諸事雑感 山・蝶・・・(2018年)
・仏像と日本人(2018/10/28)
最近、「仏像と日本人」(碧海寿広著)という本を興味深く読んだ。
私個人にあてはめても考えさせられる内容だった。
私はお寺巡りを始めて以来、仏像にも相当の関心を持っていて、各地の寺院や博物館でかなりの数の仏像を拝したり鑑賞してきた。
だが、仏像への接し方に戸惑いがあるのも確かだ。
仏像を見て美しいと思っても美術品として割り切って鑑賞することができないことがあるからで、たぶん多くの現代人が同じような気持ちを持っているのではないだろうか。
「仏像と日本人」に書かれているように、本来、明治維新より前に作られた多くの世評に名高い仏像は信仰の対象であり、美術品として扱われることはなかったはずである。
仏像が美術品であるという考えは、明治時代以降に西洋文化とともに持ち込まれ広まったものだ。
だからといって、日本人みんなが仏像を美術品として見るようになったわけではない。
あくまで信仰の対象として接している人は今も多い。
信仰と美術を両極端とすると、その中間的な態度で接している人が多いのかもしれない。
私自身についていえば、仏像を美術品として鑑賞する方に比重がかかっていると思う。
だが、お寺で仏像に対するときは自然と手を合わせるのだから、信仰の対象としても意識しているといえるし、博物館で仏像を見るときは美術品として接しているように思われる。
つまり時と場合によって、どっちつかずの状態なのだ。
「仏像と日本人」では、明治時代以降、日本人がいかに仏像に接し方を変化させてきたかを整理していて、大変参考になった。
・スラウェシ島パル(2018/10/7)
ニュースで昔訪れたことのある場所の名前で出てきて、それをきっかけに過去の記憶が甦ってくることがある。
最近の例ではスラウェシ島パル(Palu)がそんな街である。
9月28日にスラウェシ島を襲った大地震と津波のニュースは日本でも大きく報じられ、大きな被害を被った都市パルの名前も頻繁に出てくる。
10年以上も前のことなのだが、私はパルに滞在したことがあるから、ニュースで画像が出るたびにに見入ってしまう。
私が滞在したのは、2003年の年末から2004年のかけて、蝶の採集ツアーに参加した折のこと。
この街のホテルに6泊して、近郊の山間の村などに出かけて、ネットを振っていた。
滞在していたホテル(Golden Hotel)は美しい海岸に近くてよい立地なのだが、それだけに津波の被害を受けたのではないかと心配している。
パル関連の報道で気になったのは、パルの人口が34万人と報じられていることだ。
そんなに大きな都市だったのか、というのがニュースを見聞きした時の感想だ。
日本で30万人台の都市といえば、奈良市や高知市などがあり、かなりの規模だ。
ところが、記憶に残るパルは地方の中心都市ではあるが、せいぜい数万から十万人程度の規模に思えた。
当時のメモを調べてみても、根拠は不明だが人口が約3万人と書かれている。
高層ビルなどはほとんどなく、低層の建物が並ぶのどかな小都市という印象だった。
パルが近年急に発展して人口が急増したのか、パルの範囲の定義の違いなのか、不思議に思っている。
・海外に流出した美術品(2018/9/10)
日本の多くの古美術品が海外に流出していて、そのなかにはもし日本国内に残っていれば国宝級のものまであることは広く知られている。
流出の歴史は江戸時代にまで遡り、戦後の混乱期まで続いたわけだが、中でも大きな波は、幕末の開国から明治時代にかけての時期だったとされる。
主にその当時に流出した美術品と関わった人物にまつわるエピソードを取り上げた本「流出した日本美術の至宝」(中野明著)が出版され、新聞の書評欄に取り上げられていた。
読んでみると、なかなか興味深く考えさせられる内容だったので、内容を紹介したい。
明治維新後の社会の激動期に大量の古美術品が海外に流出した端緒は、大森貝塚の発見者エドワード・モースに始まる。
彼につながるフェノロサ、ビゲロー、岡倉天心らによって、ボストン美術館が海外では最大規模の日本古美術を収蔵するに至ったことは、周知のことだ。
彼らのほかに、フリーアとかキヨッソーネなどたくさんの収集家によって、日本の古美術品が欧米に流出していった。
そういった人々の中で、意外な人物として帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトがいる。
彼は建築家としての顔を持つと同時に、浮世絵のディーラー/収集家でもあったのだ。
私も今回初めて知った事実だ。
もう一つ興味深かったのは、国立西洋美術館の松方コレクションで有名な松方幸次郎にまつわるエピソード。
東京国立博物館には、松方浮世絵コレクションといわれる一群の浮世絵がある。
これは、フランス人収集家のヴェヴェールによっていったんは海外に流出した浮世絵を、松方が日本国民のためにと買い戻し、紆余曲折を経て日本国内に戻ってきた作品群なのだ。
では、美術品の流出はどのような背景で起こるのか。
著者は、鑑識眼の有無と経済力を挙げている。
鑑識眼の例として、明治時代日本人の浮世絵評価の低さを挙げている。
経済力については、ボストン美術館が購入した「吉備大臣入唐絵巻」などを引き合いに出し、経済力がなければ法の規制だけで流出を止めるのは難しいだろうと述べている。
こういった美術品の流出にまつわるいろんな話は、それぞれ面白いのだが、美術品の流出それ自体の是非についてはどのように考えたらいいのだろう。
これは、著者も記しているように、簡単には結論付けられない。
海外に持ち出されて日本人の眼からは遠ざかっても、公的な美術館などで展示されることで日本文化の理解に大いに役立っているからだ。
反対に日本国内にあることがわかっていても、所在が行方知らずになったままの美術品も数多いから、流出を免れてよかったと言えるほど単純ではないことがわかる。
・靴底剥がれ その2(2018/8/31)
前回書いた、履いていた靴の底が突然剥がれてびっくりした話の続き。
靴底が剥がれた靴は、普段日常的に履いているので、代わりがないと困る。
そこで、新しい靴を数日後には購入した。
だが、履き心地があまりよくない。
履き始めて二日目には踵に靴擦れができてしまった。
日本製で、アッパーは革だが底は合成皮革でできたウォーキング用の靴で、そこそこの値段がしたのにだ。
しばらく履けば馴染んでくるのだろうが、時間がかかりそう。
処分するつもりだった壊れた靴をもう一度見まわしてみると、靴底以外はまだそれほどくたびれていない。
これを修理しない手はないと思い直し、修理屋さんに持ち込んで直してもらったら、また以前のように靴を履いていることを意識せずに歩けるようになった。
モノはいつか壊れるのだが、修理して使えるかぎりは直して大事に使うという考え方を忘れないようにしたいと思う。
今回利用した靴の修理屋さんについても触れておきたい。
靴の修理は今回が初めてではなかったが、以前に利用していた修理屋さんをインターネットで検索しても出てこない。
そこで、中野駅北口ブロードウェイ内で営業している小さな修理屋さん「シューズドクター119」を利用してみた。
前を通りかかったことはあるが、利用するのは初めてだ。
狭い店内では、職人気質の持ち主といった感じのご主人のもとで、数人がひっきりなしにやってくる修理依頼をてきぱきとこなしている。
数日後、修理の終わった靴を履いてみると、以前と同様の履き心地が戻っていた。
また機会があったら、利用してみたいお店である。
個人商店が少なくなっている中、これからも頑張ってもらいたいものだ。
・靴底剥がれ(2018/08/17)
最近、歩いていて突然、靴底が剥がれて慌てたお話。
今回のトラブルは、家を出て20mほどの場所で起きた。
突然、右足の靴底の前半分がパカッと剥がれてしまい、右足を上げるたびに靴底がベロっと垂れ下がる。
これではとてもまともな姿勢では歩けないので、すぐに家に引き返して別の靴に履き替え、大事に至らずに済んだ。
これが、もし家の近くでなく、靴屋さんや修理屋さんが近くにない場所だったり、お店の空いていない時間帯で起きたらと思うと、不幸中の幸いと言える。
靴底が剥がれた靴は、ウォーキング用に分類されるタイプで、履き心地がよいので、ちょっとした外出用として5年以上は愛用していた。
最近は靴底がだいぶ減ってきたので、ときどき点検していたのだが、靴底が剥がれるような状態になっていることには気づかなかったのだ。
記憶をたどってみると、同様の経験をしていることを思い出した。
登山中に登山靴の靴底が剥がれたことがあるのだ。
それは10数年前の野伏が岳登山の際で、剥がれた靴底を固定するために、アイゼンをつけてしのいだのだった。
残雪の急斜面に備えてアイゼンを持っていたのが幸いしたわけだ。
冷静に考えてみると、街中で靴底が剥がれても、大きな事故につながることはまずないだろう。
だが、これが登山中に起きるとやっかいなことになりかねない。
登山用ザックには応急処置用として忘れずに針金を入れておいた方が良さそうである。