ゆれる風景とハングルと


 この年の秋に 大韓航空のチケットがちょっとしたボランティアのおかげで(?)安く手に入ることになり、「韓国に行こうかな」という気になった。 1988年にはオリンピックがあり物価も跳ね上がるだろうし、NIESとしての韓国を見てみたいという単純な動機で行くことにした。
 ところがである、大韓航空機がこの年の11月29日にアンダマン海上空で爆破されて世界中上へ下への大騒ぎとなってしまった。
 さすがに回りから「今回は見合わせたら?」という忠告をもらったが、「なぁ〜に、今世界で一番安全なのは大韓航空だよ」とうそぶいてソウル行きを決行することにした。
 12月27日、大阪空港チェックインカウンター、拍子抜けするほど簡単なチェックインであったが、しかし搭乗口でカメラのストロボの電池まで全部機内預けとなってしまった。

 2時間ほどのフライトで飛行機が爆破されることなくソウル金浦空港に無事着陸した。
 空港ビルから出ると、そこは大阪空港だった・・・。
大きな駐車場がありその回りを4車線周回道路が走り、その道路の向こうに広告看板が並んでいる。まったく大阪空港とそっくりなレイアウトである。
ちがうのは広告が日本語かハングルかの違いである。
風景が揺れた・・・
不安定な違和感をもちながら、バス乗り場へ向かった。
その途中でタクシーの客引きに声かけられた。
「お兄さん女子大生いらない、3泊4日で10万円でどうですか?」
とか「私の妹美人です。1晩どうですか」などと目と鼻の先にあるバス停に行くまでに何人から声をかけられただろうか?
今みたいにエステや買い物やで旅行者が行く国ではなく、1987年のこの時期、「男一人でアジアを旅する」ことは「女を買う」という目で見られることが多かった。
客引きを振り切ってバスに乗り、とりあえずは市の中心部へ。

繁華街に宿をとり、早速、南天門市場へ。
豚の頭を売っていて、「おおっ、これか」と感心しつつ市場の中へ。
すごい人混みの中をあるき、あちこちから声をかけられ歩いた。

次は東天門へ行こうと、地下鉄乗り場へ行った。
そして切符を買うとき困惑してしまった。
切符の自動販売機の前にたつと駅名の標記が「ハングル語」のみであった。
英語の表記がない。
ぜんぜんわからない・・・・(^^;;
結局、「地球の歩き方」の日本語表記のソウル地下鉄の路線図を見ながら切符を買ったのだった・・・・(^^;;
ホームの駅表記はハングル語とアルファベットだった。
「やった!!」っと思ったら、そのアルファベットはハングル語の発音表記のようなもので読めても意味は全くわからないものだった。
しかたないので、また歩き方の路線図で目的地と同じハングル語を捜し、その駅までの駅数を数えて乗るというやり方をして乗った・・・(^^;;

とてもオリンピックを翌年に控えている都市とは思えなかった。
そして街を歩けば日本と同じような建て方をしたビル群、日本みたいだと思いつつも看板を見たらハングル語で何の会社か全くわからない。
両替するために銀行に行くのも一苦労であった。
「銀行はどこか」と人に聞いたら目の前のビルを指さされたこともあった。
似たような街並みを歩いて、似たような人たちな中にいるのに、全く違う世界。
でも異国という気がしない。

言葉の「わからない」「つうじない」という国は今回が初めてではないのに・・・・
屋台で「のりまき(キムパッ)」と「おでん」と「たくわん」を食べる。
日本食が韓国に帰化している。
梨花女子大学前の通りを歩いていても日本の女子大生と同じファッション
「ここはどこだ?」

厳寒のソウルをうろうろしていて、とうとうドジを踏んでしまった。
それはこちらへ→「3万円が6ドルに、あれっ?」
ああっ、なさけない。
異国である意識と、日本と似た風景の中で揺れている。

それにストレスをためることになった、もう一つのきっかけは、市場で写真を撮っていたら、年輩の人から日本語で声をかけられ忠告を受けた。
「あまり写真を撮っているとスパイと疑われますよ」と・・・
私の写真の撮り方は、風景ばかりではなく生活や人を切り取るように撮るので、普通の人なら撮らない場所でシャッターをきるので疑われやすいといえばその通りである。
私は怖くなった・・・
以前、中国を旅したときも写真から来るトラブルで公安からパスポートの提示を求められて拘束されたことがあった。

その再現だけはごめんだった
それ以後カメラはバッグの中だった。

4日目大阪行きの飛行機で疲れた旅人が離陸から着陸まで寝たままだった。

1987.12.27〜12.30



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