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「日本教の社会学」山本七平・小室直樹 共著

第一章 戦後日本は民主主義国家ではない(1)

仮面をかぶった民主主義 / マイナスシンボルとしての民主主義
                                         より


民主主義について(コメント)


 日本人の考えるデモクラシーとは何か? を論じています。

 現在の日本は、民主主義が機能しているのか?
 私のような素人には、一見論じる必要もなさそうな問題と思ってしまいますが、この本は普通の読者を半ば置き去りにして、どんどんと議論を発展させていきます。

 最初から大胆というかなんというか、この本はトンデモ本ではないか?
 と、疑われるのを覚悟で猛烈な出足でのスタートです。(そうとしか思えん)
 そしてこの過激さは、本の最後まで続きます。

 

 民主主義は、現代人間社会のよりどころというべき一大理念で、これを実現し、維持するために、私たち現代人は多大の犠牲とコストを負担してきたはずです。
 極めて重要な価値観のはずです。
 少なくとも私はそう思っていました。

 独裁や専制は否定されるべきで、民主主義以外の政治体制は、現代人ならば絶対に受け入れることのできないものではなかったか? 

 

 しかし、ここでは、その前提を崩して、

「日本には民主主義はない」、「民主主義をまったく理解していない」

 と、極端な立場を持ち出して、論じています。

 

 もし日本人が民主主義を理解することができない「存在」なのであれば、現代世界の「敵」になってしまいかねません。

 

 何か恐るべき落とし穴があるのでしょうか?

 絶対にそうであってはなりません。

 

 「民主主義」を価値ある概念と考える「世界の人間たち」に、そのように思われてしまえば日本人は「敵」として扱われて、多大な不利益を生じる可能性が出てくることになります。

 もちろんこれは単なる理論的可能性で、まず短期的現実的には心配の必要はありえませんが、無関心でもいられないはずなのです。

 私達日本人は、民主主義を定義どおりに理解しているのでしょうか?
 多数決とはなんなのでしょうか?。

 


 抜粋と整理

・日本のデモクラシーはうまくいっていない?
 →「デモクラシーのはきちがえ」という言葉がある。 つまり「間違った使い方」「はきまちがえ」
 →→デモクラシーを、服か薬の一種のような道具として、使用方法を間違えたととらえる発想法。

 
・日本で伝統的に行なわれる集団の意思決定と参加の仕方。
(足利時代に)みんなで何かを決める、そして最後にサインするときに大きく丸を書いてその周辺に各人がサインしていく。
 これは和傘を上から見たような形になりますから「傘(からかさ)連判」というんですが、筆頭人がいないんですから、誰がリーダーかわからない。
 その点、全員平等です。同時に何かあったとき、この連判した者が集まりいろいろなことを決める」(山本七平)

・傘連判に参加したものは、そのうちの一人が直接将軍から命令を受けても、個人がただちに実行してはならない。
 サインをした人間が全部集まって、どうするかは多勢によって決める。受ける場合もあるし、返上する場合もある。
 決定に原理、原則はほとんどない。違う意見が二つながらでバランスをとる。

・西洋の場合
 →責任者を明確にして、決断の主体を特定する。
 →→無限に多くの主張を、多数決という形で一つの主張にしてしまおうとする意思
(
権限と責任の明確化が出発点。デシジョン・メイキング=作為の契機がある)

・日本の場合
 →決断の主体が誰だかわからなくして、決断の内容を分散。
  →→対立する二つの主張の間のバランス、平衡をめざす。
(最終責任者がいない。各参加者の感情を優先。密室談合玉虫色をデモクラシーという名前で呼んでいる?)

・現代でも室町時代と同じ意思決定方法。
「この前ある役人に聞いたんです、官僚制とは将軍と一揆契状との相関関係と同じ状態にあるのじゃないかと。大臣が何かを誰かに命じた。
 命じられた者は他と関係なくすぐ実行するか、そうでなくまずみんな丸く集まって、これを受け入れるべきか、返上すべきかと、相談するんじゃないのかと。
 そうしたら、そうだといっていました。」(山本七平)

・日本では、原理原則を持ってくれば、たいへん権力的に感じる。
(多数決は多くの意見を一つにまとめる原理原則なのだが、
 厳密に多数決をやって少数意見を消すと、非民主的であると感じて反発する)

・日本人の考えるところの、好ましい「民主主義」であるかないかの識別条件
 →相手の気持ちを察して、相手が怒らないようにする。
 →→というのが民主主義であると思ってる。(それ以外の民主主義はイヤ)
 (しかしこれは非民主的態度。
  日本人は、非民主的態度を民主的だと思っている。(感じている) 
  そして、話し合い・談合に参加していない人間は実質的に排除していて「日本的民主」の外に置かれる。)


・本当の民主主義は
→「社長その他の経営者(イグゼクティブ)は、部下のいうことをなんにもきかず、また気持ちも察せずに、なんでも独断的に決める。
 
それに対して社員というのはまさに奴隷である。
 アメリカというのは専制君主と奴隷のシステムだと、(中略)これこそがまさにデモクラシー(小室直樹)
 →→一人のみが責任を背負って意思決定して、巨大な組織を自分で動かす。

・日本では、
「全員で決める。私が決めたことじゃないという。いろいろ議論して上がったり下がったり、下がったり上がったり、なんとなく決まっちゃったんだ。だから、決断した人間がいない」→決断した人間がいないということは、すなわち、誰も責任をとらない

(
注・これ以降「日本的民主主義」「カラカサ談合」という言葉に置き換えます)
 余りに意味が違いすぎる二つの行動原理を、同じ言葉で表現するのは困難です

・民主主義の基礎は多数決
・カラカサ談合は多数意見無決

・日本的組織には外部からどんな働きかけもできる。(特徴)
 →
いろんな方法で何人かにそういう空気をつくらす。
 →→なんとなくそれが誰の決定でもないかのごとくに決定になってしまう。
 →→黒幕というのはちゃんといる。
  →→黒幕の権限とは何だ? 元来権限がないはずだから黒幕。

・欧米の黒幕→決定を陰からあやつる
・日本の黒幕→決定そのものをあやつらずに、決定に至る「空気」を操作する

・欧米→黒幕の責任を後から追及できる。
・日本→黒幕のやることは教唆でも、共同謀議でもない。空気の操作は後から証明できない。

・戦争裁判での問題
なぜ戦争したか。誰かが計画をたてて、それに誰と誰が協力して実行したのか?
 共同謀議があったのか、なかったのか?
 →追求していくと、みんな「おれは戦争に反対だった
 →→みんなが反対していて、気がついてみたら戦争が起きていた
(意思決定者不在。責任者追求不可能。
 追求すれば不当に感じられ、欧米的に断罪すれば不満の温床になる)

・ポーランドの例
ポーランドは中世末期において巨大な国家
→議会が機能しなくて、だんだん勢力が弱くなる(なにも決められない)
→昔の貴族議会というのは拒否権があり、満場一致じゃないとだめ→近代議会との違い
 
多数決で何かを決める→近代デモクラシーの出発点(スタート・ライン)

日本の例→ポーランド以下の状況
単独採決は悪として非難され、その場合はむしろ無採決が賞賛される。
→満場一致で決めるだけではなく、満場一致に至る空気が事前にできていること。
根回しが決定的に重要。(談合・密室政治になる必然)

・会社で何か決まると、今度は飲み屋ではまた別な決定ができる
→飲み屋という別空間で、別な決定ができる。つまり決定は拘束力をもたない。
→→満場一致で決まっても、「あのときの空気」はああだった。「今の空気は違う」ので従わない。
    となれば、満場一致の決定でも、実行されない。
中世ポーランドは満場一致なら決定
・日本の場合は満場一致の決議でも無効の場合があり、意思決定拘束力ではポーランド以下

・デモクラシーにとって、最も必要不可欠な意志決定(デシジョン・メイキング)という概念装置カラカサ談合では欠如

民主主義にとって最も根源的であるところの自由と、豊かさと、平和
 この三つのうち、どれか一つ失わなければならないとしたら、まずどれから失うのか
 「自由か、しからずんば死を与えよ」
 
(パトリック・ヘンリのアメリカ独立運動の演説1975年、またはドイツの詩人シラーの「群盗」1779より)
 →民主主義とは実に重苦しいもの。

・民主主義をめざす国家は、
 自由獲得・解放が最優先として、自由のための戦争自由のためのコスト負担(豊かさの喪失)が肯定される。
→日本では、この主張は「非民主的(非カラカサ談合的)である」として拒否される。
 (
自由も、豊かさも、平和も、三点セットでなければイヤ)
  →責任を分担しないのである意味・当然

民主主義において
 →自由はたいへんに高価なものである。
 →しかし、高いコストの代償としても(戦争・貧困してでも)あがなう価値のあるもの。である。(民主的発想)

・カラカサ談合において
 「安全と水はただである」(「日本人とユダヤ人」の宣伝コピーより)
→自由も平和もみんなただである。
→そして自由であり、平和であれば、豊かになる。 (発想の前提がまるで違う)



・カラカサ談合の出発点(なぜカラカサ談合ができたか?)
→日本には外国からの侵略がなかった。
→政治問題は、常に天変地異であった。
→天変地異とは「交渉」できない。
→ただひたすら、その場の状況に応じて、人間の側が変化して対応する。
→「頭のきりかえ」によって人間が変化する。
→戦時中には戦時中に頭をきりかえ、
→→天変地異で民主主義が空からふってくれば
    →
民主主義に頭をきりかえて対応する。

 できてしまった秩序を正統化して、それに対応して生きていけばいい
 (既存の秩序・空気があるかぎり、それに絶対的に従う。天変地異(台風・地震)に逆らってもしょうがない)

・自分の意思である状況を作り上げる意識がない(そんな時期が長かった)
 民主主義というものを、自分たちの手でかちとったという契機が欠如

日本歴史での特異点・明治維新
 既存秩序である幕藩体制を壊した。
→幕藩体制を壊した藩閥政治を大正デモクラシーにより変更
 (選挙による多数党によって政権交代が起こりうるようにした)
 作為の契機による、新しい秩序を自覚的に形成できた
→→尊王思想という新思想で幕府を倒した
→→欧米から流入した新思想で藩閥政治を倒した

明治維新の志士達は、思想によって、主体的に行動した。
民主主義と目指す所はまったく違うが、思想先行であり形式は同じ
(イデオロギーという仮想物によって行動することで、現実をイデオロギーの形に変更させてしまう)


既存の秩序→新思想の導入→新政治体制の構築
→もし新思想の導入がなければ、老朽化した既存秩序を立ちなおすには以前と同じ体制を再構築するだけになる。
→新幕府になるだけ。あるいは中国の歴史のように新しい王朝ができるだけ
 二つの革命形態
・鎌倉幕府→室町幕府→江戸幕府(体制の継承・統治思想は変わらない)
・平安時代→幕府時代→明治政府(体制の変更・統治思想の変更がおきた)


空気の支配

・空気は、戦前・戦後を通じて日本を支配している。
「空気」の支配ほど民主主義とほど遠いものはない。

・西欧における類似現象
→大衆のアニマ(空気、呼吸、霊魂という意味のラテン語)の支配
→暴君から民主主義をどうやって守るか。
 上記2点が、もっとも非民主的なものであり、これらをどうやって排撃するかが民主主義の重要テーマ

 

・デモクラシーの最大の危機
 →法の秩序。裁判所の命令が実効性を失い、正統な権利が暴民によって蹂躙(じゅうりん)されること。
 この場合、いかなる暴力をもってしても、暴民をとめねばならない。

 

・デモクラシーはイデオロギーに基づく信念である。
・デモクラシーは法の支配であって暴民政治ではない。
・デモクラシーが法の支配を失ったら、あっという間に暴民政治になる

デモクラシーの反対とは何か。
(
軍国主義ではない。デモクラシーであっても軍国主義(戦時中のアメリカ)であることもあり、非デモクラシーであっても徹底した平和国家(平安時代日本)であることもある)
ファシズム・独裁政治ではない。リンカーンは独裁者であったがデモクラシーによる臨時的な委託独裁。ヒットラーも同じ形で4年の時限立法の独裁者となり、もし期限切れのときに独裁をやめていればデモクラシーであった。)
(
社会主義でもない。労働者独裁によって人民の利益が守られるのだから、真のデモクラシーであると主張される)

デモクラシーの反対概念は「セオクラシー神政制」である

・セオクラシーとは
 神の支配による絶対主義。
 神との契約が絶対・最優先で、その契約内容が法となる。
 人間は、勝手に契約を変えられない。
(実質としてガチガチの伝統的社会になる)
 その法を完全に行うために、人民が全員死んだとしても当然。

(専制政治であろうと、貴族支配であろうと、人間が治める以上は全部デモクラシーになり得る)

・日本には絶対神がもともと存在しない(考えたこともない)ため、セオクラシーは理解できない。そのため、セオクラシーを否定するための反対概念であるデモクラシーも理解できない
 日本人は、「人間による人間の支配」以外に想像したこともない。

・近代以前の西欧社会
 絶対的一神との契約がすべての規範の根底
 根本規範(グルント・ノルム)である。すべての法もここに依拠する。
 「神との契約」が「人間のあいだの契約」にとってかわられることによって近代社会が成立する。

・前近代社会
→習慣、風俗、規範、法、政治制度、拡大して社会一般は、神が作ったもの
→→よって、人間の力によってこれを変えることはできない。
・近代社会
→法も政治制度も社会も、すべて人間が作ったものである
→→よって人間の作為によって変えることができる。「作為の契機」が可能である。
(既存秩序を、人間の意志によって別の体制へ変更することができる革命思想でもある)
 宗教の問題は、個人の内面の問題となり、外面の規制ではなくなる。(宗教法の否定)

 既存秩序も、新しく作られる秩序も、「契約」によって成立する。
・「契約」とは、内容が成文化されて定義でき、自由意志による合意の下に、遵守・運営される絶対約束。
・この契約が更改=作り直し+確認し直し+約束し直すことで、新しい秩序を作り出す。
(
新しい社会を作り出せる方法論である。)
(
法や政治制度や統治者を変えるということは、実は契約の更改)

デモクラシーとそうでないものの決定的決め手
 契約の更改があるかないか。契約の更改が人の手で可能かどうかで判別できる。
→日本の場合
  契約が法律であり、人間が定める法(実定法)によって合法と非合法の区分がなされるとの発想がない。つまり立法がわかっていない。よって「作為の契機」もない。

・実定法とは
 社会生活を規律する規範であり、国家権力等による強制的裏付けのある規範
 自然法だけでは合法・非合法が判別できない。実定法の裏付けが必要。
 (自然法とは・・政府などが法を制定する前から自然に存在するとされる法 自由権、平等権など)


・責任とは
 西欧・・自分に与えられた権限に対する概念である。
     責任は限定されたものであり、その範囲内で絶対的に責任をとる。
 日本・・無限責任がありうるとともに、裏返しとして無責任となる。

・責任の範囲が、法によって定められていなければ、デモクラシーはありえない。
 日本の場合は、無限責任だがいつでも無責任に転化しうるのでデモクラシーとは異質。
(汚職した企業の従業員の子供が学校でいじめられる。成人の学生が事件をおこして、大学学長が頭をさげる。など、法律的には責任がないものにも責任がおよぶ無限責任)


本当に蛇足のコメント

 なんだか、目がくらんできませんか?
 本当に、私はなにも知らなかったんだね。と、改めてつぶやくたくなってしまいましたよ。
 この視点で、日本の選挙の候補者の言うことを聞いていると、喜劇になってきませんか? 
 まったくカラカサ談合の、無責任体制そのものじゃないか!