「クララは歩かなくてはいけないの」について
「クララは歩かなくてはいけないの」は興味深い本です。
私も読んで、少々引用させてもらいました。
お恥ずかしい脱線を少々いたしますと私的評論「クララとノラとベルンハルト」で
「ロイス・キースは脊椎損傷で、自分自身が少女時代からクララとおなじような車椅子生活で、ハイジを読んで自分もいつか歩けるようになれるものだと素直に信じ込んでいました。成長した後、結局それが望みのないものだったと思い知らされて傷ついたと書いています。」
と書いているのですが、間違いです。m(_ _)m
この本は図書館で読んで(買えよ!と自分自身にツッコミ)、コピーを取らずに10ヶ月後にあの文章を書いたのですが、その間にすっかり思い違いをしてしまいました。
キースは子供のときに脊椎損傷の障害をおって車椅子を使うようになったのではなく、子供ができてから事故にあったのでした。
そして健康な子供の時に親しんでいた「名作」についての別の視点に気がついてこの本を書きました。
まったくもって申し訳ありません。(しばらく恥は恥としてさらして、それからいつのまにか、そーっと修正しときます(T△T;))
この本には、障害者サイドから見たの「名作」への批判、皮肉、怒り、否定があります。
物語自体の全否定であるにせよ、そうでないにせよ、不満の表明自体が貴重な意見です。
その矛先は主として障害者にとって身勝手な(と思える)一般的社会通念、とくにその背後にある「キリスト教義の基本思想と、責任と過ち、純真と邪悪に関する宗教的な考え方(p299)」に向けられているようです。
その指摘をたびたび繰り返し、明言はさけているものの、それが障害者への蔑視を生み、ささえ、その自立や、尊厳の確立を妨げているとしているようです。
キースの子供たちは、過去の健康な自分のように「名作」に親しんでいて、母親の自分もいまもそれらの作品が好きだ。
でも、自分が障害者となって、それだけではすまないことがわかってしまったのです。
名作の作家たちは、安易に治癒を扱って、たとえ悪意はなかったにせよ、治癒の可能性のない人々を怒らせているのです。
著者の提供する数々の視点は、かなり納得のいくものです。
そして普通に読んではわからない「名作」の別の姿、私たちの社会通念の裏に潜む事実を指摘し、そんなに深く追求しなければならなかった筆者の気持ちにかなりの部分に同感します。
しかしながら、別の点も指摘したいです。
本を書くことは、大変な作業です。それが単なる労働であれば、とてもできる仕事ではありません。
よほどの動機がなければ、こんなリスクの大きな仕事はありません。
筆者がこの評論を書いた動機は明白です。
「自分の大好きな作品たちが別の顔を持っていた。」
「それはけっして美しいものではなかった。」
「それをなんとかして表現したい」という、心の痛みです。
私が「キースは傷ついている」と思ったのはいまも変らない印象です。
いいかえれば、人間は自分の感じたことを書くしかないのであって、その書いたものがバランスがとれていなくても、「そのように見えてしまった」ということは、まったく致し方ないのです。
キースの取り上げた名作の見方についても、これは一個人の視点の提供であって、同じ問題をまったく別の視点でとりあげることは可能です。
障害者には障害者にしかわからないつらさ、痛み、社会の矛盾がありましょう。
しかしそれがすべてではけっしてなく、自分に感じ取れない別の見方・視点・動機があるのです。
障害者の持つ「痛み」を健常者がわからないように、障害者とて別の種類の「痛み」を感じることはできません。別の病気、別の立場の人の痛みがわかりません。
自分という人間に、他人の痛みがわからないことは当然です。自分は自分の事しか考えられないのです。
そして自分の知らない「痛み」が動機となって書かれた作品を、「自分の痛み」を動機とする視点で批判することは、危険きわまりないことです。
(もちろん私の文章も、私の内部に持っている「痛み」を動機として書いている部分がかなりあります。健康を損っているのはキース氏だけではないし、たとえ同じ障害を持っている人の間でも、同一の意見を持つ必要はありません。)
世の中の人々が自分を理解せず、認めてもいないように(と皆、内心では思って不満でいることでしょう)、自分自身も他の人々をどんなに誤解して理解していないかわかるわけがありません。
残念ですがこれが現実なのです。このに考えれば慎重さが必要です。(とはいっても、わたしおっちょこちょいでコマッテマス)
なにかひとつの物の見方を絶対化することはさけねばなりません。
論理的証明があってさえも、絶対的断定には慎重であるべきでしょう。
伝統的な枠組を作者はたびたび批判しますが、はたしてその批判が「名作」を書いた作者たちにとって意味があるのかも、問わねばなりません。
そして100年あとからの批判に耐えられる完全無欠の人間などはいないと考えるべきです。
過去の思想を現代から両断するのは実に簡単ですが、そんな行為は同じように未来から両断されます。
私の知識がごく限られたものであるように、キースの知識も限られていて誤解をふくんでいます。
「過去の罪に対する罰を信じることは、厳しいカルヴァン主義的キリスト教観の重要な要素だった。」とキースはハイジを説明する場所で書いていますが、東洋人の私からみれば、このような因果応報・輪廻転生的考えは仏教にこそふさわしい説明で、キリスト教の基本ドグマからいえば、「過去にあった思想の誤解」となります。
カルヴァンの思想を代表する「予定調和説」は因果応報を徹底的に否定し、敵対・攻撃している対極の思想です。
もし罪があるから罰があるとされたなら、それはカルヴァン思想の中核ではなく、その弟子や信徒などの誤解・無理解によるものです。
この信徒の中にはキース自身も入ることでしょう。
つまり、ハイジの原作をもとに、本質を理解していないつまらない駄作の映画なりアニメなりが作られて、その二次的駄作をみた人が「ハイジはすべてが駄作だ」と言うようなものです。
むしろ、そのような因果応報を否定しているキース自身の考え方が、実はカルバン的なキリスト教の考え方によるもので、西欧社会が地縁・血縁を克服して、市民社会をつくりあげた基盤です。逆なのです。
なぜこのような誤解があるかといえば推測になるのですが、カルヴァンの説はあまりにも厳格峻厳で、ちょっとやそっとの覚悟では受け入れることも理解をしめすこともできません。
日本人の普通日常感覚でいうと、「そんなバカな」という第一印象をうけますし、言葉で説明してもまず理解されることは不可能に近い考え方で、欧米でも、もともと人気がないのです。
興味ある人は調べてみてください。
もちろんカルバン的な徹底的信仰を持っている人は、強烈にカルヴァンを支持しました。同時にそうでない別の徹底的信仰(確信)を持っている人は、カルバンを徹底的に否定します。
不人気だが究極の倫理性を持っていたカルヴァン思想が、いつのまにか不人気であるがゆえに、非良識・非合理的な考えと結び付けられて、非難の対象にすりかわったのかもしれません。???
あるいは戦闘的プロテスタント的姿勢が攻撃対象だけをいれかえて残ってしまったのかも知れません。
(天皇制を守るためのカミカゼ攻撃が、共産主義の赤軍派に使われて、やがてイスラム過激派の常套手段になってしまうように、手法が継続されて守るべき中身がぐちゃぐちゃに入れ替わってしまうようにです)
自分がもっている「進歩的考え」が、実はもっとも伝統的なものに由来する。
それを知らずに、逆に生物としておこしがちな愚かさを、伝統的な倫理が原因である。と、すりかえるのは恐ろしいことです。
風邪のクスリをのんだから風邪をひいた。とか、病院があるから病気になった。と非難するわけにはいきません。
キリスト教文化の末裔のはずのキース自身が、あるいは現代西欧社会が、どれくらい自らの伝統をかんちがいしてしまっているか。忘れてしまっているのか。の興味深いサンプルになると思えます。
過去の迷信・不見識はもちろん正していかねばなりませんが、過去から続いている伝統は、必ずそれが存在できた理由があって、なにかの機能を果たしているのです。
ある不見識をとりのぞいたら、その不見識そのものがこれまで押さえ込んでいた「別のなにか」がもっとひどい被害をもたらすかもしれません。
進歩しようとするなら、進歩による弊害を受け止めて、副作用をすべて押さえ込む覚悟が必要なのです。
性急で裏づけのない進歩は、混乱への近道である可能性があります。
過去に障害者を一般社会から差別したのも、未知の感染症の拡大を防ぐ意味合いなどがあったでしょう。
経験による生活防衛のノウハウとして働いていたことは間違いありません。
それなりの役割があったのです。
(もちろん21世紀の先進国では無意味です。しかし発展途上国では今でも有効かもしれないのです。注意しなければなりません)
この本の原題は「Take Up Thy Bed and Walk」であり、これは新約聖書のイエス・キリストの言葉の一部です。
この本の内容からすると、この言葉が歴史的に作用して現代にまで続く思想的影響を批判していることになり、この本の本当のテーマは通俗思想としてのキリスト教が標的になっているようです。
しかし、その批判が誤訳・誤解による解釈であった場合はどうなるのでしょう。
批判的に題名に使う以上、もう少し配慮が欲しかったです。
同じように聖書の言葉を使わせてもらうなら「あなたはたいへんな思い違いをしている」ように私は思えます。
このことは「解説 荒井英子」にも、柔らかく書かれています。この解説はバランスがとれています。
現代において障害者や女性がもっとも保護されて、差別がなくなっているのは欧米先進国です。
(それでも不満は山のようにあるでしょうが・・比較すれば、かなりマシなほうです)
総合的にいって、もっとも高度な文明をもっているのが欧米社会であることは疑いようもないですが、長い間「文明とはキリスト教」そのものでした。
その常識を崩したのは日本の存在ですが、それでも日本は、欧米と完全に実力対等かそれ以上の地位にあるわけではありません。
日本は追いつき追い抜いたつもりでも、ふと気がつけばいつのまにか、遅れてしまうことがあります。
そして日本をのぞけば、先進国の文化の母体はキリスト教であり、その母体と相性が悪ければ科学も人道主義も発達できなかったはずなのです。
欧米の正体をつきつめるなら、どうしてもキリスト教思想を研究しなければなりません。
キースは正当な議論を展開したとはいいがたいところがあり、主張に浅い部分があるように私は思えました。
かなり手ひどい批判となりましたが、人間は意外に自分の所属している社会のことを知らないのです。
これは日本人のわたしたちも同様です。もっとも進歩した考え方であると、つい思ってしまう発想が、実は民族に伝統的に存在する一つの形式であるということは珍しくありません。
むしろ過去を知らずに、過去を否定する人ほど、伝統的な言動を「新しく自分の考えたすばらしい考え方だ」と思ってしまいます。
でも、新しいと思ったら、江戸時代や幕末にすでに同じ発想が当たり前に広まっていた。
などということがあるのです。
そしてさかのぼれば更に古くから存在していた。ということも・・あります。
ただ繰り返しになりますが、キースの主張は、興味深く、納得できる部分が数々あります。
その主張については、「クララは歩かなくてはいけないの」をお読みいただくとして、私として追加して指摘したいのはハイジにおける障害と治癒の関係です。
ハイジはもともと第一部で終わっていますからクララは治癒しないはずでした。
この点、治癒が最大の見せ場として最初から設計されていた、ケティやポリアンナや秘密の花園とは性格が違うと思います。
また医者の娘ですから、他の作家のように具体的な病気の実態について知らなかったと言い抜けることはできません。
知りながらあのように描いたということは、そのように描かなければならないという当時の社会の常識があったことを意味するでしょう。
そして読者にハイジほどには支持されず、消え去りかけているスピリの他の作品では登場人物の障害はほとんど治癒しません。
むしろハイジの次の長編で、治癒しない場合の最終回答を書いています。
それが妥当なものであるかどうかは、おそらくキースは若草物語のベスのところでとりあげたように
「感傷的なビクトリア朝時代・・、実際の病気のようでなく比較的きれいに・・、小説家にとってつごうのいい・・」
と言うかもしれませんが、私としては、スピリの意識はキースと比べても総合的に劣っていないと思っています。
もちろんスピリには問題はあります。
でも19世紀末と21世紀初頭の100年以上の時代の差と、さらに健常者スピリと障害者本人であるキースの意識の差を考えると、キースに比べて充分とはいえない部分がスピリの意識にあっても致命的なものではなく、かえって時代に先行していたものと思います。
(先行するのが必ずしもいいとは思ってはおりませんが・・)
つまり、ハイジにおけるキースの批判は作者であるスピリにむかうのではありません。
ハイジを名作のスタンダードとして残し、その他のスピリ作品を消してしまったのは読者ですから、責任は読者側にありそうです。
その他の名作についてもそうです。
なぜポリアンナが残ったのか、なぜケティが残ったのか。
それぞれの作者は、それ以外にも多くの作品を書きました。
それはキースの指摘する問題点こそが、読者に支持された(ウケてしまった!)から残されたという側面があるのです。
名作は、読者によって、読者の好むように変形・編集されて受け入れられてしまったといって過言ではありません。
完全な人間など、もともといません。そして障害者を理解しようと作家はするべきです。
また障害者も、健康な作家も、どちらもいろんなものが欠落した存在・つまり別の意味での障害者であることを「おもいやらねば」なりません。
障害者も健常者も、どっちも結局はおんなじ立場なのです。
欠けているものを多く持っている、貧しく、哀れで、無知で、不自由な存在です。
どんなに多くの物を持ち、裕福で、健康で、なんでもできる、なんでも知っていると思っても、それは錯覚にすぎず、最後は問題ではなくなります。
暴論覚悟で、私見をのべさせていただくなら、
「死ぬときはみんな不健康=障害者」であり、
「自分が無知であることと知ることが、唯一の本当の知識」
だと思います。
2004/09/19
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