第19回
『リトル・トリー』 フォレスト・カーター/作、和田穹男/訳
http://www.netlaputa.ne.jp/~merkmal/indian1.html
めるくまーる、1991、\1800+税
これは絵本ではありませんが、当コーナーで取り上げます。挿し絵もすばらしいので、ゆっくりご鑑賞ください。
ここにも、読書でなければ味わえない楽しみを見いだすことができます。読んで、思いめぐらせる楽しみです。読み終えたあと、魂の中に生命の水が染みわたったような感触が残りました。しかし、そこから得たものを自分の言葉でまとめるまでに、一か月以上が必要でした。自然、生、死、愛、教育、労働、自由、社会、民族のアイデンティティー……さまざまなことがらについて、普段ぼくたちが当然のことのように思っている価値観が壊され、新たな形で再生するのを感じることができます。少なくとも、前とはちょっと違う価値観。
1930年代のアメリカ。5歳で孤児になったインディアン(現在ではネイティヴ・アメリカンという表現が一般 的ですが、作者はこの言葉を使っています)の子どもが祖父母に引き取られ、大自然の中で育てられます。インディアンの文化を体験し成長していく日々が、素朴な美しさと調和をたたえた言葉でつづられます。原題は「リトル・トリーの教育
"The Education of Little Tree"」作者の自伝的要素を多分に含んだ物語で、リトル・トリーは主人公の呼び名。
ゆったりとしたリズムで、自然とともにあるネイティヴたちの日常生活が描き出されています。これといって劇的なことが起こるわけではありません。でもその日常は、現代の日本に住むぼくたちにはとても学び得ないような、深さや広がりを持っています。これを読むと、ぼくたちはとっくに自然とのつきあい方を忘れてしまったのだと気づきます。ほんとうの厳しさも優しさも知らない。自然に対して、ほとんどピンボケの観念しか抱いていないのだなあ、と。全編を貫いて美しく力強く描写された自然は、人間から切り離された背景としてではなく、人間もその中に含まれる大きな生命の循環として立ち現れてきます。
私たちが悲しみや喜びを鳥の声や風に揺れる木の葉の音で表すとき、それは単なる比喩でしかありません。しかしこの物語の中では、人や山や樹木や花や鳥が、同じ生命を持つものとして、共鳴し合います。たとえば、主人公が強制的に祖父母の元から引き離されて孤児院に収容されたとき、少年は孤児院にあるニレやカシの木と語り合います。山から風に乗って届く伝言も聞き取ります。物語を読んでいると、その交信が極めて自然に感じられ、かつてそういうことができた人たちが間違いなく存在したに違いない、と思わされます。
死ぬこともまた自然の循環の中に位置づけられます。年老いた友人は、亡くなるとき「次に生まれてくるときはもっとましじゃろう。また会おう」と主人公たちに告げ、自分を養ってくれたモミの老木の根元に埋めてくれるよう頼みます。そうすれば、あの老木はあと二冬は生きられるだろう、と。そして文字通り、大地に返るのです。死の意味が、現代人の日常とは驚くほど違っています。
また作者は、ネイティヴたちの悲惨な歴史も、一つ一つていねいに記しています。彼らが受けた差別がどういうものだったのか、当時の社会状況をつぶさに学ぶことができます。感情過多にならない淡々とした語りが、その重みを伝えます。この本は、歴史の片隅に追いやられてきたネイティヴ・アメリカンの歴史がより多くの人々に記憶され、彼らの文化に正しい評価が与えられるための証言となっているのです。もっとも、自分たちの伝統を守っているネイティヴたちも、おそらく今では少数になってきているのでしょうが。でも彼らの価値観は、この本を通じて、より多くの人たちに広がっているはずです。
この本が単なる自然讃美・ネイティヴ・アメリカン文化礼賛に終わらず、高いレベルで歴史の証言になり得ている理由は、語りの仕掛けにあるように思えます。回想形式のように見えながら、出来事は少年の目の前で今、起きているように語られます。しかし作者は主人公に語らせながら、子供のような語り口はまったく用いていません。読者は、この計算された一人称の文体によって、自然を体験するときの5歳(から10歳まで)の子どもの視線と、歴史や社会を見るときの成熟したおとなの視線を、違和感なく受け入れて物語の中を歩いていくのです。
9/10/2002
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