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終戦三春秋 未不立計畫

前途唯暗々 心満憂愁雲

何日太陽出 照々我前途

我見唯一句 於貴君手帳

苦難的生涯 邪悪的人物

一見唯唖然 漸知君眞意

今我見心裡 暗然寒冬夜


1948/11/18 山本七平27歳 親友のK氏あての葉書より 
  (1999年に、あて先のご本人より直接許可を得て、複写させていただきました)

怒りを抑えし者」稲垣武著にも収録済み。369頁を参照ください

コメント

 この時期、山本七平は戦争と収容所での過酷な環境により、多くの慢性病を抱えて職につけず、23歳の妹が胃癌で早世したこともあって、心身ともに傷ついていました。

 この漢詩について稲垣武は、「あまり上手ともいえない」と評しています。
 本人も線で消して、なおかつそれを読める程度に残しておいたことで、消してしまいたい詩であることを自覚しつつも、消しきれていません。これは真情の吐露であることを示しているのでしょう。

 K氏は、山本七平の同級生です。二人は同時期に陸軍に召集されて、別部隊に配属されます。
 山本七平は砲兵の観測将校で戦闘部隊で、戦争末期には戦死確実の切り込み部隊に配置されました。
 また、K氏はフィリピン方面軍本部付の情報将校として、別の時期にフィリピンに行きましたが、もちろんお互いの存在は知りませんでした。
 マッカーサー将軍から山下将軍への終戦にともなう降伏命令文書は、K氏が翻訳したそうです。

 しかし、敗戦後フィリピンのカンルーバン捕虜収容所で二人は偶然に再会します。
 日本兵の生存率20パーセント以下とも言われる激戦と極限の飢餓の混乱状態のあと、広いフィリピンで二人が出会えるのは奇跡に近いことで、その瞬間、二人とも信じられない出来事に言葉を失って立ちつくしていたそうです。