わたしが9月になって避暑地の山村から街へと帰ってきたとき、真っ先に足をはこんだのは病院でした。 そこは、旅立つ前、最後に私が訪れた場所でもあります。 門を入ってすぐに、私のことをよく知っている女性職員が迎えてくれて、私が何を知りたいかわかって、教会をさししめします。 「あの人は、あそこで眠りにつきました」と言いました。 私はお墓の番号をたずねました。 でも、本当は聞くまでもなかったのです。 身寄りがなく、愛する人の手で葬られない人のお墓は、ただ埋められて墓標もなく、土がもりあがっているだけなのです。 静かで穏やかな空間でした。 夕日が、草おいしげる盛り土に最後の光を投げかけています。 その向こうには、雪をかぶった山々が、遠い昔から変わることなく輝いています。 ここで彼女と私は、いくどとなく夕日の中、いくつもの小高い丘をめぐり歩いたのでした。 そんな思い出の場所は、いま、静寂の中にありました。 ――これほど多くの年月が、あのころから過ぎ去ってしまったなど、ありうることだろうか? その響きは今はもう消えているが、もう一度わたしにあの言葉を歌ってくれるのを聞いたような気がした。 「待つがいい。もうすぐ、すぐに 私のお友達・あなたのお墓には十字架が立つこともなく、だれもあなたの名前を知ることもない。 でも、私のたくさんの思い出がこのお墓へとからみついていく。 私は、あなたのお墓にひとひら(一枚)の木の葉のような、短い文を書いてささげようと思う。 もしかしたら、それを誰かが読んで、私とともに、心満ちた気持ちになってくれるかもしれません。 あなたはいま 山あいの村の白い小さい教会のとなりに、一軒の古い家がありました。 わたしはそこで20年の月日をすごしました。 目を開いて、心を開いて、すばらしく楽しい日々でした。 この地上の小さな場所は、大いなる神のめぐみに満ちていたのです。 この古い家は学校で、私は村の子供たちと人生最初の授業を受けたのでした。 人数は少なかった。 ですから、私たちには知りたいと思ったとき、必要な答えが与えられました。 私たちがなにか望んだり、私の小さな希望でも、かなえられたのでした。 だいたいわかっている問題があって、答えがなんとなくわかっているときに私が質問するのは、面白いものです。 そこでの私の座席は、ずっと最後まで窓のすぐそばです。 そしてたいてい私は、緑の草原をながめていました。 太陽の光が暖かく地面にふりそそぎ、青い空の中に白いちょうちょたちが、ひらひらとかわいらしくのぼっていきます。 そして更にその向こう、草原の細い道から、丘を下った先でトネリコの木の下にでます。 そこは、とても気持ち良く風が吹きぬけ、ざわざわと音を立てているのです。 だれでも、その下にくれば、足をとめてしまいます! たくさん教えられた敬虔で正しい教訓は、教会の雑用係の娘ベロニカの心を動かしませんでした。 彼女は、教室では私の隣に座っていました。 |