第10回

『アンジュール ある犬の物語』 ガブリエル・バンサン/作、(BL出版)
 
http://www.s-h.co.jp/cbl/bl/
 
 
鉛筆でここまで表現できてしまうことを教えてくれる驚異の絵本です。作者のガブリエル・バンサンは昨年惜しくも亡くなりました。日本でこの本が出版されたのは1986年(原書は82年刊)。僕は店頭でこの本を手に取ったとき、このコーナーで紹介している他の絵本と同じように、「どうしてこんなふうに描けてしまうんだろう?」という驚きがありました。何気なく引いたように見える線の中に、車、道、樹木、地平線、空、海、建物、といった物の形だけでなく、主人公の心までが表されています。こういう線は、芸術家の偉大な素質とたゆまぬ 訓練によって初めて実現しうるものなのでしょう。僕はこんな一本の線が描けず、自分でよくうんざりしてしまうのです。

 この本には言葉がありません。ひたすら絵だけで見せていきます。車の窓からブチの犬が捨てられるところから物語は始まります。車を猛然と追いかける犬。でも車はどんどん遠ざかる。路上にしばらくたたずんだ後、犬はどこへ行くともなく歩き始めます。向こうからやってくる車を見た犬は、突然道に飛び出します。犬をよけようとした車は対向車と衝突し、大騒ぎになる。僕のせいじゃないよ……そう言いたげな表情で犬はその場を離れ、野原や海や町をあてどなくさまよいます。最後に犬は道の向こうに、一人の少年を見つけます(旅をしているのでしょうか、荷物を一つ持っています)。少年と犬は少しずつ近づき、最後に寄り添ったところで物語は終わります。

 寂しさ・孤独――これが絵本の主題です。ここにはこれといった筋書きはありません。犬が初めになぜ捨てられたのか、あるいはなぜ道に突然飛び出したのか、といったことについて作者は全く説明しません。最後に出会った少年と犬がこれからどうなるかという予測も、私たちの想像にゆだねられています。私たちは筋を負うのではなく、絵を眺めながら、犬とともに孤独の風景の中をさまようのです。
  表紙には主人公の犬が描かれています。本文中の一画面です。振り返ってこちらを見ている犬の目の何と寂しいことか。本文のどの画面 からも、切ないほどの寂しさが感じられます。それは犬の後ろ姿にも表れています。54枚の絵のうち3分の1ほどは 、後ろ姿で描かれています。少年と出会ったときの6つの画面では、私たちには犬の顔は見えませんが、犬を見つめる少年の表情の変化で、その寂しさを知ります。風景は白地を基調とし、細かい描き込みがほとんどありません。そこからは賑やかな音は聞こえてきません。ピアノか何かのBGMが似合いそう。またところどころに描かれている人々も、犬の傍らを過ぎて行くだけです。少年以外は風景の一つでしかありません。
はてしなく広がる空も、砂浜に映る犬の影も、すべて犬の寂しさを表しています。
 しかし、ここに描かれている寂しさは決して安易なものではありません。生きるものの持つ根元的な孤独を、主人公の犬を通 して、バンサンさんは視覚的に見事に表現したのだ、と僕は思います。最後に出会う少年もまた孤独です。犬と少年の二つの孤独な心が最後にふれあいます。この絵本は、「さあ、元気を出していこう」などという安易な励ましを語ることはしません。孤独を深く見つめる目があります。
  このコーナーでたびたび言うことですが、今、私たちの周りでは、わけもなく元気であること、明るく振る舞うことだけがもてはやされています。それも極めて皮相な形で。悲しさ、苦しさ、寂しさを否定的なものとしてとらえ、明るさや元気を肯定的なものととらえる単純思考が、世の中全体を覆っています。そしてそれと連動する安っぽい「癒し」。それは明らかに嘘なのです。そのような表面 的なとらえ方で私たちは、何も理解できないし、何も得ることはないのです。でも、この絵本は詩のような形で、私たちに生きることの実相を深いレベルで見せてくれます。

 最後に一言、文句を。こんなにすばらしい作品なのに、日本語版の変なタイトルが品位 をぶちこわしています。原題はフランス語のUn Jour, Un Chien。『ある日、ある犬の物語』とでもつけた方がずっと良かったのではないでしょうか。「アンジュール」はUn Jour(ある日、の意)をカタカナで表記したものですが、どうしてこんなに安っぽいタイトルにしたのか理解に苦しみます。まるで犬の名前と勘違いしそうです。……ということを、僕は読者カードに書いて送りました。

                                      3/8/2001 

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