第7回
『ワイエス』 講談社版現代美術第3巻、1993、\3107+税
今回は本というより、アンドリュー・ワイエス Andrew
Wyeth というアメリカの画家の紹介。
ぼくがワイエスは好きなのは、テクニックや知識を通り越した、もっと深い親密な部分に理由がある。数年前の展覧会の時、どうしてぼくはこの人の作品に惹かれるのだろう、と絵の前にたたずみながら考えたことがある。芸術が人の心に入っていくのは、決してテクニックのゆえではない。技術が優れていても、何の感動も与えないものはいくらでもある。若いころ、初めて彼の絵に接したときには、リアルな描写
に驚いてしまったが、その後何度か個展に足を運ぶうち、ワイエスの絵から受けるものは、それだけではないことがわかった。
いくつもの作品をしばらく眺めていて、ぼくの心に浮かんだ言葉が「寂寥感」だ。茫漠たる自然。画面 から聞こえてくるのは風の音ぐらいか。時には鳥の鳴き声や波の音もあるが、圧倒的に静寂。人間を包み込む優しい自然ではない。そんな自然の中に描かれている人間や建物は、自然の一部になっている。しかし、決して自然との調和という単純な言葉で表現されるものではない。ワイエスの絵に出てくる人間たちは、自然と闘いながらも自然を支配しようとはせず、自分たちの生活をしっかりと受け止めて生きている。彼らはみんな沈黙し、孤独だ。しかし、負の沈黙ではない。充足した孤独。
同じリアリズムで描きながら、人間を愛して文明の温かい側面 を描いたノーマン・ロックウェルとは対極にある。どちらもアメリカで絶大な人気を誇っているし、ぼくも両方好きだけれど、ワイエスの絵を見ると、「ぼくの心の一部がここにある」と思ってしまう。
いつまでもその前でたたずんで、対話をしたい絵――オランジュリー美術館にあるモネの『睡蓮』、サン・マルコ修道院にあるフラ・アンジェリコの『受胎告知』(この2点は移動できないので、まさにその空間の中に身を置いての鑑賞になる)、ミレーの『晩鐘』、そしてワイエスの『イースターの日曜日』。
5/24/2001
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