第16回

『だーれもいない、だーれもいない』 片山 健/作(福音館書店)
 

 
 
片山健さんのコッコさんシリーズは絵も内容も暗い、というお母さんたちがいるようです。12 歳のぼくの娘はコッコさんの顔が嫌いで、小さいころコッコさんに似ていると言われたのがいやだったそうです。確かにコッコさんの顔や表情は決してかわいくないし、話も明るくはありません。すんなりと入りにくいのは事実。『ぐりとぐら』のように、広く万人に受け入れられるものではないでしょう。でもここで、あまのじゃくのぼくは、この人の作品を大いに推薦したいと思います。
 片山さんの絵は、いわゆる「かわいらしさ」から解放された描き方(cuteness-freeとでも言いましょう)です。コマーシャルやアニメの世界では、紋切り型のかわいいかわいいだけの造型と、説明過剰・演出過剰であることが必須条件のようになっています。ぼくたちが日々そのようなものにしか接していないと、それ以外の良さを見つけだす感覚が次第に鈍っていきます。それとは違う世界をもっと味わった方がいいような気がします。絵本に親しむ人たち(大人も子どもも)はそういう楽しみ・宝を持っているということです。片山さんの絵本の世界はそのひとつです。ぼくはちょうど、自分の娘がこの絵本のコッコさんと同じくらいの年齢の時に、強い共感を持ってこの絵本を読んであげました。

 コッコさんがお昼寝している間に、お母さんとお兄ちゃんと犬のクッキーが買い物にでかけてしまいました。小さい子を持つ親なら、こんな経験は誰にでもあるでしょう。やりたいことはいろいろあるけれど、子どもを見てなくちゃいけない。お昼寝の時間は、そのわずかなチャンスです。途中で子どもが起きちゃったらどうしよう、と多少の不安を抱きながら出かけるものです。
 コッコさんが目を覚ましたときには誰もいませんでした(この場面 で、部屋の中にさりげなく自分の絵本『タンゲくん』をおいているところが、おかしい)。家の中や庭を探します。クッキーもいません。雲や山鳩が通 りがかりに声をかけて行くけれど、コッコさんの耳には入りません。
 だーれもいなくなって、いよいよ寂しさが胸一杯になったころ、犬のクッキーの声が聞こえます。「ワン ワン ワン ワン ワン」この文字の入れ方がいい。そして飛びついてくる犬の姿とお母さんの声「コッコさーん おきてたのー」「ごめん ごめん コッコさん」次の画面 でお母さんとお兄ちゃんの姿が現れます。今まで我慢していたものが一気にあふれ出しました。コッコさんは泣いて泣いて、最後にお母さんの胸に飛び込むところで、お話は終わります。
 このコッコさんシリーズは、作者が自分の子供をモデルにして作ったそうですが、何気ない日常を見事に絵本の世界で展開して見せます。細かい観察力と、人の心に入っていく優しさがなかったら、こんな絵本は作れないでしょう。
 子どもを持つ人もこの絵本を読んで共感するかも知れませんが、大人になった自分自身もまた子どものころ、一度や二度はこんな経験をしているものです。そんなことを思い出させてくれます。この絵本を読むと、人はこんなふうにして孤独と再会を繰り返し経験して、愛の存在を確かめていくのだなあ、と思ってしまいます。

 この作家の絵もやっぱり、誰にでも描けそうで描けない色と線をもっています。適当に描かれているみたいだけど、計算されているのですね。この作品はオレンジと青と緑が基調になっています。風と光が感じられます。あちこちの場面 で、風に揺れるカーテンや洗濯物が描かれています。それがコッコさんの孤独感をより強く感じさせます。親しいものがいなくなると風景が違って見える。これは子どもの世界だけではありません。私たち大人だってそうですね。
 微妙な線で気持ちの変化を表しています。お母さんに出会ったときのコッコさんの泣き顔、そしてラスト、おかあさんの胸にしっかりと抱きつくコッコさん。表情の見えない後ろ姿がかえってその気持ちを想像させます。また、お母さんの顔が単純な線で、限りない優しさを表しています。といってつまらないセンチメンタリズムには終わらせない。その横で、お兄ちゃんがすっとぼけた顔でポーズを取っている。ここがいい。このお兄ちゃん、たとえば『コッコさんのおみせ』では怪獣と戦っていたりして、思わず笑って「こういうこと、あるある」とうなずいてしまいます。
 このシリーズ、絵柄はどんどん変化していきます。この本(1986)と、我が家にあるもう1冊の『コッコさんとあめふり』(1991)を比べても、全体の色もコッコさんの顔もかなり違います。コッコさんについてだけ言うと、ぼくは初期の絵の方が好きです。

 
                                   4/4/2002 

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