プロローグ


 「アッ!」と思ったときには、玉の光純米吟醸はバンコク・ドンムアン空港にガラス瓶の割れる鈍い音を響かせた。
「あたた・・・やっちまった。ここまで来て割ってしまうとは・・・」
一瞬手を滑らせたために、ここまで運んだ苦労は水の泡となってしまった。
ドンムアン空港に日本酒の香りを残して、私は市内へ向かった。
バンコク在住の友人粟津くんへの土産は、一つ減ることになってしまった・・・
スマン。

そして、いつものように旅は始まった。


7月中旬、ANAとのやり取り。
「フランクフルト−カサブランカ便キャンセルでましたか?」
「ogawa様、まだキャンセル待ち状態です。」
「GET21の期限は今日までですよね。」
「そうですね。申し訳ありませんがOKがでない限り発券することはできません。」
「う〜む・・・しかたがない諦めます。大阪ーフランクフルト便もすべてキャンセルでお願いします。」
と、言って電話を切った。

今回の行き先がなかなか決まらない。
7月上旬から手配を開始したが、
第1希望のモロッコ、第2希望のイラン・・・フライト予約関係でことごとく引っかかる。
近年こんな手間を取ったことはなかったのに。
第3希望ミャンマー・・・これは関空−バンコク間がキャンセル待ちの状態。
格安航空券では身動きが取れない。
ANAに連絡したら前述のとおりモロッコ行きはキャンセル待ち。
結局、ANAで大阪−成田−バンコクの往復を押さえることができた。
これも滑り込み。
ともかくバンコクに行ってしまえば、次が動きが取れる。

粟津くんにバンコクの代理店ミャンマーの代理店を紹介してもらい、
バンコク−ヤンゴンのチケット発券、そしてミャンマー国内のフライトとホテル
手配はミャンマーの代理店にお願いした。
ミャンマーの旅行代理店を使ったのは正解であったことが現地入りしてみて実感することになる。

なぜミャンマーなのか。
それはバガンの遺跡に行ってみたい、という理由のみである。
昔読んだ、立松和平著「アジア混沌紀行」の本の表紙の写真がバガンのパゴダ群であった。
「ここはどこなんだろう? 行ってみたい。」と素直な感想であった。
本の内容はたしたことなかったが、カバーの一枚の写真の印象が強く残っている。
遺跡にほとんど関心を持たない私が唯一関心を持ったのがここである。
そのころのミャンマーは鎖国状態で、観光客が入国するのは不可能であった。


バンコクも2年半ぶりかな。
地下鉄も完成していて、街の雰囲気が近代都市へと変貌してきている。
19時・・・粟津くんとシーロム駅近くのスタバで待ち合わせ。
バンコクの地下鉄駅近くのスタバで待ち合わせとは・・・時代も変わったもんだ。
この日は、彼のバンコク在住友人たちも一緒ということで、賑やかな晩ゴハンとなった。
その中の一人、チュラローンコン大学で日本語を教えているIさんという女性と、私の友人が某外国語大学時代同じビルマ語科の同級生であることが判明、私が仕事で関係している人も良く知っているとのこと・・・世の中狭いもんだ・・・

場所を変えて、ビルの屋上にあるBARで粟津くんと二人でバンコクの夜景を見ながらドリンク・アップ。


明日はミャンマー入り。


<今回の国名・地名の記述について。>
この国は1989年軍事政権により国名・地名が変更になりました。
ガイドブックなどでもビルマという名称を併記しているのもありますが、現地の友人との約束によりミャンマー、ヤンゴン、バガンなど現行名称とします。
ただ一部時制の関係で旧名称としている箇所があります。
言語呼称は「ビルマ語」のほうが一般的なので「ビルマ語」としました。

 

雨に濡れた首都 へ

表紙へ

海外旅行目次へ