第5回
『「世間」とは何か』阿部謹也/著、講談社現代新書、1995、\680+税
日本人にとっては個人よりも社会よりも「始めに世間ありき」だということが、この本を読むとよくわかる。生きることの大部分が、ここから出発し、ここで終わる。ファッションや街並みや流行歌などはめまぐるしく変わるけれど、基本の精神構造は千年も昔からほとんど変わらないのだろう。昔だったら、良かれ悪しかれそれは一つの体制として一貫していたのかもしれないが、明治以降、欧米文化が取り入れられ始めてから思考が二重構造になり、さらに第二次大戦後、幾重もの複雑な構造に変質していったのだと思う。加藤典洋著『日本の無思想』(平凡社新書、1999)を併せて読むと、さらにいろんな問題が見えてくる(あの本の内容については若干の疑問があるけれど)。
「世間」は古来から日本人の生き方を支配してきた実体であるにもかかわらず、これまで分析がされることがなかった。著者は、「非言語系の知」の集積である「世間」を顕在化し対象化して、新しい社会関係を生み出す必要があると言う。万葉集から始まって、漱石、荷風、金子光晴まで考察しながら歴史的分析を試みている。漱石は百年も前に「世間」の問題と戦っている。作品をじっくり読んでみたくなった。日本人である限り「世間」から完全に逃れることはできないし、必ずしも負の側面
ばかりではないだろうが、それを客観視できるかできないかで、生き方に差が出るだろう。
同じ著者による『日本社会で生きるということ』(朝日新聞社、1999)はこの問題を発展させて論じた講演集。これもお薦め。
5/7/2001
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