「ハイジ」の世界と信仰

(2005.9.25たかはしたけお)


 

[はじめに()]

 原作「ハイジ」はキリスト教文学として書かれた。

 ただし、文学である性質上ほかの精神的背景も持っている。

 原作者のヨハンナ・シュピリはゲーテの傾倒者であり、ルソーの自然主義にも影響されている。今回は「ハイジ」をキリスト教信仰という面からのみ扱う。

 その意味では、文学としての全体像を文化的歴史的な面で詳細に扱っていない。

 しかし、こと原作「ハイジ」にとってキリスト教信仰という精神的背景は他のあらゆる文化的歴史的背景にまさって作品の骨格をなしているのは間違いない。(ハイジはキリスト教文学である。)

 

(1) 原作「ハイジ」の主なストーリー

 物語の舞台は、19世紀中頃のスイスとドイツのフランクフルト。

 生まれてすぐ両親を失ったハイジは、しばらく叔母に引き取られていたが、5歳の時、叔母の事情でアルプスの山の上で一人で暮らす祖父に引き取られて幸せに暮らしていた。

 そのハイジが8歳の時、欲深い叔母デーテの計略によって祖父から引き離されたハイジは、ドイツ最大の都市フランクフルトの富豪ゼーゼマン家に連れていかれ、その家のひとり娘で足の悪い少女クララの遊び相手をすることになる。

 

 しかし都会の生活になじめないハイジは、しだいに心の病気になり、アルプスの山に帰されることになった。フランクフルトでクララのおばあさまから信仰を学んだハイジがアルプスに帰ることによっておじいさんに変化が起こる。

 神と人を憎んで一人で暮らしていたおじいさんが神の愛に触れ、回心する。(以上第1)

 

 一方、ハイジが忘れられないクララは、念願だった夏の休暇をハイジとおじいさんの住むアルプスの山で過ごすことになった。

 ところが、そこでクララも彼女の家族も考えていなかった出来事が起こる。歩くことのできなかったクララが、おじさんやハイジの協力により歩けるようになったのである。(以上第2)

 

 原作者ヨハンナ・シュピリは、19世紀初めにチューリッヒの近郊で生まれた。

 シュピリは四十代から作品を書き始めているが、彼女の名を世に知らしめたのは「ハイジ」(1)1880年、および翌年に出版された「同」第2部であった。

 第2部は、第1部を読んだ読者の反響の大きさにうながされたシュピリが続編として書いたものである。

 現在は全体を「ハイジ」として一巻で出版されている。

 

 

(2)原作「ハイジ」の聖書的背景

 a. 原作「ハイジ」における創造信仰と救済信仰の融合

 原作「ハイジ」は、児童文学としては、かなり宗教色の強い作品であった。

 

 19世紀のヨーロッパ世界はしだいにキリスト教のカが衰え、ヒューマニズムが台頭した時代であったので、当時の批評家たちからは宗教色が強いと批判されたが、一般読者からは圧倒的な支持を得た。

 

 原作「ハイジ」のキリスト教文学としての特徴の一つは、創造信仰と救済信仰のきわめて自然な融合にある。

 (参照「お日さまの歌」…ハイジがペーターのおばあさんに読んであげる詩。他の訳)

(この詩は、自然をたたえ、その中に幸せと救いを感じる詩だが、日本人の感性とは違うものがある。

 日本では時に自然がそのまま「尊い」ものとして崇拝の対象となるが、この詩では「私の目は、神の作られた世界を見る」であり、それは「はかない大地」であり、「すべてのものは過ぎ去る」ものである。本当に望む世界は、別にあるのである。

 この詩は、創造を信じることで救済にいたるというキリスト教思想の統合がなされている。)

 

 b. 原作「ハイジ」の聖書的背景「王、預言者、祭司」

 旧約聖書は「王、預言者、祭司」という人物を通して、やがて現れる救い主の姿を描こうとしている。

 

 c. 「ハイジ」と旧約のヨセフ物語「王」

 子どもがある事情で家族から引き離され、苦労しながら成長するというストーリー自体はきわめて古くから知られるものである。

 

 聖書の中では創世記のヨセフ物語がその形を顕著に持っている。

 すなわち「ハイジ」の物語は、旧約聖書のヨセフ物語とよく似ている。

 

 両者の共通点:家族から引き離され、大都会へ連れて行かれ、苦しみを与えられ、しかし後に豊かに祝福され、さらに主人公に与えられた祝福が彼だけにとどまることなく、多くの人にわかち与えられる。

 かつての人気テレビドラマ「おしん」も共通のストーリーを持っている。

 

 「王」としてのハイジとヨセフ:

 ハイジもヨセフも、神からの救い主の人格とその主な出来事を証しする役割をもっており、旧約聖書においては「王」の役割である。

 「王」は罪()の問題を乗り越え、神の祝福(救い)を人々に与える存在である。

 人々の上にたって一方的な統治をするだけではなく、聖書の世界では神に選ばれて役割を与えられて、神と人を結びつける役割を持つ。

 ヨセフとダビデは、イエスの救いを証明する「王」。その役割がハイジにも与えられている。

 人間の解決不能な罪を乗り越え、神の祝福を人々に与える職務を背負っている。

 

 旧約聖書 創世記4545を参照。

 イスラエルの族長ヤコブには12人の子供がいたが、もっとも愛する女性から生まれた末の二人の子供を溺愛した。

 ヨセフは下から2番目の子で、10人の兄達の嫉妬によって殺されそうになりエジプトに単身逃れる。多くの苦難のあと、ヨセフはファラオにつかえ、やがて豊かな国であるエジプトの宰相(実質の王)にまでなる。

 そのころイスラエルでは深刻な飢饉がおこり、10人の兄達はエジプトのファラオに助けを求めてやってきて宰相のヨセフと再会することになる。

 歳月がながれて弟のヨセフとわからなかった兄達へ、ヨセフは自分と同じ母からうまれた末子のベニヤミンを引き渡すように要求する。

 だが父ヤコブがもっとも愛していた二人の子供をすべて失わせて、悲しませるわけにいかないと兄たちが懇願するのを見て、ヨセフは正体をあかし兄弟は和解する。

 そしてヨセフはイスラエルの民を救い、やがてこの12人はイスラエル12部族の祖となっていく。(苦難の中の恵みをあらわしている)

 

 

 d. クララのおばあさま「預言者」

 預言者は、神の言葉を人々に与え、それによって人間が本来の生き方に立ち返るようになるために働く。

 

 クララのおばあさまは、文字の読めないハイジに文字を教えただけでなく、聖書に記された神への信仰と祈りを教えた。

 フランクフルトでの苦難に耐えるハイジの導き手である。

 

 そして文字を覚えたことと、心に信仰と祈りを持つことによって、やがてハイジが大きな役割を果たせる力を与えることになった。

 

 e. ハイジのおじいさんと旧約のモーセ「祭司」

 自分の罪に苦しんでいたハイジのおじいさんは、帰ってきたハイジを通して神を救い主として受け入れた。しかし、それで終わりではなかった。

 

 神に立ち帰ったおじいさんは、自分のもとにやって来たクララを助けることを通して、旧約聖書に記された「祭司」(神に仕え、また人にも仕える)の役割を担った。ハイジ第二部の隠れた主題である。

 

 おじいさんが「祭司」の役割を担うようになるためには、自分自身が神に助けられ赦される必要がある。このおじいさんの姿は、基本的に旧約聖書のモーセを反映している。

 

 ハイジのおじいさんは聖人のような人物ではない。(罪多い無力な人間。)

 自分の中の罪の問題が解決されなければ「祭司」の役割を担うことはできなかった。神の救いを信じたおじいさんは大きく変わった。

 

 人間嫌いだったおじいさんはクララをあたたかく迎え、病気のクララに仕えることを通して、今度はクララに新しい人生を与える役割をする。(おじいさんは有能な人間に変化することで自らをも救っている)

 

 

 

(3)原作「ハイジ」とアニメ「ハイジ」

 1974年にテレビ放映されたアニメ「ハイジ」(高畑勲演出)は、日本にハイジブームを起こし、さらにその波は世界中に及び、現在に至っている。

 

 「ハイジ」を扱った映像作品は実写とアニメを含め数々作られたが、このアニメ「ハイジ」のように成功した「ハイジ」の映像作品は存在しない。

 

 21世紀の現在において、上記アニメ「ハイジ」が世界に及ぼした影響を抜きにしての「ハイジ」研究はあり得ない。

 

 a. アニメ「ハイジ」の鍵を握るヤギ飼いのペーター

 アニメ「ハイジ」の特徴を最もよく示すのがヤギ飼いのペーターである。

 

 ペーターは、原作では、ただ粗野な野生児であるが、アニメ版のペーターでは性格が大きく変えられている。

 

 ぺ一ターは、ハイジを助けるお兄さん役としてたくましい男の子であり、ハイジと共に多くの困難を乗り越えていく。

 

(例:大きくならないヤギのユキが殺されそうになると、ハイジとともにユキを助けようとする。足の悪いクララを山の上のお花畑に連れていくために、クララをおぶって山を登る。そしてこの二つのエピソードは最終的に一つにつながっていく。)

 

 アニメ「ハイジ」には、原作にないオリジナル・エピソードが多くあるが、そのかなりの部分でペーターは重要な役割を担っている。

(オリジナルエピソードの多くにはアニメ独自のペーターが関わっている)

 

 b. アニメ「ハイジ」の教育論

 「ハイジ」では、ペーターの性格を変えることによって、子どもは大人によって成長させられるだけでなく、子どもどおしで協力し合い、成長するという教育論を前面に出している。

 

(前半部のハイジとペーター、中間部のハイジとクララ、後半部のハイジ、ペーター、クララの関係)

 

 これは原作の中にすでに見られるものであるが、アニメ「ハイジ」では、この子どもどうしで成長していくという教育論を大きくクローズアップさせている。

 

 このメッセージが視聴者の心を捕らえた決定打の一つとなったばかりでなく、この普遍的なテーマを持つゆえに、以降30年にわたって子どもと親の双方に多大な影響を与える作品となった。

 (典型例としてアニメ「ハイジ」第45話「山の子たち」を参照。)

 

 c. アニメ「ハイジ」の人間観

 原作「ハイジ」は児童文学として書かれており、読者である当時の子どもに分かりやすいように、登場人物の性格付けがはっきりと色分けされている。

 

 ハイジの叔母のデーテやフランクフルトのロッテンマイヤーは言わば悪役である。

 

 それに対して例えばクララは、足の病気のゆえに悩みを持つものの、天使のように清らかな存在として描かれている。

 

 ところがアニメ「ハイジ」のクララは、そうした単純な人間観で描かれていない。その心に深い闇を持っている。歩けるようになりたいと望む光、希望の部分と、結局は歩けはしないのだという闇、絶望の部分の双方を持つ複雑な人間として描かれている。

 

 こうしたリアリズムの表現方法は文学のものである。

 登場人物の性格を色分けするのは、本来子ども向けのアニメの表現方法であるが、アニメ「ハイジ」では、人の心の二面性という、昔は大人しか理解しないと思われていた人間描写のリアリズムをアニメ作品に持ち込んで、しかも成功している。

 

 ただしアニメ「ハイジ」では、人間が心の二面性を持っていることを認めながらも、その中で葛藤し、そして最終的には闇ではなく光が勝利する。

 

 これはアニメ「ハイジ」の中ではクララに最もハッキリと現れるメッセージであるが、原作「ハイジ」では、フランクフルトで悩むハイジの中に現れていたものであった。

 

 アニメ「ハイジ」は、こうしたリアリズムの人間観を実に巧みに、ハイジとクララの二人に分け与えて、二人の少女の関連性の中でこのテーマをクローズアップさせている。この意味で、アニメ「ハイジ」においては、ハイジはクララであり、クララはハイジなのである。

(アニメでは二人のお互いの必要性と結びつきの深さを強めている)

 

 

 [結びとして]

 原作とアニメの双方が私たちの「ハイジ」:

 

 日本製アニメ「ハイジ」の成功により、以降日本で30年以上にわって「ブーム」が継続しているにも関わらず(いまだ再放送がなされ、関連グッズが売れ続けている)、「ハイジ」の本格的な研究は、いまだなされていない。

 

 それは天才モーツアルトの没後数十年間モーツアルトの音楽は愛されながらも、本格的な研究がなされなかったのと似ている。

(モーツアルトの死後数十年にわたってモーツアルトは古いとか子供じみていると評価され、研究はベートーベンやブラームス、ワーグナーが中心におこなわれて、現在の音楽論でモーツアルトが占めているような認識はされなかった。価値の再発見が必要であった。)

 

 現代において原作を好む人々は、アニメ「ハイジ」を無視しがちであり、一方アニメ「ハイジ」ファンは原作をほとんど読もうとしない。

 それぞれが自分だけの「ハイジ」で満足している。

 もっと大きな「ハイジ」の世界を彼らは知らず、関心も持っていない。

 このような文化の鎖国状態(個人化)が「ハイジ」研究というさらなる文化を生まない大きな要因となっている。

 

 「ハイジ」は、混迷する21世紀に光を与える作品であると私は確信する。

 原作とアニメの双方の「ハイジ」を理解しようとするとき、私たちは19世紀ヨーロッパと21世紀の日本の双方の世界観、精神性を、「ハイジ」という一つの文化の中で体験することになる。

 二つの「ハイジ」が対話し合うとき、そこに新しい文化や精神性が生まれてくる。

 現在の私たちの前に解決不能のように立ちはだかる環境問題や、人間性崩壊を元とする人間の心の問題にも、「ハイジ」はそれらに解決の糸口を与え得る未来志向の文化なのである。

 



著者 高橋竹夫  日本キリスト合同教会 江戸川台教会 牧師  リンク

この「ハイジの世界と信仰」論は、2005/8/29に軽井沢
教会キャンプと、9/25に千葉県流山市の江戸川台教会で行なわれた「ハイジセミナー」のレジュメ・原稿をベースにして、一部補足したものです。

編集・校正責tshp


   お日さまの歌
 

喜びに満ちる金色の陽の光は、
その輝きに乏しい私たちに
よみがえりの光を注ぐ。
地にむかってうなだれていた
わたしの面(おもて)も、私の体も、
いま立ち上がる。

私の目は、神の造られた世界を見る。
それは神の栄光と力が
はてしないことを教える。
それはまた、神を敬う人が平安のうちに、
このはかない大地から去っていく、
その行く手を教えている。

すべてのものは過ぎ去る。
しかし、神のみ ゆるぎなくおられる。
その思いと、その言葉は、
永遠を礎(いしずえ)とする。

神の救いと、み恵みは、
正しく誤ることがない。
私たちの心の痛みをいやし、
私たちをこの世においても、
また永遠においても支えたもう。

十字架も苦しみも、
もはや終わろうとしている。
沸き立つ波は静まり、
ざわめく風もなぎとなり、
希望の光は照り輝く。

喜びと、きよらかな静けさ。
これこそ天の園にあって
私が待ち望むもの。
私はそこに思いこがれる。

 高橋竹夫訳 ハイジ第1部14章「日曜日の鐘」より


感謝と経緯

 2005/9/25の日曜日、千葉県流山市の閑静な住宅街にある教会におじゃましました。
 以前より数回メールのやりとりをしていた高橋竹夫牧師が、詳しく研究されているハイジの考察セミナーを開かれるというので、おまねきいただきました。
 たいへん楽しいひと時を過ごさせていただきました。
 また教会の人々と良き出会いがえられて感謝です。

 午前中の日曜礼拝が終わってから、教会員のお一人が作って数件のお店に納品している、天然酵母を使用した「ハイジの白パン」のサンドイッチに、ミルクとコーンのスープのお昼をごちそうになりました。
 パンは小ぶりですが、しっかりとした食感で、スカスカした普通のパンとはぜんぜん違います。とてもおいしかったですv(*^0^*)。そのお店に白パンを買いに行きたい!
 その後ハイジセミナーが始まりました。

 参加者は二十名ほどで、内容は上記のように、大変すばらしいものです。原作とアニメ両方のハイジの解説をされ、いくつも「なるほど」と共感した点や、新しく教えていただいた視点に胸のたかなりを感じます。

 また原作ハイジのハイライトを少しずつ参加者の皆様が読んでいく企画もあり、感動して涙ぐむ方がいるほどに原作の良さが心にせまってきます。

 高橋牧師が竹山訳を定本として独自に訳した「お日様」の詩は読みやすく、意味が理解しやすい注目すべきものだと思いますので掲載させていただきました。

 私は手持ちの資料をいくつか持ち込みました。
 セル画や背景や動画の本物。ドイツでの高畑ハイジの絵本や戦前の野上訳、戦後すぐの水島あやめ訳などです。
 セミナーの途中で、資料の解説を高橋牧師から求められて、しどろもどろで説明しましたがアセりました。人前で話すのは苦手なのです。

 水島あやめについては、当時の受け入れられ方の具体的イメージがつかめなかったのですが、参加者のお一人からいろいろ教えていただきました。

 やはり若年層に人気のあった作家の一人で、そのころの女の子は、いわゆる「少女小説」を親の目をかいくぐって熱心に読んでいたそうです(^ ^;) 親に買ってもらえない!


 高橋牧師からセミナーの内容をサイトに掲載することも快諾していただき、本当にお世話になります。ありがとうございました。

tshp 2005/9/28