第20回
『フレデリック』 レオ・レオニ/作、谷川俊太郎/訳
http://www.kogakusha.com/leo/leo002.htm
好学社、1969、\1456+税
今回はちょっとやぶにらみ版。というのは、この本については「ぼくの好きだった絵本」という表現のほうが的確だから。年齢を重ねる中で、10年前に受けた感動に一つの疑問がわいてきたのです。従ってここではあえて「間違いだらけのフレデリック」という題で話を進めます。だから、この作品が大好きという方は、ぼくの文章を読んで不満を持つかも知れません。でもほんの少しつきあっていただけるのなら、いっしょに考えてみてください。
間違いだらけの『フレデリック』――やぶにらみフレデリック論
お話はこうです。ある牧場の石垣に住む5匹の野ネズミ。お百姓がいなくなり冬が近づいてきたので、食糧を確保しなければならなくなりました。みんな夜も昼も働くのですが、ただ1匹、フレデリックだけはひとりじっとしています。みんなが聞きます。「フレデリック、どうして君は働かないの?」するとフレデリックは答えます。「こう見えたって、働いているよ。寒くて暗い冬の日のために、ぼくはお日様の光を集めているんだ」さらにみんなは、働かないフレデリックにあれこれ質問しますが、そのたびに彼は「色を集めているのさ」「言葉を集めてるんだ」などと答えます。
冬が来て、みんなは隠れ家にこもりました。初めのうちは食糧もたっぷり、楽しく過ごせていたのですが、やがて食べ物も尽きてしまい、ネズミたちはこごえ始めました。そのときみんなは、前にフレデリックが言っていたことを思い出しました。「君が集めたものはいったいどうなったんだい?」すると彼は、みんなに目を閉じてもらって、光の話や色の話をし、そして詩を語りました。寒い灰色の石垣の中で、みんなの心は次第に温かくなり、色が見えてくるようになりました。最後にフレデリックの詩が終わると拍手喝采。「驚いたなあ、君って詩人じゃないか!」と称賛するのです。
最後のページには、石の舞台上でお辞儀をするフレデリックの姿が描かれています。そして恥ずかしそうに言うのです。「そういうわけさ」
ぼくはこの話が好きだったのです。詩というものについて、とても大切なことを教えてくれている、と思ったから。そう、人が生きていくためには、食べ物だけじゃダメなのだ。詩もまた必要なのだ。それは、マタイ福音書に書かれているイエスの「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉を連想させます。また、あのイソップ寓話「アリとキリギリス」に対する、芸術の側からの反論のようにも見えます。
しかしここには、社会生活における他者との関係という視点から見ると、致命的な欠陥があるように思うのですよ。ぼくも詩は大好きだし、生きていくのには食べ物だけでなく詩も必要であると、確信をもって言えます。でもこの絵本ははたして詩の大切さや力を伝えることのに成功しているのだろうか? 答はNOではないか、失敗しているのではないか、というのがぼくの今の結論です。
失敗の原因は物語の設定にあるように思います。ちょっと想像力を働かせて仔細に見ていくと、この野ネズミはしょうがない奴だということがわかります。フレデリックは初めからみんなのように汗して働こうとはしません。なぜと聞かれて返す答は「こう見えたって働いてるよ」。あるいはあっさりと(←テキストの表現)「色を集めてるのさ」。ふつうだったら間違いなくひともんちゃくありそうな返答です。
ここにデリケートな問題があるのです。確かに少し前までの(今もそうかな)日本みたいに、全員に同じ行動を強要するような画一化社会はよくありません。自分に適した役割を果たす方が社会にとって健全でしょう。でもたった5匹で構成される共同体が冬の緊急事態に備えなければいけない時になお、こんなふうにひとり初めから終わりまで他者と関わらないでいる姿勢は、共同体の中でどこまで受け入れてもらえるでしょう? よほどの信頼関係がなければ不可能です。この共同体は文化的にそれほど成熟しているのでしょうか。
それともフレデリックは、働きたくても体が動かないのでしょうか? そうは見えません。そもそも体を動かす気がなさそうなのです。目はいつも眠そうだし。それではただの怠慢、彼の返事は単なる言い逃れにすぎないとそしられてもしかたがないでしょう。
でもいよいよ冬がやってきて、みんなが隠れ家にこもると、フレデリックも一緒に入っていって、ちゃっかり食べ物はいただいちゃうわけですね。だって、食べませんでしたなんて、どこにも書いてない。すごいあつかましさだなあと思うんですよ。そんな奴の語る言葉をいったい誰が好き好んで聴くだろうか? そしてまた、こんなフレデリックの言葉に、冬の厳しさを耐え抜く温かい心、豊かな心を与えるだけの力がほんとうにあるのだろうか?
ラストシーンでフレデリックは称賛されてしまっているけれど、そこに至る過程が納得のいくものとは思えません。こんなスキだらけの設定では、結局、詩は現実の中では決して説得力を持ち得ないと言ってるようなものではないでしょうか。これは、子どもだましかどうかの大きな分かれ目なのだと思います。
こんなふうに考えていくと、寓話性のない、純粋に視覚ポエジーの世界で遊んでいる『あおくんときいろちゃん』の方が、むしろ詩の価値をストレートに伝えているような気がしますね。
と、ここまで書いてきて、さらにひねた解釈が思い浮かびました。この絵本はもしかすると、フレデリックのような社会性を持てない「はみ出し者」といかに共存するか、という共同体のあり方を描いているのではないかと。
4/4/2003
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