第15回
『ふくろうくん』 アーノルド・ローベル/作、三木卓/訳(文化出版局)
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アーノルド・ローベルさんの絵本はどれも、人生の詩であり、哲学です。それに、なんと言ってもユーモアがあふれている。絵も文章も。この人の絵本は人生を豊かにします。
でも、一筋縄ではいかない。
この人の作品もたくさんありますが、その中から『ふくろうくん』をご紹介。15年ほど前、この本を青山のクレヨンハウスで立ち読みしていたとき、あまりにおかしくてお店の中で笑ってしまいました。ローベルさんの他の作品と同じように、いくつかの独立した小話が集められています。「おきゃくさま」「こんもりおやま」「なみだのおちゃ」「うえとした」「おつきさま」の5つ。
ぼくが笑っちゃった「なみだのおちゃ」では、ある晩ふくろうは涙でお茶を入れようと思い立ち、食器棚から湯沸かしを取り出します。「さあて、ぼく、始めるよ」と言うと、静かに座っていたふくろうは、悲しかったことを考え始めます。足の折れてしまった椅子、歌えなくなった歌、ストーブの後ろに落ちて見つけられっこないスプーン……これらを思うたびに、ふくろうの目から涙が流れ、湯沸かしの中へ落ちていきます。次々に悲しいことを思い浮かべ、ふくろうは声を上げて泣きます。
「読めなくなってしまった本。だって何ページか破りとられちゃっているんだもの」「止まってしまった時計。そばにゼンマイを巻いてくれる人が一人もいないんだ」これらの一つ一つを思っては、ふくろうはおいおい泣きます。それが、とてもおかしいのです。
やがて湯沸かしは涙でいっぱいになります。「さてっと、これでよしだ。」そう言ってふくろうはストーブで湯沸かしを暖め、ソファにゆったりと座って、お茶を入れます。幸せなふくろうは最後にこう言います。「ちょっとしょっぱい味だよ。でも涙のお茶はいつでもとてもいいもんだよ」
面白いことに、少なくともぼくの子どもたちはこれを読んで笑うことはなく、「よくわかんない」が素直な感想でした。なぜだろうと思って注意深く読むと、いろんなことに気づきます。
この本の原題はOwl at Home 家にいるふくろうです。一人暮らしのようです。登場人物は最初から最後まで、ふくろうだけ。旅に出るわけでもありません。せいぜい近くの、歩いていける海辺に行くくらいです(「おつきさま」)。世捨て人のように自然だけを相手に毎日を過ごしているのです。そういえば、ふくろうの服装はほとんどガウンだし、居場所は、暖炉のそばやベッドの上やソファの中、持ち物は本、ティーカップ、ろうそく……孤独に似合う物ばかりです。
相貌的知覚という言葉がありますね。生命を持たない物に人格があるかのように感じ取る、子ども特有の感覚ですが、年齢不詳のこのふくろうはそれを持っているのです。「おきゃくさま」では扉をたたく音が聞こえるので、出てみるとそこにいるのは「冬」です。部屋に招き入れると、部屋中を吹雪が暴れ回り、さんざんな目に合います。ふくろうは「冬」に向かって「でていっておくれ!」と怒ります。また「こんもりおやま」では、ベッドに入ると、毛布にこんもりと二つの山ができます(実は自分の立てた膝で毛布が盛り上がっているのです)。毛布をあけると誰もいない。かぶせるとまたこんもりと現れる。ふくろうはその正体を追求し、戦いを挑みます。しまいには疲れ果
てて、ソファで眠ります。
これらの「冬」や「こんもり」、そして最後の話の「月」はどれも人格を持って描かれてはいません。ふくろうが一方的に話しかけているだけです。つまり、ここに描かれているのは、孤独なふくろうの、やや病的かもしれない日常であることがわかります。作者は決して「すてきな孤独生活」をここで提案しているわけではありません。でも、ふくろうの、寂しく悲しい日常をユーモアとして描写
することは、豊かさの一つなのではないでしょうか。現代人が肯定する人工的な明るさだけが良い価値観ではないのです。そのことは例えば「かえるくんとがまくん」シリーズの奇妙な友情にも見られます。こんなふうに見ていくと、ローベルさんの作品は、子どもたちに単純におすすめするような本ではなさそうです。
体裁も文字の大きさも絵も子供向けなのに、もしかするとこれはかなりひねりの入った、大人のための絵本なのかもしれません。
12/5/2001
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