第9回 

『風来坊』シリーズ 川端誠/作(出版元は複数あり)
 これは以前、In Other Wordsでご紹介したものですが、加筆修正してこのコーナーに入れることにしました。どうしても外すわけにはいかないと感じるからです。

 実は、情けないことにぼくはこの作家のこと、ほとんど知らなかったのです。全くモグリとしか言いようがない。この方は、かなりの数の絵本を作っていらっしゃるので、他の作品も見てみました。版画や半立体のクレイイラストといったいろんな手法を用いながら制作していますが、総じて、一画面 一画面が大変丁寧に作られています。画風が、初期のものはやや五味太郎風にも見えるし、瀬川康男風なものもあり、変転を重ねていますが、この風来坊シリーズで一つのスタイルを確立した、といえるかも知れません。少なくともぼくは、この作家の絵本の中では一番好きです。

映画的手法
 『風来坊』、これはもう、黒澤明の世界ですよ。 川端さんは、黒澤映画をたくさん見てきたんじゃないか、と思わせる要素が随所に感じられます。時代劇のおもしろさを絵本で描ききった作品といえます。
 主人公の設定がいい。お坊さんなんだけどお坊さんらしいことは全くしなくて、山や里を巡り歩く風来坊なのです。行く先々で木彫りの仏像を作っていくという。例えば、飢えをしのぐために畑の野菜を黙ってもらうときも(要するに盗んでいる)、お礼に木彫りの仏像を置いていくのです。そしてもちろん人情味にあふれている。そんな人物設定だけで、わくわくさせるドラマが展開するだろうと期待できます。
 顔はなにやら『こち亀』の両津を思い起こさせ、もしこれを映画で撮るとすると、誰が適役か。かつての役者だったら、勝新太郎、今の役者なら誰だろう……竹中直人がいいかな、と想像する楽しみがあります。
 絵がすばらしい。荒削りで力強い輪郭と色が、ストーリーと見事に調和しています。明暗の効果 を生かし、また様々なアングルを用いた画面構成は、黒澤映画そのもの。『さくらの里の風来坊』では、カットバックによる凝った演出で悲劇を進めます。
 筋書きは時代劇の定石を踏襲していると言っていいでしょう。『風来坊の子守歌がきこえる』では風来坊は、戦のために焼かれ燃えさかる家の中から助けた男の子と、本当の親を捜しながら旅をします。手がかりは現場に残した木彫りのメッセージ。道中は子連れ狼のよう。結末はだいたい予想がつくのですが、それは問題ではありません。生みの親を見つけたからと言って、黙っていなくなってしまうなんて、養育の本質を考えると間違っているのじゃないか、……などとまじめに追求してはいけないのです。流れ流れの風来坊が一つの場所やものや一人の人間に固執することは、ドラマツルギーとしてあり得ないのですから。
 ついでに言うと、このシリーズはどの話も木彫りの人形と関連づけられているところに、苦心の跡が伺えます。
 テレビでの時代劇が衰退して久しくなります。金太郎飴みたいなテレビドラマばかりにうんざりしている方、ぜひこの絵本をご覧ください。良質のエンタテインメントです。

絵本の可能性
 欧米での絵本はどのように解釈されているのでしょうか。amazon.comで 検索するとき、絵本はchildren's book というカテゴリーに入っています。picture book というカテゴリーは ありません。これがぼくにはちょっと不思議で、絵本は子供の本、と言う風に見なされているのかな、と考えるのです。
 でも一口で「子供のための本」と言っても、これがまた決して一筋縄ではいかず、底には欧米文化の深い伝統的思想が流れていて、作家の片岡義男さんが見事に解説してくれています(『絵本についての僕の本』研究社出版1993)。これについてはまた別 の機会にお話しします。
日本では初めから子供だけのものとは考えていなくて、何でもあり、という分野です。絵本の厳密な定義なんてない。何でも試せる。それは絵本が間口の広さ、ある種インターネットに似た自由さ・無政府的性格を持っていると言うことです。
 つまり、絵本にはいつも可能性があるわけです。いいですねえ。

 今回『風来坊』に出会って、またそんなことを感じました。決して実験的な作品ではないけれど、こんな絵本もあるんだなあ、と妙に感動してしまう。子供と読んでいても、きっと父親の方が楽しんでしまうだろう、と思える本なのです。

2/20/2001 

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