夏色のフォリア   V  
 ランキング戦の終わる頃には、東京も本格的に梅雨入りしていた。そんな頃、リョーマ
は気になる噂を耳にした。
 それは、顧問の竜崎先生が、手塚部長にアメリカ留学を勧めた、というものだった。身
内の桜乃が竜崎から聞いたと言っていたから、それは事実なのだろう。だが、テニス部
内に広まっていた噂では、部長自身がそれにどう答えたのかまでは判らなかった。
 本人に確かめてみればいいのだろうが、誰一人として直接訊きに行く者はいなかった。
 リョーマは、そんな風に周りで勝手に憶測ばかりが乱れ飛んでいる状況に、内心でと
ても腹を立てていた。そんなに気になるなら、きちんと本人に訊いてみればいいのに、と
桃城に愚痴をこぼすと、じゃあお前訊いて来いよと返された。
 確かに自分も気にならなかった訳ではないが、ただ手塚が自分で決める道を、他人が
とやかく言うのが気に入らなかっただけなのだけれど。
 しかしいざ訊いてみようと思うと、なかなかその切っ掛けが掴めないのもまた事実で。
 期末テストの一週間前からは、部活も休止になってしまう。その前に、と思っていたの
だが、多忙な手塚は一人で居ることがないばかりか、その姿を見掛けることすら稀であっ
た。
 意を決して部活前に、三年の教室を訪ねてみる。まだ人の多い教室内に、手塚は不在
だった。何の用かと訊ねてきたクラスの者に所在を聞くと、多分生徒会室にいるだろうと
教えられた。
 広い校内、まだ行ったことのない場所に、その部屋はあった。教室棟から離れている
為、しんと静まり返ったその場所で、リョーマは本当にここに居るのかと訝りながら、一応
ドアをノックして開けた。
 こじんまりとした部屋に長机と会長席の大きな机があり、その机の前に人影が見えて
リョーマは身を硬くする。初めに見えた後ろ姿に、もう一人の影が重なっていたのだった。
そして、振り返ってこちらを見たのは――――不二。
「どうしたの越前、珍しいね。ここに来るなんて」
 リョーマは、部屋の中に足を踏み入れることが出来ずに、立ち尽くしていた。
 机の端に軽く腰掛けていた手塚が、不二を押し退けるようにして立ち上がり、リョーマ
の方へと足を向ける。
「何か用か・・・・どうした?」
 咄嗟に声が出なくなり、リョーマは一度唾を飲み込んで、小さく首を横に振った。
「・・・・スイマセン、部長に、訊きたいことあったんスけど・・・・」
 らしくなく俯き、小さな声のリョーマに手塚は更に近付き、その顔を覗き込もうとする。
「あ、後でいいっス。失礼します!」
 くるりと身をひるがえして、リョーマは走り出した。
「越前!?」
 戸惑う部長の声が背に当たるが、リョーマは構わずにその場を後にする。
 はっきりと見たわけではなかった。だが、二人が何気なく振る舞おうとしても、ただ立ち
話をしていたにしては二人の距離は近過ぎ、何でもない雰囲気ではなかった。その位は
自分でも判る。
 今目にした光景が何だったのか、出したくはない答えが行き場を失い、リョーマの頭の
中でぐるぐると回っていた。
 不二のわずかに開かれた瞳と、薄く濡れたような唇の紅が、一瞬で目に飛び込んでき
たのだった。
 そういうシーンを見たことがなかった訳ではない。日本よりも、むしろアメリカでは日常
茶飯事だったはずだ。
 自分が一体、何にショックを受けているのか、リョーマにはまだ判らなかった。


 部活が試験休みになり、放課後に図書室で勉強をしていた手塚のもとへ、リョーマが
近付き、声を掛けた。
「今、ちょっといいっスか?司書室の方、空いてるんで・・・・」
 リョーマは先に行って司書室のドアを開けた。今日は司書の先生は居ないし、係の生
徒はカウンターの方に座っているからと説明する。
 手塚はドアを閉め、その場で立ったまま、両手をズボンのポケットに入れていた。
「何が訊きたい」
 リョーマは振り返って、入口に立ち止まったままの手塚に向き直った。
「えと・・・・留学の話、どうしたんスか?」
「誰から聞いた」
「竜崎・・・・オバさんの孫。行くの?」
 手塚は、一つ大きなため息をついて目を閉じる。顰めた眉はそのままに、リョーマを睨
み付けた。
「いずれは、行きたいとは思うが、今行く気はない。訊きたいことはそれだけか?」
 リョーマは首を横に振って、続けた。
「不二先輩と、付き合ってるんスか?」
 その問いに、微動だにせずに手塚は黙っていた。
「キョーミ本位で訊いてるんじゃないっス」
「・・・・答えなければならない義務はないな」
 きびすを返して、ドアノブに手を伸ばすのに、リョーマは駆け寄った。
「待ってよ!」
 後ろからシャツの裾を掴んで引き止める。大きくて、広い背中が目の前で、思わずその
まま額をコツンと当てた。
 すぐ近くに立ってみて、身長差を実感する。まとっている空気が違う。いや、誰かと比べ
るのではなく、この存在が特別なのだ。
「俺、アンタのこと、もっと知りたいんだ・・・・」
 語尾が擦れて震えるのに、リョーマは唇を噛み締める。自分で、自分の行動に驚いて、
頬がカッと熱くなるのを覚えた。
 手を止めていた手塚は、やがてゆっくりと振り返り、シャツを握り締め続けているリョー
マの手を取って、そっと離させる。
「越前・・・・」
 困ったような声が低く自分を呼ぶが、リョーマは顔を上げることが出来ない。
「・・・・あとで、後悔するぞ・・・・」
 肩を掴んだ手にぐっと引き寄せられて、手塚の胸に埋まってしまう。
 一瞬状況を把握することが出来ずに、リョーマの思考は停止する。
「・・・・か、部長・・・・?」
 お互いの体温が重なって、高まる熱に目眩を覚えた。
 自分の肩や背に回された手は、紛れもなく手塚のものであり。その熱さと力強さに、呼
吸すら忘れて、自分の腕も相手へと回す。
 抱えきれない背に、胸が締め付けられるような息苦しさに喘いで、リョーマは目を閉じた。


 いつものように自転車に二人乗りで下校する。部活のない日でも、リョーマは一日たり
ともラケットを手放さない人間だったので、桃城は今日はどこで打っていくのかと背中の方
に声を掛けたのだが。
「んー・・・・そうっスねぇ・・・・」
 いつもなら、すぐに自分の意見を言い出すリョーマが、今日は珍しく気のない返事ではっ
きりしない。気分が乗らないのかと、別の提案をしてみる。
「じゃあ、ファミレスでも寄ってくかぁ?たまにはさ」
「・・・・いいっスよ」
 やはり違和感を覚える。いつもなら、おごりっスねとか、少なくとももっと嬉しそうに答える
ものなのだが、どこか上の空である。
 梅雨時の、湿度が高くて蒸し暑い空気から、空調の効いたファミレスに入ると、爽快感に
深く息を取った。ウェイターに案内されて、二人は空いた席に座った。
 メニューを捲る間も、リョーマは何か物思いに囚われているようで、桃城は二度ほど声を
掛けて催促をしたのだった。
「何かボーっとしてんなぁ。何だよ、悩み事でもあんのか?」
「んーん・・・・ねぇ、桃先輩って、付き合ってる人とかいないの?」
 いきなりそう訊ねられて、桃城はうっと咽喉を詰まらせた。
「何だよイキナリ・・・・いたら、お前とつるんでねーだろ。今だって」
「そっか・・・・てっきり、あの不動峰の人と付き合ってンのかと思ったのに」
「お前まで言うか!ていうかまさかお前、あの竜崎って子とついに・・・・」
「はぁ!?何スかそれ」
 真面目に意外そうな様子に、桃城は心の中で、あの子も可哀想に、脈なしだな、と思っ
た。
「じゃあ、誰か好きな人でも出来たのか、うん?」
 にやにやと訊ねるのに、リョーマは親父みたい、と口の中で呟いてから言った。
「・・・・わかんないっス。そんなの」
「そっか。まーだ早ぇよなー、お前には」
「そんなことないでしょ。桃先輩、キスはしたことあるんスか?」
「え!?・・・・ま、まだだよ、そりゃ」
 答えにくさに、思わず小さな声でどもりながら言う。
「ふーん、俺はありますよ、小学校ん時に」
 少し得意げに笑うリョーマだったが、胸の内では、相手の女の子から無理やりされたもの
だったけど、と舌を出す。
「日本じゃなぁー、まだこれからが普通だっての!きっとうちのレギュラー陣だって、そんな
経験者いないと思うぜ?あんま甲斐性ある人いないしなぁ」
 メンバーの顔を思い浮かべながら、桃城は言った。
 丁度二人の注文した品が運ばれてきて、一時会話は中断する。相変わらず甘いものに
は目がないリョーマは、新メニューのアラカルトを頼んでいた。桃城はさすがに普通のパフェ
を頼んだのだが、苺があまり好きではない彼は、いつものようにリョーマの皿に乗せてやる。
「イタダキマス!」
「おーおー、ゲンキンなもんだ」
 どうやら、いつもの調子を取り戻しているリョーマに、桃城は内心ホッとしていた。
「で、かいしょーあるってどういう意味っスか?」
「あ?うーん、まぁあれだよ。彼女とかいてちゃんと上手く付き合っていける人ってことかな。
モテるだけじゃなくてな」
 いざ説明しろと言われると困る日本語が多いことに、リョーマと付き合うようになって初め
て気が付いた。大抵は適当に自分の解釈を教えるのだが、たまには辞書を引けと言うこと
もある。
「へぇー。英二先輩とかは?いてもおかしくなさそう」
「うーん。でも俺、聞いたことねぇぞ」
「そっか・・・・じゃあ不二先輩は?」
「さー、いないんじゃねぇか?」
 口を開く前から、桃城は来たな、と勘付いた。多分、平静を装って必死なリョーマの為に、
自分も何気ない振りをする。
「・・・・じゃ、部長は?」
「うーん、あの人なら、いてもおかしくはないかも知んないけどな」
「ふーん・・・・」
「でも、ファンクラブとかあるから、牽制しあってるかもな、女子が」
「そっスね・・・・」
 表情を無くしているようなリョーマに、桃城は少し真面目な顔で切り出した。
「越前、訊いたのか?部長に・・・・留学のこと」
 リョーマは一瞬目を見張って、ああ、と思い出したように言って頷いた。
「今は、行かないって」
「そっか・・・・良かったな」
 そう言うと、不思議そうな顔で見つめ返してくるので、桃城は微苦笑を浮かべる。
「だってお前、いつも部長と勝負したくてたまらないって顔してるぜ。今、いなくなられちゃ
困るだろ?」
 するとリョーマは、少しだけ困ったような顔付きになり、それから小さく笑った。





■NEXT■ ■TOP■ 


02.07.17.  自分でもどこへ行くのか判らなくなってきました。
02.07.18.  後半UPです。この辺までが前編、て感じでしょうか・・・