何が変わるか香港返還
中国特別行政区香港


 10時頃起きて、下に新聞を買いに行った。ベッドに新聞を広げて漢字と格闘して昨日の状況をつかんだ、ゴーストの出るテレビ(部屋にはテレビがついていた!)もコンベンションセンターでの式典を映していた。「さて、どうしよう」コンベンションセンターに行っても一介の旅行者が何もできないことはわかっていた。
せいぜい回りをウロウロするだけである。VIPの「おっかけ」をしているじゃあるまいし・・

寝転がって、しばらく天井のファンを見ていた。
2年前、ペナンで旅行者から聞いたことを思い出した。
忘れていたわけではなく、ずっ〜と引っかかっていたことである。
内容は「九龍城無き後、香港に残された魅力的は場所は鑚石山(ダイアモンド・ヒル)と重慶大厦ですよ。鑚石山も九龍城と同じく近いうちに無くなるかもしれませんよ。」というものであった。
「行ってみよう・・・か」
どのようにして行けばいいのかわからない。
宿のおばちゃんに聞いてみた。
「鑚石山という所に行きたいのだけど、どう行ったらいい」
「ハリウッドね、地下鉄の鑚石山で降りたらすぐよ」
「ハリウッド???何だそれ??ともかく地下鉄で行けることがわかった」
雨は相変わらず降り続いている。
駅で鑚石山をさがしたら、すぐ見つかった。黄大仙の一つ隣じゃないか。駅を出ると右手の方向ほとんどの人が流れていく、ついていくと「ハリウッド・ショッピング・センター」という巨大なショッピングモールがあった。
「ハリウッド・・・このことか」
でも目的地ではない。
人の流れに逆らって、反対側の人気のない出口に向かった。
異次元だった。ビルの谷間に取り残されようにバラックが密集し、薄暗い細い路地が続いている。スラムだった。













  

「ここか・・・」そこは不思議な空間だった。
奥に入り、あちこち覗き回って写真を撮ったりしていた。一番奥に行って行き止まりになり、来た道を戻った。ちょっと開けた場所で傘もささずに写真を撮っている人がいた。
すれ違ったとき「日本人ですか?」と声をかけられた。
「そうですが、あなたは?」
「日本人です。」
「なぁ〜んだ」
しばらく撮影したりして、お茶でも飲もうということになった。2人とも雨でビショビショになっていた。私は自分よりカメラのことが心配だった。このようなケースで2度修理に出しているので、クロスできちっと拭きたかった。スラムの中の喫茶店で甘いコーヒーを飲みながら、お互いその時にはじめて名前を知った。M氏はフリーカメラマンで1ヶ月南アフリカで仕事して、帰国してクライアントにFilmを渡して、すぐ28日に仕事抜きで香港に来たという。彼も重慶大厦のC棟の宿に泊まっていた。






 


喫茶店でも大勢の客がテレビを見ていた、その時テレビに戦車や装甲車が映った、画面の明るさからすると早朝であり、沿道では人が手を振っていた。それは紛れもなく中国人民解放軍の入境のシーンだった。
「ああっ、人民解放軍だ。場所どこだ」
「この場にいたかったよう」
「この時間は寝てた・・・」
「私も・・・」
「光量足らなかっただろうけど、シャッター切りたかったよう」
「ブレても撮りたかったよぉ〜」
2人ともテレビを見ながらため息をついていた。そして晩飯を一緒に食べようという約束をして別れた。

私はその後、街中から着陸する飛行機を撮影したり、ビルの中にジェットコースターがあるところへ行ったりした。

市内のあちこちで「号外」くばられている。もう何紙もらっただろうか・・・

夕方M氏と夕食をとり、歩行者天国の彌敦道に戻った。今日も人であふれている。花火は9時から、彼は埠頭に行くといって別れた。









 

私はネイザンロードで撮影して9時前には昨日同様に重慶大厦の屋上でスタンバイしていた。サンミゲールも2缶スタンバイ。花火を撮るよりそれを見る人を撮りたかった。









 花火も終わりになる頃、「ogawaさん」と声がかかった振り返るとM氏だった。花火が終了して屋上から人気がなくなっても2人でウロウロしていた。
彼が「アメリカ人の友人が『重慶大厦はネズミさえ気にしなければ香港中で一番ミステリアスなところである。』といってましたけど、まさにそのとおりですね」と言った。

ほんとここは不思議な空間だ。

また街に出て部屋に戻ったのは午前2時だった。

その時間でも通りには人が一杯だった。

 そして7月2日。香港の5連休最終日である。
起きたら10時だった、M氏は9時のUnitedで帰国すると言っていたが、無事乗れただろうか?
かなり強い雨が降っている。身体がだるい。
思い立って「足の裏マッサージ」に行った。通りを歩いていると雨のせいもあるが人が極端に減ったようだ。

例によって「痛いっ!」と言いつつマッサージを受けた結果。
「寝不足」「右肩のこり」他と診断がでた。
この2,3日はあまり寝ていないし、一日中カメラの機材を右肩から下げていたので診断結果には納得。
身体が楽になり、昨日M氏から聞いた場所を捜しに出かけた。その場所とは黄大仙と鑚石山の中間ぐらいに「囲」という城壁が残っている場所があるそうである。彼は最初そこを探していて見つからず、鑚石山までたどり着いたと話していた。
そこは昔、大陸からの難民を集めた難民キャンプであり、その回りを城壁で囲っていたということである。以前は日本からの香港ツアーで市内観光に組み入れられていたということである。(すごい話だ!!)しかし、香港政庁の政策により難民は団地に移され消滅して城壁の一部だけが今も残っているということである。
結果はわからずじまいであった。わからなかったということもあったが、雨がひどくなってきたので「囲」捜しをするどころではなくなってきた。

  「囲」探しを断念して、中環に行った。ちょっと確認したいことがあった。海が荒れて揺れるスターフェリーで到着。船内で「スターフェリーは船だったんだ」と再認識した。そこには予想した光景があった。
フィリピンのメイドたちが屋根のある場所をすべて占拠していた。特に雨が降り出した29日からは中環界隈の雨のあたらないところ、軒下はすべて彼女達が1 日中占拠していた。
彼女達にとっての「香港回帰」とは何なのだろう。この5日間毎日毎日同郷の仲間と話をして休暇が終わろうとしている。彼女達にとって体制が変わろうか変わるまいが、雇用主が雇ってくれる限り、休みになると中環に集まって一日が終わるのであろう。

  

 夜、飲みに出た。以前に来たとき毎夜毎夜行っていた店に行ってみようと思った。白人がバーテンをやって英国風のショット売りのパブで客層も白人が多かった。記憶を頼りに店を探した。記憶どおりの場所に店はあった。店の名前が英語から漢字になっていた。中に入ってみると、ジュークボックスからは香港ポップスが流れ、モニターには香港映画が流れていた。ビールやタバコメーカーのジャケットを来たお姉ちゃんがビールやタバコをお客に勧めていた。あちらこちらで歓声があがり一気飲みをしている。すべて香港人である。外観は英国でも、中は香港になっていた。1時間ほどいて店をでた。一人でいるにはそれが限界だった。

通りにでたら、道路をはさんで反対側に「ALE、BITTER」の看板が上がっている店がある、中を覗くとカウンターとテーブル、造りは英国PUBのサルーンと同じである。バーテンは白人、数人いる客も白人だけだった。
カウンターに行き、「A pint of bitter,please」と告げたら、オヤジは黙ってついでくれた、そこは英国そのものだった。聞こえるのは話し声と雨の音だけだった。

スターフェリー、叉焼飯、彌敦道、蛋達、ビクトリアピーク、海賊ソフト、廟街、海鮮、飲茶、鑚石山、粥、女人街、中環、ペニンシュラホテル、雲呑麺、旺角、サンミゲール、バードストリート、キャットストリート、蠣油、屋内ジェットコースター、重慶大厦、浅水湾、黄大仙、トラム、八角、フィリピンメイド、半山区電動婁梯・・・おもちゃ箱をひっくり返したようなこの街は中国に帰った。

50年、中国は今の状態を約束したが、いずれ経済力が香港を吸収してしまうだろう。金融センターとしての役割も上海に移るだろう。それでも香港にはしぶとくあってほしい。

おじさん、最後にもう一杯英国のためにちょうだい。

One more glass of a pint of bitter, please!

   1997.6.28〜7.3

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