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「日本教の社会学」山本七平・小室直樹 共著

第三章 宗教へのコメント

最狭義と最広義の宗教 / 日本教的宗教観
                                         より


 宗教について(コメント)


 これまた巨大な問題提起です。
 巨大すぎて、どんな人間でも最終の答えがだせるわけないないでしょうね?!
 ですから、多くの皆様はかえって気楽な気持ちになって、「自分の意見」は暫定的・個人的印象と思うことにして、とことんリラックスすればいいと思うのです。

 すべての宗教を熟知して、その性質・構造を理解して論じられる人は、そうそう何人もいないはずですし、全人類に一人もいないかもしれません。
 特に日本人の宗教性について言及できるのは日本人のみの可能性があります。

 はじめから答えがないとわりきって、謙虚な気持ちで、今一度、この本の主張に耳をかたむけ、検討してみたいです。

 


 抜粋と整理

日本の社会とは
(1)欧米とは別の社会である
→戦前・戦後とも、欧米の概念であるDemocracyFreedommilitarismではとらえられない社会。
→あまりに意味や機能の仕方がちがっている。
→別の歴史と別の思想をもつ、別の社会である。(言われてみればまったく当然。)
→お互いにまったく接触することなく、ユーラシア大陸の両端で独自に発達した。

(2)日本教の社会である
→日本は日本教がある社会である→日本教とは山本七平が提唱した概念。
→日本教以外に日本に宗教はない??
→一見、多くの反論が来る奇妙な意見に見える。その真意とは何か?

 

宗教(religionレリジョン)とはなにか。

・語源→ラテン語でレリジオで不安・畏怖・敬虔・勤行・拘束力・神聖性といった意味
・原意→あるものを継続的に読み返す(という行為)
 →つまり勤行(仏壇の前にすわって、一心不乱・無我夢中で念仏・お経をとなえ、修行・修養をかさね、後生・成仏をはかること)たえず教義のようなものを再読する。

最広義の宗教の意味
→「何か教義のようなものを敬虔に拘束的に勤行的に継続して再読・最認識する。そして,その書かれてる対象と自分との間柄を考える行為が行われたら,非常に広くいえば全部レリジオ」(山本七平)
おそらく人間の歴史が始まってから不安・畏怖(いふ)からするこのような「再読」は常にあった
宗教をこの種の「再読」と考えれば,宗教のない世界はない
 →無神論者や、本人が無宗教と自覚し宗教を否定しても
                         →宗教をもっている
ことになる
 →すべての日本人にはレリジョン「宗教」がある。
  
(思考して行動可能な人類なら、宗教をもたない人はいない…ことになる)


(普通の辞書の宗教の解説
 →広辞苑より…神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの連関的体系。帰依者は精神的共同体社会(教団)を営む。(以下略)
 →英英辞書より…
神または神の存在に対する信頼。全宇宙をつくったこと、そして、人に精神世界を与え、自己の死の後も存在し続けることへの確信を担保する。

(最広義の宗教の定義とは、あくまでも社会学的で事実を観察して定義するものである。)

 

自己精神規範の確認行為を、なぜ「宗教」と訳したのか。

「宗教」という日本語は元来ない。明治に作られたもの。

 

Religionの言葉はヨーロッパでどう使われていたか。

この言葉がいまのような意味で用いられるようになったのは十七世紀ころ(ICUの梅津順一)

いまの意味と同じではない。

→当時レリジョンと対立する言葉はイクリージアスティカ=教会の儀式

 レリジョンは内面における神との対決を表す。(個人的なもの)

転じて

→イクリージアスティカ→カトリックを意味し

→レリジョン→プロテタントのことを意味したらしい →狭義の宗教

 

プロテスタント

 →もう一回聖書を読み直そう,敬虔に拘束的に勤行的に再読しよう

  (という運動が起源) レリジョンの定義そのまま。

カトリック

 →必ずしも聖書を読まなくてもいい。神父の説教を聞くだけでよい。

 

イクリージアスティカの語源

→はじめはイクレーシアからきた言葉 →もとの意味は「民会」

 ローマの植民地の統治形態

 →社会最上層・ローマの植民者(コロン)→各市の元老院(セナートス)を形成。

 →社会第2層 その下にあるギリシア系の市民→一種の自治的な合議体(民会→イクレーシア)

 (この民会が,ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)との関連で教会に転化した。)

 (加入して一員になることができる。組織的なもの。加入可能な組織であることが第一意味。)

 教会とは元来そういう意味

 (イクレーシアスース→教会・民会にいて講義する→プリーチャー(司祭・牧師)の意味にもなる。集会において話をする人間の意味でコーヘレイトというヘブライ語の翻訳語にも使用。)

 近世の初めにおいて→イクリージアスティカといえばカトリックのことになった

 

レリジョンという言葉の定義

・最広義→いわゆる「宗教」だけではなく,イデオロギーから生きざまから自分を律する思想のすべてを意味する。

   儒教,仏教,道教,キリスト教,ユダヤ教,それから未開人が何かを拝んでいるという場合の

   アニミズム……そしてマルキシズムも日本教もレリジョン

・最狭義→プロテスタントのことになる。(組織に属するカトリックではない)

 

*レリジョンの言葉には、「組織」の意味がない!

 

ウェーバーの「宗教の定義」

マックス・ウェーバー→ドイツの社会学者・思想家  Max Weber  (18641920)

宗教・経済社会など幅広く横断して論じ、現代の「世界の把握」観に大きな影響を与えた。

(マックス・ウェーバーの宗教の定義は,レーベンス・ヒュールンク,つまり生きざま,行いの仕方,行動様式──もっとも単なる外面的な行動様式だけではなくて,外面的な行動様式を内面から支えるような心的条件を含めた行動様式(エトスですけど──彼の場合は「エトス」という言葉と「宗教」という言葉をほぼ同じ意味に使っているわけです。)小室直樹

 

各宗教の中で印象的なもの

 →ユダヤ教を元祖とするキリスト教,イスラム教など,絶対的一神との契約宗教

(日本人には極めて理解しにくい。一神教は非常に独特のもの。)

(しかし、その普及の仕方から宗教の典型ともいえる。)

 →日本教との比較、対立軸の思考研究に最適と言える。

 

人格的絶対神との契約

なぜ神との契約という発想が出てきたか?→さまざまな説がある。

(一説)・国際条約が原型である。→オリエント宗主権条約の宗教化。
 強大国(ヒッタイト・紀元前1300年頃の中東の大国)の皇帝と、その下に屈服した各地各民族の王たちとの間に上下契約である宗主権条約を結んだ。

 この形式がほぼ旧約聖書『申命記』の神との契約と同じ形式になっている。

 →皇帝の自己紹介がある。→私はおまえたちの皇帝のなになにである。

 →過去における歴史的経過,自分が与えた恩恵の羅列。→(自分の偉大さの証明)

 →条約本文

 →内容証人としての神の名を列挙

 →祝福と呪い →(条約を順守した場合の祝福(利点)と、違反した場合の呪い(懲罰) )

 聖書(一神教共通の聖典・基準点)唯一絶対神との契約がほぼこれと同じ形式

(確かにこの場合、皇帝は人格をもって、

約束を結ぶ相手として目の前に存在し。

罰もホウビも現実に与えられる)

 

(この場合、内容は一方的。
・押し付けの上下契約であるから、相手国は受け入れて屈服するか、拒否して戦争するしかない。(交渉できない)

→条約締結後は、その下にある国どうしは、この条約を超えて何かをお互いにすることは禁止。

→やったら反乱として攻められる 
→しかしあくまでも一説であり、これが個人の心の中の行動様式(エトス)に変化した理由は不明。

→つまり、これは確実な説ではない
→なぜ、各種の宗教。または社会システムができあがったかの、説明は、極めて困難。発生時点を研究できないから。

(ここで発生論的アプローチはストップ。思考停止にならざるをえない

  →問題先送り)(^ ^;)

 

・ちなみに…新約聖書はNew Testament 、旧約聖書はOld Testamentと呼ばれる。(のも興味深い)

 このtestamentは遺言書の意味を持つ。(法律用語としては特に財産処分に関する指示をさす。)
 →遺言書では指示されるものが、遺言書の内容を変更することができない点で、神との上下契約と極めてよく似た性質をもっている。(そりゃあ死んだ親の遺言を子供が勝手に変更できんわな・・。しかし聖書が遺言書とは・・。)


 

(別アプローチ)現実としての神との契約とは

 

唯一の絶対的人格神との契約がある。とは?(どういうことか)

・最高神が絶対

人格的一神であること

・人格的絶対神との契約が宗教の内容をなすこと

(この三点は、相互補完的な論理要素であり、三要素がそろってはじめて機能する)
・絶対であることは、なんでもできる実力がある

・人格をもって対話できる相手ということは、確実に存在している(生きて目の前にいる)

・なんでもできて、実際にいる、たった一人の相手との約束→だから効力がある

(想像の産物ではない。想像した架空の人間に、「ちょっとカネ貸して」といってもムリなのと同じ。またカネを貸してくれそうな人間が一人しかいなかったら、そいつにお願いするしかない。もちろん死んでるヤツに何か言ってもムダ。相手は生きていないとダメなのだ)

…だから、唯一絶対神宗教では、神は一つではない
 力のない偶像(ウソ)の(自称の)神々はいくらでもいると想定していて、それらを前提として否定した上でのたった一つの(ホントの)相手であるとして選択するのである。

 (唯一ホントにカネもって生きてる相手がこいつだー! )(下品で申し訳ない)(^ ^;;;;)

→十戒のひとつ・「他の何者も神とすべからず」(別の自称の神がいることを明確に自覚)

 

契約という考え方がなければ,最高神は絶対的一神にならない。

逆に,絶対的一神がなければ,契約が即宗教の内容にはなれない(小室直樹)

 

契約を守るということが救済のための必要かつ十分な条件

条件が特定されていればこそ神は人間を救済することが可能になる

他の何者にもよらず人間を救済することができる神こそが絶対神

→どうしても契約という考え方が必要

 

反例→仏教における釈迦と人間との関係

→釈迦はどうしても絶対的人格神にはなり切れない

→契約という考え方がないため。(事前の条件提示)
→釈迦は,救済(悟りを開き、輪廻転生の世界を離脱する)のための条件を特定できない

→人間がいかに戒律を守り,釈迦にどれほど忠実であってもその行為によって悟りはひらけない。
→お経は、悟りを開くためのノウハウであり、実際にできるかどうかは別。
 (極論はあってもなくてもよい。お経なしで悟りを開くのが最善なのである。←→聖書がない一神教は考えられない)

→仏は仏の力・能力によって、人間に悟りを開かせる能力がない。

→この意味で釈迦は,とうてい絶対的人格神にはなりきれない

仏教→聖書=正典=契約はない。あれば仏教ではないし、ないのが仏教。

儒教→契約という発想がない。絶対的一神にならない。

   →「法」はあるが、できるだけ簡素にして、皇帝が「徳・仁」で「諸星が北辰をめぐるがごとく」統治するのが理想。

仏教や,儒教は同じ宗教でも,ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の三つとは根本的に違う

 

聖書の意味

・契約を定義する「正典」。すなわち「法律」
・契約を守れば「救済」される → 違反したかどうかは、一目瞭然。

(救済とは・・ →仏教の場合には悟りを開くこと。)

         →儒教の場合には,よい政治をすること。)

 

…明治以前には「宗教」「仏教」「儒教」という言葉はなかった。 儒教→儒学 仏教→仏法 と呼ばれていた。

 

一神教に分類するための指標

・絶対的人格神との契約があるかどうか

・体系的組織的発想があるかどうか (契約の有無とも密接に関係する)

 

上記二点が違う仏教・儒教、さらに日本教を含めて、非常に性格や構造がちがう「宗教」をすべて意味する言葉を定義するとマックス・ウェーバーの定義を使用せざるをえない。

→「これらを全部包括した宗教概念を出すとなると,ウェーバー式によほど一般化して,宗教とは,特定の行動様式(エトス)であると定義しないと,理論的生産性があがらない。が,そうすると,イデオロギー,生きざま,などもみんな宗教のなかに入ってしまうわけです。」小室直樹

 

 ここでももう、宗教という言葉を使わない

             religionで統一した方がいいですね。(^ ^;)

 


 

日本教の場合

 

宗教は死後の世界を保障するものという認識 → 善人は天国へ、悪人は地獄へ
(
しかし・・・…実は、他の宗教は死後の世界を規定しない)

→ユダヤ教 …生きてる人間を罰する。救済は生きている間の救済。

→キリスト教…契約を守れば「最後の審判」のときに救済される。(それまでは執行猶予扱い)
  →→「最後の審判」で終末における、絶対の義の確立が保障されている

  →→地獄におちても、それで終わりではない(まだ生きている!)。 最終判決がある。

→儒教   …政治的な宗教で、政治を離れて救済はあり得ない。死後は扱わない。

→仏教   …輪廻転生の世界であり、死んで生まれかわり、前世の罪を後世で償う

 

日本教の救済

・自然のままであることが良いこと。→不自然ではいけない。

 →自分の心の中の規範まで自然的秩序(ナチュラル・オーダー)でなければならない

・キリスト教は「不自然(反天然)」なのが当然

 →契約でがんじがらめ

 →つまり人間は天然のままにしておけばGodにそむく

 →それを制御するため契約を結んで、契約を守られなければ人間を滅ぼそうとする。
   (聖書の内容は、いかに人間がGodにそむいて滅びていったか。の判例集でもある)

 →自然に価値はなく、Godが自分本位に作為的にきめた不自然きわまりない契約にのみ価値がある。
 (ほったらかしの自然ではいけない)

 

日本教とキリスト教と自然法

・日本→自然の中にこそ救済が組み込まれている。
 →自然=あるべき姿→あるべき姿で生きることが、もっとも高い価値を持つ 

 自然>本質 (自然は本質の母体)
「石田梅岩(ばいがん)がそうで,生命あるものは全部,自然の秩序を践(ふ)んでいる。だから「鳥類,獣類,形を践む。されど小人はしからず」なんです。小人というのは鳥類,獣類以下になる。それをどうすれば鳥類,獣類のように形に従って自然を践んで,いけるようにしてくれるかを説くのが聖人だ──といういい方なんですね。」山本七平

 

・キリスト教→自然は本質である。同時に自然の中にFreedomが含まれている。

 →二つの本質であるから自然に価値がある (日本と逆転構造)

 本質>自然 (本質によって自然が形成されている)

 

 この逆転構造によって、日本ではすべての宗教をとりこんで、変形させてしまえる

 キリスト教→日本教キリスト派、儒教→日本教儒教派,仏教→日本教仏教派、

 マルキシズムや,西欧民主主義(ウェスターン・デモクラシー)も取り込んで消化・変質可能。 

  (とりこまれたreligionは、外見は残るが本質は失う→すべて日本教となる)

 

 日本教のキーポイント→「自然」の解釈にある


日本が外部宗教をとりいれるための入り口

・すべての思想は「薬」である。→みんな役に立つところがある。

 →薬局には多くの薬があって、必要に応じて自分に適した薬を使えばいい。

 →一つの薬を使いすぎれば「毒」になるから、かたよってはいけない。

 →バランスよく、すべてを適切に配合して使用する。

 →その結果、一番「自然」な状態になって、健康にのびのび暮らすのが最善。

なんでもかんでも飲み込んでしまえる。 (選ぶのに薬の種類は多いほうが良い)
ボカーン…だけど、言われてみればそのとーりにやってるわな。

 

・飛鳥時代の仏教の導入→聖徳太子が、先進国中国にみならった。

・平安時代の法華経を最高経典とする思想→国家方針で取り入れて、政府の努力で、延暦寺を開山。

・戦国時代のキリシタンや徳川時代の朱子学導入→統治思想として有効に思えたため権力者が率先して導入

・明治維新や戦後のキリスト教ブーム→文明国として欧米先進国に追いつくために必要

・戦後のマルクシズム→共産圏拡大のブームに飛び乗る

…これやらないと一人前になれないから、取り入れよう! (時代遅れや取り残されるのはイヤだ)

 

 いずれも「思想を吟味」して「回心」し、

           それまでを「棄教」して「改宗」したわけではない。

(連続性があって、昔の思想も保存して、表面的に寛容であって、すべてが並存。これらはすべて「長所」として評価可能。 でも…)

 


 結び

 

 …日本人が葬式は仏教で、結婚や七五三は神社にいって、クリスマスにはお祝いする。
 別にいいじゃないの。

 宗教に「凝ってしまう」とロクでもないことになるだけ。

 

 宗教戦争で、血で血を洗うオバカな戦争やってどうなるの。

 まったくさぁ、一神教はキリスト教もイスラム教も野蛮でしょうがない。わけわかんないし、絶対にどっかおかしいよ。

 儒教もいろいろ差別があるし男女差別なんて頭にくるよ。仏教は古臭いしー

 …私? 私は特に何にも信じてないよ。(って言っておかないと、かえって世間体が悪いもんね)

 日本は宗教については一番いいんじゃないかな。だって「自由」なんだから。

 

 これが一般に良く聞く日本的な態度だと私には思えます。以前は私もこの考え方で、自分は正しいのだと疑っていませんでした。

 今は、「もちろん」他の宗教に向けるのと同じように、「日本教」についても疑いの目をもって観察したいと思います。

 

 「日本教」も数多くあるreligionの中の一つです。

 長所もあれば、必ず欠点もあります。

 他の宗教と同じく、相対的に比較して検討したいです。

 

 そして日本は日本教をもつことで、数々の分野で非常に成功し、同時に数々の失敗の真の原因を作っているのだと感じております。

 

2005/10/08