最初のページに戻る


スピリと関連事項 年表

月日 できごと 補足
1617     ヒルツェルの教会の献堂(建設)  
1660     ヒルツェルにスピリやその母の学んだ小学校建設 1981に記念館となる  
1783     ヨハンナの父ヨハン・ヤーコプ・ホイサー誕生(通称ヤーコプ)1783-1859 チューリッヒ北岸の寒村の貧農に生まれる。外科医となる。  
1797     ヨハンナの母アンナ・マルガリータ・バルバラ・シュワイツァー誕生(通称メタ) ヒルツェルの牧師の娘 宗教詩人1797-1876 チューリッヒの牧師・詩人のザロモン・トーブラーと共に詩のクラブに参加。 ヤーコプとは、教会の隣の牧師館で知り合う 多くの讃美歌を残す。詩集「隠れたる女の歌」と、家族の歴史「家族史」を執筆。 コンラッド・フェルディナンド・マイヤーと親友。
またメタの父はラーヴェーター(牧師で著作家でゲーテと交流あり)が親友で、バルベラ・シュルトヘス(チューリッヒ工場主夫人・ゲーテの文通相手)とも交流があった。
1821     ヤーコプ・ホイサー(38歳)、メタ(24歳)と結婚 無医村ヒルツェルで開業 ヤーコプの熱心な求婚があったという
1822     ヤーコプ・ホイサー ドクトル・ハウスを建てる  
1822     長男テオドール(通称オスカール)誕生。1822-1893没 医師になりリヒタースウィルにて開業 詩人ゴッドフリート・ケラーと親交がある チューリッヒのギムナジウム(文科系中学校)通学時代に、先頭に立ってきょうだいたちと家庭劇をおこなう 野外劇で古典からシェークスピアまで行なった 妻はグラウピュンデン州エンガディン出身
1825     長女アンナ(通称ネッティ)誕生1825-1907 建築技師フリードリッヒ・サロモン・ウルリッヒと結婚  
1926     次男クリスチャン(通称フレッド)誕生 1826-1909 動物好きで自然科学(特に鉱物学)者となる 南アメリカに移住 兄と同じく詩人ゴッドフリート・ケラーと親交あり。「移民していく友への別れの詩」を送られる
         
1827 06/12 0 次女ヨハンナ・ルイーズ(通称ハニー) ヒルツェルで6人きょうだいの4番目に生まれる。髪は茶色、目は灰色。(しばしば生年が1829年とされる資料がある) 幼い頃から読書が好きだった。この頃からホイサー家と、チューリッヒのフリース家と親交がはじまり、同じ頃に生まれたアンナ・フリース(通称ネッティー 後に画家)とは、幼なじみで生涯の友となる。お互いに自宅を訪れる。
幼なじみアンナ・フリースの家の近くに歴史小説家コンラッド・フェルディナンド・マイヤーの家があり、その妹、ベッツィー・マイヤーとも親しく付き合う。
1829   2 三男ハインリッヒ死産  
1830   3 三女レグラ(通称エガ)誕生 1830-1919 生涯独身 母のメタを「女の宿命を負うて、心配にこと欠かなかった」(シャミッソーの詩句より)と評した
1833   6 ヒルツェルの小学校入学 1833-41 学校嫌い。算数苦手。先生が研修のために休むと喜んだという。
1836   9 四女メタ誕生 1836-1904 生涯独身 ヨハンナに人形のように可愛がられたという
1939   14 姉のアンナがチューリッヒの叔母の家へいき、勉強をする。  
?     しばらくクール市のフルーギ家にあずけられる フルーギ家の娘がメタ夫人の下で仕込まれたかわりとして。クールははグラウビュンデン州都
?     イランツでアンナ・ヘスリーと交流し、しばらく同じ女学校に通った イランツはグラウビュンデン州
1841   16 姉の後をおって、チューリッヒで語学と音楽の勉強をする。やはり叔母の家に居住1841-1843 母メタの希望で、なにかあっても娘たちが生活の糧をえられるよう学問を身に付けさせようとの配慮があった。(主にフランス語とピアノ)
1843   18 チューリッヒで堅信礼をうける(キリスト教の信仰を再確認し、大人の仲間入りをはたす儀式) 特に宗教的感動はなかったらしい
1844   19 ワートラント州ヌーシャンテ湖畔イヴェルドン(スイスのフランス・イタリア語圏)に数ヶ月滞在1844-1845 ドップレー家と親交をもち、その娘ヘンリェッテは後にチューリッヒに住む、生涯の交流をもつ。
1845   20 二人の妹たちに語学を教える。数回の夏休みをグラウビュンデン州フレール周辺(イェニンス・マイエンフェルト)ですごす1845-52 兄のギムナジウム時代からの友人、ヨハン・ベルンハルト・スピリが休暇のたびにヒルツェルを訪れ、自然と知り合っていた。チューリッヒ出身。5歳年上。後に弁護士となる。
1852 09/09 25 ヨハン・ベルンハルト・スピリと結婚する。夫婦はチューリッヒのシュターデルホーフェンの質素な借家に住む。新婚旅行はワイマール。 夫はスイス連邦新聞の編集長(1848-1860の間)でもあった。スピリは都会生活に中々馴染めなかった。 華やかな都会に住みながら、忙しい夫を待ち続ける淋しい生活を送る。 都会生活に馴染もうとする焦りから精神的に参ってしまい、鬱病にかかる。
1855 08/17 28 長男ベルンハルト・ディートヘルムを出産 息子は生まれつき体が弱かったが、音楽の才能に恵まれていた。息子のバイオリンに母がピアノをしばしば伴奏したという。ライプニッツ、ハイデルベルグなどに遊学。
1858   31 ブレーマーハウスを購入・引越。(ヒルシェングラーベン沿いの家)ヨハンナが少女時代に住んでいた家である。
夫ベルンハルト、チューリッヒ市官房長となる。
ゴッドフリート・ケラー,CFマイヤーらと親交を持つ。
夫は、チューリッヒに亡命していた大作曲家リヒャルト・ワーグナー1813-1883の音楽に魅せられ、ワーグナーを崇拝して献身的に援助。
道徳的な環境に育ったヨハンナは、女性との噂が多いワーグナーを快く思っていなかった。
1859   32 夫ベルンハルト、チューリッヒ市法律顧問となる。  
1868   41 夫ベルンハルト、チューリッヒ市書記となる。市書記夫人としてクラッツ地区の官舎に移る 夫の死の1884まで チューリッヒ湖畔の官舎はバラの園にかこまれていた。
1868   41 小説を書き始める。 息子が成長し、夫が多忙になったので、退屈な日々を送っていたスピリは、暇潰しに友人に手紙を書くようになる。
スピリの手紙を読んで小説家の才能を見出した、ブレーメンに住む両親の知り合いの牧師フィエートルに、戦争犠牲者のための義援金を集めるために小説を書くよう頼まれる
1871   44 『フローニーの墓の上の一葉』を J・Sという匿名で出版する。 不幸な幼友達の身の上話。スピリ作品でもっとも文学的に優れているとされる。
1872   45 デビュー作が大好評だったので第二作『父の家へ』を匿名で出版する。  
1873   46 『迷って、見いだされて』を匿名で出版する。  
1878   51 『故郷を失って』を匿名で出版する。 『子供と子供を愛する人達のための物語』の第一巻 初期の短編を除いて、ほとんどの著作はドイツのベルテス社より刊行された。
1879   52 『遠近から』と『消息は絶えたが忘れずに』を出版する。  
1880   53 『ハイジの修業時代と遍歴時代』(Heidi's Lehr und Wanderjahre)を書き上げ、匿名で出版。たちまち評判になり、スピリの元には続編が読みたいという読者の手紙が殺到する。 結核を患っていた息子の療養のため、マイエンフェルトの近くの温泉地バートラガーツに行く。イエニンス村に住んでいた女学校の同級生サリの家をたびたび訪問する。姪から子供向けの本を書いて欲しいと言われていたので、イエニンス村からマイエンフェルトへの小道を歩きながら物語の構想を練る。のちにこの道がシュピーリの小道と呼ばれる。
1881   54 『ハイジ』の下巻となる『ハイジは習ったことを使うことができる』(Heidi kann brauchen,was es gelernt hat)を本名で出版する。
息子ベルンハルトに続編は出版すべきではなかったと批判される。
1882   55 『短編集第一部』『日曜日』を出版する。  
1883   56 息子ベルンハルト、イタリアのピザで年末をすごす。  
1884 05/13 57 法律家でヴァイオリニスト志望の息子が結核のため死去29歳。 息子の死後、夫とマイエンフェルトの温泉地バートラガーツ(またはエンガディーン)に避暑に行く。
1884 12/19 57 夫が仕事の激務と、息子を亡くした心労から体調を崩し、肺炎のため死去62歳。  
1885   58 一時期、駅前通りに住む。  
1885   58 夫の思い出を綴った『ある弁護士の生涯』をバーゼル新聞に連載する。  
1885   58 「ハイジ」英訳されて出版 世界的なベストセラーとなる
1886   59 ツェルト通り9番地。エッシャーホイザルンに移る(チューリッヒベルグ近く) 終の棲家となる。 閑静な環境で、お手伝いのブレネリと暮らす。死去までたびたび旅にでかけ、長期休暇は北イタリアのケンファー湖畔。 元の官舎は工事のためとりこわされた。
1886   59 『短編集第二部』を出版する。  
1887   60 『彼女は何になるべきか(ドリ)』を出版する。  
1888   61 『アンツールとスキレル』を出版する。  
1889   62 『スイスの山々』と『彼女は何になったか(ドリ)』を出版する。  
1889   63 コルネリは教育される』と『誰でも人を助ける事ができないほど小さくはない』を出版する。  
1890   64 『ロイヒテンゼーデ』を出版する。    
1891   65 『ヴィルデンシュタイン城』を出版する。  
1894   67 『レザー家のひとり』を出版する。    
1898   71 看護婦学校の記念帳にゲーテのことばを書き留める  
1901   74 『シュタウファーミューレ(水車小屋)』出版。 最後の作品。  
1901 07/05 74 生涯の友人・画家アンナ・フリース死去 ヨハンナの25歳の肖像を描いた
1901 07/07 74 日曜の夕刻 ヨハンナ・スピリはチューリッヒ、ツェルトの自宅で死去、享年74歳。チューリッヒ中央墓地、シールフェルドAに埋葬される。両隣は夫と息子。 手記・手紙・原稿などは、死に先立って自ら焼却処分していた 自伝も書くように求められたが断っていたため、身近な情報の少ない作家となってしまった
         
1901     エミリー・スピリ死去 夫の姪で、ヨーロッパ最初の法律家
1910     スイスにて「スイスの女性」出版。ヨハンナの伝記が収録される  
1920 02/15   野上弥生子によりはじめて日本に「ハイヂ」が紹介される。 英語からの重訳
1920     アメリカの無声モノクロ映画「ハイジ」が公開される。  
1925 06/10   山本憲美「楓物語」出版。ハイジを日本語名にした特異な訳。 英語からの重訳
1937     アメリカ映画「Heidi」公開 シャーリー・テンプル主演。モノクロ88分 大ヒットとなるが、内容は大きく変更されている。初のトーキー(音声付)映画
1940     宝塚少女歌劇にてオペレッタ(軽歌劇)「アルプスの少女」上演  
1951     スイスにてスピリの肖像切手発行 没後50年記念
1952     スイスの白黒映画「ハイジ」(ルイジ・コメンチーニ監督)が公開される。  
1952 09/15   『ビルマの竪琴』作者・竹山道雄によりドイツ語より初全訳「ハイジ」出版  
1953 10/11   ハイジを慕う小学生の発案で全国から募金を集めてマイエンフェルトにハイジの泉が建てられる。 1951年に着手された ザンクト・ガレンのG・チューラー教授が実現に努力。
1955     スイス映画「ハイジとペーター」が公開される。  
1958     アメリカ映画「A Gift for Heidi」(ジョージ・テンプルトン監督)が公開される。  
1965     オーストリア・西ドイツ合作映画「ハイジ」(ウェルナー・ヤコブス監督)が公開される。  
1968 11/30   チューリッヒにヨハンナ・シュピーリ財団設立。シュピリ文書館とスイス青少年図書研究所を含んでいる。 フランツ・カスパー氏の収集品がもと。初版本・筆跡・写真・絵・各国翻訳版・幼児のころのままごと道具・ワーグナーから送られた茶器など多数を保存
1968     西ドイツ・アメリカ合作のTVドラマ「ハイジ」(デルバート・マン監督)が放映される。  
1974 01/06   日本のTVアニメ「アルプスの少女ハイジ」が放映される(〜12月29日)。  
1978     アメリカのTVドラマ「The New Adventures of Heidi」が放映される。  
1979     スイス・ドイツ合作 テレビドラマ「Heidi」放映。カラー26話・11時間  
1979 04/01 ? テレビアニメの編集版映画公開  
1981     1660に立てられたスピリの学んだ小学校が記念館となる 家族の写真、自筆原稿、初版本などを保存
1982     『シュピーリとハイジ』出版 チューラー教授著  
1982     アメリカのアニメ映画「Heidi's Song」(ロバート・テーラー監督)が公開される。  
1989     『ハイジ』を元にしたアメリカ映画「Courage Mauntainハイジの青春 アルプスを越えて」(クリストファー・リーチ監督)が公開される。  
1993     アメリカのTVドラマ「ハイジ」が放映される。  
2000     スイス・ドイツ合作映画「Heidi」公開される。 没後100年記念
2001 7月 チューリヒで国際会議「ヨハンナ・シュピーリとその作品」が開催された。 リンク
2005 05/21   三鷹の森ジブリ美術館にて「アルプスの少女ハイジ展〜その風土とくらし〜」 展開催 2005.5.21〜2006.5  
2006 5月 山梨県立フラワーセンターが「ハイジ村」としてオープン
7月イギリス映画「ハイジ」日本で公開。