ベルリンの壁と湾岸戦争<前編>


フランクフルトに着くと戦争がはじまっていた・・・・

 1990.8.3 8:00
 フランクフルト中央駅でボストン大学MBAに留学中の友人Uと1年振りの再会を果たした時、彼が新聞を見せてくれた。そこには「IRAQ INVADED KUWAIT!!」とトップにでかでかと出ていた。
ogawa「オイオイ、ボクはこのあたり上空を飛んでフランクフルトに着いたんや」
U「俺も、この記事読んでogawaが無事到着するか心配していたんや。よもや、撃ち落とされる心配はないだろうとは思ってたけど、遅れるかもしれないと覚悟はしてた。」
今回のヨーロッパ行きの航空会社の選定の時、イラク航空のチケットが安かったので真剣に使おうかと最後まで迷っていた。結局、成田まで行く交通費と時間の問題と、中でお酒が飲めない(イスラム教のため)という理由で大阪発のシンガポール航空(SQ) にした。もしも、イラク航空にしていたら、まちがいなくバグダッドで足止めをくっていただろう。
  でも、SQもドバイで給油してペルシャ湾、アラビア半島を横切ってクェートの南側を飛ぶのがルートになっているために影響を受けなかったのが不思議なくらいであった。
ogawa「帰国するときまで終わっていてほしいな、ルート変更や欠航などなったら面倒臭いし」などと言っていた。
国際紛争が10日そこらでケリが着くわけもないのに、我が田に水を引くことしか考えていないのだから脳天気なものである。

 ともかく再会を祝して、ビールとブルースト(ソーセージ)でプロージット(乾杯)!
フランクフルトはドイツ一の商業都市だけに大都市である。
その割には人の匂いのしない街である。

 そんな中でマイン川ぞいでは夏祭りが開かれていて、ここだけは多くの人が集まって、なにかホッとさせるものがあった。
 

対岸のザクスハウゼン地区でアップルタイザーを飲みアイスバイン(豚の塩ゆで)を食べて長い一日が終わった。

 翌日、我々は夜行列車に乗って、Berlinに向かった。
フランクフルトからの予定は決めていなかったが、やっぱりベルリンへ行こうということになった。
1989年秋に壁の崩壊がはじまった。フランクフルトからベルリンまで列車で抜けるとき東ドイツ領内に入ってもパスポートチェックに来なかった。東と西の境界が曖昧になってきているのニュースではなく、実感として理解できる。

 ベルリンの壁・・・東西冷戦の象徴。
その前に2人は立っていた。
しかしその象徴もあちこちに削り後があり、すでに壁の役割を果たしていなかった。
勿論僕等も「壁」を削った。他人が見れば単なるコンクリートの欠片に過ぎないモノであるが、当人達は歴史の一部を自分の手にしたような気分になっていた。

ベルリン市内のあちこちで「壁」が一山3〜4ドイツマルク(1DM=90円)で売られていた。こうなれば歴史ではなく土産物である。


チェックポイント・チャーリーもただのゲートになっていた。

 「壁」を越えるために亡くなった人達の墓が並んでいる。小説の中だけでしか知らなかった世界が目の前に現実としてある。「自由」を求めるために亡くなった人達の墓、その前に立って、「自由」があふれ返っている国から来た旅人は何を思えばよいのであろう・・・新しい墓標は1年経っていないのもある。「もう少し待てば自由になれたのに」などと言っても、歴史に「if」はありえないし、実に自分勝手な言いぐさである。
そして、気がついたらブランデンブルク門が僕等の右後ろに見えていた。

「おい、ここは東ベルリンちがうか?」
「イミグレ(入国審査)無かったぜ、地図、地図」
「ほら、そこの標識 Unter den Lindenと書いてある。ここ東ベルリンや」
たしかに、そこは東ベルリンであった。

 西ベルリンに比べて建物がくすんでいて、車も、あの東ドイツの国民車トラバントばかりである。考えてみれば、壁にあれだけ通り抜けられる穴が開いているのだからイミグレが無くなっていても不思議はないわけである。 Unter den Linden(目抜き通り)の一番良い場所に「ソ連大使館」がある。それが、東欧とソ連の力関係を象徴しているようであった。 

 ベルリンの街の西と東は、まさしくボクらが西側と東側の概念のままであった。
わかりやすい縮図となっている。
西ベルリンでは動物園に行ったりしていた。

東ベルリンの街で一番不可解だったのは、蒸気機関車を逆さにして展示してあるオブジェであった・・・・いったい何のためなのだろう?? 

 そして旅は東ドイツを抜け、チェコスロバキア、ハンガリーへ。

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