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 うつ病と言うと何か特別な病気のように思われがちですが、思春期や社会に一人立ちする時、人生の節目節目に悩み苦しむ事も多いと思います。その時の戸惑いが少し大きいとうつ状態になる事があるかもしれません。 妻も思春期頃より少しそう言う所が有ったようです。

 結婚後、近所付き合い等、少しきついものが有ったのかも知れません、また、それを、私がうまくカバーしてやれなかったのかとも思います。今で言う心療内科的なところに時々いくようになりました。その後平成元年頃より、保健所の保健婦さんに相談に乗ってもらい、その方の勧めもあり公立の精神病院で通院投薬治療を続けてきました。

 波は有るものの、家事に大きな支障はなく、出来ないところは私が少しカバーするぐらいで何とかやってきました。平成九年の春、いつもの年は悪い時期なのに、どう言うわけか調子がいいのです、その後も九ヶ月くらいはいいときが続き、二人で「もう、治ったん違うやろか」と言っていた矢先、原因不明の頭痛と食欲不振が襲って来ました。それでも、気分はいいものだから温泉旅行等をしていましたが、いよいよ、深刻な状態になり、年末には神経内科の治療で小康状態を保ちましたが、年が明けて「うつ」が進んでいきました。

 十年春には、ずっと通っていた精神病院に入院の相談をしたところ入院してもらってもいいですが、あなたの場合すぐに退院したいと言い出すと思いますが最低二週間は我慢してください、と言って病棟を見学させてもらいましたが、結局そこでの入院はあきらめました。もう、その頃には体重も激減し37Kg(-10Kg)になっていました。その後、いろんな病院をあたり、大学の付属病院に五月より通うようになりました。そのころから、急に「うつ」が進み一人でいる事が出来なくなり、私が半日年休を取り入院までの間をしのぎました。

 六月十一日やっと入院の日が来ました。 

 妻の「うつ」が、いよいよきつくなり、一人でいる事が出来ず、かと言って私以外の者が付いていたのではストレスが余計にたまり、わるい方向へ行きかねません。自殺願望も強まり、本人の希望もありDr.にお願いして入院させていただく事になりました。十年6月11日大学の付属病院に入院しましたが、それからが大変でした。

 妻は、元来、他人とのコミニケーションを上手く取れない性格で、入院が決まった時から本人も危惧していたことですが、初日から、もう帰りたいと言い出しました。精神科病棟では治療上の必要性がなければ個室へは入れないのです。もう一日もう一日と、何とか妻も病棟に慣れてくれるのではないかと伸ばしていましたが、5日が限界でした。15日の晩に先生と相談してその日は外泊にしてもらい、あくる日に退院しました。

 病状は、ますます悪化し「怖い、怖い」と言い出しました。何が怖いのかと言う事は本人にもはっきりせず、不安と焦りは、増していく一方でした。とにかく、一人でいる事が出来ないので、会社の介護欠勤制度を使わせてもらい半日休みで昼に帰っていました。それでも昼に帰ると台所でうずくまり、包丁を手に当てて泣いていることがたまにありました。私も平然とした顔で対応していましたが、焦る気持ちを抑えるのに必死でした。

 二ヶ月くらいは最悪の状態が続き七月中頃にやっと、良い日も出てくるようになり、パジャマを着替えてスーパーについて来れるようにもなり、一進一退ながらも抗うつ薬が効いてきたのかなと思えるようになってきました。しかし、副作用かどうか頭の締め付けがきつく薬の量を減らさざるを得ませんでした。それでも、波を繰り返しながらも徐々に持ち直し、明くる年の正月には親戚の人との話も出来、一人で百貨店へも行くようになりました。しかし、それは長続きせず、すぐに悪い方向へと戻り「うつ」は、また進んでいきました。11年秋には、かなり悪い状態にまでなり、いろいろ薬を変えているうちに薬(SSRIのルボックス)の副作用でパーキンソンが出るなどあり、先生の勧めもあり入院する事になりました。今度はECT(電気けいれん療法)も考慮しているとのことでした。

 平成11年秋より妻の「うつ」はますますきつくなり、先生の方から『もう一度入院されたらどうですか、他にまだ試していない薬や治療法もありますし。』と言っていただき、妻も何とか首を縦に振りました。空きベッドを待っている間も妻の心は揺れ動き、私に『生理になったっら私、ようせんわ』というものだから『その時は外泊できるように頼むから』と説得し、先生には『入院は自信がない』と訴えていましたが、薬の副作用でパーキンソンが出て、私の有給休暇が残り少なくなってしまったので何とか入院してもらいました。一回目の入院で失敗しているので妻の気持ちもわからないではないですが、これ以外に、良い方法は見つかりませんでした。

 11月10日やっと入院の日が来ました。まずは大部屋に入りましたが、やはり上手く溶け込めずDr.のはからいであくる日には個室に入れてもらいました。

 入院日よりアナフラニールの投薬が始まりましたが、あくる日には閉尿等の副作用が出て、重大な副作用の可能性もあるのでと、それ用の点滴を三日三晩連続でおこない、その反動か今度は膀胱炎になり抗生物質の投薬、それでまた今度は下痢が続き、なかなか、本来の治療に入れない状態でした。 これで、薬では難しいと言う事で、電気けいれん療法(ECT)にとなったのですが、日にちも決まり、さあと言うところで生理です、入院前からの約束ですのでDr.に無理を言って外泊させていただきました。
 
 12月になりやっと「ECT」が始まりました。全身麻酔で体をベッドに縛り付け脳に電気を流す治療ですので、手続き的には手術と同じで手間取りました。三回目ぐらいから電気が効いてきたのか、入院以来の頑固な不眠も少し収まってきました。十二月末まで計六回一応これで「ECT」終了です。年末年始に外泊して上手く行けば退院の運びだったのですが、家事が何も出来ない自分に自信が持てず退院を伸ばし伸ばしにしていました。

 入院中個室に『おまる』をずっと置かしてもらっていましたが、これも外のトイレが嫌と言うだけの事で、いつも看護婦ともめていました。これも今思うときつい『イライラ』のはじまりだったのでしょう。2月14日いよいよ退院です、個室がいっぱいで大部屋に移り、これ以上入院が続けられません。まだまだ大変です、Dr.からも言われましたがこれ以上「ECT」をやっても効果は『?』らしいです。あとは、気長に通院治療するしかありません。

退院時の薬は次のとうりです。 
   朝・夕    寝る前    頓服 
ホリゾン(5)
デパス(0.5)
デパケン
ロヒプノール(2)
サイレース(1)
ヒルナミン(散)
レンドルミン(0.25)
デパス(0.5)
ヒルナミン(散) 
                                                                
 3ヶ月以上の入院でした、電気けいれん療法(ECT)に対しては、かなり大きな期待をかけていました。妻と少し後れて(ECT)を行った人は、見る見る元気になっていかれました。しかし、妻の方は実感がつかめるところまでの回復にはいたりませんでした。Dr.も『うつにはよく効くのですが奥さんの場合は、それ以外のものもあるので、後は、通院で気長に薬を合わしていくしかないですね。』と言われ、大部屋に移った事もあり、12年2月14日に退院しました。外来は私の仕事の都合上、この大学病院のDr.が行っておられる精神科の病院へ土曜日に通院する事にしました。

 退院後一週間ぐらいは、まずまずの調子が続き、私もこれなら何とかなりそうだなと思いました。家事の方も洗濯とレトルト食品ですが自分の昼食と二人の夕食を買いに行けていましたし、睡眠の方も少しの眠剤で眠りについていました。しかし、それもつかの間で、一人でいる事がだんだんと不安になり、昼間の時間を持て余し、睡眠も十分に取ることが出来ず頓服の眠剤を多用するようになってきました。

 空白の時間を何とか埋めるため、私の会社へ電車とバスで何回か来させましたが、やはり仕事場でありそう何時までもこんな事は出来ません。自殺願望も少し頭をもたげてきました。会社の上司に相談し、介護欠勤を4時間取らせてもらう事になりました、仕事をカバーしてもらわなくてはならず、会社の方々には迷惑をかけてしまいますが、ぎりぎり一杯の選択です。

 2月19日退院後始めての外来です。病院が違うのと下痢などがあるため、薬の内容も少し変わりました、以下とおりです。
  朝・夕   寝る前   頓服
セルシン(2) 2T
デパス(0.5)
デパケンR
レンドルミン(0.25)
ユーロジン(2)
コントミン(散)
レンドルミン(0.25)
コントミン(散)
デパス(0.5)

 2月26日、二回目の診察ですがこの頃より「イライラ」がきつくなり「Dr.」にも食って掛かるようになってきました。この日は妻の誕生日で前から欲しがっていた「スピッツ」のCDをプレゼントしましたが浮かぬ顔で、あくる日もまだ「Dr」は私の言う事をちゃんと聞いてくれない」と腹を立てていました。私との間でも言い争いは絶えず、ちょっとした事ですぐに口喧嘩です、私も応戦するものだから一日中続く事も珍しくありません。自分の親姉妹と電話している時も同じような状況でした。そうこうしている間にDr.の方から『カウンセリングしましょう』と言う話になりました。あまり期待をしすぎてもいけないのでしょうが?。
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