ベルリンの壁と湾岸戦争<後編>


 列車は東ドイツを抜けてプラハへ。
列車で6時間。チェコ・スロバキアのパスポートチェックも、3年前と較べても簡略化されていた。前は座席の下や荷物まで調べられたのにVISAのチェックだけであった。回りの人達も同様であった。夕方、Praha Halvni駅着。

 「千塔の街プラハ」と言われているとおり、多くの塔が建ち、中世の街並みを色濃く残した街である。ここで苦労したのは宿。Chedok(国営の旅行代理店のようなもの)を通しても無く、駅で寝ることを覚悟してChedokを出た。

 捨てる神あれば拾う神あり(^^) 車で旅行中と思われるドイツ人に声をかけられた。 
「宿が無いのですか?」 
「そうです」 
「じゃ私のバウチャー(宿泊券)を譲ってあげましょう」 
「どうしてですか、あなたが使うでしょうに」 
「私は妻と旅行中ですが、予定を変更しましたので、これは不要になったのです。」 
「譲ってください。お願いします。」
交渉の結果80DMで譲ってもらうことになった。「高い」とは思ったが、こちらの方の立場が弱いので相手の言い値を受け入れるしかなかった。当前、強制両替で所持していたチェコの通貨コルナ(=5円)では受け取ってもらえなかった。その宿への道を教えてもらい、荷物もあるし、コルナの使い道にも困っていたのでタクシーに乗った。それが、正解だったようだ。乗ること30分、郊外の住宅地の中の一軒の民家だった。

路面電車、バスで来てたら絶対に見つからなかったと思う。
住宅街の中なので他に出ていくこともかなわず、食事も部屋の中だった。

翌日になり、市内のもどり、やっと街を歩くことができた。

プラハの街は、前述のとおり中世の街並みのままである。映画「アマディウス」は殆どこの地で撮影されたという。どこがどうと言うより街を歩いているだけで満足であった。

モルダウ川を渡り王宮に行った。
橋では多くの観光客、そしてパフォーマンス。

3年前より明らかに雰囲気が明るくなっている。

 あとチェコの知られざる面は、ビール大国であるという事。チェコ・スロバキアのピルゼン市を中心にして発達した”Pilsner”ビールは、世界の一般的に飲まれているビールの元祖である。当然ビールの消費量はドイツとトップ争いをするほどの消費量である。当然、我々もコルナを使うために、というか、単にビールが飲みたいというだけでセッセと消費していた。夜行列車を待つ間、中央広場で何本もベンチに並べてラッパ飲みしていたビールは最高だった。

湾岸紛争の状況は膠着状態になっているようである。
英字新聞を読んでも明らかに解決に向かっているという内容ではなかった。

強制両替のお話
 強制両替というのは、入国するとき滞在1日につきイクラ(米$かドイツMが基準)というお金を両替しなけらばならないシステム。特に通貨の弱い国で外貨を獲得するためや闇両替防止の手段としてもちいられる。また、この両替したお金の使い道は限られていて、ホテルなどで使えないために使い切れないケースが多く、そうなっても再両替は殆ど不可能である。あとは、紙屑になるだけ。


 朝、Wien sud駅に到着。こじんまりとした首都は何度来ても良い。

大好きな屋根裏部屋で シャワー使用料が無料 というホテルが取れてご機嫌で街へ。

 まず、プラター(大観覧車)へ。映画「第3の男」の舞台となった場所である。そこのスロットマシンで1シリング(=10円)を入れてひいたらジャックポット!ベルはなるわ凄い音で響きわたり人は見に来るわ・・・ああ、恥ずかし。でも、200シリングになりラッキー!

 そして、ココでまた1人合流。イタリアを回ってきた友人Tと無事会うことができた。夜になり、郊外のGrinzingへホイリゲ(ワインの新酒)を飲みに行った。このグリンツィングはワイン造り酒屋が集中していて、飲ませてくれる。 

その家の玄関先に松の枝が下げてあると「ワインができましたよ」という合図である。でも、これは日本の造り酒屋が日本酒ができたときに玄関に下げる松の枝(枝を編んだ玉)と同じ物である。こんな所で同じモノを見るとは。
 ともかく、口あたりの良いホイリゲはいくらでも飲めてしまう。翌日は2日酔い・・・

ザッハーハウスを見に行ったりして、ウィーンの日々はワルツのようにゆったりとすぎていった。

カールスプラーツ駅のデザインはアールデコデザインで美しいデザインである。

紛争に関するニュースは、新聞を読んでいる限り終わりはいつになるかわからない感じである


 日帰りでブタペストへ、こちらも入国審査はあっけないモノで、あの3年前はなんだったのだという感じである。

別名「ドナウの真珠」、美しい街である。
3年前はこの街が気に入って5日間滞在していた。

 ゲレルトの丘から見た夕景は忘れられないが、今回は日帰りで目的は2つ、1つはF1のハンガリーグランプリを見ること、当日でも余裕で入場でき、接戦の末ウィリアムスのT.ブーツェンがマクラレーンのA.セナを押さえて優勝。 

 そして、もう1つは温泉に浸かること。この街は街中温泉が湧いている。ルダッシュ温泉は銭湯そのもの、しばらく湯船に使っていなかった日本人一行は気分は有馬か草津でした。極楽、極楽。

 さて、旅も終わりになり、ウィーンをもう少し見たいというTと別れて、再びフランクフルトへ、ここでスイス、フランスへ行く予定のUとも別れた。ここで、空港へ行く時間に余裕があったのでマイン川の川岸でビールを飲んでいた。

 

そこへ日本人が1人やってきた。話をすると、私と同様サラリーマンで夏休みでドイツ一周しているとのこと。2日後に帰国予定だが、イラク航空で来たために現在欠航だとという事である。勿論、格安航空券であるため他の航空会社に変更はできない。
「所持金も少ないし、休暇も余裕がないし。最後の手段は日本から送金してもらうしかない、(イラク航空に)早く飛んでほしい。あの時もう2,000円だせばマレーシア航空が有ったのに、そうすればこんな心配しなくて良かったのに」と嘆いていた。
 ともかく気の毒だったけど、ボクにはどうしようもなかった。「早く飛べば良いですね」と言ったが、言ったそばから「無理だろうな」とは思っていた。
SQは一部ルート変更はあったが無事飛び立ってくれた。
 帰国後、やはりマイン川ほとりで会った、あの人の事が気になった。「無事に帰国できたのだろうか」

 その後、紛争は年を越して湾岸戦争になり戦闘が終了したのは翌年2月だった。東西ドイツが統一されたのはこの年の10月だった。チェコ・スロバキアはチェコとスロバキアがそれぞれ独立国家となった。
 そして、私は9月10日に娘が生まれパパとなった。                               

  1990.8.2 〜8.14

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