカルな細部描写は,作品を親しみやすくし,現実感を補強し,設定の息苦しさ悲惨さを緩和している。作品のレベル向上に高い効果をあげていると思う。
 だから『Happy!』のファンとしては,『JIGORO』のような外伝も読みたいのだが,本編を書くのに『YAWARA!』より大きなエネルギーを必要とするはずだから,作者の方に外伝をつくるエネルギーが出にくいのは仕方なかろう。残念でならない。
 『YAWARA!』が好きだった人に『Happy!』が不評なのはわかるし,『Happy!』が好きな人が『YAWARA!』が好きな人より少ないのも致し方ないのだろう。
 変な例えだろうが,『YAWARA!』はいわば,『鉄腕アトム』のようなものだ。
 手塚治虫の作品としては,『鉄腕アトム』は決して傑作とはいえない。むしろ現在も連載マンガの主流をなす「格闘戦闘」マンガの原型を提供したという意味以外は,実に中途半端な作品なのだが,時代の要請により,空前絶後のヒットとなった。
 アトムは丁度,時代の変化に従って生じていた「ある空白」「ニーズ」をたまたま埋める位置にあり,必要充分な(程度の)クオリティがあった。
 これは長期間にわたって傑作として評価できる必要充分なクオリティとは別である。
 アトムのアニメは設定そのものからして,今となってはテレビでの再放送に耐えない作品である。だから逆にヒットしたのかもしれない。
 ニーズの充足は,あらゆるベストセラーが発生する理由でもある。
 だが,ベストセラーになったからといって,それが傑作として評価すべきクオリティを持っているわけではない。
 また,ベストセラーにならなかったとはいってもクオリティが低いわけでもない。
 『YAWARA!』にも同じ事がいえる。それだからこそ作者にもストレスというか欲求不満があって,『Happy!』へとリベンジするつもりになったのは幸いといえるだろう。
 くどいかもしれないが,『YAWARA!』と『Happy!』の共通点は実はほとんどない。
 独立したジャンルの(ソフトコメディドラマ対ソフトシリアスドラマ)の作品であって,表面上のキャラ設定や絵,表現手法が似ているのは,単に役者と舞台と監督を同じにして,喜劇と悲劇の二本を作ったのと同じなのだ。
 ジャンルが違うのだから,この二つの作品を同一基準で評価するのは始めからできないと考える。

 登場人物の浄化とヒロインの役割

 『Happy!』で一番重要なのは,登場人物のほとんどすべてが『浄化』されたことだ。
 この作品に登場した人物は,いずれも,『本当の人生』『本当の生き方』に近づいたのではないか。
 特に変化がなかったのはオカマのナタリーさんぐらいで,あとはみんなが,より自立に向かい,より望ましい未来への可能性をひらいたのだろう。(ナタリーさんはもともと救いようがないキャラ)
 長くなるがあげてみる。
 
 まず,世の中に本当の自分を見せることにした蝶子。以前は家を追い出される幸の姿に笑い転げるほどだったのが,幸とニコリッチの死闘に感動して涙を流し,観客からモノを投げつけられても自分の意思を明確にできるようになったのは,浄化といわずしてなんだろうか。この悪女が更正しただけでも『Happy!』は価値がある。
 
 なにもできない人形同然だった圭一郎は,本音で生き,しかも自分で人生を切り開ける能力を持つようになった。ここまでいろいろ苦労したなら実家の財力と縁を切っても幸をきっと幸せにしてくれるだろう。
 女の怖さと男の生理のいいかげんさも身にしみて反省しただろう。それにもともとマジメだから浮気もしまい。
 
 桜田はソープに小娘を叩き込んで平気なチンピラだったのが,売春婦の心の痛みをわかり,その家族をしっかりと守れる素晴らしい男になった。(こっちは浮気しそうだなあ)
 
 鰐淵は命が助かったし,これだけの体験をしたら前のような冷酷無残な男としては立ち直れないはずだ。とこかで優しく生きても不思議でなかろう。少なくとも幸ファンクラブのチラシくばりぐらいはするはずだ。
 
 サンダ―は自分の夢を実現し幸をさらに大切に思うだろうし,失意によって落ち込んでいた自堕落な生活とは縁が切れたはずだ。自分は最低のコーチと自嘲し,プライドのくだらなさを知った。思い上がりを打ち砕かれたのだ。
 ラスト近くでドロドロの人生を生きてきた初老のダメ人間(サンダー)の言った純情きわまる「雨よあがるな」は作品中もっとも心に残る言葉だった。
 
 鳳のオバハンは,過去を清算し,絶対に優しくなった。それにもう全英優勝の嫁(幸)には前と同じ態度で接することはできない。実績ではもう頭があがらんもんね。考えたら怖いぞ−。これほど精神的に強い嫁はまずいないだろうし,なんたって貧乏平気だから,金という最大の権力が通用しないんだもん。
 だけど孫はコテコテに可愛がりそうな気がする。もし男の子が生まれたら圭一郎の替わりに帝王学なんかを教えそうでゾッとするけど,意外と三悟くんが鳳の養子になって跡取になったりなんかしてね。
 
 ニコリッチの引退撤回は,彼女の人生がポジティブに転換したことを暗示しているし,ウェンディは幸という友達とテニスへの愛を見つけ,アランコーチも幸を認めた。これから応援こそすれ,目立った邪魔はすまい。
 雛も自立の道を歩むだろう。賀来菊子は,もしかして一番わりをくったキャラかもしれないが,それでも,幸の存在を心のバネに生きていくだろう。クラゲの仁吉すら浄化された一人だ。

 それにしてもラーメン,バナナを筆頭に,なんでもバリバリモグモグ食べて,おしゃれと無縁で,ビービーなき,ブビーと鼻をかみ,サラ金ティッシュを受け取れずにいられない。カレーを作るのがうまくて,絶対に盗み・売春・買収されない倫理的で,愚直で天然で,小柄できゃしゃで,俊足な女の子。
 ああ,なんと魅力的なのであろう。(幸は絶対「B型」だと思う。父もそうだろう。母親は「O型」かもね)
 
 作者は柔で表現できなかったことを,幸というキャラによって完成させたのだと思う。(作者の偏った愛情も感じるが)
 この作品の中心テーマの一つが『幸』という特異で理想のヒロインの造型,描写にあるのは間違いない。
 こんなヒロインを描いてみたい,いじめてみたい,おいつめてみたい。
 でも肉体的な侮辱はさけたいという作者の狙いは明白である。(現実世界には真っ暗闇で陰惨な,人間による人間への侮辱が満ち溢れているから,あくまでもファンタジ−の妄想世界の娯楽なのだが・・)

 罵詈雑言もひどいが,言葉による幸への暴行表現も多彩である。
「その腕をつかいものにならないようにしてやる」「パカンパカン打っているのがてめえの葬式の木魚がわりだ」「使い物にならないゴミ同然になる」「チャキチャキソープで働きな」「やっぱりてめえも負け犬だったか」・・。
 ただし,これらの言葉は直接,幸にはとどかず,読者に対して向けられている。
 そして幸が試合中や弟妹や人前では泣かず,強気と無邪気さを貫きとおすのに,影でビ−ビ−泣きとおし・・というのは,いいキャラだなぁ。と思う反面,読者の保護欲をかきたててしまう作者のあざとさがある。
 
 また,こんなにいろいろバクバク食べるヒロインも空前かもしれん。
「なにをいくら食べても大丈夫」というのは腹をかかえて笑うしかない。いやーかわいいもんだ。
 こんないい子をソープに沈めるなんてとんでもないことだ。(と,見事に思わせてくれた)
 ついでにいうなら,これだけ合法的パンチラさせられたのもめずらしい。
 あと,顔面にボールを3回もぶっつけられたのは,かわいそうだが,その後の表情が猛々しくてよかった。
 作者と私を含めた読者のサディスティックでエロティックな潜在的欲求といとおしさ,愛情にこたえるための描写だろう。
 自覚すると少々頭が痛くなるが,魅力を感じてしまうのも致し方ないのだ。(困ったなあ。)
 
 それから,鰐淵の札束をはねとばすのはテニス以外では数少ない幸の絵になる場面だ。
 その理由というのが,弟の食べ物の好き嫌いを例にあげての日常倫理(小学生も大人も同じである)を根拠にしているのだから,鰐淵はグウの音もでない。
 大上段にふりかぶっての欲得の絡んだ論理や,高邁な倫理ではなく,日常倫理ならクレバーでなくても,言葉がうまくまわらなくも,(桜田風に言えば「バカ」でも)場合によっては幼稚園児でも鰐淵を撃破できよう。実に爽快である。(幸の方は自分で自分を追い詰めてしまったわけで,笑える状態でなくなったが)

 だが,後半になるほど幸の表情が幼く,小柄に,無邪気になってくるのがこの作品の限界なのだろうか。
 徐々に実力をあげて,自分を表現する場所を見つけてきた幸は,どうにもならない状況から解放されてきている。
 無邪気になってもいいかもしれない。
 だが,年齢をかさね,成熟し,いろいろな経験をつみ,世界のトップと闘えるほどの女性が,あれほど幼いとはちょっと考えにくい。
 もうちょっと,したたかになってもいいのではないか。
 トレーニングすれば筋肉質になり,体形も太く,ゴツクかわってくる。
 しかし,作者,読者の思い入れとしては,華奢な少女でいてほしいのかもしれない。(私もふくめた,この身勝手な男の願望が『Happy!』のテーマでもある。(より幼い華奢な中学生時代の回想が多いのもこのせいだろうか)
 だから,キャラクターの設定をくずさない,ぎりぎりのところでこの物語は終わったのだろう。
 作者もヒロインに思い入れ(恋)しないと傑作なんてかけっこないだろうから。

 幸の倫理観

 だいぶ長くなったが,もう少々。次は倫理観の問題である。
 ここまで主人公にプレッシャーのかかった物語も珍しいと思う。
 家族への義務感と性的倫理観と金銭的潔癖観にささえられた精神と肉体の闘いである。
 「あたしがいけばいいのね」と「ソープでもなんでもいきます」「それいけお姉ちゃん」といういずれも感動的なセリフ(まだまだあるが)を考えてみると,だいたい幸の価値観はこうなると思う。
 
 肉親共同体への義務感>性的倫理観>金銭的潔癖観>自己欲>金銭的欲望
 
 どの価値観も,範囲以内で,最後まで幸は大切に守っている。
 だれもがこのように生きてみたいはずだ。
 その中で,なんといってもこの作品を支える最大の動機は「お兄ちゃん」を殺させない。である。
 次は「性的倫理観」の維持である。
 金では絶対に体を売らない。
 売るとしたら肉親に危害が及ぶときだけだが,自分の欲望や,弟妹に貧乏させる程度では絶対に体を売らない。
 そして自分のみの金銭的欲望による誘惑は問題にもされていないのは鰐淵とのやりとりで繰り返される。
 金と愛人の関係は一貫して歯牙にもされていない。
 世の中のネジのゆるんだ女性たちよ,くれぐれも勘違いしないように。
 

 それから恐らく兄の命と弟妹たちの生活がかかっていなければ,いくら万引きなんかしない。
 といってはみても,幸は借金踏み倒して夜逃げするだろう。
 なにしろ逃げた兄の行動を幸は非難していないのだから,幸も逃げ出せるなら逃げても不思議でなかろう。
 それが伝統的な日本の倫理観でもあり,読者にも共感できる選択のはずだ。
 また,「それいけ」は兄弟に危険が迫ってくるが,自分はなにもできないのがわかっている状況でつかわれた言葉だ。
 心配してオロオロしているのではなく,自分にできる兄弟への最大の義務として兄弟の現状を無視して(兄弟から送られてくるであろう声援を背に観じて)試合に全力をつくす言葉である。
 つまり現実の向こう側にある兄弟同士の精神共同体に殉じる言葉であるとも言える。
 たとえ兄弟がどうなろうとも,自分にできることを,自分がやるべきこと(テニスだけを考え,がんばる)を,やる。
 それが兄弟にとっても一番喜ぶでことだから。
 つまり,もはや現実の兄弟関係をはなれて,一種,形而上的兄妹共同体に身をささげている(ささげる覚悟がある)のだ。
 ここまでくれば,自分のヒザがどうなろうとも,どうでもよくなって当然だ。
 精神的安定はこれで得られよう。
 つまり,「ボールが見え,体が動く」という肉体的な前提がそろい,精神的にもこんな状態になれば,もう誰にもとめられない。
 ここでは,幸はもう金のために闘うのではない。
 「お姉ちゃん」であり続けようとする義務感がさらに高い次元に昇華(止揚)されて闘うのではないだろうか。
(現実問題としてヒザを故障して試合に勝てるかどうかだが,まあ痛いだろうし,関節が壊れたら物理的に無理でもあろう。そこんとこはファンタジーなのである)
 この作品において幸は,当初から常に「お姉ちゃん」であり,ここに迷いはまったくない。自己規定が極めてはっきりしていて,自分がどうすべきかが,「わかって」いる。
 それがここで実に透明な形で完成しているといったらいいすぎだろうか。
 自分がだれか,はっきりわかっているというのは実に幸せな,救われた状態とはいえまいか?。
 ある意味,これは極めてうらやましいことである。

 救 済

 ウィンブルドンの決勝も第三セットに入って,雨で中断される。
 幸はひざを故障し,激痛で気さえ失うがまともな治療さえ受けられない。
 もうやめようとサンダーがいう。
 充分闘ったと鳳唄子がいう。
 でも,幸の立場は違う。
 幸には自分が自分として生きていける時間が残り少ないのだから満足するわけにいかない。(と,思っている)。
 まだ前にすすむのだ。
 彼女は破滅を見据えながら,選手生命最後かも知れない瞬間を燃焼させている。
 サンダーも鳳オバンも自分の満足のために自分を律してきた。
 自分の価値観に従って自分の行動を正当化していた。
 だから幸を追い詰めるのが平気だった。
 そして,それが達成できたと思ったとき,もういいと止めようとした。
 勝負は終わっていないのにもかかわらず,音をあげたのであり,あきらめたのだ。
 しかし幸はやめない。
 ニコリッチとの勝負の終盤は,幸はもはやなにも考えていない。
 愚かな行為であるといえば,これほど愚かなこともない。
 だが,それがすべてを浄化し変えていく。
 前にだけすすむ愚かしさがこざかしさを圧倒しさって,すべての思惑をこえて,すべての人を圧倒していく奇跡の場面を作者は描く。
 いささか白々しく。こんなことが現実におきようはずもないが,それでも日本人の伝統的感性においては現代でも納得できる。(この「日本人的感性」なるものにはとんでもなく嫌らしい落とし穴があるのはさておき)
 試合の終わった時点で,泣いていないのは幸だけというのは意外にして感動的なのだ。
 幸の選手生命は長くないかもしれない。もうさほど賞金もかせげまい。ウィンブルドン優勝はまさにワンチャンスの奇跡の可能性が高い。(そうでなければリアリティがなさすぎるためだが)
 でも,ウィンブルドンで優勝しても,まだ幸に解放感はない。まったくない。
 二億五千万を返しても,まだ幸には高率の利子による莫大な借金が残っている。
 ウィンブルドンで彼女が得たのはカーディガンと,ひざの故障と,まだ彼が生きていると知らない桜田の悲報でしかない。
 彼女は自分がまだ,どうにもならない立場にたっていて,すべての道がふさがれたなら鰐淵の愛人になるしかないと思っている。
 そして,時間はもうほとんどない。
 

 依然として幸にとっては,絶望のふちにあり,かえって闇は深いかもしれない。
 だから明るく,愚かにしているのかもしれない。
(実際には鰐淵の破滅と浄化。そして兄の生命への危険の消失によって借金地獄は解消されているのだが,この時点では幸は知らない)
 絶望の中の透明な元気,透明なはにかみ。
 優勝して,泣くでもなく笑うでもなく,喜ぶでない。感情を爆発させず,ただ,「えへへ」と照れくさそうにするだけ。
 なんという表現だろう。
 こんな表現を描いた浦沢直樹はよくやったというしかない。すばらしい作家である。

 ウィンブルドンの表彰式で幸はどんな表情をしたろう。
 もし借金がなくなったことを鰐淵から教えられ,鳳から残りも肩代わりできると伝えられなかったらどうか。
 まだまだ借金地獄は続くと覚悟しているからこれまでどおり気丈であろう。
 そのうえで桜田が死んだと思ったなら,肩振るわせ,片手の甲でぽろぽろとでる涙をこすりながら静かになきじゃくるのではなかろうか。
 この場合,理由をわからずとも何かを感じてニコリッチは肩を抱いてくれよう。
 彼女も心の痛みを知る人間だから。
 もし,借金が解消したと知ったら(こちらの可能性が高い)どうだろうか。
 借金が桜田の「ブックメーカー」への賭けによってかなりの部分が消えて道義的責任はついた。
 ついに自分は解放と勝利をつかんだ。
 なのに、自分をソープに沈めようとする苦しみを与えたが,最後には自分と兄弟の解放をもたらし,桜田は死んだ。
 プラスマイナス両方からの感情の大津波に涙をどう止めるのだろう。
 表彰台の上でも,どこでも号泣するのではなかろうか。
 世界中に鼻水を出した崩れた幸の泣き顔が放映され,ついにひっぱりだされた記者会見もただ号泣するだけで話にならないだろう。
 理由がわからないからニコリッチも手がつけられず,サラ金ティッシュでブビーと鼻をかむ場面も放映されるかもしれん。
 それもいいなあ。
 とも思うが,マスコミにはまたまた誤解されてバッシングされるかもしれんし,なにより乙女にとって死ぬほど恥ずかしいから見たいと思ってはいかんだろう。
 かといって今度という今度は記者会見をすっぽかすわけにもいくまい。(借金地獄が続いている場合の記者会見は桜田の死を悲しみながら,内幕を話せずに,くすんくすん涙をながしながら沈黙するだけだろう・・)作者が描かなかったのは無理もない。
 
 いずれにせよ,優勝の嬉しさと悲しさで精神的に両方からぼろぼろになった幸をなぐさめ,立ち直らせるには圭一郎と結ばれることだろう。(とっとと二人きりになってゴールインしてほしい。祝福するぞ!)
 まったく,こうやって書いていると,コミカル仕立てで主人公の設定もいかにもといったアイドル型なのに,語られる物語はシリアスとしてとらえたら,実にすごい。
 つくづく不思議な作品である。

 作品には短いエンディングがついている。
 熱烈なファンにはいささか物足りないが,このエンディングで幸は兄弟と共に暮らせ,化粧品をもっている(もちはじめた)ことがわかる。
 以前のエピソードで化粧と無縁だったのが分かっているが,この変化は幸の「がけっぷち」からの生還をじつにさりげなく,同時に感動的。かつ,力をいれずに教えてくれる。
 幸は「普通の女の子」になった。
 
 ささやかで重大なことに,兄はもう逃げ回る必要はない。
 そして幸は化粧品を買える経済力と,恋人のために化粧をする余裕をもっているのだ。
 もう弟妹たちのために,わずかな自分の欲求を無理に抑えることは必要でなくなった。
 地獄からの解放,物質的な閉塞の解消,つまり幸自身の現実的解放をこの化粧品は教えてくれる。
 やがては彼女の実力にみあった生活をすることができる。
 それはもうすぐやってくる。
 
 もうテニスは金のためではない。
 自分がやりたいからやるテニスができる。
 それがこれでわかる。
 物語は(いうまでもなく)ハッピーに終わったのだ。
 手紙の形式でのエンディングは最小で,かつ十分なのかもしれない。

 結 び

 何度でも書いてしまうのだが,この物語は荒唐無稽なコメディ設定である。
 現実にはありえないファンタジーでしかない。
 だが,物語は「現実」をメタ表現することで現実よりさらに「リアル」になりうる。
 マンガというメディア自体が,もともとそうなのだろう。
 手で描かれるマンガの描線は写真にくらべたら記号にすぎない。
 どこまでいってもシリアスやリアルにはなりきれない。
 だが,そんな制約・特性を逆手にとって,マンガは傑作を生みつづけてきた。
 私達のすぐ横に,借金のためにソープに身を沈めたり,犯罪に走る男女がいる。
 自分自身が,いつそうなるともしれない。トラブルのない人生などない。
 
 だれもがそんな時,幸のように生きたいはずだ。
 最後まで倫理的に。後ろ指さされないように。そして,力足りずに我が身を堕しても,自分の信じること,自分の愛するものは保護したい。
 義務と愛情を守りたい。
 とことん個人的エゴといえばエゴであるが,情けないことに我々にはそれ以上の倫理はなかろう。
 現実では,なかなかそれさえもうまくいかず,それでもなんとかなんとか折り合いをつけて,目標に向かってジリジリ進んでいかねばならない。
 海野幸のような境遇に放り込まれたら,私はどうするだろう。
 彼女のように,絶望の中でもなんとかせねばなるまい。
 
 そうして,私はこの作品を愛するようになった。
 バブルはどちらかというと力の抜けた平凡作(といったら批判もあろうが)『YAWARA!』を大ヒットさせたが,平成の不況は『Happy!』を生んで,そこそこヒットさせて後世に残す。
 これだけでも不況もいいことすると感謝したいくらいだ。

 ともあれ。
 『MASTERキートン』がなんだ。『MONSTER』がなんだ。
 ボクは『Happy!』が浦沢直樹の最高傑作だと信じている。
 なんたって一番心が動いたのはこの作品なんだから。
 最終ページで幸がふたたびテニスができることがわかってよかった。ホントに。

 おまけ


  企画案(ついに海野幸がCMに登場!)
  デパートのポスターに採用
 
  コピー
「もう泣かない。おいしいものだいすき」(でピースしている写真)

 ウィンブルドンでみごと優勝した海野幸選手は気力あふれるねばりづよいプレーでついに全英オープン優勝にかがやきました。表彰台での感動的な涙はすべての人の心に残りましたが,その背後には,不幸な生い立ちと誰にも話せなかった苦労と危機の連続がありました。 もう『幸』は泣かない!
  (プロデピューする直前,海野幸は当社へ入社予定でした)
 

2001/4/5

 

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