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 結 「ハイジという物語」について

 

 やり残したことはとても多いのですが、事情により、私なりの総括をしなければならなくなりました。

 2002年にハイジの研究をすすめようと思ったことは、前に書いたのですが、当時は原作もアニメも、資料といえるものは少なく、手探りではじめました。

 スピリは、ドイツ語圏の児童文学作家で、しかも事実上ハイジのみの単発作家という幾重にもマイナーな存在であり、作風も「古臭い」と見られて、現代児童文学の先鋭からは格好の批判の対象でありました。
 そして、安易なコピーが大量生産され、続編なるものや、原作を尊重しない映像作品がはびこることで、スピリが読者にとどけようと思ったメッセージのうち、どこが拡大され、消去されていったか、実に興味深い現象が生まれました。
 これはハイジだけではなく、多くの児童文学に共通することですが、ハイジは特にそれがわかりやすいのです。

 子供が、本当はなにをうけとるのか。(かつて子供だった私が何を受取ったのか)

 大きくなって自分がうけとったものはなんであるかを検討するとき、原作の小説は、ごく一部を形成するだけで、総体としての子供の享受物は「大人の事情」を多分にふくんだ、美しくも醜い、「世界そのもの」であります。

 それを含めれば「何を何のために表現する」のか、「教育効果というものが、どうあるべき」かを考える作家・表現者(クリエイターではありません)・商業従事者の、内面・素顔を見せてくれるのです。

 またアニメのほうも、制作会社のクーデター・版権の争奪の余波で、もともとの製作スタッフから権利が奪われて(代わりにフランダースの権利をバーター取引したようですが)、ハイジを二次的に発展させることができず、資料集すら満足に出せなかった状況でした。

 元々のスタッフ(監督・場面設計者)は、愛するがゆえに命を削って作り出したハイジに背を向けざるをえないし、根っこを切られた版権所有者はアニメハイジの切り貼りの映画を作り、キャラクター商品を作るなど、商業的な利用を繰り返すしかありませんでした。

 いわば業界のトラブルで、ファンを置き去りにしてしまったがゆえに、一種アンタッチャブル的作品になってしまったのです。
(1979年の映画のパンフレットに高畑勲の名前がなく、宮崎駿の名前は「しゅん」と読んでしまいました。なにをかいわんやです。)

 このハイジにおけるアニメ業界のトラウマが、ハイジからはじまるはずの世界名作劇場の原点を「公式発表」から消去してしまいました。

 原点が消されたことにより、「ハイジ形式」(フォーマット)の長期的劣化と使いまわしはさけられず、それが名作劇場の長寿化と、衰退をもたらしました。

 それはさらに、作家性、品質を追及するジブリ設立につながり、空前の成功がありました。
 そしてここでも副作用の作家性の発揮にこだわることで、ついにはジブリの衰退まで影響を与えたわけです。

 ハイジは、世界のアニメの歴史に、さまざまな影響を残した運命的作品になってしまいました。(ディズニーがピクサーを買収して、作品的には逆に影響下に置かれたことは、日本アニメの影響の余波と言えるのです)
 このあたりの歴史の詳述や分析は、やろうと思ってできなかった最大の課題でしょう。

 しかしハイジは、原作もアニメも、読者・視聴者の支持により、何度となく息を吹きかえして、忘れることのできない作品として、命をつないでいます。

 私は、原作もアニメも好きな作品で、また、宗教的な敬虔さが「性にあった」のか、魅力に感じておりました。

 原作もアニメも「善意」に基づき、奇跡的偶然の積み重ねと、製作者にも誰にも予想できない成功・栄光を得られてきたことに気がついたとき、ここに「神話」と「天使」が存在するのだと、ハイジの潜在的価値に気がつきました。

 そして、ややもすると不遇に扱われやすい「この作品」を救い上げる一助もしたいと、多くの有志の方々と同じ考えをもつことになりました。
 これは、ただの自己満足的な研究より、はるかに有意義な作業になると、思えたのです。

 幸いにもインターネットサイト「ハイジという物語」は私の手をも離れて、皆様の協力と支持をいただき、またかなりの方々に参考にしていただいたようです。

 こんなにもハイジを深く研究する方々が多く顕在化することで、私の目的は達成できました。

 スピリの生涯の軌跡についても、このサイトの製作前は実に表面的なことしか知られておりませんでしたが、現在の各種研究における精緻さは、まさに隔世の感があります。

 テレビ映像を含めた広義の、本当の児童の精神生活を形成する「児童文学」の実体の例として、ある程度、画期的な研究成果をあげられたと、自己評価をさせてもらえるでしょうか?
 個人でも、どうにかこうにか、こんなことができました。
(まとめた著書は残せませんでしたが、多くの方々の精力的な成果が見られて充分です)

 この活動のおかげで、多くの方との得がたい出会いがあり、高畑監督や、小田部さん、アデライーデを発見されたビュットナーさんや、ヴィスメールさんにもお目にかかれました。幸せです。


 さて、私のハイジの仕事としては、最後になるであろうフローニの訳文は、実は2006年の3月に今の形になっておりました。

 しかし、私自身が大怪我で数ヶ月動けなくなり、ついで母が倒れて寝たきりになり、自分のせいではない別の思いもよらない騒動にまきこまれ経済的に自由を失い、同時に恩人がとんでもない境遇に落とされたのを助けることになり、さらに同時期になんとまあ、とんとんびょうしで結婚することになり、結婚してから数ヶ月後に妊娠(早!)がわかり、くわえて妊娠中に危険な病気で妻が手術する(もちろん子供の命も危険な)ことになり、リーマンショックがおきて経済苦境も長くなるし、無事生まれてからは子育てに追われ、生まれたとたん子供が原因不明のアレルギーで危機に(無事回復しましたが)、震災もあったし・・・連続する右往左往の中で、ふと気がつくとハイジの研究はすっかりごぶさた。子供は早くも小学生。あっという間の10年でした。

 いやー忙しかった。ひどい目にあった。でも楽しかった。感謝。

 でも思いもかけないことは続くもので、今度は大病で自分のカウントダウンがはじまっちまいました。

 すべての皆さんに、病気してごめんなさい。と言葉を残します。(自分も、だれも、悪くないけど、特に家族にごめんなさい。)

 そして・・気がつくとフローニは別の方が翻訳してkindleで発売され、本邦初訳のチャンスはなくなりましたが、自分の下手な誤訳しかない状況ではなくなったので、むしろ喜ばしいことです。

 訳の誤りは大量にありますが、直す時間も実力ももはやありません。誤訳はひとえに私の読解力不足によるものです。勝手な言い分ですが、どうかご容赦ください。
 書簡集もほかの方が、なんとかしてくれそうですし・・。

 それでも、あらためてフローニの内容を見てみますと、今の病中の自分にとって、心にしみいる作品であることは間違いないです。死は怖いですが怖くない。

 心穏やかに最後の日々をすごすのに、意味のある作品です。
 今回久しぶりに読み返して、早々に登場するゲーテの詩には、おもわず、微笑んでしまいました。

 作中には、さまざまな「歌・詩」が登場します。どれも、スピリ自身が当時、良く知っているもので、全体の詩(ときにはかなり長い)から、ほんの一部分を引用しています。

 当時の読者なら、それだけでわかるのでしょうが、現代日本人にはわかるわけがありません。
 また、詩の全体の内容と、引用した部分の関係がわからないと、なぜこの部分を引用して、どんな意味を背後にこめたのかわかりません。

 私も当然充分に理解できません。できるわけがないですが、できないことはわかりますので、できるだけのことはしたつもりです。

 表面上はただの「一言」に見えても、背後にある原詩の意味と、その詩を選択して、部分を抜き出したスピリの意図を追い求めねばなりません。「一言」ですむわけがない「大きな言外を持った一言」なのです。

 だから、やはり本来は「一葉」が適切ですが、日本の読者にはよくわからないので、私は俗っぽく題名に「追憶」をいれました。

 冒頭にあげられた、スピリの母・メタの詩の部分も、長い詩の一部ですから、原詩を知らなければ本当の意味を訳したことにはなりません。その作業は、残念ながら、どなたかにお願いするしかありません。

 そして、この作品を「辛気臭い」と評価する方もおられますが、だからこそ19世紀の信仰的にまじめなドイツの読者を獲得し、スピリの作家への道を開きました。

 いわばフローニはクリスチャンのための文学です。時代や文化圏が違えば、行動も判断基準も違います。信仰・思想や世界観が違う作品を扱う場合は慎重でなければなりません。

 当然なのですが、(例として)古代の作品を現代の視点で読むと誤読にしかなりません。それに気がつかない批判は、意味がありませんが、それぞれの作品の価値は不変です。
 作品が批評されるのではなく、読んだ人間が逆に試されるのです。

 唯我独尊なら、どう読んでけなしてもかまわないのですが・・。そんな批評は無いほうがよいでしょう。

 そもそもハイジとその関連作品は、敷居の低さから、そして描いた自然の美しさと人の心の温かさで、すべての人の共感を呼び起こしてしまいます。
 そして、スルーすべきところなのに、つい気になって余計な口を出してしまう誘惑にかられます。その結果、不適切な批評が続出するという、興味深い構造があるのです。


 まあ、もういいでしょう。

 だれもが、最後をむかえます。目をそむけているだけです。残り時間を考えて行動するとき、そこにすばらしい瞬間があります。

 どうかすべての皆さんと、また別の場所で会いましょう。それまでがんばります。

 あと、最後のライフワークとして、これをやってます。 「千年のうち」

 メドウズさんと約束していたことがあるので、(先様はたぶん私のことを忘れてるでしょうが)宿題片付けてから旅立ちたいです。でも、間に合わないだろうなあ。

 よろしかったらどうぞ・・。

T.Sakurai 2016/2/8